あんだと、鳥除け目玉
 柱稽古が始まった。
 橋本と煉獄は二人一組で、以前進言したのち(これも日輪銃のそれまでを思えば橋本が目を据わらせるほどトントン拍子で)認可が下りた銃歩兵の指導に当たっている。煉獄は座学や戦術講義を中心に、実技と実戦稽古は橋本の担当である。

「座学の時点で装填弾数まで覚えさせた方が良い。焦って引き金引き続ける奴が結構いる」
「む。モシンナガンだろ? 指導してるとも。お前の指導が良くないのだ」
「はー? 言うじゃねえか。例えばどこよ」
「再装填が気持ち悪いほど巧いのだお前は。まだ慣れていない隊士が見ればチンプンカンプンだ。五発で一旦撃ち尽くし、再装填、もう一度構えるまでを最初はゆっくり見せてやらねば、なんか仕組みはわからんがいっぱい撃てるもんなのだな、と思う隊士が出ても仕方あるまい。焦っているならなおのこと。長距離武器の扱いで一番重要なのは落ち着き、と言ったのはお前だったではないか」
「これァあれか、お叱りのふりして褒められてんのか。それとも逆か」
「真ん中だ。麦茶取ってくれ」
「ほいよ」
「うまい!」

 炎柱邸の広い庭で実技の訓練を受けている隊士たちが少し遅めの昼食をとっている。千寿郎のおかわりの有無を尋ねる声が爽やかに響き渡る。

「麦茶もありますよ!」
「すげえ、他の柱の稽古と比べて天国すぎる。福利厚生がいい」
「キツくなかったところあるか?」
「恋柱様のとことか?」
「あれはあれでキツかったろ。股割りめちゃめちゃ痛かっただろ」
「疲れきって飯も食えないよりいいだろ。このおにぎりめちゃくちゃ美味しい。生まれて初めて食べたみたいに美味しい」
「麦茶美味しい……」

 炎柱邸での稽古は基本の順路から外れた、番外編の役回りだった。剣技よりも銃や戦術の稽古がしたい者の受け皿や、基本の順路で心が折れた者の箸休めとして機能する。結局煉獄によるやたら熱い授業や、橋本による罵詈雑言の見本市は待ち受けているのだが、他の稽古に比べて毛色の違う内容はそれでも隊士たちの気分転換として受け止められ、開始早々ながらもそれなりの人数を指導していた。
 橋本のシゴきを午前中耐えきった隊士たちが恵の麦茶に涙しているのを眺めながら、橋本と煉獄は縁側から握り飯を片手に眺めた。いい塩梅である。次から次と頬張り麦茶で流し込むさまを横目に、橋本は文字通りついばむように握り飯を食べていた。

「うまい!」
「うまいな」
「いう割に進んでいないではないか。実戦担当だ、もっと食え」
「うるせえな、燃費が良いんだよ俺は」
「汗一つかいていないな。うーん、もう暑くなってきた。適宜休憩は設けているか?」
「あたぼうよ」

 片やついばみ、片や飲むようにして握り飯を食む。
 正午をすぎて苛烈さを引きずる太陽が、黒い隊服を着た隊士たちの体感温度を容赦なく上げていく。煉獄は隊服の襟元を緩めた。ぬるい風がかすかに汗ばんだ首元を通り過ぎていくのが心地いい。橋本の襟足は依然としてえんじ色の首巻に隠されたままだった。こういうところが氷像と揶揄される所以なのかもな、と思いながら、煉獄は先日の話題を挙げる。

「どうだった横浜は? 大層繁盛しているところと聞いている」
「あーその話はちょっと。ポカやらかして怒られたところだから」
「お前がか。珍しい」
「馬鹿言え、俺だってまだ人間だぞ」

 けっ、と吐き捨てるように言いながら思い起こされるのは、先日の産屋敷邸だ。輝哉の病床に呼び出された時のことである。柱合会議ですら既に輝哉のかわりにあまね様が取り仕切るほどに病状が進行していると聞いている手前、そこに呼び出されるとなれば最悪を想定しなければならない。橋本は懐けば口ぶりこそ軽妙洒脱な男だが、その根っこにあるド級の超絶ネガティブはひとつも治っちゃいなかった。

「こら。やってくれたね」
「申し訳ありません……ついかっとなって……」

 額を畳に押し付けたまま橋本が答える。鬼殺隊初の外交任務、脅迫を使ってあまつさえ鬼殺隊の存在をほのめかしたとなれば除隊もあり得る。橋本は「今除隊か……」と考えながら輝哉の言葉を待っていた。

「でもよくやったね。随分仕入れたと聞いているよ。やはり相手を非合法の商社にしたのは正解だったかな。あまねのために怒ってくれてありがとう」
「……除隊処分は」
「しないよ。何かあったとしてもどうとでもできるさ。鬼殺隊は政府非公認だけれど、公に認められていない、というだけでもちろん認識はされているとも。じゃなきゃ金子のやりくりや土地の都合に説明がつかないだろう。気づいているかと思っていたけど」
「ハハ……薄々考えちゃいましたが……三八式歩兵銃がすんなり入手できたのはやっぱりそういうことだったんですか……」

 橋本はやっと額を畳から浮かせて頬を引きつらせた。ちゃっかりやることやってんな。柱なら知っていたかもしれないが、末端の隊士に教えるには粗暴な行動を招くのが目に見えている。秘匿しておくに越したことはなかったのだろう。良くも悪くもこちらが些事に悩んでいる間にひょいひょいと上を通り過ぎていく御人だ。橋本は改めて産屋敷の先見の明のようなものに舌を巻いた。回想終了。

「御館様相手に知恵比べで勝つのはいくら橋本でも無理があるだろうな」
「ああ。マこいつがなきゃもっと下手打ってたかもしれんから、そのなんだ。ありがとうな」

 橋本は目元で涼しく光る眼鏡を気恥ずかしそうに撫でる。自身の死角をカバーするように頑として左側に場所を取る橋本の顔をみるために、煉獄はぐるりと首を巡らせた。傷のないほうの橋本の横顔は穏やかだ。煉獄は胸中が温かくなるのを感じて、笑いながら襟元を手で仰いだ。煉獄の代謝の良さを見て橋本も笑う。健やかな時間だった。

「意外とすぐバチャバチャに汗かくよなお前。水分採れ。塩気も採れ。講義で脱水起こすって逆に小器用だぞ」
「む、もう食べないのか? 最初の一つではないか。いつも思うが体壊すぞ本当」
「言ったろ。燃費が良いんだよ俺は」

 麦茶がたっぷり入ったヤカンと残り少ない握り飯を煉獄の方へ押しやり、押し込むようにして橋本は昼食を終えた。「食ったやつから腹ごなしに柔軟でもしろよォ」と自身も伸び上がりながら呑気に言う橋本の顔は、別に具合が悪そうなわけではなかった。いつものなまっちろい寝不足顔が太陽に照らされて一層白く見える。煉獄は「ふうん」と握り飯に手を伸ばしながら、月光にでも照らされたら顔が白く飛んで見えるんじゃないかと思った。
 なんだか生白さが人間離れしている気がして、煉獄は温まったばかりの胸中が凪いだような心地がした。どうしていつもこう。鼻から深く息を吐き、その拍子に思い出した。

「最中、美味かったぞ。郵送で来るとは思ってなかった」
「あーあれね。美味かったですか、そりゃ良かった。まだ雑務あったからとりあえず先に送ったろと思って」
「少年たちに会ったら一言詫びておけ。お前の土産もそうだが、彼らが一番楽しみにしていたのはお前の土産話だったのだから」
「ああ……そのうちな」

 取扱注意のラベルを思い浮かべたらしい橋本が複雑そうな笑みを浮かべる。
 思い返せば、ここしばらくは持ち場が違うのも相まって橋本の怒鳴り声を聞いていないな。煉獄はふと記憶をさかのぼり、最後に聞いたのが「炎柱稽古への出禁を通達された時の少年たちの異議申し立て大合唱」のときだったことに気づいた。

「なんでッ!」
「なんでもッ!」
「どうしてッ!」
「どうしてもッ!」
「理由を聞かせてくださいッ!」
「お前らが一般隊士と混ざって座学できるわけないだろうがッ!」
「今までできてたじゃねえかッ! たまにアオイもいたじゃねえかッ!」
「うるせぇーッ! 今までやったから十分だっつんだよッ! 白状すれば、お前らの面倒見ながら他の隊士に指導する余力が俺にも杏寿郎にもねぇんだよッ! わかったら大人しく音柱様んとこ行けッ!」
「ギャーッ! ヤダァーッ!」

 活きのいい魚みたいにビチビチ暴れて「俺たちも橋本さんに稽古つけてもらうんだやい!」と抗議するちびっこ達に、最初の一瞬こそ「元気のいい大型犬かおどれらは」と付き合っていたが、あんまりにもゴネるのに業を煮やした橋本がついに「じゃあ音柱様んとこに「あいつらおめーんとこは嫌っつってました」って言ってくるから」と突き付けると、度々宇随に可愛がられているらしい我妻が折れた。「全部終わったら来ますからねッ」と吠える竈門に「終わらしてから言えや」と手を振って以来、笑いもするし言うことも言うが橋本の反応は徐々に物静かになっていった。
 以前ぼんやりと感じた、自分の知覚できない領域で何かが動いている予感が再び煉獄に去来する。
 やだなあ。素直な感想だった。不健康そうな白い顔が陽の光に照らされて白く輝いている。すこし伸びた髪がそよ風に撫でられている。どれをとっても絵になる美丈夫ではあるのだが、煉獄にはその美しさが波の輝くさまのように見えて無性に嫌だった。

「おねむの時間か? もうひと働きしろ。座学組はそろそろ寝落ちるころだろ、ひっ叩き起こしてこい」
「……本当、元とはいえ柱によくもそんな口が利けるな。不敬で罷免してやろうか」
「できるもんならやってみなー。ベロベロー」
「この野郎!」

 ガバリと立ち上がってみせると、橋本はケラケラと逃げる。熱気を上げた太陽が二人を呑気に照らしていた。





「もう帰る。ここがきっとおふくろの懐なんだ」
「善逸、それは岩だ」
「弱味噌は頭も弱味噌なのか? 生き物が石から生まれるわけねえだろ」
「伊之助のそういうところ、ほんっと嫌ねッ! 配慮とか情緒とかほんっとない! 橋本さんから散々教わったでしょ物の例えだよ!」
「そういえばアイツ元気にしてっかな。俺様の子分みんな寂しがりやだから」
「炎柱邸から来た人はみんな楽しかったって言ってるし、元気だと思うぞ。そういえば、終わったら会いに行っていいんだった」
「あの顔して会いに行ってやろうぜ! なんだったっけ……ペロリ顔」
「したり顔ね。連想ゲームみたいになってるよもう」

 岩柱邸、山間にて稽古に励むちびっこ達の会話である。竈門がわずかに遅れて参加してから数日が経っていた。滝壺からくじけた諸先輩を引きずりだしながらのどかな会話が続く。

「しっかし、アイツよりよっぽど冷てえぜこの川。なんか細工があるかもしれねえくらい冷てえ」
「橋本さんなら解説してくれそうだよね。納得はできなくても理由が分かってるだけまだ良い、みたいなのあるじゃん」
「そういえば橋本さんから送られてきたっていう最中、二人とももらったか? 美味しかったなぁ。禰豆子も喜んでた」
「ああもらったぜ。うふふ、美味しかった」
「えっ嘘、俺まだもらってないんだけど」

