絶対忘れてやらないぞ
 まず、ラインのメッセージ。いつも「おはよう」から始まる。マナーモードにしてあるからちょっと我慢すればいい。無視する。
 次に通話。一分くらい置いとけば勝手に止まるが、『あいつ』は懲りない。五回くらい粘る。全部無視する。
 アプリじゃなく電話番号に電話かけてくる。これも無視。覚醒直前の、大目に見てギリ「まだ寝てます」のエリアに、何としても留まり続けろ。寝たい。
 居間の固定電話が鳴る。ご丁寧に留守電のメッセージ機能まで使って、『あいつ』は俺を起こそうとしてくる。

「ピーという発信音のあとにお名前とご用件をお願いします」
「おはよう! もう七時だぞ!」

 無視。ほんとうるさい。マジで寝かせろ。ほんと無理寝たい。だって俺昨日二時まで勉強してたから。あ嘘海外ドラマ観てた。許されたい。
 固定電話の呼び出し音が止んだ。やっと静寂が帰ってきた。あー最高。二度寝がこの世で一番最高。合法化されればいいのに。
 しかしそうは問屋が卸さないのが世の常というもの。決定的な目覚ましが襲い来る。
 インターホンだ。

「起きたか? 起きたら顔見せろ、今日もいい天気だぞ!」

 あーほんと無理。なんだって俺ほぼ毎日こいつに起こされなきゃなんないの。俺は『あいつ』の金髪を思い出して布団を頭まで上げる。ちょっと唸って、泥みたいに起きた。ここまで来たらもうだめだ。早く『あいつ』を止めないと、クソ早朝から人んちのドアをドカドカ叩きながら大声出すから。

「おはよう!」
「……、……はい」

 ドアを開けると、朝日を受けて1677万色にきらきら輝くゲーミング金髪が立っている。拳が振りあげられていた。あと数秒遅かったら借金取りもかくやというドア・ドラミングを始められるところだった。クソ重たい溜息が漏れるのを止められない。

「これ今日の新聞。郵便受けがいっぱいになってきているぞ。ちゃんと確認しているか? さすがに郵便チェックまではやらんぞ!」
「やんなくていい。たぶん全部法律事務所のDM。お前が俺んちの前であんまりにも大騒ぎするから、俺近隣住民から借金取りに追われてると思われてんだよ。どうしてくれんの」
「住みづらくなったらうちに来ればいい!」
「絶対やだ。お前四時に起きるじゃん」

 いいながら郵便受けから一枚抜くと、『借金のご相談はおまかせ。実績と信頼の法律事務所』とあるハガキのすみっこに、「困ってることがあれば相談に乗ります。サトウ」と書き添えられている。いつもお騒がせしてすいません。実家から来たきりたんぽセット持って詫びに行こう。
 ゲーミング金髪は慣れた様子で部屋に上がり、勝手知ったる我が家とばかりにコーヒーを用意しはじめた。ほぼ毎日『あいつ』は俺を起こしに来て、コーヒーを淹れる。ここ俺んちなんですけど。なんでインスタントコーヒーの詰め替えの場所知ってんの。なに当たり前みたいな顔して俺んちにお前のマグ置いてんの。

「ほら、新ちゃん」
「やめろ。アンズちゃんって呼ぶぞ」
「悪かった。冗談でも勘弁してくれ、橋本」

 そういって俺のほぼ唯一の友人、煉獄杏寿郎は笑った。この世の幸福すべての結実みたいな顔で笑った。
 なんて幸せそうな顔をしやがるんだろう。こいつは時おり、いま一生分の幸せを噛みしめてます、みたいな顔をする。俺より三つも年下のくせに、人生二週目ですみたいな。幸せそうで何よりだが、たまにちょっとソワソワと落ち着かない。俺なんでこいつと友達になったんだっけ。まあいいか。

「とんぶり居ないぞ。風呂場か?」
「たぶんそう。すぐ出てくると思うけど。とん太郎カリカリだぞー、とん助、とんきち、とんぺい、とん子」
「呼び方統一したらどうなんだ」

 とんぶり、というのは飼っている猫のことだ。長くて明るい毛色をした俺のご主人様。風呂場の方からゴキゲンに杏寿郎の足元へ駆け寄ってきたとんぶりは、俺よりも杏寿郎を飼い主だと思っている。毎朝カリカリを用意するのがこいつだから。とんちゃん、君に朝のカリカリをあげてるのは杏寿郎だけど、君の毛皮にブラシを通す下僕がいることも覚えてほしい。
 杏寿郎がとんぶりに歓待を受けている間に身支度をすませる。とんぶりの毛は長いのでコロコロはカーペット用の強力なやつを買った。すっかり可愛がられてスーツをケパケパにした杏寿郎にも貸してやる。気を抜くと想像もしなかった場所に猫毛をひっつけたまま出勤してしまうので、杏寿郎と互いにダブルチェック。

「襟のとこついてるぞ」
「ここ?」
「違う。もう、貸せ」

 遠慮は前世に置いてきました、みたいなパワーでコロコロをかけられる。こちらがイテテと言うのもお構いなしだ。コロコロっつーかゴリゴリだこれ。
 肩甲骨あたりをさすっている間に最終チェックが入り、杏寿郎はこれまた遠慮ゼロのフルスイングで「よし」と俺の肩をブッ叩く。おかげで俺のスーツはアイロンが要らない。

「今日もかっこいいぞ、橋本先生!」
「そりゃどうも、煉獄先生」

 とんぶりが脱走しないように玄関を出て、さっき浴びたよりも高くなっている朝日を浴びる。マジ眩しい。今日もウキウキワクワクな労働の始まりだ。
 あ申し遅れました。俺、橋本新平っていいます。キメツ学園で英語教師をしています。


*****


 この銃を持たされた意味は、きっとこのためだと思った。
 鬼舞辻討伐完了の報を聞いたのちに橋本の訃報を聞いた槇寿郎は、彼から預けられていた南部式大型自動拳銃をやっと輝利哉に持たせた。輝利哉も意図を理解し、予備本丸として全権を移し替えていた屋敷の庭に出る。

「……神仏も衆生も、とくと御覧じろ! 我々が勝ち取った朝陽だ!」

 天に向けて撃つ。まだひんやりとした早朝の空気に染みわたるようにして銃声が響く。
 弔砲だった。



 生還者を蝶屋敷、ないし近隣の藤の家紋の家に搬送する大騒ぎが始まる直前、煉獄は隊士たちに「さすがにあんたは今はちょっと休んでなよ」と屋敷へ帰された。「ありがたい」と思う気持ちも「申し訳ないから手伝う」と思う気持ちも残っていなかった。空虚、とでも言うべきか。なにかを考える頭すら残っていなかった。言われるまま橋本の外套と首巻を抱いて、おぼつかない足取りで帰った。

「ああ……ああ!」

 忘我のまま玄関をくぐると、千寿郎の悲鳴が煉獄を出迎えた。一度戻っていたらしい槇寿郎も悲鳴を聞きつけ、煉獄の姿とその手に抱かれている湿気た外套を見て声にならない悲鳴を上げた。煉獄はそれらをぼんやりと見て、「とりあえず家に帰ってきた」ことだけを理解して土間に膝をついた。すぐさま二人が駆け寄ってきて、外套ごとめちゃくちゃに煉獄を抱きしめる。
 「よく帰ってきた」とは誰も言えずにいた。「辛かったな」も「頑張ったな」も違う。確かに一番危険な場所にいた血のつながった家族は大きな怪我なく帰ってきたが、無事ではなかった。
 煉獄は、千寿郎と槇寿郎が言葉を見つけられないまま引きつった声を上げているのを、軋むほどに己を抱くふたりの腕の力強さをなんとなく感じながら気絶した。限界だった。何もかもが。

「……床は支度してあるな」
「……もちろんです」

 槇寿郎が寝息を確認して煉獄を抱き上げる。目覚める様子もなかった。ボロボロに泣きはらした寝顔はあどけなさすら感じさせる。それだけ無防備ながらも、煉獄は外套と首巻を断じて離さなかった。赤子のようだった。
 二組用意されていた敷き布団の片方に煉獄を寝かせる。その間にも身じろぎひとつせず、煉獄は文字通り泥のように眠っていた。
 槇寿郎はしばし煉獄の寝顔を眺めると、頭を振ってもう一度身支度をする。

「父上、……どちらへ?」
「本部だ。まだ事後処理が……大人がやるべきことが残っている。……今ひと時、杏寿郎を頼んだぞ」
「……はい」

 立ち上がった槇寿郎の背中を、千寿郎はぎっと睨むように見送った。しかし、そこには怒りも恨みもない。鬼殺隊と同じだけ続いた「煉獄家」の「大人」として、槇寿郎にはやらなければならないことが山ほどある。その子として、どれだけ辛くとも今ひと時だけは待たなければならない。それが終わってやっと、自分たちは何世紀も奪われていた家族としての形を取り戻せる。再び家を出ていく槇寿郎の背中は大きく、とても逞しく千寿郎の目に映った。
 背中。千寿郎の脳裏によみがえる記憶がある。つい半日前に見送った橋本の背中だった。

「世界は人間が「そう見えたと思い込む」から存在できていて、逆に世界も人間に「そう見える」形をすることで自分を存在させている、という話。これを小難しく言うと、人間原理っつーんだ。あと、夜空に輝く北極星、あれは昔から北極星と呼ばれてたわけじゃないんだとさ」
「北極星がいくつもあって、これひとつを北極星にしよう、みたいなお話があったんですか?」
「うーん、ちょっとだけ違うかな。じつはこの星はちょっと傾いて回っているらしくてよ。そのまま長い年月を経て、北極星の場所にあった星の位置が変わって見えるようになっちまったんだ。大昔北極星だった星は、今は北斗七星の二番目。開陽というらしい。千年もかけて、星の場所まで変わってんだ、鬼狩りの歴史のひとつやふたつ、いい加減そろそろ終わるさ。変わらないもんはないからね」

 柱稽古の休憩の合間に、食事の支度などを手伝っていた千寿郎に「お礼といっちゃ安いくらいだけど」と度々橋本はいろんな話をしてくれた。語り終えてしゃんと立つ橋本の逞しい背中は、半日前見送った橋本のどこかか弱い背中は、ああ本当につよいひとの背中だった、と千寿郎を圧倒する。
 せめて皺にならないように、と煉獄が抱いたままの外套を伸ばす。ところどころ滲んでいる青い液体が、何も言われなくても橋本の血であるとわかった。

