後編1
 ああイライラする。実弥は芝居小屋の屋根から街を睥睨し、幾度目かの舌打ちを鳴らした。

「その探し方ダメっす」

 いつの間にやら、音もなく隣に立っていた男が言う。先ほど二度も殴り飛ばした男――橋本だった。実弥は振り返らなかった。橋本も実弥を見ずに言っていた。

「鬼が使うのは言っちまえば毒ってだけで毒じゃありません。どこかで何人かが急にバタバタ倒れたりとかしません」
「うるせェ」
「俺が鬼なら、風柱様が鬼ならどう人を狙うかを考えて動いてください。会敵してから何とかする、とかいうアホ極めきった考えじゃたぶん痛い目見ますよ」
「聞き捨てならねェところが死ぬほどあるんだがよ、どこの骨から折られてェか言えや。言った順から逆に全身の骨ブチ折ってやらァ」
「人間、骨二百ちょいありますよ。全部折るんすか。暇っすね」
「死ねや!」
「俺が死んだらあんた無事じゃすみませんよ」

 そう言えば、実弥はやっと橋本を振り返った。いわゆるヤンキー座りのまま並び立つ橋本の顔をねめつけるには、ぐるりと首を巡らせなければならなかった。ねめつけられたその顔は、瓦斯灯の光を含んだ夜風を受けて、かすかに笑みを湛えたように見える。腹が立つ顔だった。両頬を腫らしているのに、ちっとも痛くない顔で深慮を巡らせている。その眼差しの真っ直ぐさがなぜだか腹立つ感じがした。実弥はぐいぐいと曲げていた首を元に戻して、げんなりとした顔で言った。

「じゃあ対策吐いてさっさとくたばりやがれ」
「無理っすね。まだやりきってないこと山ほどあるんで」
「そうかよ」
「そうです。そろそろ本題いいすか?」

 別に回り道をしていたつもりもない。どうにも間合いの掴みにくい話し方をする男だな、と実弥は更にいら立ちを募らせて黙った。

「今回、御館様からの下命だったと思いますが、その感じだと理由は聞かされてなさそうですね。違いますか」

 口調こそ問いかけであるものの、その声音ときたら「何か間違ったことを言っているか」と胸倉を掴み上げていないのがおかしいような声だ。問いかけの時点で既に断定されている。実弥は返事をしなかった。沈黙が肯定であったのだが、なんだかその問いかけられ方が本当にマジでいっそ悲しくなるくらい腹が立ったので返事をしなかった。

「今回、蝶屋敷で増えている原因不明の呼吸器系疾病の隊士と、ツテに集めさせた浅草近辺の通報記録、警察の出動記録からアタリをつけたこの鬼は、おそらく目に見えないほど細かい金属をまき散らしています。呼吸器系疾病以外の「体調不良」と括られている症状のほとんどが金属中毒の症状と一致します。討伐記録群のなかでは比較的珍しい部類に入る、「こちらの呼吸を封じる」手合いの鬼です。だから、俺から御館様に推薦書というか、要望書というか、蟲柱様の介添えを頂いて提出しました」
「それと俺に何の関係がある」
「要望書には、この任務に俺と、呼吸を使わずに鬼の頸が切れる剣士を向かわせてくださいって書きました」

 実弥は勢いよく、今度は体ごと橋本を振り返った。まさか、自分が鬼殺隊に入る前に野良で鬼狩りをしていたことまで知っているのか。問い質すような視線を送っていると、気づいたらしい橋本が「知ってますけど?」と首を実弥のいる方の反対に傾げて言った。傾けた分だけ視線の角度が変わり、意図してかせずしてか、見下すような形になる。それに気づいた実弥が今一度殴りかかろうと腰を浮かせる選択をした瞬間、橋本は実弥の隣にしゃがんだ。

「呼吸を使わずに鬼の頸を斬ってください。できますね。できないわけないでしょ、やってたんだから」
「……粉塵、なら、散らしゃァ良いじゃねえか」
「だから呼吸を使うなって言ってんのがわかんねえんすか。粉塵を散らすのに型使ってちゃ、最悪散らした時点で行動不能になります。誰がその後鬼の頸を斬るんですか。別に俺でもいいですけど。場合によっちゃ俺明日から同僚ですよ。よろしく」
「死ね。俺が斬る」
「じゃあ今回の鬼殺に限り呼吸は使わないって誓ってください」
「何にだよ」
「ご自身の信仰でどうぞ。俺の推薦書読んだ御館様からの下命でやってるわけですし、御館様でいいんじゃないすか」

 ああ本当にイライラする。心底やりづらい。普段であれば多少のクセ者や生意気な隊士は二発も殴れば大人しくなるし、そもそも実弥が目の前に立てば恐れをなして黙った。それで黙らないヤツだけはマジのバカだったので二発くらい殴ったが。
 が、今隣で夜の浅草を眼下に眺めるこの男は、どうにも訳が違う。
 実弥はいわゆる「偏差値が低い切れ者」である。普段の粗暴な振る舞いも、すべてが癇癪というわけではない。出過ぎた杭は撃ち、出てこない杭はフルスイングでケツを叩き、威圧でもって彼なりの治安維持に努めてきた。これの悲しいところは、基準が「実弥」なところである。彼が法なのだ。
 この男に感じる違和感は、「空虚」であった。何もない。あるにはあるのだが、森を見て「あそこに生えてる草の名前が……」となる人間が多くはないように、ただ漠然としたものしかなかった。なにかの機構の一部のような、大海原の海岸のような感覚がある。
 実弥はこの手合いが大嫌いであった。彼我でロジックが食い違っている。生きている理が違う。鬼ともまた違う、人の形をした別の生き物と対峙しているような気がした。身近で言えば当代の炎柱がそうだった。そういう手合いは顎の骨を折っても頬の骨を折っても「ふーん」で済ませてしまう。細かいことを言えば双方で使う言語の差、対話に用いるのが理屈か肉体言語かの差であるのだが、実弥はわかりやすい言語での対話が見込めない相手がどうにも苦手で仕方なかった。
 バレれば最後「人間より野生動物と付き合う方が楽そうな性格っすね」とか言われそうなもんなので、意図の窺えなくなるほどの渋面を浮かべていた実弥に、隣に座った橋本は珍しく顔ごと実弥を見て、ド級に珍しく笑みまで浮かべながら言った。