 すっかり慣れた様子で濡れた衣服を剥ぎ取る傍ら竈門が火を起こす。ひん剥かれた諸先輩が焚火に群がる間に竈門と我妻は衣類を吊るし、嘴平は川魚を獲りに再び川へ飛び込み、あっという間に両手に抱えて余るほど捕まえて帰ってきた。できた子らである。
 てっぺんをすこし過ぎた太陽が照り付ける。打ち込み訓練であれば悲鳴を上げていたが、滝行の後になればこんなにもありがたい。橋本さんが言うには真昼よりもちょっと過ぎたぐらいが一番暖かくなるんだっけ。授業を思い出し、思い出せるほど身についていることに嬉しくなったまま竈門は川魚を焼いた。諸先輩の情けない「おふくろ」の大合唱が始まる。

「どったの、やさしーい顔して」

 気づいた我妻が声をかける。串を差し出しながら竈門は答えた。

「いや。橋本さん寂しがってないかなって」

 独り言みたいな言い方だった。心配しているというよりは、「そうだったらいいのに」みたいな口ぶりだった。飯を食えば体温が上がる、と橋本に教わったことを滝行稽古に活用しようと川から上がるなりなんでも口に放り込むようになっていた我妻と嘴平は、受け取った瞬間食らいついていた川魚を飲み込んでから顔を見合わせる。同時に頷いて言った。

「絶対寂しがってるね」
「絶対寂しがってんな」

 三者三様の笑顔を浮かべた。早く強くなって、会いに行こう。決意も新たに三人はホッカホカの川魚をムシャついた。まずは飯だ。腹が減っては戦はできぬ。これも橋本から教わった言葉だった。


*****


 今日の稽古は休みにした。昨日のうちに炎柱邸で稽古をつけていた隊員には皆銃と実弾を持ち帰るよう言ってある。手入れや保管方法は二人がかりで教え込んだ。実に久々の半休である。
 半休、であった。昨夜産屋敷から送られてきた書状には暗号文で「おそらく明日」とだけ書かれていた。つまり今夜である。輝哉がいう「おそらく」は事実上の「間違いなく」だ。遺された時間で、どうしてもやりたいことが橋本にはあった。珍しく洋外套ではなく白い羽織を着て風呂敷を抱いた橋本が昨日まで足しげく通った炎柱邸の門をくぐると、待っていたのは槇寿郎だった。

「……まずは上がれ」
「よろしいんですか。俺ですよ」
「散々庭で大騒ぎしておいて、いまさら何を」
「それもそうですね」

 互いの表情に笑みはないが、それでも出会いを考えれば驚くほど穏やかに言葉を交わした。槇寿郎の私室に通された橋本は抱いていた風呂敷を贈答品のように差し出す。しばし見つめた槇寿郎が「改めても?」と言うと、そよ風みたいに「どうぞ」と答えた。
 風呂敷に包まれていたのは橋本がいつも着用している洋外套と首巻、樺細工の小箱。槇寿郎も「普段文字通り肌身離さず持っているものを差し出される意味」がわからないほど冷徹ではなかった。

「普段の御礼です。度々お騒がせしておりますので」
「相変わらずよく回る舌だ。杏寿郎から聞いているぞ」
「煉獄家、会話するんですね。意外だ」
「また引っ叩かれたいのか」

 両者とも片方だけ口角をあげて「へっ」と笑った。実に食えない。思ってもないことしか言わない。が、この直接言わずとも伝わる思慮が今は心地よかった。橋本は眦を緩める。

「どうにも父に縁がないようで。生んでくれた父も育ててくれた父同然のひとも救えなかった。俺が後生大事に持っていていいものじゃない。煮るなり焼くなりしてください、煙草は煮ないほうが良いかと思いますが。なんちゃって」
「……よく回る。ご賢父は煙草を?」
「はい。夏至の夜にだけ」

 橋本が懐かしそうに言ったのに対して、槇寿郎は眉根を寄せて押し黙った。橋本は酒と人付き合いが何より苦手な人間だったが、今の会話のなかに引き金があるとは思えず、わずかに肩を強張らせて槇寿郎の言葉を待つしかなかった。

「これも杏寿郎から聞いたが、ご賢父は戦争から帰ってきて以降、夜半に銃を撃っていたそうだな」
「ご子息の口の軽さどうなってんすか? ええまあ、そうですね。わりと通年」
「夏至の夜は銃を撃ったか?」

 言われてはじめて気づいた。父は夏至の夜だけは暗がりに銃を向けることはなかった。

「お前は気にしたこともないかもしれないが、柱には年に一度確定で半休がある。夏至の夜だ。一年で最も夜が短い日には、柱は夜間の鬼殺任務を基本的に控除される決まりがある」
「待ってください、父が鬼相手に銃撃ってたと? なんてことはないマタギですよ」
「そのなんてことないマタギの銃で鬼殺を変えようとしているくせに。父に縁がないだと? 推察に過ぎんとはいえ鬼殺隊にあって銃を武器に戦うなど、これ以上ないだろう。それに、もはや人間などいつどこで鬼に遭遇してもおかしくないんだ。ご賢父も何かの折に鬼を知り、以降家族のためと持ちたくもない銃を持っていたのやもしれん」
「……父が、銃を持ちたくない、とは」
「言い切れるか? 大局を前にした自身のちっぽけさとは、いつか我が子にこんなものを持たせるとは、そうやって絶望した末に俺は剣を置き、ご賢父はそれでもと銃をとった。戦争とはそういうものだ」

 結局橋本は銃のみならず剣をとり、煉獄もまた父のために剣を極め柱にまでなったことを思えば複雑だが、それでも父の心境がわからないほど橋本も盲目ではなかった。どころか、憧れ追い続けた父の側面を今になって知ったせいで、橋本の心臓はどうしようもなく暴れた。
 何度忘れようとしても、銃を持てば父を亡くした痛みと母を殺めた罪悪感はいつだって新鮮に橋本を切り刻んだ。それでも自分じゃない人が、まだ手遅れでない誰かが少しでも安寧を約束されるようにと銃を携えて走った。予測にすぎなくても、ともすれば息もできなくなるような暗い闘いの日々を父も送っていたとは。どうしても持ち続けたかった父との縁は、こんなに近くにあった。ずっと守られていた。橋本は涙腺がぶっ壊れたかと思うほど涙が滲むのを知覚した。

「……確かに預かろう。ただ、これは君が持っておけ」

 槇寿郎は洋外套の内ポケットから南部式大型自動拳銃を出し、橋本に突き返す。橋本は目になみなみと涙を浮かべたまま、差し出された銃を見ている。処理落ちしているらしかった。

「君は確かにこの銃でご母堂を殺したかもしれない。だが、それも全て君を君たらしめるものだ。手放すな、君が君でいたいなら」
「……それも杏寿郎ですか?」
「これは君が言った」
「そうでしたっけ。あは」

 笑った拍子にこらえていた涙が落ちた。橋本の底なし湖みたいな目から落ちた涙は、その深さを感じさせないほどか細かった。本来であれば人は泣かないほど良いものだが、槇寿郎は「この涙ならいくら流させてもいい」と思った。出会い頭に殴り、発砲された相手だが、今はこの涙が長引けばいいと思う。できるだけ長く、できるだけ引き留めておけるように。

「ありがとうございます。でも受け取れません。俺は俺を捨てなくちゃ。銃は輝利哉様に持たせてください」

 橋本は泣きながら笑い、笑ったまま槇寿郎の手を押し戻した。葛藤などとっくに乗り越えたような素振りだった。槇寿郎は押されたぶんだけ銃を持ったままの手を引く。橋本の指先があまりに冷たいことに驚いて声も出なかった。冷え性どうこうの話ではなほどに冷たい指が、器用に眼鏡を避けて涙を拭う。槇寿郎は触れたそばから涙が凍るのではないかと思った。

「……失礼なことをした」
「とんでもない。温かかった。やはりあいつの父君なんですね」
「もう何を言っても考えを変える気はないんだな」
「ありません」
「そうか」
「……永らくお邪魔致しました。大変お世話になりました。お暇させて頂きます」

 三つ指揃えて頭を下げ、再び顔を上げた橋本は相変わらず多幸感で満ち満ちたような顔をしていた。庭木がさわさわと鳴く。流れる動作で橋本が部屋を出た後、槇寿郎もまた橋本に深く頭を下げた。せめて、武運長久たれ。

「えっお越しだったんですか!?」
「お邪魔してました。あっこれお土産。千歳飴」

 言ってくださいよ、お茶請けに美味しい草餅がありましたのに! とポコポコ怒っている千寿郎と出くわした。
 土産を渡すのも受け取るのも、互いにもう慣れたものだった。「兄と分けます」と微笑んだ千寿郎に目線を合わせるように橋本は屈んだ。煉獄とよく似た双眸がくりくりと注意深そうに橋本を見る。しばし覗き込むように千寿郎を視た橋本は満足そうに息を吐いて立ち上がり、いつもみたいに千寿郎の頭をワシワシかき回した。

「俺にも弟がいたら千寿郎君みたいだったかな」

 橋本が頭を撫でる力がいつもより強くて、千寿郎はしっちゃかめっちゃかになりながら笑った。煉獄はあまりこういうことはしなかったから新鮮だった。

「僕はもうひとり兄がいると思っておりますよ」
「……そっか。今日は良い日だ」
「兄上にご用事でしたか?」
「いやお父様に。ご用事はもう終わっちゃいました」

 やっと解放されてすっかり鳥の巣みたいになった髪を撫でつけながら言う。鳥除け目玉の上に鳥の巣があるってのも面白い話だな、今度杏寿郎に教えたらなんて言うかな。橋本はさっきまで元気に暴れまわっていた心臓が今度は痛みだしたのを眉をひそめて堪えた。くしゃくしゃな笑顔みたいになっていた。

「お気をつけて」

 太陽みたいにまぶしい笑顔が橋本を見送る。その目映さに、橋本はめまいを起こしそうになって目を瞑った。

「うん。またな千寿郎君。兄貴によろしく」

 千寿郎は橋本の白い背中が陽炎に消えるまで見送っていた。傾いていく太陽だけが千寿郎を見ていた。



 本格的に日が沈みかけるころ、炎柱邸はにわかに慌しかった。厳密には慌しかったのは千寿郎がひとり「脚絆と、羽織がこれで……」と支度にあちこち奔走していたからだ。遠くに健やかな喧騒を聞きながら、煉獄は母の仏壇の前で手を合わせる。

「行って参り……違う。行ってきます」

 必ずここに帰ってくる。橋本を連れて、「終わった」と報告する。俺たちならできる。俺と橋本の二人なら。
 煉獄もまた産屋敷からの書状を確認していた。今夜ですべてが終わる。腰に日輪刀、背に昨日「ないよりはいいかもしれんだろうが、なるべく触るなよ」と持たされた銃を携えて、出立の前に声をかけようと父の私室へ向かった。

「支度はできているか」
「……いえ。それは」

 煉獄は部屋に置かれていた風呂敷から目が離せなくなっていた。わずかにはみ出している橋本の洋外套の裾を隻眼は見逃さなかった。どうしてそれがここに。槇寿郎は黙ったまま何も言わなかったが、しばらくして決心したように答える。

「昼頃に来てな。忘れていった」
「忘れ、そんな」

 頭がめちゃくちゃになりそうだった。今までずっと鎧のように、皮膚の一部のように身に着けていたものを忘れていくだろうか。あいつまさか、俺たちから、俺から離れようとしているのではあるまいか。永らく感じていた嫌な予感が実態を伴って煉獄を襲う。冷や汗で全身が膨らんだかと思った。洋外套から目が離せないまま息が上がっていく。どうして。血が逆流したようだ。全身の感覚がめちゃくちゃになる。確かに目は開かれているのに何も見えない。たっぷり冷や汗を吸い込んだ眼帯の感触しかわからなかった。

