うっかり八兵衛
 先日、煉獄に振り回された際に負傷した足は着々と快方に向かっている。なんせ一切の勢いを殺さずにブン回された結果、足首や脛で花瓶などを次々薙ぎ倒し、あわや窓から放り出されるところであった。煉獄が渾身の力で室内に引き戻したためにビックリ人間砲丸投げを回避したものの、あそこで驚いた拍子に煉獄が手を放していたら。
 橋本は自分の想像で背筋が凍った。死んでただろうな、間違いなく。
 さて、今日もいい天気である。カーテンの隙間から差し込む日光が、手元に開かれた活字をゆっくりと撫でていくのが愛おしい。橋本は洋書にしおりを挟んで閉じ、日にきらめく細かい埃を眺めた。
 ……埃?
 橋本はハッとして寝台の上ですぐさま対ショック姿勢を取った。

「今戻った!!!」

 噴火のような激しさでもって橋本の病室にカチコんで来たのは煉獄杏寿郎だった。その衝撃と威力たるやまさに溶岩流。後ろからは無限列車の任務に同行した隊士もわらわらとついて来ている。

「毎度言ってるけど、今回も言うぞ。どいつもこいつも戻るとこ間違えてんだよ」
「知らねえ! 王が戻ったところが王の住処だ!」
「つれないことを言うな! 土産もある! さあ竈門少年!」
「はい! 夕食前のお薬預かってきました!」
「やかましくしてすいません……」

 機能回復訓練を終えたちびっこ達と煉獄は夕食の時間になるまでここで暇をつぶし、頃合いにそれぞれの病室へと戻っていく。最初から自分の寝台に帰れ。最初の頃は何度もそう怒鳴ったが、生憎効いたのは我妻だけだった。それも内容ではなく声量でだと言われてからは辞めた。
 もっぱら話題は「今日の訓練ではなにをした、少年もやる時はこうするといい」だの「柱になるまでにどんなことがあったんですか」だの「食べ物では何が好き」だのひどく当たり障りない。喜ばしいやら、他にある事だろうがやら、雑音に気を取られておちおち本も読んでいられないやらで橋本の心境は複雑だった。
 話半分でも聞いてやれば喜ぶので、適当なタイミングで「ウンウン」と言ってやれば煉獄とちびっこ達は喜んで話し続ける。やってること子守と変わらんぞ、給金を出せ、その金で村田銃を改造してやる。会話の相手をしているもう半分の脳でそんなことを考えていると、およそ時間になったらしい。「また来ますので!」と大声のわりにさっぱりした挨拶を残してちびっこ達はねぐらへ戻っていった。
 ぱたぱたと振られる手は可愛らしいが、橋本のそばでブンブンと振られる大きな手にはイラつきしかない。「また明日の訓練で!」と手を振り返している煉獄の手を、ちびっこ達が廊下の奥に消えた頃合いに叩く。

「お前はなんでまだ残ってるんだ」
「うん、少年らが戻ってから話そうと思っていたことがあってな」

 煉獄がそう言って姿勢を正すものだから、橋本もつられて背筋をしゃんと伸ばす。いつぞやの再演のようでにわかに面白かった。

「というのも、会ってもらいたい人がいる」



*****


 煉獄が二人いる。

「どっちが俺ぶん投げた方?」
「俺だ」
「ぶん投げたことが……?」
「そう……あるんだこの男、俺をぶん投げたことが」

 空いている日と体調を確かめられる以外に煉獄は特に何も教えなかった。橋本は指定された日に松葉杖を蝶屋敷から借りて指定された場所に来た。と思えば煉獄が大小に分裂していた。濃ゆい。濃すぎるだろう、煉獄家の血。橋本は迸りそうになる叫びをぐっと抑えた。