「誓いましたか。信頼してますからね」

 なにが信頼だ。実弥はいよいよ本気で怒髪が天を衝くかと思った。
 どの口さげて信頼とか抜かしよるかこの男は。やってることが脅迫以外の何物でもない。浮かべ慣れていないわりに内から湧いて出たような微笑みは、「齟齬にすれば許さない」のポーズでしかなかった。顔こそ笑っちゃいるが目がすこしも笑っちゃいない。
 無窮の底なし沼を睨み返せば、その中に目つきの悪い自分が映っているのが見える。鏡だった。何ぞ知りゃせんが何某かに「呼吸は使いません」と誓ったろう、俺がその証人だ、齟齬にされることがあれば俺が許さん、と鏡面のくせに雄弁な目が語る。実弥は橋本の眼の中に映る自分にメンチを切り、「ケッ」と視線を逸らした。

「……あれっ」

 不意に橋本が驚いた声を上げた。

「ァんだよ」
「いえ、知ってる人がいたもんで。避難誘導してきます。今晩ここにいるのはヤバい」
「放っとけや。きりがねえぞォ」
「ほんと肉体言語が第一母国語だなアンタ。じん肺に治療法はありません。一晩で発症するほどじゃないにしても、金属中毒も起こさない保証はどこにもない。それに、読みがあってれば鬼はそろそろ豪勢に食い始める頃です」
「豪勢に? そいつはどういう意味だァ」
「この血気術、鬼殺隊になくてはならない呼吸とバカほど相性がいい。鬼舞辻がこれに気付けば、間違いなく強化を図るでしょう。実際行方不明者すべてがこの鬼によるものだとすれば、報告件数は徐々に増えてきてます。過去の報告書でも、同一の鬼との会敵記録では「追ってたけど仕留めきれないのがしばらく続いて、そうこうしていたら一発ドカンとやられてしまった」みてぇな旨の記述は少なくないです。あいつらにも「あ俺もっと食えるな、食えるようになってきてるな」って気づく瞬間があるんでしょうね。それが今夜じゃないとは限らない。今夜ブチかまされるつもりでいた方がいいでしょう。マジで大山鳴動して鼠一匹が一番いいんすよ、どうせ揺れるのは俺たちなんですし」

 実弥が「ふーん」と思っている間に橋本は「じゃちょっと行ってくるんで、動くなら勝手にしていいですけど、会敵したら鴉飛ばしてくださいよ」と言い捨てて路地裏に降りた。実弥が橋本にそう思ったように、二人は使う言語が違うので何を言われようが実弥も大体は「ふーん」で済ませられてしまう性質であったが、今のは「そういう考えするやつもいんのか、ちょっとおもしろいな」の意を含む、微かな感動の「ふーん」であった。
 橋本は目抜き通りに出て、目当てらしい人物に声をかける。不惑ほどの女性は何やら小ぶりな包みをもって人を探しているようだった。二、三言交わして、はっとしたような顔をした橋本は、女性から包みを受け取って、厳しい表情でなにごとかきつく言い聞かせている。たぶん「ここは危ないから早く帰れ」とかそこらへんだ。
 言われたとおり帰るらしい女性の後ろ姿が人込みに紛れたころ、橋本は焦った形相で実弥を振り返った。一部始終を眺めていた実弥はまさかあいつがこっちを向くとは思っておらず、ちょっとだけびっくりしながら次の挙動を待った。
 橋本は人混みを押しのけて、さっき通った路地裏から再び芝居小屋の屋上に戻ってきた。顔には焦りが伺える。

「鬼の狙いがわかりました。凌雲閣を利用した大量捕食です」


***


 どうせならカミさんと来たかったなァ、チクショウ。
 東はブチブチと不満として形にならないギリギリのところで繰り返し悪態をついた。夜の浅草、カミさんとデェト。くそー、好いた女の喜ぶ顔、見てえ。
 こんな時間まで働いているのには理由がある。凌雲閣で再び異臭騒ぎの通報があったからだ。所属する月島署からは距離があるものの、思うところあって自主的に避難誘導と調査の手伝いを志願してしまった。

「あんちゃんに近づくなって言われたけどなァ。こちとら天下のお巡りさんよ、素性どころか戸籍も割れねえ一般人に言われて黙っちゃられねえのさ」

 背の高い、いつも寝不足な顔をした学生を思い浮かべる。時折「どこどこの通報記録ぜんぶ用意しておけ、この日にいくから」と連絡を寄越し、その日はマジで丸一日びっちり本の虫になって、暮方に焦って帰っていく。東にしてみれば正直いい迷惑なのだが、不器用ながらもなにかに向かって愚直に爆走するさまを応援せずにはいられないような、応援することしか許されないような気迫は好感が持てた。
 だが。だからこそ。ふた回りほども年下のガキンチョにされっぱなしというのは、東の気骨も警官としての矜持も許さなかった。ようやく身の程を覚えた頃だが、それはそれ。いつだったか落ち葉に飛び込んで遊ぶ子供よろしく調書に埋もれて思考する口から、「一般人の被害が馬鹿サならね。警察何やっでらんだべな」と零れたのを思い出す。その時は「オイ、その警察さんがここにいるってんだい」と怒ったものだったが、あれも彼なりの一般人への心配だったのだろう。致命的に言葉選びが悪すぎるせいで反感を買いやすいだけで。
 素人に言われちゃ黙っちゃいられやしねえ。市民生活の安全を守る玄人の東が、おっかなびっくりながらも橋本の指示に逆らって動く理由はそんなところだった。