「……おそらく、まだ時間はあるだろう」

 一気に色彩が戻った。煉獄は弾かれたように槇寿郎の顔を見る。槇寿郎の祈るような表情に、嫌な予感の片鱗が色濃くにじんでいた。

「父上。橋本は……」
「御屋敷にいるだろう。まだ間に合うはずだ。届けに行ってこい」
「……はい! 届けたらすぐに二の丸に向かいます。必ず」

 煉獄は風呂敷を抱き上げると屋敷を飛び出した。風よりも早く走った。煉獄の世界をかけた戦いは少しだけ早く火蓋が切って落とされた。
 残像が見えるかと思う速さですっ飛んでいった息子の背を見て、槇寿郎はため息を吐いた。自身が経験した絶望を、息子にまで経験させたくなかった。走れ杏寿郎、光よりも早く。きつく目を瞑って念じるその背にかかる声があった。

「いいんですか。死ぬかもしれませんよ」

 宇随天元だった。片手で器用に奇特な日輪刀を携えている。

「死にはしない。俺の子だ」
「へェ」

 槇寿郎は振り返らずに答えた。振り返るまでもなく間違いないと信じているのか、目を見てしまえば信念が揺らぐと思ったのかは槇寿郎本人にもわからなかった。

「あいつ、ちょっと見ない間にめちゃくちゃな知恵者になってんのはご存知です? こないだ詰将棋しながら話してて、俺も感心しちまうような知将になっててびっくりしましたよ。なァ煉獄弟!」
「わァッ」

 想像もしていなかった来訪者からの呼び声に、廊下を急いでいた千寿郎が悲鳴を上げた。話についていけてないながらも「そうですね!?」と咄嗟に話を合わせる。宇随は快活に笑った。

「橋本さんの頭が良いというお話ですか?」
「マそんなとこかな」
「先日もすごく面白い話をしてくださりましたよ」

 千寿郎が頬をふくふくさせながら言う。我が子ながら、こんな笑顔を見たのはいつぶりだろうか。槇寿郎は「聞かせてみろ」と促した。

「物理学、という学問のお話だそうなのですが、世界は人間のためにできているのだそうです。草木が緑色なのは、人間が草木を見た時に「緑色だ」と思うから。猫があの姿なのは人間にそう見えているから。人間が見聞き感じたものが世界に「成る」、逆に、世界も在り続けるために人間に感じられる形をしているのだそうです」
「ほう、確かに面白い」
「ふふふ、ここからなんです。橋本さん、「人間全員が夜なんかもう怖くないって思ったら、きっと夜に怖いものなんか出なくなるかもしれねえよ」って仰ったんですよ。人の心が世界を変えられる、と。すごく素敵で、すごくワクワクしました」

 身振り手振りも交えて必死に説明していた千寿郎が、おしまい、と手を下ろした。桃色の頬には希望が満ち満ちている。
 ああ、と大人二人は絶望した。結局何回問いただしても橋本は「奇襲は知ってる人間が少ないほど効果を上げるんです」と作戦の要を教えなかった。「三人はただ輝利哉様を護ってください」と。あまりに頑なだった。宇随はうっすらと、槇寿郎は両親の遺品を持ち込まれた際にしっかりと、「こいつ死ぬつもりなんだな」と思った。
 人間はいつか必ず死ぬ。彼はたまたま最後の日を今日に決めただけのこと。二人とも望まずに散らされた命を見すぎていたので、「決めた日に散れるなら立派」とすら思っていた。
 が、なんだこの様は。どれだけ未来に種を植えたんだ。芽吹いた葉のどんなにか弱いことか。鬼狩りに生きて来た二人には、この芽の育て方がさっぱりわからなかった。
 大人二人が壮絶な顔で歯噛みしているのを察した千寿郎の頬がどんどん申し訳なさそうな形になっていた。気づいた槇寿郎が息を吸う。

「それは。……とても。…………夢のある話だな」
「はい。どんな夢も、願って願って走り続ければ叶う、と。……僕ひとりだとしても、こうして見送るのは今夜が最後だと願っています。そうすれば、きっと世界は変わるから」

 微笑んだ千寿郎は、ともすれば風に折られそうなほど儚く、しかし何よりも強い芯が通っていた。本格的な成長期前の比較的矮躯な息子のなかに瑠火の姿を見る。槇寿郎はあわや落涙するところであった。険しく眉根を寄せ必死に堪える。今ではない。まだだ。全てを終わらせて、この子を抱き上げるときまで取っておけ。見ようとしていなかったうちに大きくなった息子と、もうひとり減らず口だけはよく回る息子同然の子を抱き上げるまで、この涙は取っておけ。

「おいおい、ひとりだと本気で思ってんのか。そらァこの千年怯え続けてきた人間全員の願いだ。世界を変えるにゃド派手に十分だろ」

 口調は穏やかだが、宇随もまた顔をくしゃくしゃにしていた。きっと忘れられない夜になる。その思い出を少しでも苦くないものにしたい願いは全員が持て余すほどに抱いていた。どんどん地平に近づいていく太陽を三者三様の面持ちで見る。ある者は睨み、ある者は微笑みながら。
 最後の夜が始まりかけていた。




*****



「……やあ、来たのかい。……初めましてだね、鬼舞辻無惨」
「……何とも。醜悪な姿だな、産屋敷」

 夜闇には月だけがあった。産屋敷邸のその奥に、ついに鬼舞辻無惨は降り立った。
 長い間自信を妄執的に追い続けた鬼殺隊、その統領の姿を見て鬼舞辻はひどく落胆した。同時に末端の鬼どもの弱さにも。こんな半死半生の死にぞこないが率いている、たかが人間の寄せ集めひとつ滅ぼせず、口を開けばやれ「お役に立ちます」だの「血をいただければ」だの。馬鹿も休み休み言え。
 輝哉は誇張なく血反吐を吐きながら身を起こす。憐れだなと鬼舞辻は思う。傲岸不遜な鬼の王にして、その実鬼舞辻はこの世の何よりも生きる苦しみを深く理解していた。生きることは何よりも苦しい。太陽の下で健康に生きる、そのためだけに千年の夜を生きて来た。万が一にも漏らせば最後、「じゃあ死ね」と言われるのが目に見えているので誰にも言ったことはなかったが、鬼舞辻は生をそう理解している。そうまでして生きるなら、何かの折にさっさと死んでいた方が楽だったろうに。マァ私は死なんが。
 ともすれば腐り落ちそうな手足を突っ張り、隣にいるあまねの介助もあってやっと輝哉は上体を起こした。見えなくなって久しいだろう濁った眼が笑みの形に歪められる。

「御館様」

 後ろからの声に鬼舞辻はしばらくぶりに驚いた。風かと思った。確かに男性の肉声ではあるのだが、ともすれば風の音と勘違いするほど、そこに形が感じられなかった。鬼舞辻は弾かれたように振り返る。半月型の編み笠を目深にかぶり、紺を基調にした端縫い衣装を着た人間がそこにいた。どこぞの盆踊りのような格好である。

「御客人もお見えになられましたので」

 人間は砂利を踏んで歩み出る。見た目に合った重量に踏みしめられる砂利の音。鬼舞辻はこの人間を初見で「妖怪が出た」と思ったが、実体をもっていることはとりあえず理解した。しかし違和感がぬぐえない。

「うん。頼むよ」
「かぞえうたで構いませんか?」
「ええ。では、舞を一差し」

 鬼舞辻と同じく庭に降り、紙風船で遊んでいた童たちが楽し気に囃子を奏でだす。編み笠の人間が舞をはじめた段階で鬼舞辻の違和感は最高潮に達した。
 一挙手一投足が研ぎ澄まされた女性の所作であり、打ちっ放しの男性の動作であった。背格好や骨格は男性なのだろうが、時折極めて女性のようにも見える。ただしく人間だ。それ以上でもそれ以下でもない。それが何より異常だ。どちらでもなく、ただ概念的に人間の形をした物体だった。半月型の編み笠が顔を完全に隠しているのが、その人間の得体の知れなさを一層増している。
 それを差し引いても実に奇妙な場所だった。鬼舞辻にしてみれば自身を千年もの間追い続けて来た文字通りの仇敵一家と謎の盆踊り人間が目の前にいるというのに、妙に殺意が湧かない。砕けた言葉を使えば「実家のような安心感」とも言える奇妙な心地だった。

「永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ。大切な人の命を理不尽に奪った者を許さないという想いは永遠だ。君はこの千年間誰にも許されていない。何度も何度も虎の尾を踏み、龍の逆鱗に触れている。本来ならば一生眠っていたはずの虎や龍を君は起こした。彼らはずっと君を睨んでいるよ、絶対に逃がすまいと」

 輝哉は少しずつ、しかし着実に言葉を繋いでいく。聞くものが聞けば胸を打たれ涙するだろうが、鬼舞辻にとっては詭弁だった。心底くだらない。唾棄すべき駄弁だ。今際の際の残り少ない命を無駄遣いしている様が滑稽だ。この産屋敷は一族最高の暗愚であろうな。思いつく限りの罵倒が脳裏に浮かんでは消えていくが、そこに激しさは無かった。死に損ないのくせによくもまあこれだけ舌が回るなと思った。
 
「君にはこの繋がりは理解できないだろうね。君が死ねばすべての鬼が滅ぶんだろう? ……空気が揺らいだね、あたりかな?」
「黙れ」
「うん、もういいよ。ずっと君に言いたかったことは言えた」

 撤回だ。今にも殺す。もう満足だ。座敷に上がっても輝哉はおろかあまねも瞠目すらせず、人間は庭を半周して舞を続けていた。なにが実家のような安心感だ、気色の悪い。鬼舞辻は輝哉を握り殺すべく手を開いた。

「ありがとう、無惨」


 閃光。衝撃。熱風。轟音。痛み。全てが順繰りに、しかし一瞬の間に圧倒的な物量でもって鬼舞辻の全身に襲った。
 あの男。あの男。あの男! 仏のような笑みを浮かべたまま、身内もろとも自身を爆薬で消し飛ばした! あの男の顔‼
 動揺と驚嘆と怒り。そして鬼舞辻は悟った。あの男、決してそう努めて穏やかな笑みを浮かべていたわけではない。自身を囮に鬼舞辻に一撃を加えられることを喜んでいたのだ。
 爆発の際に交じっていたらしい鉄の撒菱が体内で灼ける。ご丁寧に日輪刀に使う鉄を混ぜて作ったらしい。心底忌々しい。爆発よりも燃え滾る怒りが鬼舞辻に迸る。身をよじろうとして、一度は怒りで薄れた違和感が再び顔を出した。身動きが取れない。
 鬼舞辻の体は輝哉を殺さんと手を伸ばした姿勢のまますこしも動かなくなっていた。撒菱のせいではない。現に体内に残ったそれらも排出され始めている。ならば何故。
 凄まじい勢いで考えを巡らせている最中、鬼舞辻の背後から異音がする。これだけの爆発の後にあって何よりもこの場にそぐわない音。例えるならば、巨大な猛獣の唸り声。

「四鏡・今鏡」

 盆踊りの人間だった。編み笠も端縫いの衣装もボロボロに煤けているが、それでも先ほどの爆炎のなかにいたにしては原型を留めすぎている。人間は西洋の祈りのように指をからめて強く握っていた。

「もう帰んのかよ、連れねえな。ここで会ったが千年目、殺されるまでくつろいでいけや」
「何だ貴様。何だ、貴様!」
「テメェが叩き起こした龍だボケが! 散々俺の逆鱗でメンコ遊びしてくれやがってくたばれこの野郎!」

