時代ナメんな
 自身の急所を貫くものだと思っていた剛腕が吹き飛んだ。猗窩座の腕は肘のあたりが手のひらひとつ分ほど消失し、支えを失った拳が弱弱しく腹にぶつかった。
 猗窩座は弾かれるように俺の顔を見たが、正直俺もよくわからん。もし顔に答えが書いてあったら読み上げてくれ。
 今、何が起きたのか。
 竈門少年かとも思ったが、この距離をこの一瞬で詰められるとも思えん。荒い断面に猪頭少年も頭をよぎったが、彼もまたここまでの縮地の技術を収めてはいないはずだ。混乱に思考が停止する。
 猗窩座が距離を詰めた一瞬のうちに腕が吹き飛んで、さらに一瞬ののち、号砲が遅れてこだました。わんわんと反響して響く科学の大音声は、正気を現実に引き戻す。
 先に動いたのは猗窩座だった。すぐさま後ろへ飛び退り、失った手指を再生しながらまたも構える。

「炎柱ァーッ!」

 耳に届いたのは同期の大音声だ。ああ、一緒に任務に来ていたんだった。

「馬鹿野郎、絶対死ぬんじゃねえぞ! お前が死んだら俺が死ぬ気で出した予算案がダメになる! やっと認可が下りそうなんだ死にやがったら刺し違えてでもソイツぶっ殺して黄泉路の途中でお前も殺すぞ!」

 横転した列車からすこし離れたところにその男はいた。鬼殺隊には馴染みの薄い、歩兵銃を構えて立っている。

「橋本」
「死んでないな? 死んでないならいい! 切ねえがこれだけじゃたぶんソイツ討ち取れん、無理しねえ範囲でいいから動け!」
「お前がいたこと忘れていた。すまん」
「死ね! あ嘘やっぱ死ぬんじゃねえ!」

 猗窩座は額に青筋を浮かべながら橋本を睨みつける。爆発するような踏み込みでもって一足のうちに橋本との距離を詰めようと飛び出した。すぐさま後を追うが、守るにはわずかに間に合わない!
 橋本を粉砕せんと降り降ろされた拳が、砲声と同時に砕ける。返す刀で繰り出された蹴りもまた。並みの反射ではないが、近づいてみるとわかった。呼吸を使って反射速度を高めている。
 着地しなに猗窩座の背に一太刀。橋本も銃剣で一太刀。続けざまに砲声。またも飛び退った猗窩座の胴に風穴が開く。

「小賢しい真似を……」
「そりゃ人間だもんで」
「橋本、それは何だ! 珍妙極まりない!」

 三者三様、構えは解かずに口だけで言葉を発した。橋本は「フフン」と鼻を鳴らすと、歩兵銃を刀のように構えて答える。

「まだ試験段階だが、俺が発案した鬼殺隊の新しい武器だ。侍の時代は明治のはじまりとともに終わったってのに、俺たちの武器はいつまで経っても相手の懐に潜り込まなきゃ有効打になりゃしねえ。ようは猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石で精錬した武器による殺傷が鬼を殺す鍵なんだとしたら、日輪刀と同じ材料で作った銃弾で首吹き飛ばしゃ殺せるじゃねえか」

 水の呼吸を使う橋本が持っているそれ。青い刃の剣付歩兵銃。新しい鬼狩りの手段。まさか、そんなものを開発しようという人間がいようとは。失血に強張っていた頬がぎゅん、と持ち上がる。笑顔を浮かべずにはいられない。

「猗窩座よ、これだから人間はやめられないのだ。至らず、届かず、だからこそどうすれば掴めるかを足掻く様こそ美しいと俺は思うぞ!」
「つーかよ、最短でも何十年前に情報更新止めてるような遅れた奴らに負けんの悔しいじゃねえか。お前らが夜闇で引きこもりしてる間に俺たち日の本の人間はバカクソでけえ戦争を何度も経験してんだぜ。ちったあ自分以外の事にも目向けたらどうなんだよ鬼どもよ」
「黙れ、脆弱な人間風情め。吹けば飛ぶような弱さで境地へ至らんとするなど烏滸がましいとは思わないのか。道具で至った境地などまがい物でしかない。そんなもので満足できるならさっさと死んでおけ、みすぼらしい。恥を知れ」
「実際吹っ飛んでたやつがなんだって?」

 猗窩座が足を踏み鳴らすと足元に羅針盤が浮かび上がる。舌戦はこちらに軍配が上がったようだが、実戦に負けては意味がない。夜明けが近い。これを凌げば、上弦の参をも討ち果たせるやもしれん。