「弟君でしたか。鬼殺隊、階級乙、橋本新平です。いつも兄君のお世話してます」
「いえこちらこそ……あれ? えっと?」
「こら。千寿郎をからかってくれるな」

 橋本は子リスを見ているような心地だった。ころころと可愛らしい。「お預かりするものはありますか」と紅葉みたいな手を向けてきたので、橋本は「ご家族で召し上がってください」とあんぱんの入った風呂敷を渡した。千寿郎がワタワタし始めたので、とどめとばかりに橋本は「これはいつも頑張ってる千寿郎くんに」とキャラメルを渡す。

「そろそろ弟が破裂してしまうぞ!」
「カカカ、いやー可愛いなぁ可愛いなぁ。弟ってみんなこうなのか? 俺兄弟いなかったから」
「橋本さん、お戯れはこのくらいに……」
「いや、兄目線から見ても千寿郎は世界一可愛いぞ」
「兄上ッ!」

 そうしてひとしきり千寿郎を可愛がり、すっかり胃の腑がホカホカになってから橋本は煉獄家の敷居をまたいだ。

「まずは母に挨拶に行こう」
「お父上が先でなくていいのか?」
「恐らくだが、橋本と父上を引き合わせて無事に済む気がしない。難易度が低い方から行こうと思う」
「挨拶に難易度があるのかよ煉獄家は。マうちも似たようなもんだったか」

 だった、に含まれた郷愁を感じ取り、煉獄はにわかに胸の内がざわめいた。思ってみれば、この男の家族のことをあまり知らないな、自分は。しかし煉獄は細かいことをあまり気にしない質であったので、「そのうち聞く機会もあるだろう」と深く追及しなかった。

「母上、友人を連れて参りました」

 仏壇じゃねえか!
 橋本はすんでのところで喉を震わせるのを回避した。唇だけが間抜けに動いた。知らなかった、母君が既に逝去していたとは。橋本の病室で繰り広げられる大騒音意見交流会でも時折家族の話題は出るが、確かに思い返してみれば煉獄の口から母親の話題はほとんど出なかったように思う。今更になって思い出しても遅い。橋本は間が悪い自身の脳みそに唾でも吐いてやりたい心地だった。

「すごい男なのですよ、彼は」

 そう言いながら仏壇の前に座る煉獄は、普段の苛烈さのようなものとは隔絶されていた。壊れやすい細工を扱うような立ち居振る舞いを見て、ああ、これが煉獄の本当の姿なのかもしれないと橋本は思う。
 煉獄の少し後ろに座り、橋本も手を合わせた。

「初めまして。とんだ田舎者がこのような素晴らしい者に出会えて僥倖です。あなたがいなければそれもなかった。感謝しています」
「照れ臭いものだな」

 から、と笑った煉獄が空気を吸った拍子に思い出したように視線を下げた。逡巡したのち、糸をつむぐような声で発する。

「母上、先だっての任務であなたの夢を見ました。俺が強く生まれたのはなぜか。なぜ強くあらねばならないのか。あなたが無辜の人々を護るためだと仰ったことを胸に今まで戦ってきたつもりでしたが、何と言えばよいのか。……曲解していたように思います。そのことに気づいて、俺は空恐ろしくなった。俺は、母上の教えを守れていたでしょうか? 真に人を護れていたでしょうか?」

 煉獄は聡い。仏壇から声がしないこともわかってなお問いかけねば収まらないのだろう。同時に橋本は、煉獄がそんなことを考えたまま自分と肩を並べて戦っていたのか、と考える。俺はあの時何を考えていただろう。
 ノブレスオブリージュ。煉獄が母から受けた教えはまさにそれだ。高貴なる者には立場相応の責任が伴う。それに応える振る舞いをせよと諭す欧州の道徳観であったと橋本は記憶していた。亡き母からの教えに殉じようとは、煉獄も心底やさしい人間なのだ。あまりにも。

「僭越ながら、俺からもひとつ」

 手を合わせ目を伏せたまま橋本が言うと、煉獄は驚いて振り返った。橋本が何か言うとは思っていなかったらしい。ちらり、と目配せすると煉獄はうなずき、仏壇の正面から避けた。橋本は丁寧ににじり寄ると、改めて合掌する。