「ほんとうに、青が生きて動いているようなひと、でしたね」

 本来それを着てここへ寝るべきだったろう人を労うように、悼む手つきで千寿郎は外套を撫でる。
 青、とは、洋の東西を問わず、古代では日常とは異なるもの、別の世界を表す色であったという。あらゆる生き物が生まれた時から接する色のひとつであるという。あまりにありふれすぎて、この色を「青」と、どうしてこの色になるのかを人間が考え始めたのは意外と遅かったのだという。しかし認識してしまえば最後、この美しい色に魅了された人類は今まで忌むべき、避けるべきとしていた青を美術や宗教に取り入れ、ものの数十年で青は「この世で最も美しい色」と言われるようになったのだという。これらもすべて橋本から教わったことだった。
 青は藍より出でて藍より青し。その通りだ、と千寿郎は思う。
 錯覚なのかもしれないが、この世の青すべては橋本に端を発したもののように感じられた。青と名のつくものすべてが彼に紐づけられる。彼こそが青を生む藍。青の中の青、青そのもの。そうとしか生きられなかった人を、どう呼べばよかったんだろう。もっと抱きしめればよかった。
 千寿郎は今なお残る、橋本が自身の頭を撫でる感触と死に装束みたいな白い羽織を着た背中を必死に思い起こしながら涙を呑んだ。

「……一回できたことでしょう。願って願って走り続ければ、きっと世界は変わるんでしょう。貴方が言ったことですよ。やってみせますよ」

 それにきっと、一人じゃなかった。あの青に抱かれていた人みんながきっと同じことを思っている、と千寿郎は思っている。
 彼と、散っていった多くの仲間たちによって鬼狩りの歴史は終わった。終わったということは、別の何かが始まったということだ。
 あの青を、あなたを再びここへ取り戻す。いくらかかってもいい。それまでこの世界は、遺された僕たちが存続させていきます。間違っても貴方が死ななければ続かないような世界じゃなく、青空の下で揚々と夜を笑い飛ばせる世界を。
 だから、と前置きして、千寿郎は皺を伸ばした洋外套に額を押し付けて泣いた。兄ごと外套を力いっぱい抱いて、しかし声一つ漏らさずに泣いた。

「ちゃんと立ち上がるから。絶対、立派に走ってみせるから、今だけ、今だけは」

 午前の健やかな風に庭木が揺れる。葉擦れの音は、奇妙にも千寿郎を励ますような響きだった。


*****


「む、しまった、時間が無くなってしまった。仕方ない、あと五分でワ―ルシュタットを死体の山にするぞ」
「先生、パワーワードが過ぎると思います」

 中等部の授業はやりがいがあって好きだ。中高一貫校で外部の高校を受験する生徒も少なく、受験に大きく影響しないから、ちょっと突っ込んだ内容もできる。高等部も上の学年になってくると、楽しくないわけでもやりがいがないわけでもないが、流石にちょっと真面目にやらなければいけないし。
 二時限目でぼちぼちエンジンのかかってきた生徒たちの眼差しに応えるように、煉獄は教室の机を大きく動かした。ポーランド軍役の生徒と机を、モンゴル軍役の生徒がこちらも机で取り囲む。みている生徒は窓際やドア付近から歓声を上げていた。
 モンゴル軍役の生徒に、包囲を一部分だけ解くように指示する。ガタガタと開けられた逃げ道を見て、ポーランド軍役の生徒はノートの切れ端に伝令を書いて全員に回覧させてから脱出を試みる。これはモンゴルの情報伝達の速さ、対してポーランドの指揮系統の弱さを実感させるのに大きく役立った。窓際の生徒が「そりゃ勝てねえよ、はえーもん」と呟く。煉獄はニマリと笑った。

「さあ気づいただろうか。逃げるポーランド軍は、逃げることに必死だ。つまり反撃もしてこない」
「終わりにしてあげようよ可哀そうじゃん」
「でも追いかければ倒せるよ」
「うむ、戦争法のなかった昔の戦争は、何をしてでも勝った方が法だったのだ。戦の結果がすべてであり、捕虜を材料にした領土分割の取引を、という発想もなかったこの時代、逃げるポーランド軍にモンゴル軍は容赦なく追撃をかけた。この戦での行方不明者も合わせた損害は、モンゴル軍4千に対してポーランド軍は10万を越したともいわれる。ワ―ルシュタットという地名は直訳すると「戦場」てきな意味で、先述の「死体の山」というのはあくまでも比喩的、皮肉的な表現だそうだ。あと、模試を世界史で受けるものは、レグニツァ、もしくはリーグニッツの戦いと書かれることもあるからどちらも覚えておくように。五分だな! 机を戻そう!」

 生徒たちはわかりやすく、かつ身体も動かせる煉獄の授業が大好きだった。興奮冷めやらぬまま「こうすれば勝てたんじゃない?」といった議論もたけなわ、授業終了の鐘が鳴る。

「さて、次回は文字通り災害のようなモンゴル帝国がどうして衰えていったのか、あとその後の西欧世界の話をする。予習は任せよう。では終わり!」
「きりーつ、きぉつけー、れーい」
「うむ! ご苦労!」

 このクラスは次の授業が選択美術らしく、煉獄が教材をまとめて教室を出ようとする頃には同じく美術室や音楽室に向かおうとする生徒たちと出入り口でグチャグチャにごったがえした。「せんせーでかーい」「肩の肉がでかーい」「腕ムッキムキじゃん」など無邪気な声ひとつひとつに返事をしながら、曲がり角で別れながら、職員室へ戻ろうと最後の階段を下りたところで廊下の反対側から声がかかる。

「あっ、煉獄せんせーっ! ちょっとー!」

 高等部の生徒たちだった。エイリアングレイのように両腕をひかれて連行されているのは橋本か。生徒は「ヤバい」と「マジおもろい」を交互に言った。

「どうした?」
「ハシセン今日寝不足だっつってめっちゃ口悪かったから、「生徒に悪影響があると思いまーす」って言ったの」
「あの時のザキヤン超ファインプレー」
「ファインプレー?」

 自身の両側をがっちりホールドされたままの橋本は、朝から苦虫しか食ってません、みたいな顔で口を開いた。

「黙りあそばせ、ハシセンはおよしになりやがれわよ」

 生徒たちが「ギャアーッ!」と爆発したように笑った。

「お嬢様口調縛りなる児戯を提案されたのだわ。最初こそ面白半分でやってたんわよけど、口調が抜けなくなっちまったわよ」
「すごい、すごいな。いや時代とはすごいな、あの橋本がまさか日本語すら怪しくなる日が来ようとは」
「笑い事じゃねーわ、クソわよ」
「ハシセンやばーい!」

 そう笑って橋本の背中を遠慮なく叩く生徒は、確かバレー部員だったはずだ。さぞいいアタッカーなのだろう、いい腕の振れ方をしている。あの人間アレルギー橋本がこれほど人に好かれる様を見て、煉獄はうっかり泣きそうになった。
 この煉獄杏寿郎という男、いわゆる転生者のようなものであった。大正を駆け抜けた鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎とほぼ完全な同一人物である。
 奇しくもそういう波の時期であったのか、家族や友人、同僚や生徒に当時の記憶を引き継いで産まれた者が多くいる。出会って以降記憶を取り戻した者もいれば、記憶が戻るより前に「お前煉獄だろ」と声を掛けられ、「そうですけど」と答えた者もいた。
 目の前の橋本新平は、言ってみれば「器」のようなものだ。その器に、まだ記憶は注がれていない。まだ『煉獄』にいるのかもしれなかったし、ただ思い出していないだけかもしれなかった。どちらにせよ、今は鬼もいない世界で、銃を持つにもめちゃくちゃ面倒な手続きがいる時代であるので、間違ってももう一度人間を辞めることはないだろうと思うし、万が一そんなことがあれば今度こそ身命を賭して止める。宇随などは「ド派手にこじらせたな」と笑うが、さもありなん。
 呼び水になれば、と思って、度々橋本に問うことがある。

「前世からの縁、というものを信じるか?」

 橋本はいつもこう答えた。

「お前んち宗教とかやってたっけ?」
「こら、真面目に」
「あー、マ俺みたいなのと真剣に友達になろって奴ァ前世でなんかしたかな、とは思ったけど」
「何をしたと思う?」
「前世だろ? 盆踊りで餓鬼道に堕ちた母親救ったりしたんじゃねえかな」
「盂蘭盆経じゃないか」

 いつも微妙に核心を突きながらもノラクラと躱すさまをみて、一度は「こいつ思い出しているのでは」とも思ったが、以前酒に酔わせて同じ問をした時に「ないな、これは」と確信した。あまりに荒唐無稽な答えすぎて、どんな内容だったかまでは覚えていない。

「そんなにのたまうなら、課題増やしてやるですわよ。わかったらさっさとハウスなさいまし!」
「えー課題マジ無理! ハシセンの自業自得じゃん!」
「ごめんあそばせー英語で仰ってくださるー?」
「こらこら。そのぐらいにしとかないか、大人げない」
「こっちは実害被ってますのよッ!」

 とんちきな口調のまま「カァーッ!」と吠える橋本に、いよいよ課題が出されてはたまらん、と生徒たちは帰っていった。「ごきげんよう!」を忘れないあたり大変したたかな子らである。いつぞやのあおぞら(室内)授業の時と変わらない怒り方をしているのを見て、「あの時のあいつはわりと素でいられてたんだな」としんみりする。生徒を追い払って溜息をついた橋本は煉獄の顔をみてぎょっとした。

「子供の入学式を見に来た親と同じ顔してっけど何わよ」
「いや…………感慨深いなと思って」
「お前ほんと度々その顔するけど、他の人にもやってないだろうな?」
「まさか。お前だけだとも」
「喜べばいいのか気味悪がればいいのかわっかんねえわね」

 わからないならわからないままでもいいと煉獄は思う。記憶がなくとも彼は自分の一番の友であるのだし、無理に苦しいだろう記憶を呼び戻して苦悩するくらいなら、百年醸造の約束が成就されなくてもいいのかもしれない、と思っている。
 昔、橋本は「世界は矛盾でできている」と言った。その通りだと思う。相反する感情がめちゃめちゃに取っ組み合いのけんかをして、残った惨状が煉獄の表情に「しんみり」として現れることも少なくない。
 それでもよかった。彼が幸せそうならそれで。百年前からずうっと、彼が幸せならそれでよかったんだから。
 煉獄の荒れ狂う心情もそっちのけ、クソ間抜けなあくびをした橋本が口元をムニャムニャさせながら言う。

「給湯室いくべ。コーヒーもらおう」
「俺が言うのもなんだが、寝不足だろ。コーヒーで間に合うのか?」
「エナドリで割る。科学教師おすすめの眠気覚ましカクテルのレシピあるから」
「……井黒め」

 生徒たちは若さも相まって元気の底がない。教員一同もそれに対応するだけの体力を気力を常に求められている。ここ数日、日を追うごとに度合いを増すティーンどもの熱量に対抗すべく、二人は給湯室へ足を向ける。
 ひと夏の青春の美味しいところエキスたる、体育大会が来週に迫っていた。