 人間は吠えると編み笠を脱ぎ捨て、鬼舞辻へ肉薄する。その額には鹿のような角があり、肌は一部青く染まっている。異形だった。異形へとなり果てた男――橋本新平は、久方ぶりに眼鏡の乗っていない鼻の根元にこれでもかとしわを寄せ、獣のように伸びた爪が掌に刺さるのも構わず握った拳を鬼舞辻の背に全力でぶち込む。拳は鬼舞辻の胸を貫通した。

「愚か者が!」

 損傷した傷を治す材料になりにきたようなものだ。鬼舞辻は不可視の拘束を力技でねじ切り、橋本の腕をつかむ。
 吸収してしまえばいい。不遜にも体内でこれでもかと存在を主張する腕を吸収すると、明らかに鬼ではない人外の血の味がする。鬼舞辻の握力に血を噴き出した腕は青く濡れていた。血が青いのだ。そんなわけあるか。思いながらも、ごくわずかに人間の血の味がする。人間から人外へなり果てたらしかった。そんなわけあるか。鬼舞辻の頭のなかは激しい怒りでいっぱいだった。

「どいつもこいつも頭の可笑しい奴ばかり! 私を殺すために人間すら辞めたというのか! 気狂いも極めればいっそ興味深い! だが死ね!」
「動くんじゃねえようるせえな! 誰のおかげだと思ってんだ! 俺がバカならテメェも十分バカだ! 千年いいだけやっただろうが! あとは俺とお前が死にゃ終わるんだよ黙ってくたばれボケカスがァ!」

 吸収される痛みに呻きながら橋本は吠え、吠えながら鬼舞辻の項を鷲掴む。

「四鏡・増鏡」

 気づくべきだった。そも人間でないとはいえ、これだけ血を吸収されてまだ動ける時点で警戒すべきだった。首に爪を立てられた鬼舞辻が知覚したのは、瀑布のような水だった。自分がこの男から吸収した何倍もの血が首から抜かれている。同時に橋本から吸い上げられる血は真水へと変わった。いくら始祖の鬼とはいえ血のかわりに水を血管に流した経験はない。千年ぶりに感じた貧血に、鬼舞辻は怒りが頂点を突破した。

「いくら造血しようが全部飲み干してやるっつってんだよ! 俺ァクソ下戸だが鬼と龍は昔から大酒食らいって決まってんだろうが! ましてこっちは三十三夜で川一つ飲み干してんだバカ野郎!」
「まがい物風情が!」
「発言には気をつけろ老害の極みジジイ! 遺言になるんだからよ!」

 風を切る音。しかし両者の近くに動くものはなく、かつ両者とも膠着状態だった。
 鬼舞辻が必死に視線を巡らそうとしている間、橋本は鬼舞辻の背後で声もなく笑っていた。絶望の日々が報われる。夜闇を切り裂く漆黒の鉄塊は産み落とされた。うまくいけばこれが千年の呪いを終わらせる。終わらせられなくても、きっと集まってきているだろう柱や隊士が鬼舞辻の首を地面へ落とす。鬼狩りの歴史が俺の手で終わる。

「鬼狩りの歴史は、鬼殺隊は、俺は、きっとお前のような男をずっと待っていたのだろうな!」

 煉獄の声だ。正確には幻聴、走馬燈であるのだが、その晴れやかな声は橋本の唸り声のような呼吸を一瞬だけ止めた。
 すまねえな杏寿郎。でも、お前ならきっと生きていけるよ。俺が見込んだ男なんだから。俺が信じた男なんだから。
 橋本は目を見開いた。まだらに青が滲む白目を覆いつくすように涙を湛えて仰け反った。大きく笑って息を吸う。新しい時代の始まりを言祝ぐために。
 人類が空を夢見てから初の有人飛行に成功するまで二千年。軍用気球を改良した地中貫通型爆撃が鬼舞辻の頭上に迫っていた。

「時代、ナメんなッ!」



*****



 立ち尽くしていた。
 火の手があがっていた。今まさに向かおうとしていた産屋敷邸は二度にわたる爆発で枯れた湖のようになっていた。その底には鬼舞辻無惨らしい肉塊と、肉塊へ拳を埋め込んだ女性と、岩柱の悲鳴嶼。女性の傍には判別がつかないがもう一人、ボロボロの着物を着て倒れている誰かの姿があった。
 鴉の報せをうけて駆け付けた柱たちが鬼舞辻に斬りかかった。しかし誰の刃も届かなかった。皆一様に落下したからだ。無限城のなかへ。
 落下の際に打ち付けた体を何とか起こし、両足で立った段階でやっと煉獄の意識は疑問符を浮かべられるまでに回復した。回復してもなお疑問符しか浮かべられなかった。
 橋本は無事なのか? あれが鬼舞辻無惨なのか? 二度の爆発は何だったのだ? 女性の傍らにいた人物は? 血が青いように見えたがあれは? ここはどこだ?

「誰かァ!」

 零れるほどに浮かび続けた疑問符が打ち払われる。隊士だ。鬼に襲われている。煉獄は条件反射で一刀のうちに鬼を斬り伏せると、強く頭を振って思考をリセットした。
 自身には隊服と日輪刀、橋本に持たされたS&W・M10の改造銃「辰子姫」。そして橋本に渡すべく持っていた彼の洋外套と首巻があった。
 先の爆発にも引けを取らない、感情の爆発。感情の名前はきっと怒りであり、祈りであり、決意であった。爆炎が疑問をすっかり脳裏から消し飛ばす。燃え盛る心のなかには、いつぞや土壁のように立った橋本の背が見えた。

「……すまん、必ず返す。今ひと時力を貸してくれ」

 煉獄は呟いて、隊服の上から洋外套と首巻を身に着けた。これでこの身は傷一つ負うことができない。上等だ。彼がついている。やってやろうとも。言い聞かせるように心の中で唱えた。煉獄は首巻に巻き込んでいた蓬髪を豪快に背中へ翻す。毛先がくたびれた洋外套にぶつかる感触が、本来の持ち主が背中を叩いたように感じられた。
 見回すと数人の隊士が固まっていた。炎柱邸での稽古に参加した者が多いらしく、モシンナガンを改造した日輪銃、南祖坊・弐と銘打たれた銃を携えている。
 考えろ。考えろ考えろ煉獄杏寿郎。この日のために彼に負担を強いたのだろう。生還率で彼に負けてなるものか。全員で生きて帰る。彼も見つけ出して連れ帰る。絶対に帰る。それができるだけの男に、彼がしてくれたのだから。

「……案ずるな! 俺が来た!」

 煉獄は近くにいた隊士の肩を強めに叩いた。傍目に見れば非常事態にあって部下をスッ叩くクソ上司であったが、その気兼ねなさと声音の頼もしさが隊士たちの精神を落ち着かせる。パニック気味に見開かれていた隊士たちの目が平静を取り戻したのを見て、煉獄は頷いた。
 煉獄たちがいたのは畳張りの大広間の隅だった。広間の奥から波のような数の鬼が襖を蹴破って押し寄せる。煉獄は咄嗟に前に出て声を張った。

「まずあの一軍を討滅する! 南祖坊・弐を装備している隊士は横一列を組んで銃を構えろ! 安全装置を外すのを忘れるな!」

 揺れるほどの大音声に隊士たちが弾かれたように並んで膝をつき、肩付け式に銃を構えた。一糸乱れぬ洗練された動きに、鬼を見据えながらも煉獄は橋本の教育の行き届きっぷりを背中で感じて口角を上げる。

「まだ撃つな。まだ。…………斉射ッ! 撃ち尽くせッ!」

 銃声が幾重にも重なる。押し寄せる鬼の先頭集団が崩れ落ちた。二の足を踏む鬼もいれば、構わず突っ込んでくるものもある。煉獄は炎刀を構えて次の指示を飛ばす。

「装填! 装填が完了した者から次の斉射に備えろ! 日輪刀のみ装備している隊士は銃隊の前に出て突っ込んできたものを斬れ!」
「行くぞッ!」
「食らえッ!」
「装填完了ッ!」
「刀隊後退! 銃隊次弾撃てッ!」

 重なった銃声の音圧は質量を持つように何度も鬼の先頭集団を斃した。数度繰り返すと、「あの音がすると誰か、もしくは自分が死ぬ」というのを理解した鬼たちが後ずさり始める。煉獄の隻眼は見逃さなかった。銃隊にも抜刀を指示すると先陣を切って突撃する。
 一閃。不遜にも煉獄へと襲いかかった鬼の首が落ちる。見る間に灰と化す鬼を蹴り倒しながら煉獄は叫ぶ。

「見ろ、頭がなければ胴体なぞ何の役にも立たん! 鬼舞辻がすべての鬼の根源、奴を倒せば五万といる鬼もすべて灰に帰す!」
「れ、煉獄様。俺たち、俺たち……」
「うむ。おそらくここは無限城の内部だ。俺たちは鬼の討伐、並びに橋本新平の救出と脱出を目的として行動する。繰り返すようだがここは無限城の内部、今まで探索すらできなかった敵の本拠地だ。だが生き残れる。生きて帰す!」

 鬼舞辻の血によって下弦程度まで強化されていたはずの鬼たちは、ものの数分で一匹残らず打倒された。灰になった鬼の体が細かくなっていくのを隊士たちが茫然と見ている間にも煉獄は「銃隊は残弾の確認を忘れるな。負傷した者は」と動き出している。
 下級の隊士にしてみれば、短いながらも今までの戦いで倒した総数に比肩する数の鬼をこの短時間で倒してしまった。本人はにべもなく「全部橋本の受け売りだが」と前置きするが、煉獄の策と、この銃によって。咄嗟に率いた隊士の数名が銃と灰を交互に見ているのに気づいた煉獄は、焦りをひた隠して健やかに声を張った。

「既に教わった者もいるだろうが、銃とは人間の武器だ。鬼どもにとっては未知の武器だ。未知とは恐怖だ。恐怖とは勝機だ。夜闇に隠れて散々人間を恐れさせてきた鬼どもが、俺たちの指先一つで今度は追われる立場になるのだ。これを俺たちにもたらしてくれた男を、橋本を、俺は助けたい。諸君はここから生きて出たいだろう。その願いを俺が叶えてみせよう。必ず皆生きて帰すと誓おう。その代わり、諸君らも俺に力を貸してくれ」

 健やかな、しかし静かにまっすぐ胸を打つ声音だった。意図したわけでは一切なく、ただ煉獄の本心だった。だからこそ言葉は何よりも隊士たちの心に延焼する。この無限城に落とされただろう隊士の総数にしてみれば一握りの人数だったが、一同の心は間違いなくこの城内にあって何よりも熱く滾っていた。まっすぐに目を据えた隊士たちが次々に口を開く。

「生きて帰ったら昇進間違いなしじゃないですか」
「世話になった人見捨てて生きていけるわけないでしょ」
「私もあの人のおかげで今生きてるんです」
「もともと鬼殺に捧げた命ですよ」
「俺だってあの人に助けられたことあるんです」
「信じますよ、その言葉」

 皆一様に意志は固まっていた。否、隊服に袖を通した瞬間からすべては決まっていた。自分たちの命はこの瞬間のためにあったのだ。

「人類史は戦争の歴史、戦争の歴史は人類の歴史。つまり今まさに書き加えられている人類史は『人間の』歴史だ。鬼の手によって書かれるもんじゃねえんだよ。取り戻すぞ。俺たちで」