「この男、人間でありながら衆生済度を願っています。俺は夢物語を見られない質ですので、愚かにも到底叶うものではないと思っていました、先だっての任務までは。あなたの教えがこの男をある種の現人神の域にまで押し上げたのだと分かれば、納得がいきます。ご安心召されよ、あなたの息子はこれ以上ないほどに強く、同時に無辜の守護者です」

 満足した。ふっと息を吐きながら合掌を下ろして煉獄に仏壇の正面を明け渡すと、いつまで経っても戻ってこなかった。おや、と煉獄を見やると、優しく緩められていた瞳がいつものように見開かれている。これは何の感情の顔だ? 橋本が首をひねる。

「よもや、そんなことを言われるとは、ついぞ」
「にしたって、見たことないような間抜けた顔してるぞ」


 そうして互いに首を傾げあっている最中、風が吹いた。
 奇妙な風である。その感触を言い表すなら、「たおやか」を用いるのが適切である、と思うような。やわらかく抱きとめるような風が、木の葉を二枚連れてくる。風に巻き上げられた木の葉は二人の頭頂に着地すると、伝うような、撫でるような挙動で落ちた。
 心底奇妙な心地であった。橋本はこの変哲もない木の葉が煉獄の母君の掌のように感ぜられた。これまでを労う手つきそのもの。橋本はしばし茫然と木の葉を見つめていたが、示し合わせたように煉獄と揃って互いを見た。
 たっぷり深い呼吸を三回。二人は笑いだす。

「ウワー! 釈迦に念仏説教しちまった! 怒られた!」
「そうだろうそうだろう! 母上だぞ! 俺の!」
「言われんでもわかっとるわいって言われた! これ絶対そうだ!」
「うむ、この、いや、何という日だろうな今日は! 胸中がむずがゆくて仕方ない!」

 煉獄は行儀よく折りたたんでいた足を投げ出して笑った。橋本も同様だった。招かれた他所様の家で客人がしていい行動ではないが、煉獄の母君なら許してくれるだろうと思った。叱責はするだろうが、許容はしてくれるはずだと。
 ひいひいと呻きながら揃って座りなおし、二人は再び手を合わせた。あまりに清々しい心地であった。

「はー。これ、頂いてもいいか」
「むしろ持っていてくれ」

 膝先から五目離して置かれた木の葉を煉獄は懐紙で包んだ。丁寧に懐に仕舞われる懐紙を見て、橋本は思いつく。

「花じゃないが、押し花にしたらいいんじゃねえか? 重しに良さそうな本がある」
「妙案だ! 是非に」

 ぱっぱっと喜ぶ煉獄を横目に、橋本は静かな微笑みで「じゃあ、戻ったら見繕ってやっから」と答えた。
 煉獄は了解しながらも違和感を覚える。先ほどまで爆笑だったのにそんなに気持ちの下がる場面だっただろうか。橋本は郷愁で溺れそうな顔をしている。押し花に何か思い入れでもあったのだろうか。
 そこまで考えて、煉獄の頭に殴られたような衝撃が走る。
 この男そのもののことを、俺はほとんど知らないのではないか。


*****


 ああ、なるほど。
 橋本は襖を前にして理解した。煉獄が「難易度が高い」と言っていたのはこういうことか。いつかの昔に経験した呪詛の湿布のような感覚。淡墨が半紙をじわりと染めていくような。こういうものをルサンチマンオーラとでも言うのやもしれんな。襖の向こうから感ぜられる気配をそう形容し、橋本はわずかに顎を引いた。