*****


「……来ましたよ、橋本さん。全部終わらせて」

 鬼舞辻討伐の夜が明けてからしばらく経って、竈門、我妻、嘴平は鬼殺隊の集合墓地を訪れた。
 所狭しと並ぶ墓石や卒塔婆のその中で、橋本の墓は異彩を放っていた。花もさることながら、墓前にやたらと本が供えられている。
 三人は墓石の掃除をしよう、と水を汲んできたものの、参拝者が多いらしい墓石はきれいだった。あれだけ毛嫌いしておいて、その実これだけ好かれるほどのことをしてたんだと、三人はついぞ伝えられないまま橋本と死別した。線香の煙が立ち上る。空は青々と晴れていた。

「……俺、お前になんか会わなきゃよかった」

 嘴平がうつむいたまま言う。念のため、と残党狩りのために鬼殺隊の名残のようなことをして、たびたび竈門と我妻に遠方の土産を持ってくることもあった。

「お前が文字なんか教えてくれやがったせいで、算術なんか教えてくれやがったせいで、難なく生活が出来ちまう。小難しい本だって読めちまうんだ。もう辞書だって引ける。アオイもびっくりしてたぜ。お前が教えたからだ。こんなこと、教わんなきゃよかった」
「……伊之助」
「わからねえままだったら、たぶんお前死ななかっただろ。俺たちに教えることがまだあったら、お前死ななかっただろ。心置きなく死ぬために俺たちに色んな事教えたのか」

 嘴平のとんぼ玉みたいな目から大粒の涙が落ちる。猪の毛皮を被っていなかった。「挨拶するときは被りもん外せ」と橋本に言われたのを守っている。「ふざけるな」と泣き出した嘴平につられて、竈門と我妻も顔をグチャグチャに歪めた。

「お前がいなくても生きていけるように勉強を教わってたんじゃねえ。お前に勉強を教わるのが楽しかったから、答えられたらお前が嬉しそうに笑うから、俺は勉強してたんだ。お前なしで本が読めても、どこに感想文出しゃいいんだバァカ!」

 橋本から特に「男の磨き方」を教えられていた我妻が嘴平の肩を強く抱く。慰めるように毛つやのいい頭を撫でながら、黙って肩を抱いて「うん」と言った。年の頃よりも壮観に見える顔立ちは、実際に地獄を潜り抜けたあとに自分の中でしっかりと答えを出したのが伺える。

「……俺もさ、最中まだ食べてないの。もらったけど、全部禰豆子ちゃんにあげちゃった。ほしかったのは最中じゃないんだもん。鬼殺の剣士をやってるとさ、助けた人からたまーに物をもらうでしょ、それも食べ物を。煉獄さんから話きいたけど、もしかして最後のほう味もわかんなくなってたんじゃないの? 食べても味わかんないから、俺たちによく飴とかくれてたわけ?」

 なおも嘴平の頭を撫でながら、やるせなさを隠しもせず我妻は続ける。竈門はただ墓石を見つめて聞いていた。

「俺も伊之助と一緒だよ。冗談じゃないよ。俺たちや煉獄さんだけじゃなく、きっとみんなそういうよ。冗談じゃない。どうしてもっと言ってくれなかったの? 「できた子らだな」って褒めてくれたじゃん。じゃあもっと頼ってほしかったよ」

 我妻は泣かなかった。ただ、今まで見せたどんな変顔よりもくしゃくしゃに顔を歪めた。
 言葉を切ったのを聞き届けて、竈門は懐から紙束を出して墓前に置いた。手紙だった。表題には「ちびっこらへ」とある。三人に向けられた遺書だった。

「禰豆子も一緒に、四人で読みました。俺も二人と同じ気持ちです。これなんですか? なにが「俺の部屋にある本は好きなやつをくれてやるから」ですか。なにが「頑張った褒美だとでも思え」ですか。あなたが解説してくれなきゃ、ただの本だ。あなたが読むから面白いんです。持っていくわけないでしょ、褒美になるわけないでしょ。俺たちが欲しかったのは、あなたからの「頑張ったな」だ」

 ひた、と遺書を見つめながら竈門が言う。いつもなら我妻の着ているもので遠慮なく顔を拭く嘴平も、今ばかりは静かに鼻をすすっていた。「先生」に怒られそうなことはしない。なけなしの手向けだった。

「俺たちあなたのせいで困ってるんです。感想文の添削をしてほしい。甘いものが食べたい。全部、あなたと、です。俺たちは諦めません、もう一度あなたに会います。恨むなら自分の教育を恨んでください。あなたに諦めないことを教わったから、俺たちもあなたを諦めません」

 竈門は右手だけで祈った。なんでも、橋本は今『煉獄』とかいう場所にいるらしい。そこには燃え盛る炎があって、生前の罪を濯ぐらしい。濯がれたものは極楽へ向かい、いつかこの世へ戻ってくるのだとか。厳かな十字が描かれた洋書を手に語った煉獄の手がずっと震えていたのをよく覚えている。

「もう一度会えたら、まず謝ってくださいよ、勝手にそこに行ったことを」
「絶対ただじゃ許してやらねえ。べっこう飴一生分だ。天ぷらでもいい」
「最中も買ってきて。あの最中がいい。今度こそみんなで一緒に食べる。それまで俺も我慢するから」
「……できんのか、紋逸がぁ?」
「……情緒と配慮ッ!」

 先ほどまで肩を抱き合って震えていた二人が、慎ましいながらもモチャモチャと揉み合う。竈門が条件反射で仲裁に入り、ケンカの波がおさまってから三人はこらえきれなかったように笑った。
 確かに橋本を喪ったことはつらい。本当につらい。が、それでもすべて失われたわけではなかった。自分たちの中には、橋本が教えてくれたことがしっかりと息づいている。縁まで失われてはいなかった。意地でも失ってやるもんか。
 集団墓地に似つかわしくないほど、健やかな笑い声だった。あまりに多くの死地をくぐってきた三人は、時折言葉にせずとも感情を共有できた。今もそうだ。きっとこう思っている。
 いくら謝られたって、簡単には許してあーげない。
 三人は笑った。無理して笑った。吐き出すように笑った。間抜けなほど呑気な青空に怒るように笑った。何呑気に青々としてやがるんだ、青空ごときが調子に乗るな、ありったけの罵詈雑言を無理やり笑い声に変換して出力した。ほんとうは全身を使って吠えたててやりたかったのだが、どうしても空は青かった。青とは、今やどうしても橋本の色だった。
 もういいだけ泣いた。ほんとうにほんとうに苦しくてつらかったが、あんまりにもメソメソしていても逆に「先生」を心配させてしまう。
 きっと、帰ったらまた泣いてしまう。それでも、「先生」の前でだけ強がりたかった。男の子のサガのようなものである。

「おかげさまで、ちゃんと生きていけています。心配いりませんから、せいぜい詫び文句を考えておいてくださいね」

 三人はむちゃくちゃに笑いながら「また来ます」と墓地を後にした。もらった遺書と決意はしっかり胸に仕舞って。


*****


 放課後。剣道部の指導を終え、道場の後片付けをしている煉獄のもとに、さながら噴石のような勢いで駆け込んできたものがある。橋本だ。

「か、かか、かくまえ!」
「今は用具室ぐらいしか。防具仕舞ってるから臭うぞ」
「背に腹は代えられねえ!」

 射撃部の顧問をしているはずの橋本が泡を食って涙も固唾もガブ飲みしながら駆けこんでくるのは、実は珍しいことではなかった。そろそろかな、とアタリをつけて煉獄は軽く対ショック姿勢をとる。

「泣ぐごァいねが! わりごァいねが――――ッ!」
「オオォ! カチコミじゃア! さっさとタマァ置いていかんかい!」
「ここにいるのはわかってんだァ! 実家のお母さん泣いてるぞォ! 大人しく投降しなさァい!」

 見るからに元気を持て余したちびっこ達であった。彼らもまたいわゆる「転生者」、百年前の記憶を引き継いで現代を生きている。
 ちびっこ達は定規や水筒を掲げながら「オウオウ」と橋本を捜した。彼らはたびたび文明と交流してこなかった民族のような素振りで菓子をカツアゲに来るらしい。時には菓子を両手に突撃を敢行することもある。わけを聞いてみると、「前は俺たちが散々もらったので、今度は俺たちがあげたいなって」「カツアゲするのは最中だけだ」「いろんなことたくさん教わったから、今度は俺たちから食の恨みを教えてあげようと思って」と口々に言った。ツッコミどころが多い。

「煉獄先生! 来てますよね!」
「被疑者! 来てるだろ! どこだ吐けッ!」
「懸賞金としてポッキーあげますから!」
「竈門ベーカリーの新作もつけますよッ!」

 ぎゃんぎゃんと微笑ましいが、煉獄は三人の足元に竹刀をそれぞれ放り投げて「靴下を脱げ」と言った。

「魔王のもとへは向かわせん! 俺を倒してから向かうがいい!」
「あっアイツここにいるぞ! ここ今日アタリだ!」
「ほんとにいない時「知らないが?」って言うもん!」
「今日こそ勝ちますよ煉獄さん! こちとら前前前世から橋本さんを捜してるんですからね!」
「え炭治郎映画とか観んの!? 意外なんだけど!」
「む、隙あり!」
「ぎゃん!」

 本来ならば防具をつけていない人間に竹刀をブチ込めば教育委員会がてんやわんやになるが、悲しいかなここはキメツ学園、そして生徒教員から事務員に至るまで、かつて鬼殺にかかわってきた人間がほとんどを占めている。
 常人が経験する「きびしい」の50倍がそもそも最低ラインだった彼らに対し、たとえ生身だろうと竹刀をブチ込むことに、一応教員として学園に在籍している煉獄ですら抵抗が一切なかった。竈門たちも特に気にしなかったし、以前の稽古に比べれば断然楽なのでむしろ楽しむ余裕すらある。キャッキャと竹刀を拾い上げて煉獄に立ち向かいはじめた。竈門ら三人は特におちゃめなのもあるが、基本的にこんな校風だ。他校からはキメツ学園じゃなくて世紀末学園だろと噂されることもあるらしい。閑話休題。
 我妻が叩かれた額を押さえて後ずさる。往時ほどの完成度には至らないものの、呼吸に近いものは記憶とともに思い出した。多少の距離を詰めるくらい他愛ない。遠くから機を狙うべく、なるべく離れようと隣接する用具室の戸を開けた。

「あ」
「あ!?」
「は?」
「うぇ!?」
「いたぞ――ッ!」

 そこからはもう乱痴気騒ぎでは生ぬるい、教育現場に一番似合わないデッドヒートが繰り広げられた。あまりの罵声や気合の怒号に観客すら集まり、煉獄、橋本の教員サイドとちびっこ達の生徒サイドに分かれて壮絶な死闘が繰り広げられた。時折無謀な挑戦者が乱入するも手も足も出ず退場、菓子や課題などの賭けすら始まる大興奮の謎試合となっている。