「……にしても、確かに臭ェなァ。何の匂いだ、気分が悪いったらねェ」

 東はギュイと鼻をつまんで辺りを見回した。近くに池があるせいか、いつも水の匂いがする場所ではあったが、今夜ばかりは得も言われぬ臭気が重く横たわっている。その空気は、ただ普通と違う物質の他に瘴気が混ざっているのかと思うほど、いろんな意味で異質だった。ここに居れば居るだけ体力も気力も奪われていく心地がする。先行していた警官が言うには「瓦斯ではないらしい」とのことだが、じゃあ何だってんだ。具合悪ィ。東が口と鼻を覆おうと背広のポケットに手を伸ばした、その瞬間だった。

「おやっさん! アンタここには来るなっつったべや! バカでけえ声出すために脳細胞サ腹筋に回したんでねぇべな!?」

 驚いて振り返れば、つい先ほどまで思い浮かべていた学生が、奇妙な詰襟を着て、凄まじい勢いでこちらへ駆けてくるところだった。後ろにもう一人、白髪を逆立てた地獄みてえな目つきの男がいる。二人の鬼気迫る表情が、東の手を虚空に縫い留める。固まったままでいれば、橋本は直前で急ブレーキをかけて砂利を東に蹴立てた。

「何やってんだアンタ!」
「お……オウこの野郎! いきなり飛び出てベヤベヤうるせえな! びっくりしたじゃねえか!」
「質問に答えろ!」
「おめえ何だその恰好! あっ刀なんか持ちやがってお前! 俺の目が騙せるたあ思ってねえだろうな!」
「いいから!!! 何やってんだアンタはここで!!!!」
「おめえさんも声がでけえぞ!!! 普段からそんくらいシャキシャキ喋らねえか畜生め!!!!」

 売り言葉に買い言葉、もとより「火事と喧嘩は江戸の華」とかいう北欧みたいな血の気の多さの江戸っ子相手に喧嘩腰で喋りかけたのが間違いだった。時代は前後するが、北欧には「日照時間が少なくて外で遊ぶ時間がないから、若者たちの趣味はもっぱら地下にこもってデスメタル」なる通説がある。真偽のほどは定かではない。閑話休題。
 橋本は「ああもぉ〜〜ッ」と忌々しげに頭を掻きむしり、ぐちゃぐちゃになりながらも周囲をつぶさに観察した。この時間帯の凌雲閣にしては、中に人がいるにしても、建物の外で見物している人間もほぼ居らず、かわりに物々しい警官が何人か立っている。

「一般人避難させたのか!?」
「ああそうだよ異臭騒ぎの通報でな! ここにゃあ仲間と瓦斯会社の調査員しかいねえさ! 中にいるのも数人がいいとこだ!」
「数人いるんじゃねえかバカが! そいつらもさっさと退避させろ! 死ぬぞ!」

 橋本が勢いのままに叫んだのを、東は聞き逃さなかった。

「……あんちゃん、俺ァお前に謝らなきゃいけねえことがあるんだがよ」
「それ今じゃなきゃダメっすか」
「オウ。俺なぁ、お前に寄越す書類の中からわざとある事例の記載のあるやつを抜いてたんだよ。っつーのもな、失せ人が続いた場所にふらっと現れては消えて、そのあとその地域では失せ人が出なくなるっつう詰襟の集団の記録なんだがよ。あんちゃん、もしかしなくてもその詰襟だな」

 橋本は頭に上っていた血がぐんぐん引く音を聞いた。こいつ、いつから。どうして。どうすればいい。一般人に鬼殺隊の存在を勘付かれてしまった。隣でずっと黙っていた実弥の殺気が爆発するのを感じる。目を見開いて物言わぬ彫像になってしまった橋本に、しかし東は呆れたような笑みで続ける。

「やっぱりな。俺の勘を舐めるなよ。……それならそれでいいんだ。俺たちにはできねえ方法で、あんちゃん達も一般人を守ってんだろ。あんちゃんがそこまで言うなら、この異臭騒ぎは俺たちが手出しできる事件じゃねえってことだな」
「……ッス」

 短く答えた橋本の顔は、こんな状況でさえなければ面白おかしくて仕方なかった。悔しい、わからない、腹が立つ、そんなようなのをまとめて鍋にぶちこんだような顔をしている。東はこの瞬間はじめて橋本を出し抜いていた。ああ愉快愉快、こんな状況でさえなければ。

「なら、ここはあんちゃん達に任せる。餅は餅屋、風吹けば桶屋が儲かるってんだ。そうだろう」
「俺たちは餅屋じゃないし儲かるのは寺と火葬場ばっかりっすよ」
「洒落のわかんねえガキだなァ〜!」

 東はガララ、と笑って、改めて言った。橋本の眼を真っ直ぐに見ながら。

「全責任は俺が取る。この事件の解決を、諸君らに一任する。警察は協力の立場をとるものとする。やってほしいことがあれば何でも言いな。いっちょ共同戦線といこう!」
「……その言葉、三割までは信じますよ。そうなりましたんで、いいですね風柱様」
「……俺は知らねえぞォ」

 橋本は東の目も実弥の目も見ずに答えた。言うや否や、ツイと木立に顔を向けて「金物屋の息子!」と声を上げた。枝の上に隠れていたらしい詰襟の若い男が降り立つ。

「は、はい! 村木です」
「金属の匂いはするか」
「します……かなり金臭いです」
「金属の種類は判別できそうか」
「鉄と……銅っぽい感じがします……」
「判別がつくほど濃いなら、不味いな。村木隊士、中にいる奴らは俺と風柱様が踏み込んで退避させる。誘導はお前と隠に任せる。おやっさんはなるべく一般人をこの建物から遠ざけてください。金属中毒もそうですが、このまま濃度が上がれば一定の瞬間で粉塵爆発を起こす危険性がある」
「ば、ば爆発だァ?」