「今日は調子が悪そうだ。止めても構わない」

 部屋の主人には聞こえないように煉獄が言う。二人は襖の前に座している。煉獄を見やると、先ほどは穏やかだった視線が普段の鋭さに戻っていた。その隙の無さたるや、棋士のそれに近い。一手誤れば先はないような緊張感を抱いているとわかる。
 おいおい会ってほしい人がいるっつって何だその張りつめっぷりは。思わずにはおれないながらも、「会ってほしい」と言われたからには会わねばなるまいよ。橋本は鼻から深く息を吸って答える。

「会わせられると思ったから連れて来たんじゃねえの」
「……うむ。失言だった。許せ」
「元から怒ってもねえよ」

 互いに一瞬だけ口角を吊り上げ、すぐさま顔を引き締める。

「父上。先日お話した友人を連れて参りました。お目通りを願います」

 襖の向こうから返事は無い。これだけドヨドヨした雰囲気がありながら中が無人ということもないだろう。橋本はあらためて「難易度」を実感した。
 一方煉獄は既に慣れ切ったもののようだ。「失礼します」と断りを入れてから襖を開く。
 その瞬間。橋本の目に映ったのは視界いっぱいの黒だった。否、放り投げられたぐい吞みが眼前に迫っていた。
 橋本は咄嗟に首を傾げ、ぐい吞みを掴んだ。背後から液体が叩きつけられる音がする。巧妙に飲み口が橋本の方を向くように投げられていた。煉獄も反応していたが、予想はしていなかったらしい。

「……なぜ避けた」

 部屋の主は縁側に酒を伴って座し、こちらに背を向けたまま言った。ぐい吞みを掴んだままの姿勢で橋本は胸中にさまざまな感情が去来するのを感じる。大きく感嘆、疑問、不快感であった。

「……酒が嫌いなもんで」
「橋本」

 呼びかけたのは煉獄だ。橋本を案じているようにも諫めているようにも聞こえるが、視線は変わらず父へ向けられたままだった。橋本は膝から少し離してぐい吞みを置き、努めて丁寧に頭を下げた。

「お初にお目にかかります。橋本新平と申します。鬼殺隊階級乙、水の呼吸を使います。お話はかねがね、お目通り叶いましたことを嬉しく思っております。煉獄槇寿郎殿」

 橋本が言い終わると同時に槇寿郎が橋本の首をつかみ上げた。つま先が傍らに置かれていた松葉杖を蹴り飛ばす。流石に静観できなかった煉獄も立ち上がるが、槇寿郎は煉獄の胸倉も掴むことで動きを封じた。
 橋本は酸欠に喘ぎながら瞠目する。どれだけの間か知らないが、酒浸りの生活をし続けた人間の握力ではなかった。ぎりぎり床に着くか着かないかのつま先でなんとか息は続いているものの、橋本は先ほどから頭の大部分を占めている疑問に再び直面する。
 友達って、ご家族に挨拶に行ったらまず最初に掴みかかられるもんなのか。へー勉強になるわ。んなわけねーだろハゲ、どうしろっつーんだよ、これ。

「くだらん、実にくだらん!」

 槇寿郎は煉獄の胸を突き飛ばし、橋本もまた畳へ放り投げた。畳というのは案外固いうえイ草もその気になれば平気で人体に刺さる。強かにぶつけた額がぶつけた衝撃以外の原因でヒリヒリと痛むのを橋本が知覚する前に、槇寿郎は再び橋本を掴み上げ殴打した。

「柱でもなく、水の呼吸使いが友だと! ふざけた真似をしてくれたな杏寿郎! まして銃を使うなど! 外道め、まがい物にも程がある!」
「父上ッ! 彼は竈門少年同様俺の命を救った恩人です! お止めくださいッ!」
「日の呼吸以外はなべて無意味だと言っただろう! 事もあろうに銃使いなどに救われたお前の命もまた同じ! 杏寿郎、お前の権限でこいつを罷免しておけ!」