「三八式日輪歩兵銃、初陣に不足なしだぜ。もうちょいだけ気張れ、ボク。炎柱だろ」
「うーん、帰ったら不敬を理由にお前を何とかして罷免してやりたい!」



*****


 橋本新平はマタギの家系、猟師の家に産まれた一人っ子であった。幼少から銃に親しみ、父の身の丈をゆうに超す巨大な熊をも仕留めるその威力をよく知っていた。

「お父、銃どごおらサ教えでけれ」

 幼い橋本が舌ったらずにねだる度、父は「新平が大人サなっだらな」とやさしく頭を撫でた。裕福ではないが幸福は売るほどにある。父が仕留めた獲物を麓の街に売りに行けば、町人はこぞって父を「腕がいい」と褒めたたえた。「あんたのおかげで今年も冬が越せるよ」とくり返し謝辞を述べる老人の手を優しく撫でる父親の姿に感銘を受け、「こうなりたいものだ」と強く思った。
 転機は、父が日露戦争に従軍し、奉天から傷痍兵として帰ってきたことだった。
 あんなに優しかった父は、戸の開け閉めの音にも怯え、夜半に絶叫しながら暗闇へ銃を撃ち、食事をほとんど採らなくなった。医者が言うには心の病だと。幼い橋本は、幼いながらに納得していた。その時は鹿だったが、一度猟に連れて行ってもらった際、狩猟罠にかかった鹿に厳かに手を合わせ、やがて祈るようにとどめを刺した父の姿をよく覚えていたが、戦争というものは礼儀作法など一切存在しない。心がおかしくなってしまっても仕方ないほどの地獄から生きて帰った父を、例え癇癪に巻き込まれて頬を殴られようが橋本は誇りに思っていた。

「あんた、また一人で狩りどご行っただが!?」

 母の金切り声が夜の山に響く。数日前に姿を消した父が玄関先にあまりにも巨大な熊を引きずって帰ってきた。

「……」
「……お父、えれぇ大物のいだずだねゃ! この一頭で冬サ越せそうだ!」

 終戦直後こそ荒れていたが、数年経つと父は幽鬼のように静かになった。どこを見て何を思っているのかわからないような顔で、ふらりと単独で猟に出てはふらりと帰ってくる。
 熊は雪の上を滑らせるようにしてきたらしかった。様変わりする前から父は腕のいいマタギだったが、まさかたった一人でここまでとは! 幼い橋本は一層父を敬愛した。

「なあお父、むかーし、マタギって元は『又鬼』って呼んだってゃ言ってらっだけんど、なして?」
「んだびょん」

 母は「風呂っこサ沸がして、そいがら……」と家の中に入っていった。橋本はこれから熊を捌く手伝いのために玄関先に残り、ふと思い出した疑問を父に尋ねてみた。
 奇怪な返答に、まだ幼いとはいえ橋本は頭をひねった。「昔マタギを『又鬼』って呼んだのはどうして?」と聞いて、「そうだろうよ」と答えられればさもありなん。

「新平、おめ、熊サ相手に勝てるか?」
「うーん……なもかもね」
「な? だども、お父、熊よりも鬼よりもおっかねえ、もっけどご相手して、生きて帰っでらっだ。鬼よりも強えがら、マタギ呼ぶんだべ」
「ふうん」

 父は手早く熊の後ろ脚に縄をかけ、逆さづりにする。熊は売り物にならないところがない。毛皮から骨まで、場合によっては血まで売れる。
 美しいほどの手さばきで正中線から切り分けられ、かつて生き物だった形から枝肉になっていく熊をじっと見つめる。父は相変わらず無表情だが、手つきの優しさは昔と変わっていない。

「お父、おら、明日街サ降りで熊売ってくる。うんめもの買ってくるがら、楽しみさしてて」
「……大きくなったなあ。へば、帰っできたら銃っこサ教えてやらねばな」
「ほんと!?」
 わあっ、と喜んでいる幼い橋本の背に、母の声がかかる。少しいびつだけど嬉しいこともある。こんな日が続いていくんだろうとばかり思っていた。

*****


 結論から言えば、上弦の参を討ち取ることはできなかった。橋本も多々傷を負い、運の悪いことに日輪銃が玉詰まりを起こした。刃先の短い槍のようにして扱い、隊員たちと協力して猗窩座を縫い留めるまでは善戦するも、結局猗窩座は自身の腕を引きちぎり逃走してしまった。
 乗客乗員に負傷者はあるものの死者はおらず、鬼の中でも指折りの化け物を相手にしたとは思えない被害のなさだった。それほど鬼殺隊員の尽力が凄まじかったとも言える。