 空気中で一定の濃度になっている粉塵が燃焼すると、その燃焼が瞬時に伝播し驚異的な爆発を引き起こす場合がある。こと金属にあっては粒子が細かければ細かいほど酸化の過程が通常と異なる挙動を示し、より不安定になるため、ものによっては空気に触れただけで爆発を起こすものもある。粉塵爆発には粉塵雲、着火元、燃焼に使う酸素の三つが条件であるため粉塵の濃度が上がりきるか下がりきるかすれば爆発は起きないものの、現状ではおそらく上がり続ける一方で、そうなってくると爆発の危険が遠のくのが先か、シンプルに呼吸ができなくなるのが先かといったどっちに転んでもよろしくない結末しか待っていなかった。ババしかないババ抜き。クソゲーである。
 結局のところ、ババを持っている鬼をぶん殴って頸を落とす以外に方法はない。鬼に試合もクソもないが、反則で無効試合のゲームを一刻も早く終わらせなければ、万が一下手をすれば浅草の一区画が地図から消えるかもしれなかった。シャレにならん。
 橋本は打開の策を次々と思い浮かべては可能性ごとにはじき出し、最終的なプランを決めた。持ち道具を確認しようと洋外套のポケットを叩こうと手を挙げたところで、ふと先ほど預かっていた風呂敷を思い出す。

「おやっさん、島田さんが近くまで来てました。これ届け物だそうですよ。隅に置けねえとか言って何だアンタ」
「あ!? カミさん来てたってか!? 馬鹿野郎とんでもねえなすぐ帰らせただろうな!?」
「は? なに?」
「カミさん! 俺のいいひと! 爆発するかもしれねえってんだろ帰らせただろうな!?!?」
「は???」

 両成敗を申し付けた頃には、村木の顔は憐れなほど疲れ切っていた。仕事はこれからなのに。なんせ俺たちの夜は忙しい。
 整理すると、東は島田の家に婿養子として籍を入れたらしく、しかし職場で長いこと東と呼ばれていたので「島田」と呼ばれても反応できず、島田も「まぁいいんじゃないですか、あなたと夫婦なのは変わらないし」と快諾したので、職場では旧姓で全て片が付くようにしたのだそうだ。東のオフィスにかけられている名札が「島田」なのは一応体裁上の仕様であった。

「なんでもご先祖が新選組なんだとよ。ご先祖の武勇が好きだから名前に思い入れがあるってんで、なら俺の苗字変えちまえばいいかってな寸法よ」
「あー、それで。これ預かる時「あのひとに何かあったら、ご自宅まで旗を胴に巻き付けて槍を持って伺うわよ」って言われました」
「豪胆な嫁さんだろ」
「おやっさんもですよ。見た目に反して頭やらけーな」
「もう慣れたぞ! このくらいじゃあ怒らねえよ!」
「えっ!? いたた!」
「とか言いながら何すかその手。キレんなら俺にキレれや」

 東は受け取った包みをすぐにひん剥いて、風呂敷を村木の肩に拳ごとぶつけていた。事実上の肩パンである。「あん?」と訝しげに東は続ける。

「相手が粉塵だってんなら、口元覆うものはあった方がいいだろうが」

 橋本は虚を突かれたような顔をして、村木は感動に打ちひしがれながら感謝を述べていた。実弥は無感動そうな顔でその様を見ている。
 いやわからん。なんでこいつ会ってすぐの人間にこんなことできるんだ。こんだけキレるほど大事な妻から預かった風呂敷、これから死ぬかもしれないヤツにおいそれと貸すもんなのか。なんだこれ。人間まったくわからん。警戒って知らんのか。知らないんだろうな、知ってても漢字で書けなさそうな顔してるしな。
 余計な思考でグチャグチャしはじめた頭を一度振って、橋本は村木に向き直る。村木は東から渡された風呂敷をきつく握りしめて、覚悟を決めたような表情をしていた。

「村木隊士。決める覚悟が違う」
「はっ?」

 弾かれたように村木が橋本を見る。橋本は弾かれたように村木から目線を逸らした。

「決めるべきは死ぬ覚悟じゃない。おやっさんにそれを返す時に五体満足でいる覚悟を決めろ」

 村木は橋本の傷のないほうの横顔を見て、もしかして今まで自分はとんでもない思い違いをしていたんじゃないかと思った。元より邪道の鬼殺隊、どれだけ強かろうが、どれだけクズだろうが、どれだけ優しかろうが、そこにいる人は皆どこか狂人に違いないのだ。自分は視野の狭さ。橋本は他人に向ける言葉選びの感性がバカだった。それだけなのだ。
 東が村木の肩を激励するように叩く。その様子を視界の端に認めて、橋本はひとつ常中でない呼吸をついて夜闇を見上げた。
 十一階にきらめく二個の五千燭光のアーク灯は、さながら眼のようであった。浅草の摩天楼・凌雲閣は、一層増した瘴気を孕んでそこにいる。

「……おいお前ェ」

 ずっと静かにしていた実弥が口を開いた。橋本が凌雲閣を睥睨しているうちに、村木と東は行動を開始したらしい。その場には二人しかいなかった。

「鬼殺隊の存在が一般に知れた。これが終わったら裁判だ。お前の態度もきっちり証言してやっから、せいぜい楽しみにしてろやァ」
「それなら風柱様もですね。俺この顔で行きますから」