「悲鳴嶼先生ッ! 見てんなら止めてくださいよッ!」
「南無、いや、いい光景だなと思って。こらそこ、金銭は駄目だ」
「よそ見たァ余裕じゃねえか先生よォ!」
「嘴平少年こそ胴がガラ空きだぞ!」
「こなくそ――ッ!」
「ちょっと、だいぶ離れたところまで聞こえていますよ。あ私ココア賭けますね」
「ちゃっかり参加すんな胡蝶ッ! 止めろッ!」
「さあさあかかってくるがいいッ! あー楽しい! しかしお前強いな橋本!」
「馬鹿野郎! なんのために毎晩遅くまでユーチューブ観てると思ってんだ! こういうことがままあるからだよ!」
「ユーチューブで強くなれんの? 便利すぎじゃない? 俺もゲーム実況観て強くなりたい」
「護身術の動画観てんだわ黙ってろクソガキ本当あああああ」
「今だ! 橋本先生泣きそうになってるぞ!」
「たたみかけろ!」
「ほんとこのクソガキ共やだあああああ」
「あ、橋本が泣くのは看過できない。すまんが少年たち今から泣かす」
「修羅モードだ!」
「ヤベェ無敵モードだ!」
「……悲鳴嶼先生、あれはさすがに止めた方がいいのではないですか?」
「……加勢を呼ぶか」

 そうして橋本が本気で泣き始める半歩手前で元柱たちの仲裁が入り、乱闘は一旦お開きとなった。悲しいかな、一旦、である。

「俺本当もうこの学校辞める……」
「む。それは死活問題だ」

 道場の片づけを終え、帰り支度をする橋本が呟いた。泣いてこそいないが、ひどく思いつめたような顔をしている。

「この学校、マジで全員俺のこと嫌いだろ」

 橋本は、ちびっこ達こそ一番襲撃率が高いものの、時折「昔助けられて」や「柱稽古で世話になったので」と語る生徒や一部教員から「ひとりで勝手に死にやがって」とちょっかいを受ける機会が多かった。もっぱら照れ隠し、一部は本気の怒りも交えた児戯程度だが、積み重なれば多大なストレスにもなる。キメツ学園はほとんどが転生者、かつ記憶も保持していたので「ああ、やられてら」と訳知り顔で微笑ましく見ていることが多かったが、一番忘れてはならないことを忘れていた。
 この橋本新平には鬼殺の記憶がない。
 橋本にしてみれば、身に覚えのない因縁で毎日ちょっかいを受けるなど冗談ではないだろう。両親とも健在と聞いているので前世ほどの人間アレルギーはないが、このままでは自分たちが原因でまたもアレルギー反応を出すかもしれない。
 煉獄は少し考えこんでから言った。

「……前世で助けられでもしたのではないか? 謝辞を素直に述べるのが恥ずかしくてフィジカルに出ているとか。流行りのツンデレというやつだ。「勘違いしないでよね!」とかいうのだろ」
「いつの流行りの話してんだお前は。つーか、また前世かよ。お前の口から前世って単語出るとどうにもモヤモヤする」
「ほう、例えば」
「モヤモヤするっつってる奴に「ねえ今どんな気持ち?」って聞く大馬鹿野郎の顔面に、拳の一発でも見舞ってやりたい感じ」

 互いにうわべだけで笑った。橋本は本心をひとつも語らなかったし、煉獄もまたそれに気づいている。空咳みたいな笑い方をして、肺に残った空気をどっしりと吐いて橋本は再び口を開いた。

「なんか忘れてる感じだ。このままじゃいけねえって気がする。俺は俺を捨てなくちゃいけねえ気がする。ここにいるべきなのは俺じゃない気がする」

 煉獄は思わず橋本を振り返った。鏡が無くてよかったと思った。今の自分の顔を自分で見たら、きっと烈火よりも激しく自分に対して怒った。
 そんな煉獄の顔を見て、橋本は笑った。仕方ねえなあ、みたいな顔だった。

「でもお前、ほら。今すげえ顔してるぞ。うまく言語化できねえがよ」
「そんなひどい顔か」
「おう。ドレッシングみたいな顔してる」
「どういうことだ」

 誤魔化すみたいに笑って返事をしたが、煉獄には意図がわかっていた。つまり水と油が乳化するほど混ざった顔ということだ。正反対の二つがしっちゃかめっちゃかに混じりあって、まったく別の何かとして出力されている。
 橋本の言葉を聞いて、嬉しかった。煉獄が思慕する橋本新平の残滓は間違いなくここにある。百年眠らせてきた約束が叶う確かな予兆だった。しかし同時に絶望もした。自分はまた橋本に自分を喪わせなければいけない。百年待てたのだし、今でなくてもいいのではないか、そんな考えが鎌首をもたげるほど。
 端的に言えばもうめちゃくちゃだった。正直なにがいいのか全く分からなかった。百余年もの間彼の幸せだけを願いすぎて、煉獄は自分の幸福についてさっぱり無痛覚になっていた。その自覚もなかった。

「マ、お前のバズり確定トンチキおもしろフェイスは置いといて、正直マジで転勤願出そうかと思ってる」
「置いといて、のわりにやたらと修飾語が多いぞ」
「お前、俺と一緒に来てっつったらどうする?」

 頭の中では「もちろん行くが」と即答したのだが、現実の煉獄は口をまごつかせるに留まった。
 橋本が「俺と来てくれよ」と言えば、間違いなく是非と空気を震わせたと思う。だが、意思を問われれば何も言えなかった。

「……考えておいてやろう」
「……考えておいてくれよ」

 どの局面だったかもすっかり覚えていないが、盛大に蹴り倒された棚を直して「じゃあお先」と橋本は道場を出た。慣れ切ったはずの置いて行かれる心地が、どうにも気持ち悪くて仕方がない。煉獄はしつこく咳ばらいをしてから道場の明りを消した。
 夏季体育大会が明日に迫っている。寝られるか不安だった。楽しみではなく、葛藤で。


*****


 橋本新平の遺書、というのは、一時鬼殺隊になくてはならないものと化していた。
 鬼舞辻討伐後の鬼殺隊のあらゆる可能性を試算し、なにが必要でなにを動員してなにをするべきか、が事細かに書かれた預言書のような遺書が、死後大量に見つかったのである。

「ええっと、どこかに地方移住者に関しての記述があったはずだね」
「その件は……こちらですね」
「まったく、いつも寝不足な顔してると思ったら、こんなことしていたらそりゃあ寝不足にもなるだろうに」

 輝利哉に差し出された手紙は何度も開けたり仕舞ったりを繰り返してヨレている。それだけ読み返す機会が多いのだ。輝利哉は「そろそろ複写の必要があるね」と言いながら身の丈ほどの書類の山を切り崩しにかかる。
 槇寿郎もまた書類に向き直った。息子が言うには、「戦は準備と事後処理で結果が変わる。事後処理をトチれば戦で勝っても負けた同然になることもあるし、逆もまた然りだ」というのだとか。誰に教わったかは考えるまでもなかった。こと、鬼殺の戦に関しては髪の毛一本ほども譲る気がなかったのだな、と今更ながらその遺志に舌を巻く日々である。

「杏寿郎は元気になったかな」
「おおよそ元気そのものでございます。彼の遺した本を読んでいるかと思ったら数日姿をくらまして、かと思えば「土産です」なんて菓子を引っ提げて帰ってきて、と。一層予想がつかなくなりましたな」
「鬼殺が彼を縛る理由がなくなったからね。この山が片付けば、ほんとうに今までの鬼殺隊は一旦の終焉を迎えることになる」
「彼が考案した後進組織に移行するわけですな」

 橋本の遺した遺書は、横文字で言えばアカシックレコードにも匹敵するほどの精度を誇った。もはや取扱説明書か攻略本と呼ぶべき代物である。鬼殺隊が直面するあらゆる事象への対応がそこには記してあった。彼の最期を思えば、実際になんちゃらレコードを覗き見ていても不思議ではないなと思わされるが、時折文末に差し込まれる「正直もうわからん」「後はなんとかして」「知らんけど」「間違ってても知らないです」などの愚痴がその記録をやけに人間臭く思わせる。
 先代が推したように、橋本新平は柱になるに足る逸材、もとい人生すべてを血豆にして挑み続け咲いた人物だった。が、結果としては階級乙どまりで良かったのだと、何もかもを見越してそれ以上の昇進を拒否していたように思われる。階級が上がれば前線よりも稽古や会議に時間を割かれ、かといって階級が低くても日輪銃開発に発言権はない。
 槇寿郎は何度目かの溜息をついた。
 あまりに深慮。その叡智でもって、我々はまだ永らえている。だが、きみ一人でやるべきではなかった。

「休憩にしようか」

 輝利哉の呼びかけに、やっと槇寿郎は我に返った。彼のことになるとどうしても感傷的になってしまっていけない。
 槇寿郎が「お構いなく」と言うも「ぼくが疲れたんです」と輝利哉は一切を投げ出して「わー」と伸びをした。年相応らしい振る舞いに、凝り固まっていた精神がふっとほぐれる心地がする。

「失礼いたします」

 折よく茶が運ばれてきた。
 何の気なしに受け取ろうとして、槇寿郎は目を剥いた。
 臙脂色の首巻、黄褐色のくたびれた洋外套、炎の刺繍がきらめく眼帯。昼日中の陽光を受けて瑞々しく輝く蓬髪は、自分のそれよりも若々しい。

「何をしている杏寿郎!?」
「見ての通りお茶をお持ちしました!!!!!!!!」

 真夏の太陽みたいな満開の笑顔を浮かべて答えた煉獄は、てきぱきと配膳をはじめた。手際のよさと煉獄の気骨を鑑みて、槇寿郎は「こいつ練習してきたな」と推測する。「なにか言いたいことでもあるのか」と問えば、好戦的な笑みを浮かべた煉獄は二人に向き直ってきっちり座った。

「御館様! 父上! ちょっと旅に出てきます!」
「話の順序がめちゃくちゃだぞ!」
「詳しくはこちらに!」

 煉獄は懐から手紙を抜き出すと、パーンと叩きつけるようにして置いた。怒りの色は見えない。気兼ねなさゆえの暴力性とでも言うべきか、どちらかというとギャグ時空の気配すらするほどだった。
 半身とも呼べる戦友を喪って意気消沈しているかと思えば、案外すぐこれだ。こちらが真面目にしんみりしていたのに、知ったこっちゃねえとニパニパ元気な笑顔を振りまいている。しっかり苦しんでいることも知っているが、それでも他人の前には頑として匂わせなかった。槇寿郎は煉獄のこの振る舞いまでも橋本の根回しかと一瞬思ったが、すぐに頭を振って考え直す。これはこの子の元来の姿だった。
 槇寿郎は叩きつけられた手紙を拾い上げる。表題には「鳥除け目玉へ」とある。きっとあだ名なのだろう。
 目配せすると、煉獄は静かに頷いた。開けてもいいらしい。

「……????」

 三度ほど目を通して、一つも意味がわからなかった。暗号がびっしりと書き連ねてある。図形から英字から計算まで、この世のありとあらゆる性格の悪さを混ぜ込んだ暗号が、橋本から煉獄へ宛てられた遺書の中身であった。