「わあーっ! 煉獄さん死なないでください! まだ聞きたいことたくさんあるんです!」
「馬鹿野郎! 託されたんだろ! 泣くんじゃねえ!」
「うえええ頭死ぬほど痛いと思ったらめちゃくちゃ血出てるじゃん! 本当に死んじゃうのかな俺!? 鬼を討ったわけでもなく、列車から放り出されて頭打って死ぬの!? じいちゃんになんて言って詫びればいいんだよぉ夢枕ってどうやって立つんだよぉ!」
「……炎柱様のあれはたぶん気絶だから、声量落としなさいねー。聞いてないと思うけどねー」

 若いのは体力あるなあ。数えで23歳になる橋本は隠に運ばれながら、同じように運ばれている若い隊員たちを信じられないものを見る目で見た。煉獄は特に重症だったため、「橋本隊員も大概……」とどもる隠を最後の力を振り絞って「柱のほうが大事だろうがよ!?」と怒鳴りつけて超特急で搬送させた。

「俺っ……悔しい……! ひとつできるようになったと思ったらまた高い壁が目の前にできてっ……!」
「クソーッ! 稽古だ! 稽古するぞ! 紋太郎かかってこい! 紋逸でもいいぞ! 強くなりてえ! 来いこの!」
「炭治郎ぉ……禰豆子ちゃん無事だよね……俺禰豆子ちゃんが箱に入る時に日陰作ってたんだけどさ……日の光がつま先でもかすめてたら俺どうしよう……」

 仲良きことは美しき哉。でも時と場所は選ぼうか。橋本は急激に重くなる瞼に耐えきれなくなってきた。煉獄ほどではないとはいえ、猗窩座との戦闘でしっかり骨も折ったしたっぷり血も流した。指先がピリピリと痺れてくる。
 なんか、この感じ覚えがあるな。ぼんやりと浮かんできた既視感に首をかしげていると、ついにどれだけ念じても瞼が開かなくなった。死ぬときは呆気ないとは言うが、こうもギャンスカギャンギャンと騒がしい最期はちょっとなあ。どうせならあの山ぐらいの、そう賑やかな感じ、あのくらいがいいよなあと思いながら橋本は意識を失った。

*****

「あんまし見んでね、橋本の子だ」
「よぐ降りて来らったな。おらだばしょしてあるがいね」

 ものすごく雰囲気が悪い。幼い橋本は様変わりした麓の町にひどく驚いた。絶えず隠されていない陰口が橋本にヒタヒタと張り付く。じっとりと怨嗟を含んだ湿布のようだ。薬効どころか害しかない。早いところ売りさばいて山に帰ろう。商家を何件か回ったが、およそ半分で門前払いを食らい、残りの半分ははした金で買い叩かれた。

「ほじなしの子め。誰がおめの熊だば買うもんか」
「おめもけっぱるなあ。べったもいねえで、ほじねぇ父親の世話サして」

 翻訳すると、「見るな、橋本んとこの子だ」「よく山から降りてこられたな、俺なら恥ずかしくて歩けない」「気狂いの子め。お前が売る熊なんか誰も買わない」「お前も頑張るなあ、兄弟もいないのに気を違えた父親の世話をして」とのことだ。
 ほざきやがれ。
 幼い橋本は怒り心頭だった。事情も知らないくせに、どんな地獄を見たか俺だって知らないのに、外野から騒ぐだけ騒ぎたてやがって。お前たちなんかに売ってやるもんか、これは父さんが撃った熊だぞ。
 だが悲しいかな、幼い橋本は思ったことを心のうちに留めておくことができない少年だった。はち切れんばかりの大声で町中に響き渡った訴えに気を悪くした大人たちが、幼い橋本を取り囲む。まだ当時の橋本は世界が不条理で満ちていることを知らなかった。

「……さい、さいさいさい、さっさ、さささささ…………」

 最悪だ。やっちまった。くそ。ちくしょう。やっと幼い橋本が解放されたころ、辺りはもう真っ暗だった。月もない夜である。金は盗まれなかったが、売り物を入れていた籠はどこかにいってしまった。空にも俺にもツキがないな。溜息を吐き、何度も叩かれて至る所が青くなっている体に鞭打ち、生家への道を戻る。

「……げんで静がだな……」

 やけに音がない夜だった。冬とはいえ山、遠くで鹿が雪を踏む音や冷気で木の幹が弾ける音、枚挙に暇がないが余人が思うより賑やかなはずの場所が、どういうわけだか静まり返っている。
 招かれざる客に対して沈黙でもって身を守ろうとしているかのようだった。

