前編
 早朝が好きだ。許された気がする。何をと問われたら、一日の始まりをかもしれないし、その新しさかもしれないし、寝静まっていた人たちが動き出す喧騒が好きなのかもしれない。
 橋本新平はさらに「仕事上がりだから」を追加する。労働を許された。短い自由時間の始まりだ。
 鬼殺の任務を終え、一旦藤の家紋の家に戻って着替えると、このまま時間を潰していると寝てしまいそうだと橋本はさっさと部屋をあとにして品川へ足を運んだ。
 久々に来たかも、このへん。橋本は首元より下の感覚がいつもと違うのを新鮮に感じた。シャツに着物を着て、いつもの臙脂色の首巻。洋外套はこの上に着るにはちょっと似合わないので部屋で待っていてもらうことにした。見る人が見れば「珍しいな」と目を見開きそうな出で立ちは、所謂「書生」みたいな格好だ。正直自分でも驚いている。こういうのもまだ着れたもんか。ちゃんとした服着れば自分みたいなのでも案外さまになるもんだ、と。
 辺りを散策していると、店支度をしているらしい人から「学生さんかい、早いねえ」と声をかけられた。学生じゃないし、どう返していいかもわからないので控えめに会釈をする。機嫌がいいらしい店主は「あんちゃん持っていきな! 美味いよ」と饅頭を渡した。

「……なんかすみません」
「いいってことよ」

 まだ登りきっていない太陽の代わりにからっと笑った店主は、気が済むとサッサと店支度に戻っていった。受け取ったのが橋本でさえなければ心温もる人情話であったのだが、残念にも橋本は極度の人間嫌いかつ人の情緒がわからない男である。店主がこちらを見向きもしないのを確かめてから渋面をつくり、貰った饅頭を懐紙に包んで懐に仕舞った。あんまり自分で食おうって感じがしない。悲しいかな橋本は過去の事件から向こう苦手な食べ物に握り飯を挙げる男である。人から貰った飯はその上に位置した。
 そうこうしているうちに太陽は空気を温め、つられるように市井が活動を始める。そろそろ頃合いだろうか。橋本は饅頭を落とさないように懐を押さえて、今日の目的地へ歩き出した。


 明治41年に京橋警察署の分署として創設された京橋月島警察署は、海に近い場所にある。江戸時代のはじめに大阪から東下りをしてきた漁師たちによって建立された神社や、商店街が立ち並ぶ活気のある場所である。活気があるということは人が多く、人が多ければ犯罪も増える。橋本の目当てはここ最近の事件や取り調べなどの記録群であった。

「おはようございます。東さんいますか。用事が」
「ええ、はい、伺ってますよ。二階にいますから」
「ありがとうございます」

 受付にいた男は眠そうな顔をして橋本に応える。鬱陶しそうに振られた手の方へ橋本は向かう。特に気を悪くはしなかった。面と向かって食って掛かられるより良い。
 木造の階段を上って少し進む。「島田」と名札の入った目当てのドアを押し開けると、中では不惑ほどの男性が紙束を捌いていた。橋本に気付いて「オオッ!」と声を上げる。

「ノックぐらいしやがれってんだてやんでい、心臓が口から飛び出やがるかと思った」
「殺しても死なないじゃないすか、おやっさん」

 おやっさん、と呼ばれた男性――東は、ガラガラと笑った。その底抜け加減ときたら花火玉のようで、好き好んだわけではないが根暗の橋本にとってはなかなか相性が悪い。

「どうでい、最近の勉強の方は」
「ぼちぼちです」
「良くねえ良くねえ、良くねえぜそういう言い方はよ! 良いなら最高、悪いならできてねえって素直に言いねぇ」
「おやっさんは……良さそうすね」
「良くねえ!」
「良くねえんかい」