 大ぶりの拳が橋本の頬を捉えた。反動で振られた顔から散った鮮血が畳に数滴落ちる。橋本は殴りぬかれた方に顔を向けながら立っていた。上げていた前髪はすっかり崩れ、表情が伺えない。
 槇寿郎は興味を失ったように橋本の横を通り過ぎた。縁側に戻り呑みなおすらしい。

「あんたが助けた無辜の民もか」

 すれ違いざま、橋本は呟いた。槇寿郎が歩みを止める。

「何だと?」
「鬼殺の剣士が全員無意味だってんなら別にそれでもいいんすよ。実際俺たちがいくら鬼斬ったってキリがねえ。もっと、的確で、効果のある、唯一無二の、そんな鬼狩りの方法があったはずなんだ。それがあんたが言う日の呼吸なんでしょうよ。だがよ、あんた元とはいえ柱だろ。四肢の指でもまだ余るほどの人を救ったんだろ。その人たちの命までも意味がないって本気で言ってんすか?」

 槇寿郎は縁側へ足を向ける直前に「くだらん」とだけ言った。
 煉獄は気が気でなかった。父の胸中もわかる。橋本の言っていることも正しい。俺はどちらの味方なのだろう。橋本の顎から伝って落ちる鼻血を見て思う。俺は友を失うのだろうか。俺は弱い。心が。

「失礼」

 橋本の語尾をかき消す砲声が響いた。ほぼ同時に焼物の割れる音。液体のぶちまけられる音。遅れて煙の臭いが漂う。
 槇寿郎が今まさに座ろうとしていた隣にあったはずの酒瓶が粉々になっている。橋本の手中にある丁字の鉄は、よもや銃だろうか。煉獄はあまりのことに頭が痛くなってくるのを感じた。推察が間違っていなければ、橋本が槇寿郎の酒瓶に向けて発砲したことになる。

「重ねて失礼」

 橋本は詫びる様子もない。表情も相変わらず伺えないままだ。さも自宅のような足取りで足袋のまま庭に降り立ち、すこし離れたところで眞寿郎と煉獄に向き直って正座した。誰も止められる余地がなかった。彼我で理が食い違っているかと錯覚するほどに。

「ご無礼お詫びします。これは南部式大型自動拳銃。鬼殺の武器ではありません、お察しの通り豆鉄砲です。人しか殺せない。例えば、俺の母とか」

 橋本が懐かしそうに目を細める反面、煉獄親子は凍り付いた。この男、自分の母を撃ち殺したと言ったのか。

「こんなまがい物で殺された母は無価値っすね。まがい物に固執して死んだ父も無価値っすね。で、それを助けられなかった俺はもっとずっと無価値っすね! 永らくお邪魔致しました。大変お世話になりました。お暇させていただきます、この世からァ! なんつって!」

 やけくそに叫んだ橋本は迷いなく拳銃を自身の顎に突き付け、引き金を引いた。
 変わらない銃声が響いた。





 この男がどれほどの激情を秘めているかを知っている。どれほどの怒りを抱いているか知っている。どれだけ心を燃やして戦っているかを、煉獄は知っている。
 そのくせ、その体は驚くほどにひやりと冷たいのだな。煉獄は橋本の手首を締め上げながら思った。
 銃弾が橋本の頭骨を穿つことはなかった。控えるように言われているにも関わらず呼吸を使ってすっ飛んできた煉獄によって、腕ごと明後日の方に向けられた銃口からむなしく煙が昇っている。
 橋本は荒い息をつきながらもたれかかってくる煉獄をただ受け止めた。重さに負けて倒れることも、押し返すこともしなかった。呻くように呟く。

「ああ、そっちだったか」

 煉獄が意味を理解して橋本の顔を見るよりも早く、橋本は煉獄の胴を担ぎ上げて立ち上がった。さも当たり前のように槇寿郎の方へ歩みだし、一度深く頭を下げて足の裏と膝の土を払い、槇寿郎には目もくれずに居室を横切って松葉杖を拾い上げる。