 不意に、破裂音が響いた。

 最初は木の幹かと思ったが、続けて矢継ぎ早に同一の残響が耳に届く。同じ木が連続して弾け続けることはない。変化しない破裂音の正体はすぐにわかった。猟銃だ。
 幼い橋本は泳ぐように雪深い家路を急いだ。雪道の進み方を忘れてしまったように遅々として進まない。いやな鼓動だけが早まっていく。
 やがて橋本を出迎えたのは、今まさに貪られている父の濁った瞳だった。


*****


 久々に日中に起きているなあ。カーテンを通り抜けた陽光が橋本の頬を照らしている。朗らかな足音が交錯する昼日中の蝶屋敷は、少女たちの笑い声も相まって平和そのものだ。これが日本中で永遠に続けばいいのに。ベッドに横たわったままの全身を苛む痛みが、穏やかな時間がまさしく胡蝶の夢だと告げている。蝶屋敷だけに。なんちゃって。

「うむ、やっと起きたか!」

 半分しか覚醒していない状態で浴びる大声は健康に悪い。目線だけを送ると、病衣を着た煉獄が椅子に腰かけていた。こちとらやっと目が覚めたとこだってのに、煉獄の方がよっぽど重症だったろうにどんな回復力をしてるんだ。思わず呆れたような顔をしていると、煉獄は「どうした呆れたような顔をして!」と言った。呆れてんだよ静かにしろ。

「君は内臓の一部を損傷、右肩を脱臼骨折、さらに各所の骨が折れているうえ極度の貧血だそうだ! もうしばらくは養生が必要だろう!」
「……炎柱様のお怪我の具合は?」
「肋骨が折れて肺に刺さったそうだ! 眼もひとつ潰されてしまった! 互いに再び刀を握ることは難しいかもしれんとの胡蝶の見立てだが、よもやよもやだな!」
「あれからどのくらい経ったんですか」
「二週間といったところだ!」
「回復が早すぎませんか」
「君は遅すぎないか!」

 言わせておけば。寝続けていた体は凝り固まって動かしづらい。やっと煉獄の方に顔を向けると、その負傷の全容が見えた。あまりに凄惨。見続けているのが苦しくなり、橋本は視線を床に落とした。

「申し訳ありません、もっと早く日輪銃が実用化できていれば」
「思ったのだが、ひとついいだろうか?」
「なんなりと」
「俺たちは同期だろう、橋本! なんなら君の方が年上だ! 猗窩座と対峙した時など口を開けば煽りしか吐かなかっただろう! 階級を気にしているのなら不要だ、自由に発言してくれ!」
「……じゃあ、ひとつだけ」

 か細く吐き出すようにして発した声をよりしっかり聴きとるため、煉獄は「んん!?」と身を寄せた。

「こっちは寝起きだってんだよ。静かにしろ」
「よもや……」

 しゅん、と子犬が耳を垂らすように煉獄は椅子に戻っていった。事態の収拾や鬼たちの活動の変化を努めて押さえた声量で煉獄が教えるも、橋本は話半分な様子だ。流石に同期とはいえ傷病者、見舞いに来るには早かっただろうか。煉獄が頭の端で考え始めた頃、橋本が問う。

「日輪銃について、何か沙汰は」

 橋本の目はどこにも向いていなかった。目線は煉獄に向けられているものの、おそらく背景も含めた一枚の画としてしか映っていないだろうとわかる。

「あれは政府から下賜された歩兵銃がもとだそうだな。改良を担当した鍛冶職人が烈火のごとく怒り散らかしていた。沙汰については何も聞かされていない。おそらくお前が目覚めてから進めるべき話だとお館様も判断なされたのだろう」
「うわあ……里の連中は拗らせてるからなあ……」

 ぐへ、と橋本が顔をゆがめたのを見て煉獄は、はた、と思いついた。
 この男、平時は時任少年のような顔をするくせに、日輪銃の話になると途端に表情豊かになるな。
 気落ちするよりも笑顔の方が傷の治りがいいことを煉獄は身をもって幾度も経験していた。病は気からとはよく言うが、逆に気を確かにしていれば病のほうから去っていくということだろうと煉獄は思っている。
 笑顔になれる話題があるならなっていた方が回復も早いだろう。煉獄は猗窩座との戦闘中に気になっていたことがあるし、せっかくなので訊いてしまおうと口を開く。

「橋本。なぜ日輪銃などという武器を思いついた? 日輪刀で十分に戦えているお前が。鬼殺隊の隊士であるお前が。銃は軍人のものだろう」

 橋本は一瞬きょと、と目を見開いた。どこから説明したもんか、と呟き、体を起こそうと腕を突っ張る。煉獄が介助しようとすると、橋本は短く手助けを辞した。寝台に座りなおした橋本は、懺悔するように重々しく話す。