「意味がわからんでしょう」
「杏寿郎、お前これ怒ってもいいと思うぞ」
「もう怒りました!」

 けら! と笑う煉獄の額には確かに青筋が浮かんでいる。それはそうだろう。槇寿郎もまったくの暗愚ではないが、それでもこの暗号群は取りつく島すらない。疑問符で溺れそうになりながら煉獄へ手紙を返すと、煉獄は仕方なさそうに笑いながら言った。

「要約すると、秋田は駒形山に来やがれよ、と書いてあります」

 これには槇寿郎のみならず、その肩越しに書面を盗み見て渋面をつくっていた輝利哉も目を剥いた。これの解読が済んでいるだけでなく、旅立つための身支度も終えたうえで許可をもらいに来たことを考えれば、数日前には解き終えていたらしい。

「ずいぶん性格が悪いなぞなぞでしたが、まだ終わらんようでして。きっとあいつのことです、南京錠のかかった箱でも用意して、その中にまた暗号でも隠しているでしょう。そうやって、俺においそれと後を追わせないようにしている」
「お前」
「そんなつもりは毛頭ありません。だが、気に入らん。実に気に入らないのです」

 受け取った手紙を懐へ仕舞うまえに、煉獄は一度紙面をデコピンで強めに弾いた。すぐに親指でなでつけ、丁寧に畳んで洋外套の内側へ。
 槇寿郎たちはすっかり煉獄の言葉を待つほかなかった。この二人だけに許された高度な遊戯に口を出すべきでないと気づいていたかもしれなかった。

「恥ずかしながら、お前が死ななきゃ救われない世界なんか勝手に滅んでいろ、と言ったら、あいつ、ここに今度こそ人間のまま帰ってくると言ったのです。鬼殺隊の新しい戦いが鬼のいない世を守ることならば、俺の戦いは橋本が帰ってくる場所を守ることにあります。あいつには申し訳ないが、とっくにあいつのいない世界の生き方くらい見つけているのです。こんな謎解きさっさと終わらせて、「お前が見込んだ男なのだから安心してゆっくりしてこい」と言ってやりたいのです」

 強いものの笑顔だった。これだけの暖色を身にまとっておきながら、その振る舞いたるやさながら水のようであった。あらゆる形に姿を変えるがゆえの強さを煉獄のなかに見る。やわらか、ゆえに強い。槇寿郎はふたたび我が子のなかに瑠火のすがたを幻視した。

「……報告は受けている。奥義でもって斬ったとも、一滴も残らなかったとも。お前と彼の発言もすべて」
「はい」
「俺が言えることは決まっている。そうだろう」

 煉獄は言葉を待つように腿の上で拳を握り、しゃんと背筋を伸ばした。槇寿郎は睨みつけるように言った。

「どこへなりと勝手に行け。その代わり必ず帰ってこい。一度救ってやったのだ、こんな世界なんぞ放っておいても何とかなる」
「……はい!」

 煉獄は光よりもまっすぐに答えた。
 随分久しぶりのようにも思える、父子の視線での語らいは案外早々に幕を下ろした。しかし過不足なく、すべてが十全に伝わっていた。これ以上を言葉にするのは逆に野暮というもの。煉獄は静かに頭を下げた。

「気をつけて行け。息子よ」
「はい、父上。行ってきます」

 煉獄が部屋を出ようと襖を開くと、妙に爽やかな風が吹き込んだ。風は煉獄の毛先を手繰るように渦巻いて消えた。
 心配せずとも、一つ残らず暴いてやる。煉獄は首巻をひるがえして旅に出た。


*****


 ここに勤め始めてから毎年思っているが、この学園なんでこう行事の規模がいちいちデカいんだ。
 橋本は教員の控えテントでアイスコーヒーを煽った。昨晩のうちに仕込んだので今朝は比較的ゆっくり起きた。
 なにより今日は杏寿郎が遅かったし。

「すまん遅れたッ! これ弁当お前今日の!」
「毎年どうも。日本語の順番めちゃくちゃだぞ大丈夫かお前」
「大丈夫に見えるか?」
「まあトンチキしてるけど比較的いつも通り」
「ああそう……」

 そう言って顎まで伝った汗を拭った煉獄にとんぶりをけしかけて橋本は身支度を済ませた。汗かいてる時の猫、意外と毛が顔中にくっつくのでキツいもんがある。
 さてティーンたちは待ち焦がれ、教員たちは「なくならないものか」と祈った体育大会当日である。太陽はここぞとばかりに照り付け、風は火照った体に心地いい温度で吹き、空はバカ間抜けに抜けるほど青い。全世界が祝福してますみたいな日だった。
 橋本はじじくさい大ぶりな麦わら帽子で必死に日陰を作り、隙さえあればテントに逃げた。特段皮膚が弱いわけでもないが、なんとなく日光が苦手である。以前煉獄に「俺前世で吸血鬼だったりしたんじゃねえかな」と笑ったら「冗談でもやめろ」と本気で怒られたのも懐かしい。

「いったぞー!」
「獲れ! 命ごとで構わんから行け!」
「そのボールは親の仇だと思えッ! 殺す気で蹴れッ!」
「このシュートが打てりゃ足なんざいらねえぐらいの気概でいけッ!」
「殺す気で行けーッ!」
「俺のことは気にすんなッ」
「お前の仇は絶対にとるからッ!」
「ここで会ったが百年目ェ!」

 体育大会らしからぬ物騒な野次や歓声にもすっかり慣れた。慣れたというか、諦めたというか、それに驚くほど瑞々しい感性がもう残ってない。この学園で年を重ねるごとに「やってんなあ」としか思わなくなった。
 それと同じくらい、どうにも何かを忘れている心地が染みついて取れなくなった。
 忘れていることを思い出せというのも無茶な話だが、それにしても煉獄の口から思っていたより「前世」という言葉が出るのがどうにも気にかかる。学園の子らや一部教員も煉獄の言う「前世」や「転生」などに関わっているとすれば、この学園はいわゆる「前世」に関わりのある人間のみを恣意的に集めていることになる。そこまで考える度「そんなことがあるかよ現代で?」と思考を放棄しがちだったが、今度ばかりは逃げ出さずに考えなければいけないな、と橋本はコーヒーで唇を湿らせた。
 昨日の煉獄の様子がおかしかった。
 ドレッシングみたいな顔をしていた。ほかに表現が思いつかない。歓びと悲しみ、嬉しさと怒り、希望と絶望を細い絞り口からいっぺんに出したような顔だった。めちゃくちゃな顔をしていた。
 橋本には、煉獄が何を歓び、何に悲しんだのかが全くわからなかった。自分がなにかを忘れていることに真逆の感情を抱く理由がわからなかった。一夜の過ちみたいなクソイベントを経験したこともない。何が嬉しくて、何に怒っているのか。
 ほぼ唯一の取り柄である頭がこんなにも働かないから夏は嫌いだ。煉獄は昨日や今朝方見せた違和感はなりを潜め、今や太陽の下で生徒と一緒に汗まみれの泥まみれになっている。大型犬かあいつは。太陽の下で千変万化して輝く金糸の蓬髪がまぶしくて、橋本はふと懐かしくなって目を細めた。
 目を細めてから、「あれっ」と思って橋本は閉じたばかりの目をかっ開いた。
 いま俺いつのことを懐かしんだんだろう。

「橋本先生」

 呼びかけられて振り返れば、煉獄千寿郎が立っていた。話に聞いたり実際に目にしたりとまちまちだが、すこし気弱なところがあっても腐っても煉獄家の次男らしくひとつごん太の芯が通った少年だ。慈愛たっぷりに微笑むさまから高等部の女生徒からは大層な人気だそうだが、生憎橋本はその笑顔を受けたことがない。いつもツンとデレの割合が10対0みたいな態度をとられている。
 きっと兄が毎朝俺の分の弁当も作れとかいうから苦労かけてるんだろう。俺頼んだことないのに。すまないが恨むなら君の兄を恨め、と思いながらも直接言葉を交わすのは片手ほどだった。
 中等部は高等部より先に昼食の時間になっているので、今は所定の場所で自分と同じ弁当でも広げていると思っていた。ちょっと予想していなかった来客に驚いて、しかし涼しい顔で「どうかした?」と歩み寄る。日光には当たらないように。

「これ、お弁当に入れ忘れたので。兄にも」
「冷凍ミカンだ。最高。ありがとね」
「これは橋本先生にです」

 ムツリ、と突き出されたのは千寿郎の桜貝みたいな唇と、古めかしい飴だった。ずいぶん歴史がありそうな菓子処が作っている感じがする。

「水分ばっかり摂ってると具合悪くしますから。塩飴です」
「お気遣い痛み入ります。ありがとう何から何まで。今度お礼するよ、何が良いかな」
「……じゃあ、勉強を教えてください」
「いいよ。中等部いま単元どこ?」
「英語じゃなくて、歴史とか」
「え歴史? 俺が?」

 歴史教師なら実兄がいるだろうに、と思って問うと、千寿郎は突き出していた唇を引っ込めてやわく噛み、「わからなければ結構です」と顔を背けた。
 英語教師が言うのもなんだが、言葉って難しくて嫌いだ。ディスコミュ人間にはキツいもんがある。どれを使えばちゃんと気持ちが伝わるか、二か国語わかっても使うのはうまくいかない。

「ただいまァ! む! 千寿郎!」
「兄上! 試合おつかれさまです!」
「いや兄上が試合してたわけじゃないよ。こんだけ砂まみれになってる兄上がおかしいんだよ」

 橋本がひとり時と精神の部屋でろくろを捏ねている間に、高等部も昼休みに突入したらしい。サッカーの審判のはずが全身砂っぽくなった煉獄が呵々大笑しながらテントへ帰ってきた。Tシャツの襟元をひっつかんで背中に冷凍ミカンをねじ込んでやれば、煉獄は面白おかしく身もだえする。いつも通りっぽくてよかったな、と密かに橋本は息を吐いた。

「何をするこの……このクソ野郎!」
「…………あ?」

 背中に灼けた氷柱がぶっ刺さったかと錯覚した。
 橋本は頬まで鳥肌を立たせ、弾かれるように背後をみたあと、久しく油がさされていない機械のようにぎこちなく向き直った。
 煉獄兄弟も橋本の奇行に目を剥いている。
 うだるような熱気の中にいるのに、血管を通る血が冷たいような心地がする。自分の手を見ても、冷凍ミカンを持っていたせいで少しだけ霜焼けて赤くなっていた。血は赤いままだった。そう思って、さも自分の血が青かったことがあるような感想に橋本の喉はひゅっと音を立てる。
 ついさっきコーヒーを煽ったはずの喉が信じられないほど渇く。橋本は生唾をかぶりと飲んで煉獄を見た。

「……杏寿郎、これ予感だ。きっとこのままここに留まることもできるし、お前が望めば俺はそっちへ飛び込むぜ。選べよ」
「なんだ急に。おにぎりの具か? 梅固定だと言っただろう」
「お前、俺が「一緒に来てくれ」っつったら答えに詰まったよな。俺はお前が「来てくれ」っつったら一も二もなくついてくぜ。なあ杏寿郎、教えろよ」