「待て、この、この莫迦。待て! どこへ行く。どこへ」

 煉獄もパニックのあまり自身が同じことを繰り返し訊いているのに気づいていない。橋本は何も言わず、歩みも止めなかった。実際のところ「どう返事をしたものか」と迷う表情は浮かべていたのだが、橋本の後方を向くように俵抱きにされている煉獄にはちょっとやそっとでは見えない。
 ついに玄関で橋本がいつものブーツに足を通す段階になってやっと煉獄の足は地に着いた。「お前の方が必要じゃねえのか」と差し出された松葉杖を叩き落して、煉獄は声を荒げる。

「大莫迦者! 説明しろ!」
「何が楽しくて狂言自殺の心境を説明しなきゃいけねえんだよ。するにしたってここじゃまた死んでやるぜ」
「どこでなら口を割る?」
「骨壺」
「莫迦!」
「ああそ、無理させといてすまねえが、そんだけ声が張れりゃ大丈夫そうだ」

 そういって橋本は松葉杖を拾い上げて立つ。橋本がいつも身に着けている濃い茶色のコートが巨大な土壁のように思えて、煉獄は負けじと草履を履いた。橋本は煉獄を待たずにさっさと煉獄家を出ようとする。

「待てと言っている」

 門を出かけた橋本の、先ほど潰すほどに握った手首を煉獄が再び掴む。相変わらず恐ろしいほどに冷たい。

「なあ、何故だ。俺が窓から投げ飛ばしかけたからか。父上の言葉か」
「何の話だよ」
「お前のその距離の置きようだ。なあ橋本、俺たちは友ではなかったのか。せめて怒ってはくれまいか」
「別に怒ってねえし、むしろ感謝してら」
「ならば、なおの事、何故」

 依然として橋本は煉獄と向き合おうとしなかった。ひどくくたびれたコートが数回上下して、橋本は天を仰いだ。納得がいったように長い息をついてやっと煉獄に向き直る。

「なあ。俺は鬼殺隊に入ってから、入る前も、ろくに友人なんざいやしなかった」
「初耳だ」
「やっぱりな。俺も、お前も、互いが互いを知らなさすぎるんだ」

 そう言う橋本の顔を正面からじっと見て、煉獄は橋本の目がこれといって特徴がないのではなく、藍色をしながらもひどく暗いので黒だと思い込んでいたのを知った。
 絶望した人間の目だ。煉獄は記憶を振り返り、橋本の目が死に際のそれと似ていることに驚き、同時に納得がいった。
 この男がどれほどの激情を秘めているか知っている。怒りを抱いているか知っている。心を燃やしているかを知っている。だが、瞳をこれほどまでに濁らせる何かがあったことを、何があったかを知らなかった。
 先日の高揚はあくまで一時の高揚だった。俺たちには、まだ互いを友と呼び合えるほどの理解がない。

「お前には先に手の打ち見せられちまったからな。俺も見せなきゃ道理が通らねえ。ちょっとばかし歩くことになるが構わねえか」
「随分弱く見られたものだ」
「いや、肺に穴開けたやつに言われてもよ」
「そういう君もつい先ほどタコ殴りにされていただろう」
「さっきも思ったが、止めろや」
「俺は止め、痛いッ」

 デコピンには思っていたより力が込められていた。



*****


 案内されたのは煉獄家からはすこし距離のある藤の家紋の家だった。勝手知ったる我が家と進む橋本の背を、煉獄は新鮮な気持ちで眺めた。そういえば最初に会った時はすごい訛りであったものな。北の方から遥々来たのだろうから、部屋を借りているのだろう。
 散らかっててすまねえな、と通された部屋は、「物が多いんだか少ないんだか」と最初に思わせるに足りる景色だった。
 ほどほどに大ぶりな書架から溢れ床に積まれるほどの本と、おそらく銃の入っているだろう横長い箱がいくつも。それぞれの数こそ多いものの、橋本の部屋には本と銃しかなかった。