「藤襲山の最終選別、覚えてるか?」
「? ああ」
「どう思った?」
「どう、か。最初こそ過酷だと思ったが、まだ血鬼術も持ち得ていない鬼すら斬れんようでは、柱になど到底なれはしない、と。煉獄の名に恥じぬよう、必ず突破して見せると強く思ったのを覚えているな。お前はどうなんだ?」
「……柱相手に言うのもなんだが、俺は効率が悪いなと思った」


*****


 早朝の透き通る空気が太陽によって徐々に温められていくのを感じる。先ほどの断末魔が耳にこびりついて離れない。橋本は育手からもらった日輪刀を強く抱きしめながら藤の木の根元に這いつくばっていた。最終選別四日目の夜明けである。
 鬼殺隊員に助けられ、家族の亡骸を雪の下に手厚く葬ってから、橋本は父の遺品の銃を携えて育手のもとを訪ねた。水の呼吸を修めるまでには五年弱ほどかかった。

「お前は鬼狩りとしては優秀かもしれんが、鬼殺隊員には向いてないかもしれんなあ」

 最終選別に向かう前に育手はそんなことを言った。餞別くらい寄越せよ、とその時は思った橋本だったが、今思えば全くもってその通りだ。
 最終選別、無駄がありすぎる。
 先ほど断末魔を上げてこと切れた少年の傍に、灰の山が積まれている。極度の飢餓状態にあった鬼は、少年を食らいながら陽の光を浴びて死んだ。食われた少年もまた死んだ。
 最悪にも程がある。命の無駄使いだ。これを突破できなきゃ隊員になれないだって? 馬鹿馬鹿しい。橋本は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔もそのままに少年の遺体を睨みつけ、やがて弱弱しく頭を抱えて呟いた。

「……お父の、バッケ味噌ば、食いてえ」

 刻んだフキノトウと味噌を混ぜた季節限定の合わせ調味料である。長い猟から帰ってきた父が作ってくれる春の風物詩であった。もし最後の晩餐に選ぶなら、父のバッケ味噌。あれが食べたい。
 まだ日数も残っているのに弱気になってどうする、鬼を斬るんだろう。いいや、こんな地獄もうまっぴらだ、大人しく俺も両親の元へ逝こう。相反する声が頭の中をめちゃめちゃにかき回した末、橋本は激しくえずいた。あまりの情けなさに追加で涙が出る。

「ばっけ、というのはわからんが、味噌ならあるぞ!」

 不意に。
 頭上から声がかかる。弾かれたように顔を上げると、わかりやすく炎の呼吸使いらしい少年が立っていた。

「まだ四日目だろう、男たるものそう滂沱と泣いてはならん! 脱水を起こしてしまうから水分も採るといい」

 そう言って水筒を置き去っていこうとする少年の足を、橋本は引っ掴んでから正気に戻った。俺ってば何をやっているんだ。言い訳を並べる前に少年は橋本の手を取り、諭す。

「これを乗り越えなければ鬼狩りにはなれない!」
「……んだども、あんまりにもあんべわりぃべや!?」
「すまない、どこの訛りだ!?」
「ああもう! ええと……あんまりにも、効率が悪い!」

 橋本が言うと、少年は考えたこともなかったような顔をした。続いて、納得がいかないような顔。橋本は呼吸法と一緒に覚えた”標準語”を思い出しながら叫ぶ。

「そこで死んだヤツが、生き延びてたら五匹鬼を斬ったかもしれない! なのにこんな天運で、しかも鬼に殺されて死んでる! 鬼殺隊は鬼から人を護るのが使命なんじゃないのか!? 鬼殺隊が鬼でもって人を殺してどうする!」
「まだ血鬼術も使えない鬼も斬れないようでは、生きていたところで今後鬼が斬れる保証もない!」
「ここで鬼が斬れたから何だ!? 今後鬼が斬れる保証がないのは俺たちもそうだろうが! 鬼が斬れなきゃ生きてる意味がないとでも言うつもりか!」

 そこまで叫び、橋本はぐらりと目を回した。疲労のピークだった。ゼイゼイと荒い息を吐きながら蹲る橋本の手を少年が一度強く握ったが、握り返されないのを見てすこし考え込む素振りをする。
 見捨てていくか悩んでいるのか。それでもいいさ。橋本は残った気力で喉を振るわせる。