 そこまで聞き届けて、煉獄は昨日みせためちゃくちゃな顔をもう一度してみせた。希望と絶望の両方が入り混じっている。その理由になんとなく察しがついた。決め手は煉獄の表情だった。
 初めて会う奴にもなぜか既視感があって、どこか懐かしい。ここにはほぼ「前世」からの縁がある奴しかおらず、恣意的に集められているとしたら、それは自身もまたそうであるからだ。
 こいつは優しいから、俺が仮に「前世」の記憶を思い出していない状態だとして、思い出した先のことを危惧しているんだろう。そしてきっと、杏寿郎は既に記憶を取り戻している。こんな俺みたいなクソ野郎なんかと太陽の擬人化みたいなこいつが友達になったのは、なってくれたのは、きっとその「前世」で何かがあったんだろう。だからこそのあの顔なのだ。かつての「俺」が戻ってくる期待と、今の俺が喪われる絶望の真ん中にいる。俺の喪失にここまで怯えるということは、きっと俺は昔こいつの前で死にでもしたんだろう。
 知るか、前世のことなんか! 今生きてるお前が、一番幸せにならなくてどうすんだ!
 橋本は怒りとも畏れともつかない感情を文字通り噛み殺して、音もなく息を吸った。

「俺、お前のこと鳥除け目玉って呼んだことあるだろ」

 一瞬のような、永遠のような時間だった。
 周りは夏のビッグイベントに浮かれる学生、それを御する教員が引っ切りなしに様々な音を立てているのだが、この瞬間だけ二人の間は一切の無音であった。
 互いの呼吸と拍動だけが聞こえる。風は「煉獄の髪がなびいているから、吹いているのだな」とわかるだけで、実際に知覚はできなかった。
 呼吸と拍動だけが聞こえる空間で、不意に呼吸が乱れた。煉獄は溺れるように息をつきながら、爆発寸前のように心臓が暴れるのをどこか遠くで感じた。制御はまったくもってできなかった。
 目玉みたいに大きい涙がひとつ、煉獄の左目から落ちる。熱に浮かされたような声で煉獄は答えた。

「ある。何度も。……ああ許してくれ、百年ぽっちじゃ諦められないほど、俺はお前に会いたいよ」

 ともすれば風の音にかき消されるような、そんな声出せたのかと思うほどか細い声だった。が、二人の間には互いの音しかなかった。最後にこぼれた吐息までをも聞き届けた橋本は、奇妙な微笑みを浮かべた。
 仕方ないな、その言葉を待っていた、お前は何を言ってるんだ、当たり前だろうが、その他ありとあらゆる感情をめちゃくちゃに混ぜた液の上澄みみたいな微笑みは、奇しくも大正の橋本が良く浮かべる笑顔とよく似ていた。昔と違って双眸で捉えられるその顔に、煉獄の目から追加で涙が落ちる。

「……そうか。そうだよな。きっと、「俺」も同じだ」

 目を伏せた橋本の体が、陽炎のようにゆらいで傾いだ。条件反射で飛び出した煉獄が抱きとめれば、受け止められた衝撃で「スッ叩かれて目が覚めた」ようにバチリと橋本は伏せた瞼をブチ上げた。

「は、橋本。橋本? 大丈夫か」
「…………おい、お前まさか」
「まさか、俺がなんだ」
「お前、まさか、全部覚えてないだろうな」

 煉獄の腕の中で信じられないように呻く橋本の顔は、先ほどまでと決定的に違っていた。
 なにが、どこがとは言えないが、間違いなく先ほどまでとは違う橋本新平がそこにいた。
 橋本は煉獄の顔を見ないまま忙しなく目線をあちこちにやった。高速で何事かを考えているようでもあった。煉獄は背骨が判断するままに橋本の頬を両手で引っ掴み、目線を合わせるように無理やり顔の前に持ってきた。めちゃくちゃに掴まれた顔からは「いてぇな!」と悲鳴が上がるが、まったくもってそれどころではなかった。記憶のなかよりもすこしだけ明るくなった底なし湖の双眸がしっかりこちらを見つめなおしてから、煉獄は言った。

「時代ナメんな、と言ったのは、どこのどいつだったろうな」

 炎天の昼下がり、教員テントから響いた絶叫は後に語り草になる。
 橋本はすべてに合点がいった瞬間に叫びだしていた。その様子から「橋本が記憶を取り戻した」ことを察した煉獄もまた、向かい合う橋本の鼓膜を破らんばかりのバカクソ大声で叫んだ。大音声を辞書で引いたら凡例に書かれるほどの大絶叫であった。

「お前、お前ーー!!! あー!!!!!」
「あーーー!!!!! 橋本、あーーーー!?!?」
「うわ杏寿郎お前うわーーーーー!!!!!」
「橋本だーーーー!!!!!」
「うるせえな何事だうるせえ!」
「宇随!!! 宇随!!!!!!!!」
「うるせえな!!!!!!」
「うわ俺うわうわうわーーー!!!!!」
「揃いも揃って熱中症か勘弁しろ! 何事だやかましいことこの上ない! 黙らなければ頸動脈に酸素ブチ込むぞ」
「井黒先生!!!! ちげえ!!! 蛇柱様!!!!!!! 俺ーーーーーー!!!!!!」
「レゲエ砂浜ビッグウェーブかよ」

 何事だと寄ってきた百年単位の既知の間柄たちに、世界に知らしめるように煉獄は今ひとたび大声を出した。

「橋本が戻った!!!!!!!!」

 いつぞやされたへし折るほどの抱擁をかましてやりながら、喉を晒して煉獄は叫んだ。橋本を待ち焦がれた百年の断末魔であり、橋本ありきで考えた鬼殺のない世界の産声でもあった。

「お前、えー!? いつから!? ずっと覚えてたのかよ!?」
「中学の入学式の時にだ! お前がご丁寧に山ほどこさえた遺書、本部に保管してあるのだからな! 時代をナメるなよ、PDF化してクラウドに入ってるからなんなら今ここで俺のスマホから見られるぞ!」
「ギャーッ! 馬鹿野郎なにやってんだ死ね! あ嘘死ぬんじゃねえ!」
「やっとお前が煉獄とかいうわけわからん場所から帰ってきたのだぞ、殺されても死んでやるものかバーカ!」
「お前なんか口悪くなってねえ!?」
「誰のせいだと思っている!」

 突然抱き合って大声を上げる成人男性二人、傍目に見れば通報待ったなしだが、奇しくもここはキメツ学園。察した者たちは皆それぞれに歓声を上げ、ある者は「マジで!?」と、ある者は「よかったよお!」と、ある者は「最中ァ!」と駆け寄った。
 もはやモッシュめいてきた人垣の中心で、煉獄は涙腺をぶっ壊していた。後から後から涙があふれて止まらない。この世にあってこれ以上の幸福はない。百年見ないふりをしてきた自分の願いが、真に叶った瞬間であった。
 こいつと生きていたかった。
 橋本も煉獄の肩に顔を押し付けて泣いていた。突き刺さるかと思うほど背中に爪を立て、間欠泉よりも激しくわきあがる感情を必死に受け止めている。その肌が興奮で赤くなっていることが、その温度のあまりに高いことが何よりもうれしかった。
 ふと息継ぎに顔をあげた橋本と目があった。熟れた桃の果汁みたいにとろりと笑った様を見て、煉獄はいてもたってもいられず、その頬に噛みついた。
 また絶叫が上がった。上げた人間も上げさせた人間も、それを聞いていた人間も二秒後には大笑いしていた。
 世界一情緒が不安定な空間に、体育大会の昼休憩はまんまと食いつぶされていった。


***


「大口を叩いた、とは、言いたくはないが、それにしたって、本当に性格が、悪いっ」

 煉獄は息を荒げて雪深い山をガシガシ漕ぐように歩いていた。ほぼ「泳いでいる」に近い。場所によっては胴まで積もった吹き溜まりを泳いで進む。秋田県駒形山、地元では秋田駒と呼ばれているらしいこの山は、以前銃を勝手に触って烈火よりも激しく怒られた時に橋本が話していた伝説の舞台のひとつであり、橋本の生家があった場所でもあるらしい。行きがけに見たこの国で一番深いらしい湖の水面は、なるほどどうしてあの瞳とよく似ている。
 道と呼ぶには道に失礼な道をしばらく進んでいけば、奇妙にひらけた場所に出た。不自然に炭化した木材がしっちゃかめっちゃかに突き出した雪原を見て、煉獄は思わず感嘆の声を漏らす。

「これは、信じられなくもなるだろうな」

 橋本の父の振舞いを不気味に思った麓の人間が焼き払った、橋本の生家跡だった。
 そういえば、ここの場所を訊ねるとき、麓の人々はやけに苦しそうな顔をしていたが、あれは俺が橋本の外套を着ているからだろうな。煉獄は事実のわりに渇いた感想を抱いた。なんとなく首巻に手をやれば、すっかり慣れた感触が返ってくる。
 麓の人々も橋本のことを覚えている。仕打ちはともかく、彼を覚えている人間がひとりでも多いことを喜んだ。
 煉獄は体中に張り付いた雪をてきとうに掃って生家跡のなかへ踏み込んだ。誰も片付けなかった焼け跡が奇妙に風を捻じ曲げ、敷居をまたいでしまえば今までが何だったのかと思うほど積雪が少ない。
 目当てのものはすぐに見つかった。

「……また暗号」

 焼き払われたにしては不自然に雪が盛り上がった場所を掘ってみると、雨風雪に濡れないよう厳重に仕舞われた匣が出て来た。英字が彫り込まれた南京錠がかけられている。一緒に出て来た紙の切れ端にはヒントのつもりか「お前に借りがある」と書かれていた。煉獄は考え込む様子もなく「I・O・U」を揃える。
 軽快な音を立てた錠が外れた瞬間、匣のふたが浮き上がり、隙間から溢れるように紙がバラバラと落ちた。拾ってみれば手紙であるらしい。大きくはない匣にあふれるほど自身へ向けて言葉を遺したことに泣けばいいのか、もっと大きい匣に詰めればいいものをと笑えばいいのか分からなかった。妙なところで締まりがないのが橋本らしくて、結局煉獄はちょっとだけ笑った。
 まだ春には遠い北国の、しかも雪山だが、風がないので寒くなかった。匣を包んでいた風呂敷を敷いて座り込み、煉獄は手紙を読み始める。


『 あわよくば、青を見て俺を思い出せ。ざまあみろ、こんなやつとつるむから ありがとう ごめん 』

『 杏寿郎へ

 これを読んでるってことは、何年経ったか知らねえが暗号が解けたと見ていいな。よくやった。俺が教え込んだだけあるな。力技で開けそうな気もするが。どっちでもいいか。
 これを読んでるってことは、俺はたぶん死んでるんだと思う。たぶんめちゃくちゃなことして、めちゃくちゃなこと言って死んだと思う。すまねえな。