 がっはっは、と笑うがらがら声の音圧で、窓ガラスが震えて割れるんじゃないかと橋本は片隅で思った。「眠そうな顔してやがんな! 手伝いねぇ! 見てわからねえかい!」と正面切って言われれば、さながら放水を浴びたような心地である。橋本は「ごはぁ」と重たい溜息をついて東の抱えていた紙束を半分もらった。
 紙束を仕分け終えると、東は橋本にやっと茶を出した。東が景気よく啜るのに反して、橋本は着物の袖を伸ばして湯呑を抱え、チマチマと唇を湿らすように啜る。なんてったって熱いのだ。江戸っ子は風呂だけじゃなく茶も熱いのかよ。言ったが最後爆音が返ってくるので、橋本は茶の熱さにしかめたふりをして唇をムニュリと曲げた。

「さてさてだ、ここ最近の事件やら通報の写しだぜ。こんなもん集めて何が楽しいんだ、お前さん学生だろうに」
「ほっといてください」
「犯罪心理学っつったかい? けったいな学問もあったもんだなァ。それで悪事が減るってんなら大歓迎なんだがよゥ。お前さん、学問が大成したらば、パパっと悪人がいなくなるような何某かでも出してくれっかい」
「静かにしてください」
「つれねえなァ! いいかよ、俺の若いころってのはよ」
「無限に喋るじゃないすかマジで」

 東に用意させたのは、数か月の間に東京で起こった事件、事故、失せ人の報告書と、異臭騒ぎなどの通報の記録書の写しだった。
 いくら活発になるのが夜間のみとはいえ、鬼は日中眠っているわけではない。日の光さえ当たらなければ日中だって活動し放題なのだ。しかし鬼殺隊員はその職務故昼夜逆転生活をしているものがほとんどであり、日中にも活動する隊士は多くない。なにより、大半が藤の家紋の家や蝶屋敷、それぞれの屋敷で過ごすため、日中に跋扈する鬼と遭遇するのは自然と一般市民が多くなる。誘拐や捕食などを昼日中にすることがほぼ無いとはいえ、夜間に暗躍するための準備を日中に行うことは、睡眠を必要としない鬼にとって日光さえ避ければ難しいことではない。鬼殺隊員の代わりに日中なにかに気付いた市民がまず頼るのは警察だ。警察に寄せられた通報や苦情のなかから鬼の痕跡を探そうというのが橋本の目論見である。

「でよォ、その時俺ァなんてったと思う!?」
「はい」
「聞いちゃいやがらねえな!」
「はい」

 橋本が見向きもせずに書類とにらめっこしている間にも、東はヤイヤイと喋った。最初こそ「俺の若いころは」とあれこれ並べ立てていたが、放っておけば「二丁目の金物屋がよ」「商店街の菓子屋がよ」「ウチのカミさんがよ」と世間話へと移行している。日中の鬼の監視を市井に頼っている以上、世間話にも何かしらの手掛かりがあるかもしれないので耳を傍立てはするが、大半は橋本にとって心底どうでもいい話ばかりだった。げんなりしながらも書類を改める手は止めていられない。脳みそがあと二個くらい欲しかった。

「でなァ、医者にかかっても良くならねえってんで、そこの親御さんが子供連れて神社に行ったんだと。医者にかかってダメならすぐ次は神さんってのもまたおもしれえよなァ」
「……待って、なんて?」
「ア? やっぱり聞いちゃいやがらなかったな!」
「聞いてませんでした。なんて?」
「だからよゥ、最近子供の風邪が多いってんで、医者がえらい繁盛してんだよ。風邪っつっても結局風邪の薬じゃ治らないらしくてな、咳と嘔吐がひどいんだと」
「地区は?」
「浅草のあたりだそうだ」
「……浅草、これか」

 弾かれたように書類の山を切り崩した橋本の手には、浅草署から取り寄せた写しがあった。取り上げた拍子に近くの山が崩れるのを東がヤイヤイと喰いとめている間、橋本は一心不乱に書類を並べなおす。