 見向きもせずに橋本は言った。「隊士同士の私闘はご法度」に言及しているらしい。私闘、というよりは私刑なのだが、腫らした頬は証拠としてはある程度の効力は持つだろう。ああもう本当に気に入らない。鬼殺隊に適正検査とかあればいいのに。入隊時点で「コイツ人格がダメだな」ってなった奴を全員除隊になるみたいなやつ。実弥はケッと首を傾けながらそんなことを考えた。万が一その検査が導入されたら真っ先に落第する対象に自分も含まれていることは自覚していない。
 そんな実弥の眼前に、ふと赤いものが差し出される。面倒くさそうに目線だけで辿れば、それは橋本の首巻であった。橋本は未だ凌雲閣を隅々まで睥睨しており、こちらには目もくれていない。

「ンだこれァ」
「俺のお袋です」

 実弥は橋本の顔を見ずに、じっと首巻を見ていた。ひどく使い込まれたそれは、もともとはとても上等なものであったのが伺える。顔を見ずとも、橋本がどんな思いでこれを差し出したのか、実弥には悔しいながらも実体験から理解していた。

「言いたいことわかりますよね?」
「舐めた口きくんじゃねェ。俺を誰だと思っていやがる」
「腕の立つゴロツキ」
「死ねや」

 もし村木がいれば、冷や汗をダバダバかきながら決死の覚悟で間に入っていたかもしれなかった。が、橋本はともかく実弥は、唇の端に奇妙な笑みを浮かべるに留まっていた。
 クッソクソ腹が立つ。どうしてこんな人間が今日まで生きてこれたのか、まったくもって理解が及ばない。考えようとすら思わない。そう思うことすら忌々しい。
 だがこいつ、面白い。
 実弥は首巻をむしり取って、存外丁寧に首に巻き付けた。鼻までしっかりと覆って、オラ望み通りかよと橋本を一瞥する。橋本は「むしり取ってんじゃねえ、丁寧に扱えっつってんだよ」みたいな顔をしながら、ムツリと不機嫌な顔をしている。つい数分前の実弥なら殴りかかっていたが、なぜだかこの男が存外面白い男だとわかってしまえば、確かにクソムカつきはするのだが、それでも拳を握るまでで我慢が出来た。
 戦闘狂である、と実弥は自己を理解している。使えるものをすべて使って、一匹残らず鬼を滅殺する。そのためなら何でもできる。何だってやってやる。実際できる。やってきたし。勘とセンスと経験、いわゆる本能だけで構成されていた実弥の戦いの世界に、この橋本という男は、理性を持ち込んだ。彼我のロジックは噛み合わない。片や理性、片や本能、一人の中でならともかく、それぞれを突き詰めた人間が二人寄り集まって、一瞬でピッチを合わせろなど死者蘇生より無理難題である。
 しかし、彼我にひとつだけ共通するものがあった。どちらも『武装である』という点。橋本の戦い方は理論で武装したもの。突き詰めた行く末は違えど、その根本には揺るがしようのない共通点、鬼への殺意がある。
 実弥は奇妙な感覚を覚えた。橋本が「ぼちぼち行きますか」と溜め息を吐いたのを聞いて、奇妙な感覚が音を持つ。実弥は新鮮な驚きでもって、その音をこう聞き取った。
 わくわく。


***


 バカにも程がある。低いところに停留する特性、行方不明者の最終確認地点の集中、地理。もとから答えはすべてここにあった。橋本は自分の頭にツバでも吐いてやりたい気持ちでいっぱいだった。鬼の狙いは「金属の粉塵を混ぜた比重の重い気体を高所から垂れ流し、凌雲閣全体をガス室にして観光客全員を行動不能にしたうえで食い、漏れ出た気体で金属中毒ないしじん肺を発症した者は自宅療養の際を狙って食いに行く」だ。長い。長いが、浅草を長期的な狩場として成立させつつあった知能とその血鬼術の面倒くささを思えば、ああ本当に今日で討伐しねえとマジで手つけらんなくなるな、と重たい息が出る。
 橋本はまだ中にいたらしい一般人を実弥と共に退避させ、さて人っ子のいなくなった凌雲閣内部でどっしりと溜め息を吐いて、思い出したように口元に洋外套の袖を押しあてた。

「で、居所の予想はついてんだろうなァ」
「エレベートルです」

 以降は口馴染みのある「エレベーター」で表記する。浅草凌雲閣は日本で初めて直流電動機式エレベーターを備えた高層建築物であった。地階に設置されたモーターでМ字状に連結されたワイヤーを交互に巻き取り、二機のかごを一階と八階のみで運行させる交走式の珍しいエレベーターは、設置された建物の高さと相まって開業前から民衆の関心をつよく引きつけたが開業初日から故障したらしい。

「モーター部に潜んで血鬼術を発動させ、それを知らない人間がエレベーターを稼働させれば、エンジンのピストンみてーに粉塵が建物内に送り込まれていきます。一歩も動かずに複数の獲物を行動不能にして、動けなくなったところでやっと夜間に狩りに出る。反吐が出ますが、賢いですね」
「何言ってるかひとっつも理解できねんだよ。何だァぴすとんって。日本語喋れやァ」
「柱になる時に筆記試験とかないんですか? ああいやないか、ないから柱なのか」
「裁判楽しみにしておけよマジ」

 作戦はこうだ。
 凌雲閣の内部には交走式のエレベーターがあり、八階付近までぶち抜かれた柱状の空間、昇降路が三本ある。ロープを通すために天井で繋がった三叉状のそのどこか、おそらくはモーターが設置されている真ん中に鬼がいる。建物の構造なんか知ったこっちゃないが、開業当初から故障ばかりのエレベーターをまさかメンテナンス一回もしてませんなんてことはあるまい、つまり人が入れる程度の空間はあるだろうと予想し、橋本と実弥でかごの通り道を分担、中央に追い立ててから頸を斬ろうというものである。
 作戦を聞いた実弥の行動は、マァ早かった。橋本が「右と左、どっちがいいですか?」と訊くまえに乗り口を蹴破り、かごの天井を殴り壊して昇降路をワシワシと昇り始めた。ああ第一母国語が暴力の人間はこれだから。橋本は乗り口の扉を元に戻し、ちょっとした八つ当たりとして内側からは開かないように細工して反対側に回った。