 いつかの橋本の声だった。最悪の想定だが、無限城に落ちる直前に見た青い血の人物はおそらく橋本だ。鬼狩りに終止符を打つために煉獄どころか人類からも離れようとしたらしい、と煉獄は想定する。唾棄すべきクソ野郎め。煉獄は胸中で吐き捨てるも、表情は強い意志の宿った笑顔だ。
 人類の手に取り戻すものが今更ひとつ増えたくらいでなんだってんだ。やってやるとも。お前のおかげで初めて、お前の言う「鬼殺のない生き方」なぞを、お前ありきで考えたのだ。お前がいないと始まらない。
 煉獄は自分の左胸を殴った。橋本の洋外套のぶん衝撃は遠い。遠のいたぶんを届けるために、今一度大声を出した。

「反撃の一歩は踏み出された! さあ、さらにもう一歩前に! 俺を、彼を、俺たちを喜ばせてくれッ!」





 視界が一切ない。誇張なく真っ暗闇のなかに橋本はいた。何なら視覚のみならず触覚もない。上か下かもわからない。鬼舞辻の声だけが聞こえる。

「万死に値する稀代の愚か者、本来であれば繭に巻き込んだことすらおぞましい。しかし興味が湧いた。お前は何だ? 話してみろ」

 概念になってしまったような頭をひねって橋本は答えた。

「地方出身の一般鬼殺隊員だけど」
「青い血の鬼殺隊員だと? 笑わせる。人間から異形へ変じたのだろ。何になった、その方法は。言うがいい。ただし言葉遣いには気をつけろ、遺言になるのだから」

 体が軋むほどの重圧が襲い来る。なるほど、ここは鬼舞辻が編んだ肉の繭のなかであるらしい。あれだけやって殺せなかった悔しさと、あれだけやってまだ死んでねえのかという驚きと呆れ、回復のために繭を拵えさせる程度にはダメージを与えられた安堵がない交ぜになって湧く。どこにあるかもわからない肺で必死になって呼吸をしながら、「どこから話したものか」と橋本は考えを巡らせた。

「さっき言ったことに間違いはねえ、龍だよ。この国で一番深い湖に住んでいる。ただお前が言ったことも間違いじゃねえ。俺はその龍の模倣だ」
「ほう、龍?」
「なあおい。俺はお前を殺すためにありとあらゆる知識を蒐集したがよ、最新のものだけじゃ駄目だと思ったんだよ。この龍は俺の地元の言い伝えで、掟を破った罰に渇きに喘いで、三十三夜も川の水を飲み、ついに龍へと変じた元人間だ。神話の争いを繰り広げて今なお残る三つの湖を作った」

 鬼舞辻はただ聞いていた。青い彼岸花について千年ものあいだ研究し尽くしていたせいですっかり研究者気質の染みついた鬼舞辻には、橋本の話が意外にも興味深かった。しかしあんまりにも喋らないので、橋本は「こいつ喋れっつっといて呆れかえって聞いてねえんじゃねえかな」と黙った。ほどなくして再び重圧に襲われたので毒づきながら口を開く。

「ヤマタノオロチ然り、この龍然り、伝承は自然災害の記録を後世へ伝えるものために物語としたっつー説がある。生まれ故郷の山奥から三県またいで内陸にまで及ぶ大噴火と火砕流の災禍を物語にしたのがこの伝承だ。つまりきっかけになった災害がある。十和田湖にあった火山の大噴火。西暦915年、元号で言えば延喜15年。バカクソどんぶり勘定で平安だ。千年生きた鬼を殺すのに、同じくらい歴史のあるものが必要だと思った。だから龍になった。方法に関しちゃ俺も三十三夜飲み続けたんだよ」
「川の水をか」
「いや、涙とか」

 重圧、再び。冗談が通じねえなと呻く橋本に、鬼舞辻はいつになったらくたばるんだお前はと吐き捨てる。互いに一分の隙も見せず、万一隙を見せようものなら何としても殺してやるつもりだったが、あえて言葉にすれば類は友を呼ぶとでも言うべきか、奇妙なシンパシーのようなものがあった。奇しくも両者とも研究者気質というか、自身の求める知識に対して偏執的な生き物同士だった。

「なあおい、鬼舞辻無惨よお。てめえの血ィがぶ飲みした時に見えたんだがよ、お前生きたかっただけなんだってな。太陽の下で大往生したかっただけなんだな。それだけのために千年も無辜の人間が殺され続けてきたんだな」
「お前もか。よくもまあどいつもこいつも口を開けば仇、仇と飽きぬもの」
「たりめーだろうがクソバカが。御館様の言ったように、天地がひっくり返ろうがお前を許す人間なんかいやしねえ。神も仏も見たことがないだぁ? そりゃお天道様の下じゃできねえこと大百科事典みてえなお前の前に間違っても姿見せるわけがねえだろうが脳みそウンコか」

 さらに激しい重圧が橋本を襲う。重圧のみならず、再び吸収され始める感覚。橋本は咄嗟に呼吸を唸り声のそれに変え、鬼舞辻に真水を呑ませる。

「お前友達いないだろ。俺も一人しかいねえがよ」
「黙れ。聞き苦しい。もう飽きた、死んで良い。いや死ね」
「なんだ、お前の望みが叶う特ダネ遺言にしてやろうと思ってたのによ。短気は損気ってのァ本当だなマヌケ」

 気のせいほどの差だったが重圧が緩められる。橋本は意外と現金な奴だな、とは口に出さなかった。これを言えば今度こそ殺されるだろうなと確信があった。しかし、これから言うことも鬼舞辻の琴線をどう掻き鳴らしたもんか計りかねるところもあった。ともすれば即刻殺されるだろう。だが、どうしてもこいつに言ってやりたいことがある。
 いざぶちかませロックンロール。橋本は今一度大きく息を吸った。

「太陽の下で大往生だぁ? よく考えてもみやがれ。千年生きりゃこれ以上ないほど大往生だろうが」
「間抜けはどちらだ。太陽の下を解決していない」
「あのよお。俺は龍だが、さっきの説をとれば元は災害だ。似たようなもんだろ、災害なんだよお前も。災害はデカければデカいほど伝承も残るし、像だって夢じゃねえぜ。それらを作るのは間違っても俺たちじゃねえ、俺たちを畏れた人間たちだ。その人間たちはどこで生きてると思う? お天道様の下だろうが」
「……」
「俺たちは人間がいればどこにだって行ける。太陽の下だろうが、山の中だろうが海の上だろうが、海の向こうにだって、人間がいるところはどこだって。なあおい、鬼舞辻無惨。お前は立派に大災害だ。お前の記録はきっと永劫太陽の下で伝わっていくだろうよ。だから俺とここで死んでくれ。これ以上歴史に場所取るのは終わりにしよう。歴史は人間が遺していくもんだ。俺たち災害のいるべき場所は、今までもこれからも記録の中、記憶の中だけが望ましい」

 ……杏寿郎の傍にいても、俺こんな声出したことなかったな。今まで発したどんな声よりもまっすぐな声音だったことに、橋本自身が驚いていた。同時に納得もした。
 薄々気づいていた。鬼舞辻と同じくらい、自分もまた完全に龍になってしまえば生きていることは許されない。自分が許さない。徐々に体温がなくなっていくのも味覚がなくなっていくのも、少しも怖くないといえば嘘だったが、これで鬼狩りの歴史が終わるならいいと思えた。そも、人間が紡ぐべき人類史のなかに鬼狩りの歴史があるのはどうにも具合が良くない。自分のように止むに止まれぬ事情から人間を捨てた鬼も当然いるだろう。それならそれで良いのだ。だが、人類史の上でやるべきではない。

「面白い。人間のために異形は皆死ねと。平面のなかだけで存在していろと。結局貴様も腐っても鬼殺隊、人間至上主義の異常者か」
「ああそうだよ。つかよ、俺もお前も人間を全うするために人間辞めたろうが。人間至上主義だろうが。話グルグル回ってんぞボケ」

 鬼によって超弩級の人間嫌いになった今、人間を辞めるのも、すべて終われば人間のために消え去るのも正直理にかなっていると思っていた。ただ、超弩級の人間嫌いの橋本新平はいつも囁く。「人間を守って死ぬ意味はあるか」。
 少し前までの橋本はその問いかけに「わからねえ。でも人間に溶け込めないで生きるより、ただ死ぬより、ことが終わったら死ぬと決めていた方が楽な気がする」と答えた。
 今の橋本は違う。厳密には、煉獄杏寿郎と出会ってからの橋本は「大いにある」と答えた。
 『煉獄杏寿郎が人間』なのだから、人間を守る理由はこれ以上ないほどある。彼が生きていく社会を守って散ることが橋本に宿された炎の名前だった。

「面白い意見だ。だがそれまでだ。私の記録が太陽を浴びてどうする? 結局日光退色でいずれ朽ちるのがオチだ。私をこそ陽の光を浴びて生きていくのが悲願なのだ」

 距離感が掴めないながらも、なんとなく胴体、といった部位に過去最強の重圧がかかる。まだ残っていた骨が何本も弾け、どれが何だかわからない内臓がいくつも潰れた。橋本は青い血をぶっ壊れた蛇口のように吐く。

「人は一代、名は末代って言うだろうが……っ、名だけでも末代まで残ることを喜べよ。もとは明日にも死ぬような人間だったくせに」
「今にも死にそうな小蛇風情が、ほんとうによく吠える」
「死にそうな小蛇を呑み込んでる奴が偉そうにいってやがんな」

 今まで痛みと聴覚以外の五感がなかった橋本の世界に、「視線」が現れた。どうやら鬼舞辻がこちらを見ているらしい。ここにきて視線を寄越すとは、動揺したか。橋本は輝哉の今際の際を思い出す。視界のないまま強大な敵に喧嘩を売るというのは、こんな心地であったのか。確か同い年であったのに、やはり御館様には頭が上がらない。すこし苦しくなって、しかし橋本はぎろりと見えない目を見開き歯を剥きだして笑った。

「どうした? 俺の顔色そんなに悪いか? 氷みてえに青白いか? もう永くないように、そんなに生きられないように見えるか? そうだ。その通りだ。そうでなくとも俺の人となりなんか、ともすれば死のひとつ隣だ。そら呑めよ、火山に瀑布は効果覿面だろ。冷え固まって死んじまえ」

 破裂音。
 やがて自分を圧し殺そうとしていた肉の繭が蠢く。排泄のような動きだった。
 地球の底まで届くかと思うほどの深い空洞に蜘蛛の巣よろしく拵えられた鬼舞辻の繭から吐き出された橋本は、蜘蛛の糸の一本に文字通りぼろ雑巾になって情けなく引っかかった。
 喰うにも値しないか、俺を喰うのを嫌がるほど生きたいか。ともあれ、鬼舞辻は橋本を拒絶した。
 外にいるならそれはそれで都合がいい、何も見えないよりずっといい。血で濁ってろくに見えなくなっているのに気づかないふりをして、一秒ごとに天地開闢ほどの痛みを訴える身体は無視して橋本は必死に視線と勘を巡らせる。どうやらかなり深い場所にいるらしかった。鬼殺隊員が来るなら上からだろう。
 言った傍から上層で幾人かの足音がする。橋本は潰れかけた肺から唸り声を上げた。
 人体の七割は水。古代から水のある所に人間はいる。橋本は第六感とも違う感覚で鬼殺隊第一陣の到着を確認し、後に続く第三陣のなかにひときわ煮えたぎるものがあるのを感じた。

「待て、来るな、柱を待て。来るなッ!」

 叫びはもはや喘鳴にしかならなかった。声よりも喀血が口から迸る。橋本の叫びは上層の隊士たちには届かなかった。
 振動。強い揺れ。山が蠢くような揺れだった。橋本は一層大声を張り上げながら喀血に溺れ喘ぐ。逃げろ。一刻も早くここから離れてくれ。頼むから。