「もういい。お前とは仲良くなれん。捨て置け。こんなところで死んでなんかやらない。絶対に、民も鬼殺隊員も死なない方法を実現させてやる」

 不眠で血走った眼で、特徴的などこを見ているかわからない少年の目を睨みつけ、橋本は地面に頭を落とした。絵にかいたような気絶だった。


 木の弾ける音がする。寝返りを打つと、顔を向けた方向がやけに暖かい。穏やかな熱に甘やかされてトロトロと再び手放しかけた意識が、耳にこびりついた断末魔でもって急激に引き上げられた。音が鳴るほどの勢いで瞼をブチ上げ、橋本は飛び起きた。

「よもや! 思っていたより早く起きたな」

 素早く周囲を確認すると、橋本は気を失った場所から少し離れた開けた場所に寝かされていた。焚火にくべられた枝がパチリと弾ける。焚火を挟んで反対側には、あからさまに炎の呼吸を扱いそうな少年が胡坐をかいて座っていた。

「……一世一代の啖呵を、切ったんだぞこっちは」
「こちらも人を助けたいと思って鬼殺隊を志しているのでな! 捨て置けと言われて、ああそうですか、じゃあお元気で、とはいかん!」

 カカ、と笑った少年は焚火越しに水筒を投げた。相変わらず脱水を心配してくれている。橋本はますます立つ瀬がなくなりながら、少し眠ったおかげでしゃっきりとした頭で「やっぱここじゃ死んでられないよな」と思いなおす。が、やはりこっぱずかしかったので無言で投げ渡された水筒を空けた。

「……なあ、もう日が暮れるよ。火を消したほうが良いんじゃないか?」

 声をかけられて初めて気づいたが、焚火を取り囲んでいるのは二人だけではなかった。怯えた顔をした少年少女が数人、膝を抱えて火を見つめている。橋本と少年を足して、総勢七名ほど。ここにいるのが生存者全員ではないことは分かっていたが、それでも開始直前にはそれこそ両手で足りないほどいた参加者が狼煙を見てもこれしか集まらなかった事実に橋本は打ちのめされる。

「……いや、火は消さずにいよう。その方が鬼どももおびき寄せられるだろう」

 少年はあっけらかんと言い、他の人間はその言葉にすくみ上った。少年はすぐさま「無論、君たちが火に一番近いところにいてくれ。俺が君たちを護ろう」と続けるが、数人は「もう死ぬんだ」と呟いている。
 その様子を見て、橋本は近くに置かれていた日輪刀を引っ掴むと立ち上がった。この場所、人数、状況ならできるかもしれない。ひとつ策があった。

「お前たち、継戦と共闘の意志、あるか?」

 半世紀ほど前に、日の本をそっくり作り変えてしまうような戦争があった。戊辰戦争である。終の戦地であった箱館で旧幕府軍が本丸とした五稜郭は、日本でも珍しい陵堡式星型要塞であった。この様式の特徴は、星型に作られた小高い陣地の各先端に火砲を配置し、あえて本丸に近く火砲の正面ではない部分に敵を誘導することでその地点を挟む二方向から十字砲火を加えられることにある。永らく戦争の課題であった「攻めづらく守りやすい城塞」のノウハウは、まだ日の本が火縄銃でバンバンと内ゲバをしていたころには西欧諸国で開発されていた。
 橋本は地面に小石で絵図を描きながら説明する。

「これを模した陣形を取ろう。この焚火を内側として、五人が等間隔で円形に外を向いて並ぶ。真ん中に、炎の呼吸のお前ともう一人。誰かが接敵すれば当人とその両隣、さらに中心を固めた二人のうち近い方が増援に回る。これで、鬼一匹に対して最大四人で対応ができる。何ならすぐあっちは藤が咲いてるから、あちらを背に立った方がいいまであるな」

 陵堡式城塞の特徴を必死に思い出しながら説明を続ける橋本を、少年は信じられないものを見るような目で見ていた。気づいた橋本が「本丸役は不服か?」と問うと、少年は沈みかけた太陽が再び顔を出したかと思うような笑顔を浮かべた。

「博識なのだな!」
「んな本ばっか読んでたから呼吸法修めるまでに五年強もかかってんだこっちは。皮肉か?」
「いや、感銘を受けている!」

 少年はひょい、と焚火を飛び越えて橋本の隣に膝をつくと、図面を引いていた手をむしり取って強く握った。

「共闘というなら、名前を知っておいた方がいいだろう! 俺は煉獄杏寿郎だ!」
「……橋本新平」

 俺も、私も、と声が続く。全員が自己紹介を終え、煉獄が「では、やるぞ!」と声を張ると、先ほどの怯えもどこへやら。できるかもしれない、と希望の火が灯った瞳でおお、と少年たちは答えた。
 そうだ。知識は人間に恐怖を乗り越えさせる。鬼が未知の力でもって人間を屈服させようとするのなら、人間は何度だってその未知を解明してやる。対策を講じ、無力化させてやる。窮鼠は猫も噛み殺すのだ。永遠に引き延ばされた生など、一瞬しかない命の足掻きでかき消してやる。
 橋本もまた、遅れておお、と答えた。