「……おやっさん、瓦斯の会社で最近動きがあったりしてませんか」
「そんなところまで知るわきゃねえだろべらぼうめ。こちとら天下のお巡りさんだぞ、そんな暇あるかい」
「そっすか」
「オウ俺でもわかるぞ! 今のァ「使えねえな」っつー意味だろう!」

 かっと吠えたものの、思い当たる節があったらしく東は黙った。さっきまでの一気呵成な口ぶりがなりを潜めてしまい、橋本は聞こえないように口の中で舌打ちをする。さっきの調子でキリキリ吐けや。

「異臭騒ぎの苦情がいくつかあるな。結局瓦斯漏れじゃなかったようなんだがよ。頻度は低いがしばらく続いてるもんで、そこの会社は入れ替わり立ち替わりだそうだ。世知辛いったらないね」
「そっすか」
「素気無ェなァ」
「瓦斯屋も素気を売りゃいいんすよ。苦情が頻繁に寄せられる管轄はどこですか」
「皮肉しか出てこねえ口だな本当よォ〜。それも浅草だよ」

 浅草でなにかが繋がりつつある。橋本は机上の書類を払い落し、めぼしい資料を並べて睨んだ。口元に手をやって押し黙り、かと思えば薙ぎ払った書類の中から何枚かを引き抜いて机上に並べる。もう少しで何かが繋がる。橋本はすっかり適温になった茶を一気に煽って再び向き直った。
 そうやってすっかり思考に沈んだ橋本を見て、東は静かに困ったような笑みを浮かべた。
 はじめてここに来たのは、盗人を捕まえたとかだったか。死にそうな顔してやがったから「安心しろ、よくやった」と肩を叩いてやったら、「触るな」と跳ねのけられたものだった。それからも何度か見かけたものだから、「お前さん、また手柄かい。何か欲しいモンか食いたいモンはねえかい」と声をかけたらこいつ、「ないです。でも使いたいものがあります」なんて言いやがった。

「資料の保管庫を見せてください。それだけで、それだけがいいです。それ以外の報酬は何もいりません」

 そうして今に至るまで、今や月島署に限らず東京じゅうの通報や苦情、事件の資料を集めては読みふけり、夕暮れ前に疲れ切った顔で泡を食って帰る。「学生なので、門限が厳しいんです」とのたまうが、それが嘘であることを東は長年の勘から気づいていた。
 なあおい、お前さん。お前さんが何をしようが俺の目の黒いうちはお天道様の下でできねえことは許さねえがよ、お前さんひとりがこの街を守っているわけじゃないんだぜ。
 東はその一言がずっと言えずにいる。真剣な横顔を眺めて、口を開きかけては閉じ、いざ言うぞと開いた口から出てくるのは、いつも溜息ばかりであった。
 言う気はある。が、その横顔があんまりにも鬼気迫るもんだから、俺が手出しをしていいもんじゃないんじゃないかと思っちまうんだ。東は胸中のモヤモヤにそう理由をつけて、今日もまた橋本の横顔に溜息を吐いた。思考に沈み切った橋本は溜息を吐きかけられたくらいじゃうんともすんとも言わない。空いた湯呑を足してやるか、と東は茶のおかわりを静かに注いだ。
 始まりとはうってかわって、静かな時間だった。二分ほどあとに湯呑に手をやった橋本が「あっづ!!」と悲鳴を上げるまでは。

「……よし」

 空に水色と淡い朱鷺色が混ざり合いはじめる頃、橋本はやっと思考を身体に引き戻した。部屋はすっかり四方八方に投げ飛ばされた資料で荒れ散らかし、目当ての資料だったはずの紙面にもめちゃくちゃにメモ書きが走り、筆舌に尽くしがたい惨状がそこにはあった。東は片隅で広げていたおやつをちょっと避けて、ぐわりと大あくびをして近寄った。