「物が多いんだか少ないんだかわからないな」
「そうか? 大所帯だぜ。ここからこっちは文学やら図鑑やらだがこっちは学術書だし、そのへんは洋書、英語とフランス語とかだ。そこの二冊は中国語だし。あロシア語もあるな」

 銃もそのへんは何で、これは何と饒舌になりだした橋本を見て、煉獄は蝶屋敷で何の気なしに「瓶がいっぱいある」と口を滑らせた時のことを思い出した。どちらのケースも物を「物」として認識するか情報で認識するかの差なのだ。

「お前の話は道中に聞いたが、さて、俺のはどこから話したもんか」

 煉獄に差し出された座布団は中綿が変に寄っていた。枕代わりにして長いのが伺える。二人は向き合って座った。

「話せる範囲でかまわない」
「もうそんな生乾きじゃねえよ」

 咳をするように笑って、橋本は自身の過去を煉獄に打ち明けた。なんてことはないマタギの子として生まれ、育ち、鬼に両親を殺されて鬼殺隊に入った。鬼殺隊にあってはあまりにありふれた来歴だが、それだけではないことは橋本の瞳の色が語っている。橋本も自覚はあるらしく、「マよくある話だわな」と言った。話せる範囲でかまわないと言った手前、「まだ言っていないことがあるだろう」とは口が裂けても言えなかったが、煉獄の目はあまりに雄弁だ。察した橋本が続ける。

「たぶんお前が聞きてえのは、なんで俺が他人と距離取りたがるのかってとこだと思うんだけどよ」

 そう言いながら、銃が入っている箱に埋もれていた小箱を出す。樺細工の小箱をひどく丁寧な手つきで橋本は開けた。中入っていたのは、懐紙に包まれた押し花と煙草だ。

「これな、俺の上着とブーツ、首巻の他に地元から持ち出せた遺品だ」

 煉獄は「持ち出せた」という言い回しが妙に引っかかった。普段なら訊いてしまうところだが、橋本の言葉を待つ。

「さっき、大拳で殺せたのは母くらいだっつったよな」
「だいけん」
「南部式大型自動拳銃」
「ああ」

 煉獄の前に先ほどの拳銃を置きながら、橋本はいっそ慈しむような顔で続ける。

「あれァ嘘でもハッタリでもねえ。俺が医者を呼びに行っている間にもずっと苦しむくらいなら、もう助からないならっつって、これで、父が死んでも守ろうとした、瀕死の母を撃った。父の銃で母を殺した」

 凄絶だ。その一言に尽きる。煉獄は同時に自身の力不足も感じた。いくら俺が柱になるより前とはいえ、鬼殺隊は民を救えていない。絶えず新たに入隊する隊員の多くは鬼の被害者であった。

「生きてるとはいえ俺も怪我したから、その時助けてもらった鬼殺隊員の紹介で医者に診てもらって、二日くらいだったか泊まって。急ごしらえにしかできなかったからちゃんと弔ってやろうって実家に戻ったら、実家がなかった。父が夜半に大声上げて銃を撃つような人だったから、麓の人間は父を気狂いだと思ってたよ。で、耐えきれなくなった俺が両親を殺してどこかへ消えたと思っていたそうだ。気味が悪いってんで火をつけたと。白状した男は、父の遺品を売り払った金で酒を飲んでた」

 箱から取り出された煙草は軽そうだった。押し花も小箱と並べて置き、懐かしむように手をついて眺めながら橋本はなおも続ける。

「これはまさに今遺品を二束三文で買った男ブン殴って取り戻した煙草と銃、これは特に両親を毛嫌いしてた女が捨てた中から探し出した母の押し花と樺細工、衣類は町人全員の家にカチ込んで見つけた。私物化されるところだった」
「橋本」
「家なんかひでえもんだった、ご丁寧に炭くべて油まで撒いて火つけられててよ、本当に土と雪と灰しかねえんだよ。両親どころか先祖の物も全部燃えた。そもそも山から降りて来た時点でしこたま石投げられたな。なんで生きてるんだ、親殺しめってよ。間違っちゃいねぇんだが」
「橋本」
「酒精って揮発するからよ、寒空の下で焼酎の瓶で殴られたのはわりと堪えたな。バカほど寒かった。医者に診せた傷も全部開いた。怖えよ、人間ってのは。殺しに来たと思ってたんだろうな。俺が復讐に来たとでも思ったんだろ、何やったか自覚あったんだろうよ自分たちがよ」
「橋本ッ!」