*****


 煉獄は顎を撫でながら懐かしそうに声を上げた。当時は死に物狂いだったが、今となっては思い出話にできるほど橋本も煉獄も生き延びて来た。

「そういえば言っていたな。そのあと、俺とともに本丸にいるのはお前がいいと言った時のお前の顔といったら」
「馬鹿野郎、あの状況であんな落ち着いてるやつの隣なんか誰だって行きたくねえよ。足引っ張るに決まってる」
「だが、足を引っ張ってもすぐに誰かが助けに行ける陣形なのだろう」
「まあな。で、だ。俺は最終選別で、この組織はめちゃくちゃ効率が悪いと思ったわけだ」

 うむ、と頷いて煉獄は押し黙った。話を聞く姿勢だ。

「戦いは数と戦略だ。野村と基山は殺されてしまったが、あの七人で俺たちは残りの日を生き延びた。ついさっきまでこの国がやってたのは、あくまで個人の考えだが侵略戦争だと思ってる。でも俺たちが鬼とやってんのは生存闘争だ。負けた方は淘汰される。なら、武器も知識も持てるもの全部投入してやるべきだ。十二鬼月や無惨は俺たちみたいな平隊士じゃ太刀打ちできないが、雑魚相手にお前たち柱が消耗してるのが心底ばからしい。俺たち露払いの戦力不足なのは痛いほどわかる、だからといって一朝一夕で呼吸を極めることはできない。だが、手っ取り早く、誰でも扱えて、鬼に近づくことなく鬼を殺せる武器があれば話は別だ」

 そこまで言って、橋本は煉獄に向き直る。寝台の上で胡坐をかき、両ひざの上に拳を作ってしゃんと座るものだから、煉獄もつられて背筋を伸ばした。これといって特徴のない橋本の瞳には強いものが宿っている。

「さっき、銃は軍人の武器だと言ったな。誤りだ。あれは人間の武器。そして、鬼殺隊にとって、それを望むものにとって、とっておきのゲン担ぎにもなる武器だ」
「ほう、ゲン担ぎ」

 大正の市井では滅多に見かけなくなった切り火を真剣にやっているような組織だ。まさしく藁にも縋りながら必死に自信を励起し鬼を狩っている者たちを、心の内からさらに奮起させるもの。煉獄には想像もつかなかったが、橋本の武器は堅実に積み上げて来た経験とあまりに膨大な戦闘に対する幅広い知識だ。煉獄は黙って続きを待つ。

「銃は人間の武器であり、俺にとってはマタギの武器だ。字にすると又鬼と書くこともある。獣編に鬼、とも。豸部で表す場合もあるかもしれん。いずれにせよ、マタギとは鬼よりも強い者を意味する、という説がある。日輪銃は、鬼よりも強い者たちが手にする、そういう武器だ」

 やはり、やはり。煉獄は懐かしい高揚を思い出していた。この橋本という男、最初に出会った時からやけに目の印象が強かった。特に珍しい虹彩をしているわけでも、取り立てて目つきが特殊なわけでもないこの目にどうしてそこまで吸い寄せられるのか。積年の謎が今解けた。
 慧眼、なのだ。
 鬼狩りとして歴史のある煉獄の家に生まれた俺とは、鬼狩りを捉える視線そのものが違うのだ、俺には見えていないものが見えているのだ、この男は。

「橋本、ひとつ問いたい」
「あ? 何よ」

 煉獄は胸の内の高揚を気取られないよう、努めて冷静に問うた。なぜ気取られない様にしたかは自分でもわからないが、胸の内に秘めておくべきことのように思ったゆえの無意識の行動だった。

「お前は、鬼との戦争を変えるつもりなんだな?」
「終わらせるつもりに決まってんだろ」

 結局、煉獄は大声で笑った。天井を仰ぎ、喉をさらし、柔らかい陽光の差し込む病室を震わせるような大音声で笑った。橋本が「うるっさ!」と言う。「何ですか誰ですか!」とこちらへ向かってくる足音も、すべて認識していたが今はひたすらに笑いたかった。
 この男、終わらせると言った。長く続いた鬼狩りの歴史を。煉獄にとっては、生家の紡いできた伝統と歴史が消えることと同義であったが、それすらも構わないと思えた。