「何でえ、今日は早いな」
「繋がりました。いえ、まだ繋がってないんですけど、手掛かりは十分掴めました」
「そうかい、じゃあそのうち瓦斯漏れの苦情と子供風邪の噂は聞かなくてよくなるってェ寸法かい。頼もしいねェ名探偵先生!」
「よしてください」
「じゃあ名探偵先生、そこの飯を食いな。で、ちゃっちゃと部屋片づけてくれや。急がねえと島田さんが帰っちまうよ!」
「誰すか」
「その握り飯をこさえたお前さんの腹の虫の恩人だよ」
「どうしてそれを最初に言わねえんだろうこの人は」
「口より手を動かさねえか!」

 橋本は書類の下に埋もれかけていた包みを解いて、握り飯に食らいついた。ご丁寧に梅干しが入っている。人から貰った握り飯、橋本の嫌いな食べ物が役満であったが、背に腹は代えられず、実際背と腹がくっつきそうなので今ばかりは食らいついた。いい塩梅が疲れた頭をしゃっきりと覚醒させ、噛むほどに塩味で引き立った米の甘味が身体中に燃料を運ぶ。生き返るような心地だった。この時ばかりは東のクソ熱い茶が美味かった。噛みしめながら、しかし大急ぎで飯を腹に押し込み、落ち葉よろしく散らかした書類をまとめる。必要なものはすべて覚えたので、天地がしっちゃかめっちゃかでもとりあえず纏めさえすればいいか、とわっさわっさ暴れながら後片付けをした。東は手伝わずに笑って見ていた。
 島田さん、というのは、月島署へ来る掃除婦さんのことであったらしい。半日借りていた部屋を出た矢先に大きなバケツを持った、こちらも不惑ほどの女性とぶつかりかけて、後ろで東が「島田さん」と言ったので、「ああこの人がそうなのか」と知った。

「えっと……握り飯美味かったです。お礼、貰いものなんですけど、よかったら」
「あらぁ、どうもねえ。ちょっと待ってね。よいしょ」
「すみませんお忙しいところに。東さんに持たせておくので」
「しれっと俺を使うんじゃあねェ!」
「うふふ、いいのよ。あらっ、いやだ、これ商店街の梅木屋さんのお饅頭じゃない?」
「そうなんですか?」
「そうよお。美味しいのよ。本当に頂いちゃっていいの?」
「ええ。握り飯ほんとに最高の塩梅だったので。これであいこになればいいんですけど」
「いいのいいの、むしろ私が貰いすぎだわ。ご丁寧に、ありがとうね」

 朝方もらった饅頭を渡せば、島田はすっかり喜色を浮かべて仕事に戻っていった。「隅に置けねぇなァ」と東に肘で小突かれるのが鬱陶しくて「もうカミさんいる人が鼻の下伸ばさないでくださいよ」とあしらえば、五十倍になってごうごうと返ってきた。言うんじゃなかった。げんなりした顔の書生風の男と、すごい剣幕でまくし立てる初老の警官が月島署の玄関口まで来る頃には、空はすっかり赤みを増していた。

「だからウチのカミさんは最高だっつーんだよ!!」
「おやっさん気づいてますか、途中から惚気になってんすよ」
「惚気てんだよ!!!」
「うるせえな本当。せいぜい末永くお幸せに」
「あたぼうよコンコンチキがァ!!」
「コンコンチキは帰ります。今日もありがとうございました。また連絡しますので」
「面倒くさいから連絡してこなくていいぞ!」
「じゃあいきなり来ますね」
「連絡しろ!」
「そっすか。あ、しばらくは浅草方面行かないほうがいいですよ。特に日が落ちてからは」
「おーそうかい。名探偵先生に言われたんじゃ従うしかねえな。元気でやれよ!」
「ええ。では」