「ウオ」

 実弥がカチコミしたのと反対側の昇降路に入った橋本は、その有様に思わず呻いた。空気がヤバい。全集中どころか普通の呼吸もしんどいまである。橋本は実弥に首巻を貸したことを早くも後悔しながら、昇降路を登ろうと壁面に足をかける。
 その瞬間。

 絶叫。それは肉声でもあり、金属音でもあった。橋本は反射で足をかけていた壁を蹴り、開け放していた入り口から飛び退る。壁を蹴ったつま先のすぐ先を、轟音とともに落ちて来たかごがかすめた。十人乗りに耐えるはずのかごはその重量と速度から、橋本にちょっと経験したことがないほどの衝撃と轟音、オマケみたいに異臭の濃い空気を届けた。正しい使用用途じゃない、と橋本は胸中で唾を吐く。届けるべきものが違う。
 しかし「理性」の橋本は「ああ、かごか」と特に驚きもなく頭の深いところで理解し、「落ちて来たってことは、頂上まで遮蔽物ないな」と、先ほどの退避よりも早く、再び昇降路に、かごの上に飛び込んだ。橋本が飛び込むと同時にかごは再び巻き上げられ、たわんだ客車がこすれて金属音を上げてながら上昇していく。橋本は「この高さを呼吸なしで駆け上ることに躊躇がないんだなあ、柱ってバカばっか!」と大声を出した。聞いているとマジで気が狂いそうな金属音だったので。
 かごの上昇がとまる、と知覚したときには、実弥の背中が橋本の眼前に迫っていた。特に感慨もなく避けると、ロープにぶつかって止まったらしい実弥が「クソボケがァ!」と大声を上げた。呼吸量が増えそうなことを進んでするなバカたれ。片隅で考えながら、ぶっ飛んできた実弥を避ける動作をそのまま移動に置換し、実弥が飛んできたほうへ飛び出す。
 思った通りだ。自分が乗ってきたかごが八階まで来たのなら、実弥が天井を殴り壊した客車はいま一階にある。実弥が上がってきた昇降路側の八階の入り口ががら空きなのだ。橋本は空中姿勢を反転させながら、質量のある影とすれ違う。八階の扉に背中からぶつかることで立ちふさがった橋本は、おそらく鬼の頭部が飛んでくるだろう場所に日輪刀を勢いのまま振り降ろした。

「ぎゃあ!」

 文字通り頭を抱えて飛び退る影――鬼は、比較的若い女の見た目をしていた。たたらを踏んでいる背に実弥が重ねて一太刀。これは浅い。二人とも常中をしないように意識することに精一杯で、もちろん普段の威力を出せていない。普段と違うまばたきをしながら本を読めと言われているようなものである。

「どうしてよォ、どうしてよォォ」

 鬼は治りの遅い傷を抱いて悶えた。ぼうぼうと吐き出される吐息は、確かに金属を含んでいるのだが、それ以上の理由で一層黒く見えた。

「どうしてアタシの写真が飾られないのよォ!」

 鬼は吠え、八つ当たりのように鉄の息を吐きながら巧妙に左右の客車を吊るワイヤーを引いた。巧妙にワイヤーの隙間を飛び回っては爪や牙で襲いかかり、避けたと思っても息がつけない。今や普通の呼吸すら憚られるほどの物理的な空気のざらつきは、呼吸の剣士の動きを着々と蝕んでいる。橋本は隊服の裾を必死に口元に押し当てながらなんとか息をした。ふつうの呼吸ってこんなにしんどいもんだっけか。すっ飛んでくるのが攻撃だけじゃなく身内(しかも上司)と客車、全部避けながら攻撃しなきゃいけなくて、でも呼吸は使えない。クソ過ぎる。思ってたよりキツいかもしれん。
 弱気ととるべきか超現実主義ととるべきか、希望を一切介在させない橋本の思考が煮詰まりかけるとき、実弥は「クソが!」と吠えた。この空気の中でこれだけの大声を出せる人がいれば、まだいける。まだ思考は繋がっている。思考がまだ繋がっているなら、勝機を繋がなければならない。橋本は幾度目かの客車を見送って、実弥にも教えていないある作戦のための機を待った。
 転機はあっけなかった。

「クソッ!」
「オあマジか!?」

 橋本と実弥、二人が同じかごの天井に着地した瞬間を狙って、鬼がワイヤーを爪で切断した。
 まさか炭素鋼も切れる爪をしているとは。橋本は、ああ鬼が死んだら灰になるの勿体ない、絶対に使い道があるのに、と論点のずれたキレ方をした。
 客車が自重に従って落ちる速度のほうが、実弥と橋本が落ちるよりも早かった。二人は空中に投げ出され、すぐに掴めるものといえば互いしかない。気骨の合わなさが手を伸ばすのをためらった瞬間、無慈悲にも鬼は昇降路の天井を蹴って追撃を仕掛けた。
 いくら体幹がバケモノみたいに強い風柱といえど、普通の呼吸すら憚られる状況で、どうこれを打開するか、迷った。というよりも、橋本に任せてみたかった。このくらいならおそらく食らっても死なないし、もし食らうなら先ほど感じた高揚はまったくの勘違いだったと証明できる。戦場において貴重な一瞬を、実弥は橋本に視線を投げるのに使った。

「は?」

 視線を向けた先には、布しかなかった。あこれアイツの着てる妙な上着じゃねーか、と気づいた瞬間には、横っ腹に衝撃。実弥は衝撃を本能で分析する。この感じだと、蹴られた。
 顔に橋本の外套を投げつけられたうえ、蹴り飛ばされた。状況理解よりも先に怒りが来た。やっと姿勢をなんとかして外套をひっぺがすと、実弥の目に入ったのは、落ちていく客車の天井に叩きつけられ、したたかに背を打ち付けた衝撃に大きく息を吸った橋本の「あっ」の顔だった。
 やった。あいつ。終わった。吸った。