「産屋敷の後継は、随分優秀と見える」

 もはや体温など失った橋本の肌に冷や汗が伝った。鬼舞辻の声だ。先ほどまでの頭蓋の中にズケズケと踏み込んできて言うような声ではなく、明確に空気を震わせたもの。それが何を意味するかわからないほど橋本が暗愚であれば、これほど絶望することもなかったかもしれなかった。
 無惨が繭から出た。

「――――!」

 揺籃を終えて羽化した無惨は瞬きのうちに第一陣の隊士たちを食い荒らした。捉えられなかった。橋本の濁った眼には、食い散らかされて空洞へ落ちてくる隊士の苦悶に満ちた頭部しか見えなかった。無惨は浴びるように血を食らい肉を飲む。飲み干して息をひとつ。すぐさま首ごと明後日の方を向く。橋本にはわかっていた。第二陣だ。

「くそ、くそっ、クソッ!」

 結局誰も守れはしないままここで死ぬのか。
 心までもが温度を失いかけたその時、遠くで知覚していた煮え湯がさらに熱を増したのを感じた。
 杏寿郎。
 ああ、そうだ。まだだ。もうひと働きしろ。
 この痛みが天地開闢なら、その結実は間違いなく鬼のいない世界だ。産みの苦しみという言葉もある。千年待ち望んだ世界が生まれてくる痛みにしちゃ優しすぎるくらいのもんだ、そういうことにしておけ。
 橋本は息を吸う。吐く。まだ呼吸は続く。続かなくても続ける。ここでできなくて何が鬼殺の剣士か!
 凍り付いた指先がやにわに熱を持つ。体温は煮え湯へ意識を向ければ向けるだけ身体を巡っていくようだった。痛みだけが我が物顔で主張する両腕を必死に天へ伸ばす。

「四鏡・大鏡」

 古代より破魔の力を持つとする鏡。どうか杏寿郎に降りかからんとしている邪悪を退けてくれ。
 湯水のように四肢から噴き出す青い血が、地の底へ流れ続けた。





 悪く言えばその一団ずつがたまたまそこに迷い込んだに過ぎないのだが、良く言えば先遣隊が徐々に無限城の最奥へ集結しつつあった。遠くの足音や喧騒を鑑みれば自分たちはどうやら第三陣くらいの立ち位置であるらしい。大口をたたいておいて一番槍を逃した悔しさと、それでも欠員なくここまでたどり着いたのだという事実が煉獄の体温を一層高める。

「総員停止! まもなく本丸だ。銃隊は残弾の確認と一度銃の手入れを。刀隊は交代で周囲の警戒と休息を。水だけを飲むな、血が薄まって逆に具合が悪くなる」

 もちろん今まで感じたことがないほど心が燃えているせいなのだが、それを差し引いてもあまりに暑かった。「煉獄様は後ろにいてくださいよ、指揮官ってのはそういうもんでしょ」と前線からわずかに離れた後方から指示を飛ばす間にも、最前線でシャカリキに戦っているような汗が出た。頭脳労働もそうだが、煉獄の身を包む洋外套と首巻の影響が大きいように思う。
 煉獄はどんどん流れてくる汗をぬぐいながら考えた。これだけの厚着をしてなお橋本は汗一つかかない。流石に猗窩座と戦った時は血と汗で濡れ鼠だったし、それ以降は任務で同行することもなかったので証拠としては弱いが、それでも柱稽古の最中にはいっそ涼しい顔をして指導をしていたさまを思えば、より「いつから人間をやめようとしていたのか」と疑問が湧き出る。
 橋本の授業には「人間」という言葉が出るとこが多かった。それだけ橋本のいう「銃」にこだわっていたとも思うし、かならず歴史を人類の手に取り戻すという強い意志の表れであると煉獄は今なお思っているが、こうして思い巡らしてみれば、あれはある種の憧れめいた「祈り」であったのかと思う。
 俺は人間を辞めるが、それでもまだ人間であるお前たちがかならず鬼狩りのない世界で生きていけよ、とでも思っていたのかもしれない。ふざけるな。
 煉獄は橋本の真意に気づくたびに湧き上がる怒りに名前を付けあぐねていた。どうして怒りがわいてくるか、今一ぴんと来ていない。
 すっかり考え込んでしまった煉獄に隊士から水筒が差し出された。「仲間からはよく準備しすぎなんて言われましたけど、大山鳴動して鼠一匹ぐらいのほうがいいって今夜証明されましたね。煉獄様もどうぞ」と疲れながらも気力を失っていない顔の隊士に、煉獄は大声で感謝を述べた。一部は耳を塞ぎ、一部は笑った。

「いい息抜きになっただろうか」
「言っちゃなんですけど、煉獄様と橋本隊士はいっつも鬼殺隊の清涼剤でしたよ」
「そうそう、二人が一緒にいるとなんかおもしろくって」
「水と油なんですけどね、なんか」
「妙にしっくり、というか」

 周囲を警戒する隊士も朗らかに答える。そう思われていたとは露知らず、煉獄はちょっとだけ恥ずかしくなって肩をすくめた。

「二時の方向!」

 ほころんだ空気を切り裂く鋭い報告が飛んだ。日輪刀を潰すほど握りこんだ隊士が「なにか音が」と目線は逸らさず煉獄へ伝えた。
 ふと、煉獄は先行していた隊士たちの気配がないことに気づいた。同時に邪悪が刻一刻と濃さを増す。
 まずい! 煉獄は咄嗟に前に出た。もう第一線で活動する柱ほどの働きはできないまでも、無限列車以降も後進の隊士を護る意志は微塵も揺らいでいなかった。
 凄まじい風圧がやってくる。冷たい風は煉獄の汗を吹き飛ばす直前で止まった。

 あまりの衝撃に煉獄は隻眼を瞑ってしまった。超高速で移動するものが強固な壁に減速なしで衝突したような音と圧。はっとして見開くと、目の前に立つ長身のそれ。
 ああ。煉獄のなかにどろりと絶望が這う。
 鬼舞辻無惨だ。

「……おのれ、どこまでも興を削ぐことばかりが巧い」

 鬼舞辻は毒々しく吐き捨てると何気なく手を振った。夥しい量の血が払われる。先行していた第一陣と第二陣が瞬く間に沈黙したのはこいつのせいだと背骨で理解した。
 一瞬遅れて、自身と鬼舞辻の間に不可視の壁があることに煉獄は気づいた。よく見れば不可視ではなく、半透明というべきか。壁の反対側に立つ鬼舞辻の姿が目視できるほどの透明度はあるものの、風になびく布のように不規則に光を反射して鏡のように自身をも映す。通路を埋めるほど巨大な鏡のようだった。汗の流れる頬を包むようにひやりと放たれる冷気が煉獄の上がりすぎた体温を宥める。

「……水のような男を知っているな。左の眉尻に傷がある。どこだ」

 煉獄が瞬きひとつしないまま問うと、鬼舞辻は歯に挟まった髪の毛を煩わしそうに取りながら「下に置いてきた」と言った。さも既に不要とでも言いたげな口調であった。
 間違いなく怒りに燃え盛っただろう煉獄の心が、なぜか平常を保っていた。もちろん鬼舞辻めがけて思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てて今にも千々に切り裂いて殺してやりたかったが、彼我の間にある鏡がひやりと漂うたびに、どうにもその揺らめきが「落ち着け」と言っているような気がしてならなかった。

「そうか」

 煉獄は静かに言った。てっきり怒りだすものと思っていた鬼舞辻は一瞬だけ意外そうな顔をして、しかし次の瞬間には辟易した顔でぐるりと目を回す。

べべん。 べん。

 琵琶の音だ。知覚したときには既に鬼舞辻は目の前にいなかった。鬼舞辻どころか、自分たちすらさっきまでと違う場所に立っていた。煉獄は背後から微かに聞こえた呻き声に条件反射みたいに「負傷者!」と声を上げてからやっと振り返る。

「い、いません、欠員もないです。空間ごと入れ替えられたみたいです」
「現在位置の把握がしたいが、第二陣までが壊滅とあっては大本営も混乱しているだろう。探索陣形をとれ」
「れ、煉獄様。待ってください!」

 隊士のひとりから声が上がる。先ほどまでぎりぎりで保っていた気力の糸が切れた顔をしていた。

「あれは、今のは鬼舞辻無惨じゃないんですか。なに平気そうな顔してるんですか。諸悪の根源なんでしょ。弟を殺した鬼はあいつが生んだんですよね」
「……そうだ」
「どうして斬らなかったんですか? 壁があったから? 斬りかかる素振りも見せなかったのはなんでですかッ!?」

 叫ぶ隊士の顔からはついに滂沱と涙が落ちる。他の誰も止めなかった。煉獄にも止められはしなかった。彼の言うことは何よりも正しかったからだ。煉獄に至っては生まれる前からあの生き物を殺すために命の使い道を決められていたにも関わらず、鏡から漂う冷たい空気の流れを受け止め、二、三言交わしたのみだった。あそこで仕掛ければ勝てたかもしれない。この銃と彼の策があれば、千年の仇を討てたかもしれない。涙は次第に伝播し、煉獄が率いていた隊士は皆一様に気まずそうな顔をした。

「…………すまない」

 ともすれば聞き落としそうな呟きは、最初誰のものかわからなかった。後に続いた刀を落とす音で、やっと自身までもが煉獄の発言だったことに気づいた。

「その通りだ。本当にそう。俺の弱さが招いた。本当に」

 ポツポツと雨の降り始めのように零れだした言葉は、一度堰を切ってしまえば止まらなかった。

「俺は弱い。本当に弱い。彼がいなければ斬りかかることすらできない。彼同然のこの外套を着てなお、この踏ん切りのつかなさなんだ。ああそうとも。怖れた。鬼舞辻無惨を怖れたのだ俺は。もうすっかり鬼のいない世界で生きていくつもりだった。この夜を明かせば、もうこの剣を振るうことすらないと思っていた。まして俺はもう柱ですらないのだし。橋本を助けて、夜が明ければそれで全部終わりだと思ったのだ。俺は強くなんかない。俺に、あいつのように策を振るうことなんかできやしない。ここまでの男だ。これが限界だ。俺は鬼殺隊の、否、煉獄としてもう立つことができないんだ」

 途中山なりのように言葉は激しさを増し、さらに連なるにつれどんどんか細くなっていった。最後はもうしゃがんで膝をかかえながら言っていた。
 心底情けない。煉獄の胸中は今や燻る煙でいっぱいみたいだ。立ち込める煙に噎せこむしかできない。唐突に限界が来たような心地だった。

「……二十歳の子に何言わせてんだ。恥ずかしくねえのか」

 従軍経験がある、と誰よりも早く柱稽古に来た隊士の声だった。橋本よりもちょっと上の歳であるらしい。隊士はうずくまった煉獄の肩を両側からがっしり掴んで起こし、他の隊士たちに向き直って言葉を続ける。

「辛いのが自分だけだと思うな。煉獄様も、橋本隊士も俺たちと同じくらい辛い思いをして、それでももっと先にって戦ったから今があるんだろ。散々助けてもらっておいて気に食わなかったら奴当たりか。若い奴も多いからわからねえかもしれねえが、この人は人間としてこれ以上ないほど百点だぞ」

 檄を飛ばすように言った隊士はさっと向き直ると、煉獄が「あっ」という間もなく首巻の裾でヘチョヘチョになっている煉獄の顔を拭いた。

「ひでえ顔ですよ。今更鼻水拭いたくらいであいつはきっと怒りません。……あんた、変わりましたよ。あいつと会ってから」
「……どう」
「鬼殺隊員らしくなくなりました。普通にそんじょそこらにいる若い衆みたいですよ。これからあんたみたいなのが必要になる。いや、生き残った者みんながあんたみたいになるために、ここで折れてもらっちゃ困るんです。厳しいこと言うようですが、もとはと言えば煉獄様が言ったんですよ、「さあもう一歩前へ」って」
「……あの、すいませんでした」