 橋本は部屋を借りている藤の家紋の家に戻り、着慣れた隊服に着替えて蝶屋敷を訪れた。日没が近い。任務に向かう隊士たちが次々と出てくる玄関先で、なるべくすれ違う人間の顔を見ないように道を開けるのに必死だった。見られるのも好きじゃないし、見たが最後こっちは頭の端っこでその顔を覚えてしまう。万一今晩の任務で怪我をして蝶屋敷に運び込まれた時に隣で今見た顔が苦しんでいるのも嫌だし、もっと嫌なのは次に見るのが死相であることだったからだ。
 一通りの人垣とすれ違ったあと、ようやく橋本は足を進めた。目指すは最奥、蟲柱・胡蝶しのぶの診察室だ。

「お待ちしてましたよ。お変わりありませんか」
「お待たせして申し訳ありません。体調に変化はないです」
「では、いつも通り”決していいとは言えない”ですね」

 にこり、と蜜の垂れるように微笑んだ胡蝶は、さくさくと橋本の簡単な診断をする。熱を測る胡蝶の手はひやりと冷たかった。この人も寝不足なんだろうなーとぼやけた頭で思う。

「申し訳ありません! 急変です!」

 医療専任の隊士が診察室に飛び込んでくる。胡蝶は一瞬で立ち上がり、歩みだそうとして橋本のことを思い出し、「……見に来ますか?」と訊いた。

「行きます」

 答えるや否や胡蝶はさっさと歩きだし、橋本は隊服の襟元をさっと直して胡蝶の後を追う。
 鬼殺隊にあって医療の全てを司る蟲柱に、階級がぼちぼちあるだけの隊士が同伴して動くのも奇妙なものだったが、蝶屋敷で既に疑問や異を唱える人間はいなかった。橋本の悪癖というべきか、病的な知識の蒐集癖は戦術や史学に留まらず、医療の分野にもぼちぼち進出してきていた。鬼殺隊で蘭語や英語の医術書が読めるほぼ唯一の人間であったことも加わって、時折挟まれる所感が何人かの隊士の命を救ったこともあった。「救えない事のほうが多かったですよ」と本人は能面の顔をして言うが、正直胡蝶も助かっている。万が一億が一橋本が前線で戦えなくなってしまったら、この屋敷で働いてくれないものだろうか。本人に言えば二度と蝶屋敷に近寄らなくなるだろうけど。
 そうして何度か役に立ったり立たなかったりしているが、蝶屋敷での隊士の治療にすこしだけ携わる橋本の本来の目的は人助けではなかった。ここにきてもまた知識の蒐集である。人はどこをどう損傷すれば死ぬか。逆にどの程度の損傷なら生き延びられるのか。血鬼術の内容は。特性は。その鬼は討伐されたのか。されていないなら、患者から学べるものは。対策は。口にしたが最後二度と蝶屋敷に入れてもらえなくなりそうなので黙っているが、橋本の本心としてはこんなもんだった。人助けとか心底ガラじゃない。組織の構成員が減るのが問題だから助けている。言い訳がましく聞こえるが。

「患者は?」
「今度は山村隊士です。先月の哨戒任務のあとから咳が収まらず入院となりましたが、発作が。似た症例が今月六例目になっています」
「先日の近藤隊士は腹痛も訴えていましたね。山村隊士の呼吸は風でしたか。鬼殺の剣士は喘息とは無縁ですが、花粉症を突然発症した可能性は?」
「ありません。目、鼻の炎症が確認できませんでした」
「現在の状況は?」
「ひどい咳と嘔吐と……喀血、を」

 なるほど。傷病者を見慣れているだろう蝶屋敷の隊士をおしてここまで動揺する理由が分かった。咳が止まらんと入院して様子見していた隊士が血を吐けばさもありなん。橋本は考え得る原因とひとまずの対症療法を思い浮かべながら胡蝶の髪留めを追っていた。