「ぶはッ」

 橋本はすぐさま血を吐いた。実弥は、理屈はよくわからんが、あれはたぶん死んだなと思った。死ぬ奴にかまっている余裕はない。すぐにでも鬼に視線を戻さなければ今度はこちらが危ないのに、実弥の目は橋本に縫い留められていた。
 顔色が悪い。血も吐いている。きっと細かい粉塵が混ざりでもしたんだろう黒い汗をびっしりかきながら、それでも笑っていた。
 なぜ笑う。実弥は昇降路よりも深い暗闇みたいな目が、ぎろりと輝いているのを見た。目が、合った。
 あ、ありゃバケモンだ、と。頭ではなく、背骨の真ん中らへんでそう思った。狂信者とか、そういう言葉が似合うかんじの顔だった。顔が笑っていても、目が笑っていなかったのだ。表情と全くかみ合っていない目は、実弥の耳元に声なき声で囁いた。

「見せ所だぞ、韋駄天。露払いの意地、見とけ」

 ついさっきだ。似た感覚を覚えた。脅迫だ。信じているからやれ、お前を信じた俺が言うのだからできる、できる出来ないではなくやれ、と。底なしの暗闇は、その奥に確かに実弥と同じものを湛えて、光っている。真っ黒な橋本の双眸が遠くなって、実弥はやっと橋本から視線を外した。鬼は未だ満足そうに落ちていく橋本を見ていた。

「オラァ! テメエの相手はこっちだ!」

 吠えたてると、鬼はこちらを向いた。今、あいつは何かを企んでいる。その邪魔をさせないための一瞬を、繋いだ。


***


 橋本は口の中でグチャグチャになっているガーゼを引き出しながら考えた。実弥に殴られた際に口の中の血をたらふく染み込ませたガーゼだった。どこかのタイミングで「弱っている」芝居の小道具として使えればと思ったが、そんなことせんでも結構しっかり気管をズタズタにしてしまった。
 にしても痛えが。橋本は血を吐き出しながら落ちる客車の天井の上で起き上がる。恐らく速度が足りない。橋本は胸を押さえた。肉の奥からはガラガラと聞き慣れない音がしていて、血の味がする唇を噛みそうになるが、そんな余裕すらない。スピード勝負の作戦が始まっていた。
 繰り返される客車かごの上げ下ろしと絶え間ない鉄の吐息によって、橋本と実弥がいたエレベーターの機構中枢部はもちろんのこと、かごを挟んで地階がわの昇降路にも今やすっかり金属の粉塵は入り込みまくっていた。それがうまく働くかはわからない、正直一縷の望みかもしれない、でも事故って「起こらんやろ」って思った時ほど起きるものだし。
 刻一刻と迫る地面に間に合うように橋本は立ちあがり、今日一番の凶悪な笑みを浮かべた。

「一回やっちまったんなら二回目、やっても変わらねえし、どうせしばらく肺は、ダメだ、ここらで試運転、しとくか」

 言い切ると同時に息も吐ききった。が、吸い込む息はふつうの呼吸でも全集中の呼吸でもなかった。
 例えるならば、大きな肉食獣の唸り。爬虫類の喉鳴り。橋本は日輪刀を上段に構えた。
 首巻が無ければ、洋外套が無ければ、この隊服はこんなにも動きやすいものだったのか。しかし、今橋本の胸に去来するのは感心と負けん気と、寂しさ。いつだって双肩にあった父と母の重みが、今は無い。ちょっと心細かった。
 いつか、遠くないうちに自分は死ぬと思う。それならそれでいいと思う。橋本にとっての世界は、凄惨な過去ゆえか「守るべきもの、でもそこに俺がいる必要はない」で完結しつつあった。自分のような目にあう人が一人もいなくなればいい。誰もがただ人の世で生きていければいい。人でないものは、ただ人の営みを見守るべきだ。きっと観覧席みたいな場所がある。
 いつか、そこに行く。橋本は既に自身が純然たる人間からは離れていることを自覚していた。確かに力は求めたが、それで本当に人間がやめられちまうんだから何が何やらだ。だが、『未だ』人間である以上、先に観覧席に行くつもりはない。見たいのは鬼に脅かされることのない人の世。人類史の日の出。夜闇と戦う歴史の終わり。脅威から逃れたことに安堵する夜明けではなく、ただの朝ぼらけ。
 そのために、持てるもの全てを使う。俺こそがこの戦いを終わらせるなんて大言壮語もいいところだ。
 だから、『整える』。
 もっと有効な場所へ。もっと効率のいい位置へ。もっと使えるものを。環境を、装備を、心身を、盤面を整える。そして、最適な盤面のなかで、自身もひとつの駒となろう。部品でも、土台でも、露払いでも踏み台でも何にだってなってやろう。なってやるから、俺を踏みしめて、誰かが必ずこの夜を終わらせろ。
 緩んだ口角をすぐに引き結ぶ。迫りくる地階はまだ遠い。その暗さも相まって、深淵まで続いているかと錯覚してしまいそうだ。続いているならそれもいい。目指しているのは深奥に棲む龍なのだから。
 いずれたどり着くだろう最果てに「見ろ、ここまで来てやったぞ」と吠えたてるような心地で、構えていた日輪刀を振り下ろす。

『水の呼吸 捌ノ型 滝壺』

 狭い昇降路の中にあって、その一瞬だけそこはとてつもない大瀑布があった。
 下に敵はいない。橋本は、客車の落下速度を加速させるためだけに滝壺を放った。うまく運べばいい。うまく運ばなかったら、俺が命を懸けて、ごみを除けただけだ。
 鞭を打った胸から、気管を伝ってどろりと血が流れだすのを知覚しながら、橋本は灼熱に備えた。