 気まずそうに視線を漂わせていた隊士たちが、こちらも零すように次々と詫びを口にする。
 煉獄は汗とも涙ともわからない顔中の水をヤケクソみたいに首巻で拭いて立ち上がった。鼻をすすってから言う。

「すまない。……見ての通り、俺は弱い。道半ばで折れかけるくらいには軟弱だ。でも、諸君がいたからここまで立っていられた。諸君らのほうがよっぽど強い。どうかその力を、今一度だけ俺に貸してほしい」

 煉獄が頭を下げたのを見て、今度は隊士たちが目を見開く番だった。引退したとはいえ鬼殺隊最高の剣士である柱が、いつも天に燦然と輝く太陽のような男がまさか自分たちに頭を下げるとは。ひどく驚いて、同時に納得もした。
 煉獄がこれほどまでに助けたいと思っている橋本新平、彼もまた隊士の間ではその凍てつく鋭さから「氷像」との評だったが、いつ頃からかその実親しみやすい人物であることがわかり、「氷像を人間にしたやつがいる」ともっぱら噂になった。あの氷像を人間にしたのは目の前で頭を下げている煉獄杏寿郎その人だった。
 煉獄もまた橋本によって人間にされたのだ。その変化たるや鬼殺隊員の域を超え、見た目が奇特なだけの凡庸ながら快活な青年にまでなっていた。もしくは、これが鬼狩りのない世界で彼が本来あるべき姿だったのかもしれなかった。

「……やめてください、似合わない。橋本さんが見たらひと月は笑いますよ」

 先ほどパニックを起こした隊員だった。ひどくこらえるような、しかし頬には確かに微笑みが浮かんでいる。

「煉獄様がいなきゃ、最初の大広間で全員死んでたかもしれません。すみません、自分の事しか考えてなかった」
「いや。諸君らが」
「あーもうわかりましたよ。俺たちは強いかもしれませんね、でも俺たちはここまで来れたのはあんたのおかげですよ、これでおあいこ。そらシャンと立つ! 柱どうこう抜きにしても、あんたはでっかい口あけてでっかい声で大騒ぎしてるのが似合いなんです。最後まで付き合いますよ」

 先ほど煉獄の顔を拭いた隊士が煉獄の背中を叩いた。傍目に見ればしょぼくれた年下をスッ叩くクソ年長者であったが、その気兼ねなさと声音は燻っていた煉獄の心にごんぶとの薪をくべる。
 一人、また一人と声が続いた。ついていきます。僕も私もがんばります。絶対ここから出ましょう。橋本さんにどうだって言ってやってくださいよ。重なっていく声はみるみるうちに渇いた薪のみならずガソリンまでぶちまけたように煉獄の心に再び火をともす。

「軍師、策士が一番信じるべきものと、一番疑うべきものがわかるか」
「自身の策を一番信じるべきではないのか?」
「うーん、マそれも大事っちゃ大事なんだが、俺たちみたいなのが一番信じるべきは兵だ。俺たちは兵の働きを信じ、兵は俺たちを信じて動くという前提の上にやっと策は成り立つ。逆に、策士こそ一番自分の策を疑うべきだ。ほんとうにこれで勝てるのか、被害は抑えられるか、まだできることは他にないのか、ってな。結局俺たちが自分の策をどれだけ信じたところで、その策を実行に移すのは現場の兵なんだから」
「意外だな。よもやお前の口から人を信じることが大事と出るとは」
「馬鹿言え、あくまで兵のはなしだ。だから俺は現金取引が一番好きだっつってんだろ」
「ああ、金子を渡せば確定でものが手に入るから、というやつか。お前らしいというかなんというか」
「そ。まあさじ加減を見誤っちまえば元も子もねえが、俺たちは兵がいてやっと策士として仕事ができる。前回すっとばしちまったが、これをまず最初に覚えといてくれ」

 もはや懐かしい、二回目の授業の記憶。橋本は兵を信じろと言った。
 煉獄は自分の頬をピシャリと叩いた。俺はそもそもが間違っていたんだ。信じて策を預けるべき隊士を護るべきものだと勘違いしていた。導かなければいけないと思っていた。橋本はもちろんすごいが、俺もやり方を間違えていた。
 二度目。強めに叩かれた頬はうっすら赤くなっている。隊士たちが心配そうに近寄ってのぞき込むと、煉獄はおかまいなしに大声を上げて真っ直ぐに立った。


「シャン! どうだ、立ったぞ! これが最後だ、諸君すまなかった! もう大丈夫だ」

 茶目っ気も交えて言えば、もはや煉獄に、隊士の顔にも曇りはひとつもなかった。年長の隊士が「あれもう一回言ってくださいよ」と促す。

「うむ。これより改めて橋本隊士の捜索と無限城脱出のための探索を行う! さあ、もう一度、もう一歩前へ!」

 心持も新たに煉獄が先陣を切って踏み出す。


 踏み出した先に足場がなかった。

べん。 べん。 べべん。

 鬼舞辻が消えた時と同じ琵琶が掻き鳴らされるように連続して響いた。めまぐるしく空間が入れ替わり、ついに隊士たちとも別の空間へ飛ばされたかと思った次の瞬間には違うところにいる。正直気が狂いそうだった。
 無限城が崩壊しはじめている。煉獄は地の底まで続くような吹き抜けの天井付近に飛ばされた。同様に飛ばされたらしい隊士の悲鳴が下から聞こえる。すぐ隣をがれきが通り抜けていった。どちらが上かもわからないまま首を巡らせ、煉獄は凍り付いたように身を固める。
 はるか下方で中空に浮く肉の繭のすぐそばに人影がある。周囲は青い液体で濡れ、繭から延びる糸にぐったりと引っかかりながら、抱くべき何かを待つように両手を広げていた。がら空きの胴やかろうじて繋がっているだけの四肢にがれきがぶつかるのが見える。
 煉獄は今度こそほんとうに胸が爆発したかと思った。名前のつけようがない痛みで今にも叫びだしそうだった。あれは橋本だ。
 あの男。
 ああ! あの男!
 なにが辰子姫だ! なにが南祖坊・弐だ! なにが弐だ! 頑なに開発した日輪銃に「八郎太郎」と名前をつけなかった理由を煉獄は全力でぶん殴られたように悟った。
 この国で一番深い湖に棲む同じ名の龍に、鬼舞辻に食わらせる銃弾のひとつとして自身が鉄砲玉になるために、銃にその名をつけなかった!

「……ッ、橋本ォーッ!」

 こらえた咆哮は結局迸った。血を吐くように、いつか橋本が自身にそうしたように煉獄は叫んだ。
 落下の勢いは止まらない。どうしても助けたい。瑠火の位牌の前で誓った言葉を反故になどできない。しかしどうすることもできない。煉獄は体勢も思考もめちゃくちゃになりながら、必死に探し続けた橋本に手を伸ばす。
 必ず探し出す、それまで橋本は生きていると信じてきた。が、煉獄の気持ちはここに来て「祈り」へシフトした。
 信じる、信じないじゃない。俺にはお前しかいない。お前が俺を信じてくれたのが、どんな鬼を斬るよりも嬉しかった。ひとつ疑問を問いかければ、何倍にもなって帰ってくるのが嬉しくて仕方なかった。
 変に聞こえるかもしれないが、間違いなくお前が俺のすべてだ。
 だからもういいんだ。
 俺を待つ間に何度瓦礫に打たれた? その傷は鬼舞辻が?
 どっちだっていい。もう傷つかないでくれ。お前は十分すぎるほど傷ついた。
 もういいから。
 お願いだから。

「ァあ、待ってたぜ」

 厳密には声ですらなかったのかもしれない。
 めちゃくちゃになった姿勢を無理やり修正して、動かしたことがないような動かし方を全身でして、やっともうすぐ橋本に届く、といった段階で、煉獄の耳はそう捉えた。意味を理解した瞬間、引きつった喉で隙間風みたいな音を立てて息を吸った。
 吸った息を吐く間もなく、あと一瞬で煉獄は橋本の腕のなかへ落下しようという時だった。

「四鏡・水鏡」

 鏡の歴史は人類のそれと同じほど、もしくはそれよりも古いと言われる。原初の鏡は水面そのものであった。また、鏡は彼岸と此岸を繋ぐものである、とも言われる。世界各地の宝物や神話にやたら鏡が多いことがこの証左だ。
 煉獄を抱きとめた橋本の体は呆気なく糸から滑り落ちた。諸共奈落の底で潰れて死ぬと思われたその瞬間、さらに下方に白い何かがきらめいた。
 吹き抜けを満たすような水だった。落ちてくる瓦礫が水面に白い飛沫を上げる。底が深いらしく、落ちたものは何一つとして浮かんできた様子がない。
 橋本は永らく油を差されていない機械のように背後、下方を見る。青い血で汚れ切った顔にほのかな笑みが浮かんだ。

「はじめてやっ、たにしちゃ、上出来だ」

 橋本は迫りくる水面を見つめたまま、煉獄に抱かれていた。やるべきことはこれで全部終わった。煉獄が一番最後だった。待てど暮らせど落ちてこないもんだから、てっきりもう死んじまったのかと思った。よかった。相ッ変わらずあっつい身体してんな。そのコート、親父さんに預けたのに、なんでお前が着てるんだ。まあいいか、似合っているし。
 さあ、帰ろうぜ杏寿郎。あの先がきっと、鬼のいない世界だ。
 対して煉獄は、やけに静かな気持ちだった。もちろん心臓は乱痴気騒ぎしているし、絞れば迸りそうなほど汗を吸った首巻がこの世で一番重く感じられるほど疲労していた。それでも、「目覚めた」と自覚する前の一瞬が永遠に引き延ばされているような、妙に心地いい感覚。橋本の顔を見る。ぐんぐん近づいてくる水面を見て微笑んでいる。昔は父や母がよくこの顔をしてくれた。我が子が立派な姿を見せているときの顔、とでも呼ぶのだろうか。その顔があんまりに穏やかなので、煉獄は橋本の異様な色をまだらに浮かべた肌も、額から奇妙に伸びる角も気にならないほど見惚れた。
 ああ、お前はこの瞬間のために生きていたんだな。
 濡れた半紙に淡墨を垂らしたような感覚。今だけは淡墨の色に気づかないふりをして、煉獄も水面を見た。
 この世の底までつながる湖のような色をした『水鏡』は、橋本の瞳とよく似ている。
 いつだったか、落ちた先がこの瞳の中であるならそれもいいな、と思ったのを思い出す。
 煉獄は今まで抱いていた「祈り」の名前をなんとなく察して、水が入ったら痛いかな、と目を閉じた。



*****



 まどろみだ。煉獄は触り心地のいい布を幾重にもかけられたような感覚に身を任せる。もう少しこうしていたい。浮き上がる意識をもう一度沈めたくて寝返りを打つと、頬に冷たいものが触れる。水のようだった。
 なんだ。水を差すな。わずかに眉を寄せ、それすらも感覚として知覚したことで煉獄の意識はいよいよもって浮上する。ちくしょう。いい夢を見た気がする。覚めないでいてほしかった。煉獄の意識は前後不覚ながらも、どこか本能めいた何かが「これから」を拒否していることにまだ気づいていなかった。
 ぐんぐん浮き上がる意識が五感を意識と繋げる。最初に繋がったのは聴覚だった。