「あのー。哨戒任務はどこに?」
「浅草と訊いています」
「うわ、でた」
「心当たりが?」
「ありかなしかで言えば、ありよりのなしです」

 事態の重さに似合わない軽口をたたきながら病室に飛び込む。目的の病床では件の隊士が文字通り血反吐を吐いていた。
 胡蝶がてきぱきと処置にあたる。すこし離れた場所で橋本は見ていた。
 鎮静剤、のようなものを投与されたらしい隊士はほどなくして眠った。無理やり落としたとも言える。清掃を指示しながら手を清めた胡蝶が橋本に近寄って訊いた。

「今後の治療の方針などで思い当たる節は?」
「俺が想像している通りの症状なら、ないです。終末医療しかないですね。山奥にサナトリウムでも開設されればよろしいかと」
「それでドン引きできる感性が残っていたら、苦労しないのですけど」
「山村隊士の会敵した鬼はまだ討伐されてませんよね? 蟲柱様から御館様に推薦状を出してもらえませんか」
「構いませんが、説明してからにしてください」
「申し訳ありませんが、こいつだけは一刻も早く討伐しなきゃ不味い。必ず報告書を上げます」
「……いいでしょう。御館様には何と?」

 橋本はこれでもかと額にしわを寄せて言った。言った、よりも、呻いた、が正しいかと思われるような声音だった。

「鬼による大規模な侵害が進行中です。以下に挙げた剣士と俺を浅草に行かせてください、と。候補は……」


***


 どろりと溶けるような夕暮れが空一面を覆っている。すこし前までの燃えるような夕焼けはいつだって新鮮な感動でもって人間の心を打ちのめすのに、そこに一滴墨が垂れただけでこれほど焦燥を掻き立てられるのだから、人の心とは、心理とは、なかなかどうして面白く、かつ厄介だ。ほんとのとこ言えば手玉にとるのが面倒くさいから嫌いだ。
 蝶屋敷を後にした橋本はぼんやりと茶屋の軒先で空を見上げている。ほぼ真上を見るように見ている。珍しい出で立ちの男が魚の腹のように白い喉を晒して、珍しくもない夕焼け空を真面目に眺めているのを町人が訝しげに一瞥し、思い出したように帰路を急ぐ。
 橋本は不意に左手の薬指をべろりと舐め、視線の先にかざした。穏やかな風がどこからか夕餉の匂いを連れて指に絡まり、ほどけていく。

(西の風、湿度は低い。雲は無し。クソ、雨は降らねえな)

 風向きを確かめて、夕風がすっかり指先を乾かしてから橋本はすくりと立ち上がった。帰路を急ぐ人波の中に紛れる。もっとも、橋本がこれから向かうのは家路とは程遠かったのだが。
 からすがないたらかーえろ。
 すれ違った子供らが、きゃいきゃいと歌いながら通り過ぎる。橋本はぶつからないように洋外套の裾を捌きながら、その健やかな声音を聞いていた。
 よくできた子らだ。親の教育がいいと見える。橋本は胸中で繰り返し頷きながら、子供らの歌を思い返していた。橋本の頭上に一羽の鴉が旋回する。鴉は人目をはばかって人語こそ発さないものの、急かすような声音で鳴いた。
 鴉が鳴いたら帰ろ。その通りだ。鴉が鳴いたら、鬼の時間が始まってしまうから。
 橋本は泳ぐように人の間を抜け、足早に人混みを抜けた。やがて人気のない道に入って、橋本の肩に停まった鴉が鳴く。