 下からだ。
 実弥は鬼を斬りあぐねながら、滝を思わせる轟音を聞いた。本能がめまぐるしく脳を巡る。勘と第六感と経験を総動員させて、何が起こっているかを本能でなんとなく掴みさえすればいい。あとはこの身体が反射で何とかする。アタマが追い付く必要はない。
 思い出せ。考えろ。感じろ。備えろ。見ろ。下には何がある。

「韋駄天」

 橋本の目が語った言葉だった。足の速い神。
 気づいたら、足が空中で鬼を蹴り飛ばしていた。普通の呼吸でできるギリギリの動きで八階のエレベーターホールの扉を目指し、一も二もなく飛び込む。ともかく昇降路から出なければならなかった。たぶんこのままここにいたら死ぬ。
 あの男なら、そういう手を、きっと使う。
 実弥はエレベーターホールに飛びだすと壁も調度品もあらゆるものを蹴り倒して扉から離れた。正面に立ってんのたぶんヤバい。勘がそう告げている。実弥は扉のある壁面のすこし離れたところに背をつけてしゃがんだ。

「どうして逃げるのよォォ。さっきの甲斐性はどこにいったのォ。アタシ、綺麗でしょオ。だから、ここに写真を飾ってほしかったのにイ、そうしたらきっとアタシを御嫁にもらってくれる人だっていたのにイ」

 鬼の笑い声がする。まだ昇降路にいるようだった。

「今のうちにテメエのツラ拝んどけやァ」

 実弥は言葉を切ると、昇降路に比べれば比較的マシな八階フロアの空気を吸って、橋本に押し付けられた首巻で鼻から下をガッチリ覆った。


 轟音。

 先ほどとは打って変わって、シンプルに爆発音だった。閃光、途方もない熱量、衝撃、轟音、客車かご、炎の順にそれらは昇降路にいた鬼に襲いかかった。謎の爆発に押し出されるかたちで高速で上昇してきた客車かごに押しつぶされ、なぜか立ち上った炎に焼かれながら鬼は絶叫する。
 実弥もまた、いろいろなことを耐えなければならなかった。まず音。衝撃。扉を抜けて噴き出してくる炎の勢いと熱、金属のかわりに熱気をバカみたいに含んだ空気。
 目の前がチリチリと輝く。実弥は本能に鞭打って目蓋を見開いた。首巻で覆いきれなかった頬や目の端、額にこれでもかとぶつかってくる灼熱に気合でメンチを切り、弾かれたように昇降路へと舞い戻る。

『逆滝壺』
『生生流転』

 地階までを貫く昇降路の淵に足をかけた瞬間、物理法則を疑うような瀑布が下から叩きつけられた。
 物理に唾吐く上に落ちる瀑布は、しかして物理だった。鬼殺の剣技によって生じる水や雷は、「そのように動くことで見えるそのようなもの」、究極のパントマイムのようなものであった。実際には発生していない。剣士の闘気と技量でもってそこにあるように見えるもの。しかし、今実弥の頬を打つ水しぶきは現実だった。ひりつくほど熱にあてられていた体が、今度は基礎体温すら奪うような水に晒されている。実弥は脳みその端っこで「俺魚じゃなくてよかった、これ温度差で死ぬわ」「火通して冷やしてって、料理の下ごしらえかよ」とかどうでもいいことを考えながら、昇降路の天井に鬼を押し付けていた客車かごが真っ二つになって落ちていくのをみた。

「オラ、どうぞ走んなさいよ」

 落ちていくかごの間の暗闇に、煤けた「滅」の文字が白く浮かび上がっていた。鬼殺隊員の背中だった。肩越しに振り返るその目は、昇降路よりも深淵で底が知れない。
 ああ、すげェな。おもしれェなこいつ。
 実弥は首巻の下で凶悪に歯を剥いた。笑みだった。
 きっと膳立ては全部こいつがやった。やりやがった。実弥は遠慮なしに全力全開の全集中・風の呼吸でもって目いっぱい肺を膨らませ、こちらもしたり顔をしている橋本の肩を蹴って昇降路を飛び上がる。

「どうしてよォどうしてよォ、アタシ綺麗でしょオ!?」
「鬼の時点でゴメンナサイだァ! 出直しやがれェ!」

『風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ』

 一閃。三本の空洞すべてを共振させるほどの絶叫。胴と首が離れてるのに、どうやったらそんな大声が出せるのかと思うほどの断末魔でもって、浅草を騒がせた異臭騒ぎの根本は討伐を達成された。

「オイ」

 自由落下の法則、えーっと重力加速度かける重量かける……と途切れかけの意識で諳んじていた橋本の体は、昇降路の中ほどで止まった。宙ぶらりんのまま数秒ほどありとあらゆる痛みに思考が持っていかれる。身体中バカクソ痛えなバカ。今一番痛いのどこだこれ。肺、さっき蹴られた肩、あとなぜか足首が痛い。万力で挟まれたみたいに痛い。
 逆さまの宙づり、重力に逆らってみっともなくバンザイをしたまま橋本は下(上)を見る。

「そんなに嬉しいかよ」

 文字通り親の顔ほど見た臙脂色の首巻と、肩にかけられた洋外套。纏っているのは実弥だった。昇降路のわずかな凹凸に指をかけ、もう一度叩きつけられようとしていた橋本の体を救っていた。救い方にちょっとお問い合わせしたい気持ちをこらえて、橋本は口から垂れる血が目に入らないように口角を捻じ曲げて言った。

「ちょっとは知性ありそうなことも言えるんじゃないすか」

 内容も相まって、その顔はひどく皮肉げに笑っているように見えた。実弥が「アア!?!?」と吠え返す前に、皮肉げな顔は再び地階にガクリと向けられる。ちょっと限界だった。
prev 2/3 next