 ようは遺書だ。鬼殺隊宛てにも散々書いたが、これはお前宛て。ちびっこ達にも書いた。鬼殺隊宛てにはほんとにめちゃくちゃ書いた。褒めろ。
 ということで、悪い、これ三徹で書いてるからなんかもう考えんのめんどくさい。めんどくさいから、全部包み隠さず書く。

 お前、あんまりこの世界のこと好きじゃないだろ。
 俺も前までそう思ってた。こんな世界ごときが調子乗んなよって思ってた。俺にこんな艱難辛苦降らせといて、ちょっと空がきれいなだけで許されると思ったら大間違いだぞバーカ、みたいな。
 でもだぞ。俺のことを革命的に好いてくれるのは大変うれしい、俺もお前がいるなら戦争だろうが災害だろうがなんでもいいやって思ってる、でもこれを読んでるってことは俺死んでるかもしれないんだろ。
 俺だったら「杏寿郎が死ぬような世界俺が滅ぼす」とかいって、今まで蓄えた知恵も学問も全部使って世界中めちゃくちゃにしてやるぜ。でもそれじゃだめだ。なんで俺が鬼殺隊に入ったかって、俺いわゆる戦災孤児みたいなもんだから、そういう人間が少しでも減ればいいと思ったんだよ。俺がそれをやっちゃ元も子もねえ。まだ手遅れじゃないだれかのために俺は死ぬんだ。きっとな。
 なんの話してたっけ。そう世界が嫌いって話。
 別にいいさ。好きにしろよお前の心なんだし。俺がどうこう言えるもんじゃねえのもわかってらあよ。
 でも俺はこの世界のおかげで、っていうのもなんか気恥ずかしいが、おかげでお前と会えた。
 そりゃ辛いこともめちゃくちゃあったさ。でもそれを補ってなお有り余る奇跡がお前だよ。
 ちょっとでいいから世界を愛してみてほしい。
 俺が愛した世界だ。今回は無理だったかもしれねえが、いつかの時代に俺とお前が生きていく世界だ。案外色に満ちているし、形もいろいろだ。外国の話だが、翡翠色の海や朱鷺色の川があるらしい。とんでもない大輪の花があるらしい。すごい柄の鳥がいるらしい。富士よりも高い山とかもあるらしい。
 もちろんこの国にだって絶景はたくさんある。足利の藤棚なんかすごいらしい。地元の秋田でもここ数年で花火の大会とかやってるそうだ。冬の田沢湖なんかいいもんだぞ。バッカ高い入道雲と山とかいいもんだろ、俺あんまり見る機会なかったけど。
 それらを、俺の代わりに見てくれ。お前のバカでっかい目で。

 あと、お前がくれた眼鏡、どうにも思い入れがありすぎて、あれを着けてると人間を辞めきれない気がする。俺がどんな最期を迎えたか知らないが、きっと俺の遺体にお前がくれた眼鏡は乗ってないと思う。たぶん藤の家紋の家で借りてた部屋に置いてる。すまねえな。
 あれ本当に嬉しかったんだよ。鼈甲の眼鏡。なんかもう言語化できないが、本当に嬉しかった。
 あの頃もう体温も失せかけて、味覚もあんまりなかった。何食っても粘土みたいで参ってたんだが、ちびっこ達や、特にお前と飯を食う時だけ味がした。美味かった。
 ほんとうに表現が難しいんだが、きっと最期の俺はまともな視覚がないと思う。今現在で既に、なんて言ったらいいかわからねえが、記憶にある景色と実際に見る景色に齟齬がある。着慣れたはずの外套の色がわからん。時効だと思うから言うが、ものすごく怖い。
 それが、お前が眼鏡なんかくれたもんだから、比較的まともにものが見えるんだよな。お前がいなきゃきっともっと早く人間じゃなくなってた。ありがとう。ほぼ誤差っつーか、残滓みたいなもんだが、それでも人間の部分を残したままお前の近くにいられることを、その時間が一秒でも長いことを、何よりの救いに思っている 』

『 お前がいてくれて本当によかった これは俺のすべてに誓ってほんと 誓えるものが水しかないけど なんつって 』

『 ほんと、人間のままお前の傍にもっといたかったよ。人間じゃないもんは夜闇に隠れるもんだ。俺みたいなのがおこがましいが、隠れるってのは、「死ぬ」の隠語だ。隠れて生きるものは得てして「生ける屍」とでもいうべきか、なんにせよ人間ではないんだ。
 以前の槇寿郎殿みたいな生き方を「隠れてる」とは言わねえからな。あれは「戦っている」という。間違いやしねえとおもうが、一応釘さしとくぞ。鬼や俺みたいなのは、そういう「隠れる」とは一線を画した隠れ方をする。ダジャレじゃねえからな。
 マ何が言いたいかっていうと、お前の隣に立つのは人間がいい、その人間は俺がいい、って話。でも俺は日を追うごとに人間じゃなくなるんだがな。すまねえな本当 』

『 俺はたぶん確定で地獄行きだ。でも、千年生きた鬼を斃せたら、即行天国行きにはならないまでも、煉獄行きくらいにならねえかなって思うわけ。なんで煉獄行きがいいかって、遠い遠い遠ーーーーい未来で天国にいるだろうお前と、煉獄で赦された俺が会えたらいいね、ってのと、あとはもう名前だよ。言わせんな恥ずかしい。
 話それた気がする。俺を人間にしてくれてありがとう、という話。

 最後に、これだけ長々と書いといてほんとうに申し訳ないんだけど。
 俺のことは忘れて生きろ。
 俺なんかのことは忘れろ。
 お前にはお前の命の使い道がある。それは間違っても俺じゃない。お前だけの使い道がきっとある。
 だので、俺のことは忘れて生きろ。
 ほんとだぞ。

 橋本新平より 』

『 俺のことは忘れて生きろ 』

『 全部うそ お前の目に映る月にでもなりたかった 情けないけど消えたくねえ 俺も朱鷺色の川が見たい おまえと 』

『 いつかまた会えたら 朝日が眺めたいなって 思った それだけ 』


 自分でも驚いたが、煉獄は泣かなかった。泣きはしなかったが、苦しみを押し込めるように眉根をきつく寄せ、「仕方のないやつだな」みたいな笑みを浮かべた。
 手紙を匣に仕舞い、もとい押し込みなおす。手放したくない、すこしでも長く味わいたい苦しみも、甘やかな激痛も、悩ましい愛おしさもひっくるめて匣ごと手紙を強く抱く。
 随分長い時間雪山に座り込んでいたが、凍えは微塵もなかった。自分の拍動ひとつひとつが有り余るほど熱を運んでいるのがわかる。抱き込んだ匣に少しでも熱が伝わればいいと思って、煉獄は今一度匣を強く抱いた。意味はない。ただそうしたかった。
 どれほどそうしていたのか、すぐ近くで雪を踏みしめる音がしてやっと煉獄は顔を上げた。すばやく見回すと、立派な角を生やした鹿が煉獄を見ていた。角の大きさをみればそれなりの年のはずだが、毛皮は煉獄が思い浮かべる鹿のそれよりも白く、経年らしい汚れも見当たらない。
 鹿は煉獄が未だ離さず抱いている匣をじっと見ていた。山羊ではないが、まさかこの手紙を食べはしまいな、と思いながらも様子を伺う。
 この辺りに棲んでいるのか、鹿は慣れた様子で旧橋本家の敷居をまたぎ、煉獄のすぐ近くまでやってきた。興味深そうに匣に鼻をよせるが、角が煉獄にぶつかる。じゃれているようにも見えた。煉獄は非日常的な鹿の素振りにちょっと笑った。

「なんだなんだ。珍しいこともあったものだ」

 状況がそうさせるものあるだろうが、煉獄はどこか懐かしさを覚えていた。最期の橋本にも角が生えていたな。肌も真っ白だったしな。黒々として思考の伺えなさそうな目なんかそっくりだ。化身だろうか。いや考えすぎだな。そこまで考えて、ふと白い鹿が匣からこちらに興味の矛先を変えていたことに気づく。

「なあ、すまないがちょっとだけ付き合ってくれ。お前があまりに親友に似ているものだから」

 煉獄が白い鹿の首元を撫でると、人語を解したように鹿は座った。煉獄に横面を向けている。顎を引き、しっかりと見据えて煉獄は口を開いた。

「……案ずるな、なに一つだって忘れてなどやるものか! 恨むなら、お前がつけた火を恨むがいい!」

 言い切って、自然に頬がぎゅんと持ち上がった。笑顔を浮かべずにはいられない。妙に晴れ晴れとした心地だった。
 白い鹿は瞬きをして、頷くように頭を一度だけ下げた。その様子を見て煉獄は再び笑う。ますます他人の空似には思えない。
 鹿は立ち上がると、さくさく雪を踏みしめて一度離れ、煉獄を振り返って戻ってきた。角で小突いて再び離れる。どうやらついてこいということらしい。匣と、匣を守っていた風呂敷を抱えて煉獄は後を追った。
 しばらく白い鹿の先導で来た道ほど雪深くない道を進むと、人里に降りた。来た際に通った集落ではないらしい。びっくりしたまま「道案内、感謝する」と言うと鹿は山へ帰っていった。
 気づけば空が燃えるように赤い。人里の住人に一夜の宿を借りようと経緯を話すと、大層驚いて煉獄をもてなした。曰く、白い鹿とは縁起が良いらしい。

「おめさん、神様でもに愛されてるんじゃねぁだが」

 まあな、と煉獄は思った。人間ではなくなった者に愛されてはいます。思ったが、言わないでおいた。秘密基地や内緒話のような感覚がある。この体験は自分と、きっと橋本の使いとして来た彼だけの秘密だ。
 夕飯になって、煉獄に供されたのは質素な食事だった。住人は申し訳なさそうに一度厨へ戻り、小鉢をひとつ持ってまた申し訳なさそうに戻ってくる。

「こんたものしかねぐてごめんしてけれ。ちっと早いんだども咲いとったがらこさえました」
「む。これは?」
「バッケ味噌だす」
「これが!」

 煉獄がぱっと顔を輝かせたのを見て、住人は申し訳なさそうにしていた顔を綻ばせる。ばちんと手を合わせて大声で「いただきます!」と言うと、住人はにこにこして「召し上がれ」と答えた。
 さっそくバッケ味噌を一口。思っていたより苦い。早生ゆえか、もともとこういうものなのかは煉獄にはわからなかった。味噌というだけあって塩辛い。瑞々しい湯気をあげる白米をかきこむ。もう他に何も考える余裕がなかった。一心不乱にバッケ味噌と米を交互に口に運ぶ煉獄を見て、住民はまなじりを下げる。懐かしむような顔だった。
 一膳ぶんの米をあっという間に平らげて、やっとひとつ息を吐く。再び吸って、吐く息は大音声に変わった。