「駆け足、駆け足。任務の地は浅草。任務の地は浅草」


***


「……候補には入れたけどさあ」
「何だお前ェ。言いたいことがあるならハッキリと言いやがれ。いやいらねえ、言ったが最後お前の舌を切り落としてやる」

 夜のとばりが落ちた浅草は、文明の利器たちによって夜間でも日中と遜色ない賑わいを見せている。仲見世通りから一本奥に入った路地裏に、その男たちはいた。風柱・不死川実弥と橋本新平、以下五名ほどの隊士である。
 嘘を言ったつもりもないし大袈裟にしたつもりもないが、御館様も大概俺のこと過大評価してるんじゃなかろうか。「大規模な」とか言ってしまったから、こんなに隊士動員されてしまった。一番呼んで欲しかったひとじゃないし。どうしようこれ。
 橋本は仕事前からぐったりとした顔で下唇を噛んでいる。実弥は自分が急にこんな人気のある場所の任務に来させられたことも、同じ任務にあたるらしい隊士どもの腑抜けた顔も、一風変わった装いの隊士の「もう疲れた」みたいな素振りも何もかもが気に入らなかった。

「どういうつもりだァ。説明しやがれ。そんでケツまくって帰れや。俺がカタをつけてやる」
「……そう言うと思って、もう疲れてます」
「あァ!?」
「あの、あの、話が進みません」
「黙ってろァ!」
「すまんな、この人癇癪持ちの赤ちゃんだから説明とか俺が全部やるから。ちゃんとやるから」

 最初こそ抑えたが、今度こそ実弥は橋本の横っ面を反射的に殴った。わりと強めに殴った。予測を上回る速度と威力で殴られた橋本は口の中をしたたかに切り、頬に手をやるころには吐き捨てられるほどだくだくと血を流した。
 思いっきり殴っておいて、実弥は瞠目していた。いくら致命傷以外は全部かすり傷の鬼殺隊士とはいえ、慣れ切っているのは鬼から受ける傷害であって、同じ人間から受ける傷害には弱いものがほとんどだ。それがどうだこの男は。「ああはいはい」で済ませそうな顔を、否、実際にそれで自己完結している顔をしている。にわかに信じがたかった。なんだ、こいつは。

「風柱様の挨拶が終わったようなので説明を始めますが、構いませんね」

 妙な気色の悪さにムズムズしている間に、橋本は口に含んで真っ赤になったガーゼを引き抜きながらモゴモゴと言った。

「今回の討伐対象は、おそらく細かい粉塵をまき散らす血鬼術を使います。ここしばらく、鬼殺隊としての被害は先月からですが、浅草近辺で異臭騒ぎと子供の咳風邪、腹痛などの体調不良、並びに数名の行方不明者が警察に届けられています。子供の咳風邪の正体は、おそらく軽度のじん肺です」
「……」

 じん肺とは、掘削現場などで生じた微細な粉塵を吸い込むことで粒子が肺胞の内側に入り、それが蓄積されることで引き起こされる重篤な呼吸器障害である。肺を丸洗いする手法が開発されていないため現代でも根本治療の手立てはなく、予防と対策しかできない。
 発症した人間の傾向が子供と鬼殺隊員に偏っているのは、子供はその背丈から普通の空気よりも低いところに滞る空気を吸う機会が大人よりも多く、鬼殺隊員はそのバカほど発達した肺で行われる常人離れした呼吸量が原因である、と橋本は推測する。
 ゆっくり、じっとりと獲物を弱らせ、動けなくなったところを襲う手合いだ。正直やりづらい。普通に隙見せたら襲いかかってくる奴らの方が五億倍やりやすい。橋本は陸の孤島的世捨て人なので人の心があんまりわからないが、だからこそ鬼の考えがわかるかと言われればそんなことも一切なかった。連中とて元は人間であるからして。

「行方不明者の多くは「十二階下の女」たち、いわゆる銘酒屋街の娼婦たちですが、このまま放っておけば被害者は絞れなくなっていきます。説明がいりますか」
「俺はいらねェ」
「風柱様にもわかるように言います。敵が使うのは細かい粒子ですが、そ」
「いらねェっつってんだろ!」