「鬼狩りの歴史は、鬼殺隊は、俺は、きっとお前のような男をずっと待っていたのだろうな!」

 伝統は続いた歴史が長ければ長いほど打ち破りがたいものになる。きっと今まで何人も考えては無理だと諦めてきたことを「絶対こっちの方がいいだろうが」と引っかき回す人間がいつだって歴史を変えて来た。尾張の大うつけの再来やもしれん。この男の活躍でもって、間違いなく新しい風が吹く。その風は必ず鬼狩りの剣士たちの胸にある炎を大きくするに違いない。
 やがて鬼どもを焼き尽くした時、煉獄の世界には灰しか残らないだろう。民草は守られ、しかし心を燃やして立ち向かうべき仇敵はいない。その時、この男が傍らにいたならば、「この灰で石鹸でも作ろうぜ」などと言い出すに違いないのだ。
 まさか、明日を楽しみに思うことがあろうとは。未来を考えることがあろうとは。煉獄は初めての感覚がくすぐったくて、ずっと笑っていた。

「あーそうかよ。だァら、さっさと俺たちで鬼の全体数減らして、まず鬼の脅威そのものの規模縮小させて、お前らに強い奴相手に集中してもらいたいから日輪銃完成させたかったんだよ。んで今回の結果如何で実際に支給できるかの検討ができるから、日輪銃導入した戦闘で絶対死者出したくなかったんだよ。マ、俺が勝手に思ってるだけかもしれんが、友達だと思ってるやつに死なねえで欲しかったし」

 どうせ聞こえちゃいねえだろうと漏らした橋本の本心を、煉獄はしっかりと聞き取っていた。笑顔のまま急にピタリと笑うのを辞めた煉獄は人形みたいで不気味だ。「何、天才ってみんな変人?」と口にしかけるも、言い終わる前に煉獄が橋本の肩を掴んで揺さぶる。

「友人だと!?」
「ああ何! ほんと忙しなくて嫌だよお前! 俺だけだろうけどねえそう思ってんの! お気に召さなかった!?」
「違う逆だ! 友を得たのは初めてだ!」

 マジで!? 橋本は驚きすぎて言葉も出なかった。さぞ交友の広い男だろうにと思っていた。が、自身が銃に固執するように煉獄にも何かしら事情があるのかもしれない。「ああそおよかったね」と大人しく揺さぶられることにした。

「日輪銃、配備が決まったらぜひ扱い方を指南してくれ! 呼吸と組み合わせて使えるのだろう! 戦略の幅が広がるのだろう、ものすごく!」
「まずは撃ち方と扱い方からだぞおぉ。まだ場所によっては大礼服着た物売りがいるから考えてなかったが、携行のことも考えなきゃなあぁ」
「なあ橋本、こんなにも未来を心待ちにするのはいつぶりだろうか! よもや俺だけではあるまいな! あはははは!」

 煉獄は今にも橋本を担ぎ上げ踊りだしそうな勢いだ。言ってはいないが、その実橋本も互いに友達だと言い合える人間を得たのはこれが初めてだ。もういいや、全身めちゃくちゃに痛いが、今は乗ってやろう。寝台から降り、煉獄と一緒になって大声を上げながらグルグル回った。
 そのうち怒られるだろう。いくら気分がいいからといっても蝶屋敷だ。「安静に!」と鋭い声が飛ぶのは目に見えてる。二人とも十分に理解していたが、それでもあと少しだけ、肩を組んでおおはしゃぎしたかった。大願の成就が叶うかもしれないのだ。かつ、得難い友を得た瞬間なのだ。

「難しかろうが、俺は絶対に復帰してみせるぞ! そしてお前の銃と煉獄の赤き炎刀でもって鬼をじゃんじゃん討伐してみせる!」
「馬鹿野郎、俺が復帰できない前提で決意新たにしてんじゃねえ! 俺だって復帰して鬼どもに啖呵切ってやんだよ!」
「おお、なんと啖呵を!?」
「時代ナメんな、ってな!」

 最後に大声をあげて、橋本は気絶した。極度の貧血状態であることを本人含めてすっかり失念していた。グルグル回りながら意識を失ったので煉獄が肩を組んだまま遠心力の勢いを一切殺さず橋本をブン回してしまい、花瓶も窓も割ったし橋本は療養期間が延びた。
 煉獄の「橋本ーッ!」と響く大音声に晒されながら、やっぱり死ぬときは賑やかなのもいいかもな、と毛先ほどの意識の中で思った。
none 1/8 next