「やい起きねえかッ! 二人とも出てこられたんだぞ、起きろ! 嘘すぎるだろうッ!」

 二人。そして目を閉じる直前を思い出し、煉獄はぶっ壊れたバネ仕掛けのように飛び起きた。
 煉獄の肩を何度も叩いていたらしい年長の隊士が安堵の息を重々しく吐くのも聞こえないまま、煉獄は無理やり脳とつなげた視覚であたりを確認する。
 街中だった。夜明けまでわずかに時間があるらしく、ぼんやりと朝日の気配はしながらも未だ暗い。なんの絡繰りか、自身と同じように無限城を脱出したらしい隊士たちと瓦礫の山が一面に散乱していた。
 次に自身の身を見るべく視線を落とした煉獄は身を固めた。前身頃がべったりと青い液体で濡れそぼっている。胴のうえに投げ出された腕のもとを辿って煉獄はついに声にならない悲鳴を上げた。

「……まだ、息があります。呼びかけて」

 隊士が煉獄に呼びかけるも、煉獄は全集中どころかまともに息もできなかった。
 頬に触れた冷たいものは夥しい血と水だった。一秒ごとに弱弱しくなっていく心臓の拍動につられるような、ほぼ誤差みたいな呼吸。息よりも血を吐いている。穿たれたように体には大穴がいくつも空き、足などは誇張なく皮一枚で繋がっていた。おおよそ無事な部位が見当たらなかった。あまりに凄惨な姿になり果てた橋本が、煉獄にわずかに覆いかぶさって地面に伏している。
 煉獄のみならず、周囲の隊士全員が言葉を失っていた。かける言葉を考える余地もなかった。「大丈夫ですか」はどう考えても大丈夫じゃないし、「起きてください」というには動かすのも憚られるほど今にも崩れそうだった。きっと煉獄の言葉しか届かないし、彼もまた煉獄の言葉のみを待っている。

「……は」
「……おう、起きたか」

 煉獄がうっかり声帯が滑ったみたいな声を漏らしたのに、もうすっかり以前の面影を残していない橋本は、誰しもの記憶のなかのそれと同じ、しかし逃げたくなるほどかすれた声で答えた。どこにそんなちからが残っているのか。考えるだけ野暮のようにも思える。

「お前、おま。なに」
「うはは。大成功だ。殺すまでいけなかったが鬼舞辻に一発食らわせて、全員とはいかなかったが隊士も助けて、お前も生きてる。鬼舞辻は、柱とちびっこ達がなんとかしてくれるだろ。ああよかった。生きていてよかった」

 もう見えていないだろう目をゆるめて橋本は浮かされたように言う。その間にも青い血はどこから湧いて出るのかと思うほど橋本の口からゴボゴボ溢れた。注意して聞かなければ、喋っているんだか溺れているんだかわからなかった。

「なにが、なにが良かったんだ。もう終わるみたいな口ぶりで言うな。橋本、どうして? なぜ、こんな?」

 煉獄もまた浮かされたように「どうして」とくり返しながら、崩れそうな橋本の手を取った。冷たかった。

「やァ、なに、言ったろ。歴史は人間のもんだ。人間じゃないやつは退場するに限る。どうせ千年数えきれん人が殺されてきたんだ、どうせ退場するなら、原因を道連れにしてえだろ。どうせ退場するし、人間のまま死ぬことにこだわりなんかなかったんだよ。これで何もかも大丈夫になる。ロジカルだろ」
「横文字使って誤魔化すな。何が大丈夫なものか、お前がなにも大丈夫じゃない。なにも良くない」
「良いんだよ。俺なんかごまんとあるうちの一にすぎない。これで世界が救われりゃおつりがくる」
「こんな世界が何だッ! お前が死ななきゃいけない世界なんかいくつ滅ぼうが知ったことか! 勝手に滅んでいろ!」

 煉獄はついに吠えた。前が見えなかった。とんでもなく大粒の涙があとからあとから湧いて出ているせいなのだが、それすら気づかないほど橋本のことでいっぱいいっぱいだ。
 冷たい体が少しでも体温を取り戻すように、煉獄は身に着けたままだった首巻と洋外套をしっちゃかめっちゃかに橋本に被せ、穴だらけですっかすかの胴を横抱きにする。以前茶化して「すきんしっぷ」と抱き着いたら「やめろや」とわりと激しい抵抗をみせたのに、今は受け入れるように大人しく抱かれているのが気に食わなかった。橋本が頑なに自身を諦めているのがものすごく気に食わなかった。

「お前にこれっぽっちも優しくなかったこんな世界、お前が命を捨ててまで救う価値なんかどこにもない! お前はお前しかいないだろうが! ああ、天地がひっくり返ろうが、お前はお前しかいないんだ! お前が言ったんだ! お前が、俺は俺だからと、俺を理由に生きていいと思ったと言ったんだろうが! あれは謀りか」
「……」
「この際そんなことはどうでもいい。言ってなかった俺も悪いんだろうが、お前と出会って初めて、お前の言った「鬼殺のない世界」なぞ、お前ありきで考えたのだ。お前がいなくては始まらない。頼む、お前の幸福が俺の望みだ。三千世界すべての痛みと苦しみを受けただろう、もういいんだ。いいだけ苦しんだ、いいだけ頑張った。なあ、今度こそ幸せになる時だ。お前の望みを叶えてくれ。俺に叶えさせてくれ」

 隻眼からボッタボタ落ちる涙が橋本の頬にこびりついた血を洗い流していく。気づいているようないないような橋本は少し考えるように黙った。口の中に溜まった血を吐き出してから言う。

「……あのさあ。俺ずっとやりたかったことっていうか、これを叶えるまでは死ねないなと、思ったことが三つあんだけど。一つ目は、俺が父さんの背中に追いつくこと。良くも悪くも凪いだ気風のひとで、ずっとああなりたいって、父さんがずっと聞かせてくれた伝説のマタギ、八郎太郎みたいに俺もなりたいって思ってた。これは叶った。なんなら、もう八郎太郎そのものだ」
「……。二つ目は」
「二つ目は、だれかの一番になりたかった。凡百のうちの一なのはいい、ただだれかに心の底から愛してもらいたかった。これはお前が叶えてくれた。本当にうれしかった」
「そうだとも。お前が俺の一番だ。みすみす失わせるな」
「うん、だからそのための三つ目だ。俺を一番にしてくれただれかと、人間のまま傍にいたかった」

 橋本の頭が甘えるように煉獄の方へ傾く。煉獄が支えようと震える手を動かしている間に、橋本は「これもお前が叶えてくれた」と言った。

「全部叶ったんだ。世界なんかついでに救われただけだ」
「ふざけるな、終わったみたいに言うな。これからも一緒にいればいい」
「気づいてるだろ。人間のまま、っつったんだよ」

 もう何度目かもわからない喀血をしながら橋本は身じろぐ。あれだけの状態から身動きが多少とれるようになっていた。血の色も、風貌も、回復力も、橋本を構成する物体すべてがもはや人間のそれではなかった。今なお彼が橋本新平と呼べるのは、異形の器にいれられた不可視の魂だけである。

「お前、覚えてるかな。前に言ったんだよ」
「わからない。聞いてない。覚えてない。何も知らない」
「マジ? 俺がはじめて杏寿郎って呼んだとき」
「知らない、何も言われてない。バカタレがと言われたことしか覚えてない」

 とっくに気づいていた。あの時は本当に初めて名前を呼ばれた驚きでそれどころではなかったが、当時を思い出すたびに一緒に思い出していた言葉がある。煉獄のなかに雪みたいに降り積もっていった嫌な予感の、一番最初だった。
 橋本は微笑む。

「俺が死ぬときは、お前に頚を斬られたいもんだね、っつったんだよ」

 そこは、天国にはいけなかったが地獄に堕ちることもなかった人が行く場所だという。そこは、どんな罪も焼き滅ぼす炎があり、やがて罪をそそがれた者は天国へ向かうのだという。生者の祈りによってその業火の苦しみは減免され、楽園が約束されるという。
 あの日橋本は洋書の英字を指でなぞりながら、焦がれるように言った。
 インフェルノ。

「俺の願いはすべて叶えられた。だからこれは、最後のわがままだ。聞いてくれるな」

 煉獄の目から流れ続けていた涙がピタリと止まる。最後の落涙を頬に受けて、橋本は身を起こした。相変わらずちょっとした小川みたいに血を吐いて、合間に溺れるみたいな息をして、ぶら下がっているだけの足を引きずってすこし歩き、煉獄に向き直って「ほら」と手を広げる。

「あのさあ、お前は価値がねえっつうけどよ。お前がいるんだよ、この世界は。それだけで命をかける価値がある」
「……ああ」
「俺が全部そそいで、もう一度、今度こそ人間のままいられたら、気が向いたらでいいからよ」
「……ああ」
「また、俺と友になってくれねえかな」
「……それが、それがお前の幸せに違いないのだな」
「おう」

 煉獄は癇癪を起こしたみたいに顔をこすった。べちゃべちゃになった手で一度強く地面を殴り、八つ当たりみたいに日輪刀を持って、雪深い道を歩くようにズンズンガシガシ踵を叩きつけて橋本から離れ、向き直った。
 うつむいたまま刀を肩にかつぐように構える。

「橋本。俺がお前の望みを叶える。お前の望みが叶うことが、俺の幸福だ」
「……おう」
「煉獄だろうがなんだろうが、どこへなりと勝手に行け。その代わり、どれだけかかろうが必ず帰ってこい。世界が、俺が、お前を待っている」
「……おう」
「鬼殺隊員・煉獄杏寿郎はこの一太刀を持って終わる。こののち俺は、真にただの煉獄杏寿郎だ」
「……その言葉が聞きたかった」
「最後に、今までどうしてもお前に言えなかったことがある。聞いてくれ」

 煉獄は音が鳴るほど歯を食いしばって顔を上げた。涙はもうなかった。力みすぎて口角が上がった顔は、笑っているように見えた。
 大きく息を吸う。一度大穴が空いた肺で、全力の炎の呼吸。体温がぶち上がる。震えていた体は平静を取り戻した。気が練り上げられ、煉獄の周りに渦を巻く業火が見えるようであった。
 踏み込み、飛び出す。
 間違ってもためらうな。橋本はもういいだけ苦しんだ。俺がこの手で間違いなく、橋本の命を絶つ。そのために。
 一瞬で。多くの面積を根こそぎえぐり取る。

「この、クソ野郎ォ――――ッ!」
「あんだと、鳥除け目玉ァ!」

 炎の呼吸 奥義 玖ノ型・煉獄。

 決定的な部位を失った橋本の体は、一瞬だけ煉獄に再び抱きとめられ、すぐさま水と化して腕をすり抜けた。
 地面はさも当たり前みたいに水を吸い込み、当然のようにその色を濃くする。
 陽の光が差し込む。千年待ちわびた太陽は、橋本だったものを吸い込んだ地面も、煉獄も、見守り続けていた隊士たちも無限城の瓦礫も分け隔てなく照らし温めた。
 煉獄はずっと地面を見ていた。
 金と赤の蓬髪がどんどん輝いていくのと同じ速度で、地面は渇く。すっかり他の地面と同じ色まで渇いて、やっと煉獄は膝をついた。

 ほんの微かなさざ波が、大きな湖水に広がっていくように。
 広がった波紋が、岸にぶつかって再び帰ってくるように。
 帰ってきた波がぶつかって、何もかもを呑み込む大きなうねりになるように。
 煉獄は声を上げた。
 慟哭だったかもしれないし、鬼狩りの歴史の断末魔だったかもしれない。
 あらん限りの力で張り上げられる叫びは、きっと「ただの煉獄杏寿郎」の産声でもあった。
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