 実弥は先ほど殴ったのと反対側の橋本の頬を殴って踵を返した。後には両頬を腫らせた橋本と隊士たちが残される。始まる前から流血してるってどないやねん。橋本は懐から手ぬぐいを出して噛みついた。反対側もしっかり口内が切れていた。

「あの……大丈夫ですか……」
「大丈夫に見えるか」
「そうですよね……すみません……」

 髪の短い隊士が橋本を案じて声をかけるが、にべもなく言われてしまい、差し伸べようとしていた手ごと引っ込んだ。ちろっと見れば、その手は平均的な鬼殺の隊士よりも分厚いように見える。モゴモゴと口の中に手ぬぐいを当てながら不躾に見ているのに気づいた短髪の隊士は、指先を隠すようにして言った。

「生家が金物屋でして」
「鼻は利くか」
「人並みかと」
「そうか。金糸雀でも腰に下げておけ」

 かつて鉱山夫が炭坑などでの毒ガス発生を感知するために生きた金糸雀を入れた小箱を携え、中から鳴き声がしなくなれば人間が中毒を起こすより先にガス中毒で死んでいる可能性が高いのですぐにその場から撤収する、という手法になぞらえた橋本なりの精一杯の冗句だったが、そもそもがブラックだし隊士たちはその話を知らないしで盛大にドすべり散らかした。穴があったら入りたい。橋本はちょっと不機嫌になりながら首巻を口元まで引き上げた。

「……とにかく、今回の討伐対象は粉塵を使う。異臭騒ぎの通報からおそらく無味無臭ではない。捜索にあたり、各自の鴉を自身の上空で待機させろ。鬼を発見し次第上空の鴉に伝達、そこから鴉同士で情報共有させ、それぞれの持ち場から急行する方式をとる」
「あの、この作戦風柱様は……」
「放っといていい。これで死ぬようなら柱じゃない」

 橋本は至極当然のように言った。特性こそ厄介なものの、その捕食のしかたを考えれば、推測に過ぎないとはいえ鬼自体の戦力はそう高くはない。まして単独行動している風柱は聞くところによれば鬼殺隊入隊以前に独学独力で鬼狩りをしていたらしい。ならいけるだろうと思ってした発言だったが、隊士たちは揃って顔を青ざめた。この頃の橋本は未だ自身のあまりにも人を寄せ付けないばかりか攻撃的な物言いが「謀反、離反の疑いアリ」と時折査問にかけられていることを知らない。知ってから向こうは無口に磨きがかかることになる。

「そんで、もし鬼と遭遇したら呼吸を使うな。幸い諸君らは常中の体得までは行ってないようなので、抜刀時にだけ気をつければよろしい」
「呼吸なしにどう頸を斬るんですか?」
「気合。なんかうまいこと抑え込んで、うまいことてこの原理とか使って斬れ」
「そんな……」
「だから爆速で伝達をしろと言ったんだ。以上。索敵開始」

 促すように二度ほど手を叩いて、橋本はのんびりと歩き出した。残された隊士たちに課されたのは「目に見えない攻撃をしてくる鬼」を「感覚のみで探し出し」、「発見し次第爆速で情報共有」し、かつ「その場から逃がさないように遅滞戦闘」を、「全集中の呼吸すら無し」で行えという無理難題極まりないものだった。もぎ取られていた呆気が帰ってきたころ、隊士たちに微かな怒りが去来する。できるわけないだろ。こっちの気も知らないで。
 ただでさえ風柱様が動員されるような任務。生きて帰れる保証なんか元からない鬼殺隊、しかしその中であっても柱の任務に帯同するということは、命をもってして時間稼ぎをしろと宣告を受けたようなものである。隊士たちは‭どっしりと息を吐いて、冷え切った指先をこすり合わせてから各々捜索へ踵を返した。
 あの振る舞いが口下手なりの精いっぱいの励ましであり、自己犠牲であったと気づくのは無限城の中であることは、まだ誰も気が付いていない。
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