「……うまい!!!!」



*****


 とんでもない騒ぎだった。
 まず午後の部が小一時間ほど予定から遅れ、競技もまともには進まず、挙句最後の表彰式で登壇させられ、マイクを渡された。
 何もいうことないんですけど、みたいな顔をしていたら怒られた。

「あるだろう言うこと! このバカ! カマトト! 唐変木! 朴念仁! この際だ百年分考えた罵倒文句でしりとりしてやろうか!?」
「お前ほんとに杏寿郎!? マジでクッソ口悪くなってんじゃねえか何が起こってんだよ! 生徒の皆さんはこんな大人にならないように! 車に気をつけて帰れよ!」
「お前が言うなオブザイヤー殿堂入りー!」
「狙撃がうまけりゃブーメランもうまいってかー!」
「先生も夜道には気をつけてくださいよ!」
「ふざけんな待ってたぞバカー!」
「いい加減自分の優先順位上げろー!」
「すげえブーイングだ! 心折れそう!」
「折れろバカ! 嘘だ! 折れるな! 暴言止め! それ以上言うなら俺に一撃入れてからにしてもらおう!」

 乱痴気騒ぎだった。
 なにが一番ひどいかと言われれば、騒ぎがこれで終わらなかったことだ。
 曲がりなりにもひと夏のビッグイベントを終えたはずの生徒や教員は、残念ながら鬼殺隊員の生まれ変わりであった。昔と同じ稽古を積んだわけでないとはいえ身体の使い方のようなものはしっかり覚えているし、なにより疲れをさておいても祝いたい男がいた。
 もはや消化試合と化した体育大会の後片付けをさっさと終わらせて、普段の学校生活から発揮しろよと思うほどのすばらしい連携で次々にコンビニなどから菓子を買ってきて投げつけるもの、入れ替わり立ち替わり肩や背をブッ叩きにくるもの、後から後からやってくるさまざまな祝いを処理落ち気味の頭でなんとかいなし、橋本がやっと息をついたのは家に帰ってビールのプルタブ起こしてからだった。疲れた。

「なんという日だろうな今日は! 世界も捨てたもんじゃなかったな! いやお前が帰ってくるために捨てなかったのだが!」
「ちょっとマジで疲れたから静かにしろ……声がデカい……てかお前なんで当たり前みたいに俺んち上がり込んでんだよ……親御さんに連絡はしたのかよ……」
「明日休みだろ!? そうだよな俺も休みだものな! どこか遊びにでも行かないか!? いや俺の家行こう! 父上も喜ぶし母上に紹介したい!」
「聞けよ……いいけど……静かにしてくれよ……近所に借金取りに踏み込まれたって思われそうだから……」
「なんだその顔!? 呆れたような顔をして!」
「呆れてんだよ静かにしろ……」

 飼い猫のとんぶりもいつものクールさもどこへやら、煉獄につられたように明るくて長い毛皮を奮い立たせ、一気筒エンジンも快調にふかしている。とんぶりもまた再会を祝っているようだった。

「見ろ、世界中がお前を待っていたのだぞ」
「いやすげえ愛されてんな俺」
「やっと自覚したのか」
「一番はお前」
「そうだとも」

 言いながら帰りにスーパーで買った半額のからあげをムシャつく煉獄は、家に帰ればもっといいもんが食えただろうに心底うまそうに頬を膨らませている。
 呑気なもんだ。考えて、しかし橋本はすぐさま考えを改めた。
 ほどほどに減った缶と箸を置いて煉獄に向き直る。この世の「嬉しさ」だけで構成されたみたいな顔がこちらを見る。

「百年待っててくれてありがとう。信じててくれてありがとう。待たせてごめん」
「……なに、千年の流血を止めた男を待っていたのだ、百年くらいはかかるものだろう」
「俺の働きだけじゃねえが、そういうもん?」
「そういうもん、ということにしておけ。それに終わったことだ、今はこの焼きそばドーナツがまずい話をしよう」
「は? 何買ってんだお前。マジでなんだそれ」
「うどんを輪にして揚げた菓子があるそうなのだが、それの二番煎じらしくてな。土台がソース味なのに砂糖がまぶしてあってなんかすごい、なんか、いいから食え!」
「おい止め……いや食えるぞこれ。うまいわ」
「味バカ!」

 食える、といったが正直マズかった。調味料全部が最大火力を持ち出して舌の上で大喧嘩している。収拾がつかない。
 が、煉獄と食うならなんでも美味かった。百年前から変わらない。焼きそばドーナツの他にも、帰路でスーパーに寄った際に煉獄がテンションを持て余して買った謎食材や謎惣菜に「これはうまい」「これはヤバい」と言いあいながら、時折互いの様子を盗み見る。
 酒に酔って赤くなっている指先が、細かい切り傷のない頬が、烙印のように主張した額の傷がないことが、左目が眼帯に覆われていないことが、なによりも愛おしかった。なにも失わないまま、十全なまま再び出会えたことがなによりも嬉しかった。

「穴が開くぜ」
「お前こそ」
「なあ杏寿郎、辛かったら言わなくていいんだけどよ、あの後何があったか知りたい」
「構わないとも。俺たちがいかにしてお前を待っていたか、とっくりと聞かせてやるいい機会だ。覚悟するといい。代わりと言ってはなんだが、今までのお前の話も聞かせてくれ。今生で、お前はどのようにしてお前になったのか」
「いいぜ。これからは時間なんざ有り余るほどあるんだし。手前で言うのもなんだが武勇伝めちゃくちゃあるぜ、いいリアクションしろよ」
「どちらから話そうか?」
「じゃんけんで決めるべ」
「受けて立つ!」
「行くぞコラァ! さいしょはグーッ!」

 静かにしろ、と口酸っぱく言っていたにも関わらず、橋本は大声を上げて拳を作った。そろそろお隣さんが本気で金銭的な心配をしているのも、疲れた体にアルコールぶち込んだせいで酔いが回っているのも自覚していたが、今は気にしたくなかった。
 世界め。俺たちの再会と幸福をことほぐなら、ちょっと騒ぐくらい目をこぼしやがれ。
 成人男性二人が深夜にバカみたいな大声で本気のじゃんけんをして、互いの胸の内をごっそりと吐き出して、ちょっと泣いたりして、その倍笑って、ゆっくり夜は更けていった。



 まずラインのメッセージ。しばらくして通話。放っておけばケータイは静かになった。
 どうやら気絶まがいの寝落ちをしたらしい。橋本は瞼の裏側にひっくり返っていた底なし湖みたいな目をなんとか戻して周囲を見渡した。
 ひどいもんである。どうして壁にゆでたまごが叩きつけてあるんだろう。食卓の向こう側で同じように気絶している煉獄の蓬髪の先にはフォークが巻き付けてあるし、自分の前にある皿にはとんぶりのドライフードが山盛りになっている。家じゅうの酒の空きビン空きカンが至るところに転がり、ふと視線を下げれば自身は半裸であった。煉獄も同様であった。

「マジか……」

 砂漠の方がまだ湿度がある、とでも言われそうなクソ渇いた声しか出なかった。体感では二秒しか目を瞑っていない。実際におぼろげな昨夜の記憶の最後は、窓の外が明るかった気がする。体育大会のあとにほぼ徹夜で語り明かしたらしかった。
 決めた。槇寿郎殿とお母さまには申し訳ないけど今日は昼まで寝よう。寝なおそう。橋本は煉獄の肩を揺さぶってから玄関の戸締りを確かめに行く。

「……どこへ行く……」

 まだ半分白目をむいている煉獄がのそのそと後をついてきた。

「鍵締める……寝なおすから……お前もちゃんと寝てから家帰れ……間違ってもそのまま帰んなよ……」
「まだ帰らない……話してないことがあるから……」
「まだ話題あんのかよ……あでもそうか……百年分か……」
「うむ……」

 煉獄はよたよたと橋本を追い越すと、玄関のドアを開けた。朝陽が差し込む。普段なら何よりも憎い光だが、今は涙が出そうだった。寝不足だからではなく、その清らかさに。

「ふふ。そら、ここにお前をつれてきたかった」

 朝陽のなかで輝く金の蓬髪は、この世の美すべてをその一点に注ぎ込んだかと思うほどだった。橋本はタージマハルを連想したが、すぐに違うなと思いなおす。
 大工たちの両腕を切り落とさなくても、これより後にこれ以上美しいものはこの世に生まれないだろう。だが、この美しさだけは不変で不朽だ。
 一方の煉獄も、差し込む朝陽に照らされる橋本の白い顔を見て、やっと瞼の裏から帰ってきた目を細めた。タージマハルを連想したが、こちらもすぐに思いなおす。
 月のような絶世の美しさは認めよう。だが間違っても霊廟などであるものか。布などかけてやるものか。
 煉獄は相変わらず世界が大して好きではなかった。百年待った男がやっと帰ってきて、やっと好感度がマイナスからゼロに戻った瞬間が今である。彼が隣にいてさえくれれば、たとえ『煉獄』だろうと絶景スポットに違いない。
 互いの胸中は互いの表情にこれでもかと表れていた。互いの表情をみて、互いにじわじわと波紋が広がるように、火の手が強まるように笑みを深くした。
 俺とお前の間柄だ。言葉は尽くした。これ以上言うのは野暮だろう。百年秘めた願いは、お前と幸せになりたい、だった。言わずとも通じ合うと信じている。そう思って微笑み合っていた。
 煉獄がゆるく腕を広げて待つ。橋本は怪訝そうな顔をして、しかし吸い寄せられるように朝陽のなかで待つ煉獄の腕に収まった。

「いや、俺が言いたかったのは眩しいからドア閉めろってことだったんだけど」
「よもや。記憶取り戻した代わりに情緒を失ったか」

 ガッサガサの声で笑いあって、朝陽で温められた煉獄の蓬髪に鼻先を埋めて橋本は答える。

「これからは朝陽ひとつに喜ばなくていいんだし。いくらでも見られるだろ、こんなもの」
「うむ、それもそうだ。気もすんだし寝よう、何にも怯えずに」

 鍵を閉めて、ゆるく肩を組んだ二人を迎えた寝室は、なぜかトマト缶、味噌やめんつゆ等の各種調味料がまぜこぜにぶちまけられていた。つま先で蹴り飛ばしたごま油の空き容器が呑気な音を立てる。
 幸いにも酒瓶で頭を殴られた経験も記憶もない今生の橋本は酒を嗜むが、深酒するととんでもない醜態をさらす男であった。記憶がないだけで煉獄も盛大に悪ノリしたのだが。

「……酒、飲むんだなあとは思ったが、このパターンか」
「今生でも酒は飲まないって今誓いました」
「良くも悪くも、今日のこと、絶対忘れてやらないぞ」
「灰になっても覚えててくれ」

 もう片付ける気力もない。被害を受けた掛布団やタオルケットは全部床に打ち捨てて、煉獄と二人でバスタオルに包まって寝た。
 百年前と合わせても、何よりも情けない就寝だった。が、今世界で一番幸せだ。これこそが待ち焦がれた開闢であった。
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