 煉獄は鋭い声を上げた。ある種の境界線のように置かれた遺品の向こうにつかれた手が語るごとに畳に爪を立てていた。その指先の白さに耐えられなかった。境界線を飛び越えて掴んだ橋本の手は、まさに雪山の中にいるような冷えきり方をしている。少しでも熱が伝わるように何度も掴んだ手を握り返して煉獄は「もういい」と言った。

「無理をさせてすまなかった。もう十分だ。もう大丈夫だ」
「……いや、別に、なに、俺が喋りたかったんだ。お前には知っておいてもらいたかった。これからも友でいようと思うかの判断材料になる」
「なら言わせてもらうが、だからどうした。なぜ友を辞めるものか。そもそも友とは辞めるものか? 否、関係とは常に変わっていくものだ。俺は今の話を聞いて、なお一層お前のことを好ましく思う。鬼殺隊員としてでもなく、炎柱としてでもなく、煉獄でもなく、俺個人として」
「その心は」
「それほどの仕打ちを受ければ、当然人など信用できなくもなるだろう。それでもなお人を護ろうと、なお人が傷つかぬ方へと向かって歩み続けて来たのだろう。それほどの過去を抱いてなお、苦しみ続けてなお、父母との縁を手放さないのはそれほどご両親を愛しているからだろう。その精神の強さたるや、気高さたるや。橋本新平、あまりに人として強い男だお前は。お前の唯一無二の友となれたことを俺は誇らしく思う。そして強欲は百も承知だが、願わくば」

 煉獄は一度言葉を切った。きっと唇を引き結び、再び橋本の底なしの井戸のような目を見据える。

「願わくば、いつかでいい、お前が涙を流す時に、俺の元を選んでくれ」

 言い切った。言ってやった。煉獄は橋本の笑顔の影にうすら寒い空気が流れていることをわりと昔から知っていた。「そういうこともあるだろう」で済ましていた過去の自分を殴り倒したい心地でめちゃくちゃになりそうだった。八つ当たりのように握りこまれている橋本の手は冷たいままだ。
 一方の橋本は、未だ遺品を見つめたまま畳に爪を立てていた。煉獄の掌が驚くほどに熱いので発熱を疑う余裕はあったが、それでも呼び起こされた悪夢は脳の回転をどん底まで下げる。それでもなお非凡、だが橋本にしてはほぼ無くなった頭で、珍しく脳直で発言した。

「なあ。……いつか、って、いつだ」
「ッ今!」

 煉獄は吠えるように答えた。間髪入れずとはまさにこのことであったし、間髪入れては駄目になると思った。吠えきった後に残った息が気管にわだかまっている。胸がぎりぎりと熱くなりつづけ、ついに煉獄は落涙した。
 見つめ続けていた遺品のほど近くに水滴が落ちはじめたものだから橋本は内心ぎょっと思いながら煉獄の顔を見、今度は一切を隠さずぎょっとした。

「おま、お前。なんでお前が泣くんだよ」
「わからん。出てきた。おそらく、お前が少しでも救われてほしいのだ」
「大袈裟な奴だな」
「大袈裟でなどあるものか。断じてあるものか。お前が泣かないから、俺の目から涙が出た」

 眼帯に覆われていない鳥除けみたいな右目から落ちる涙があんまりに大粒で透明だったので、橋本はしばらく煉獄が男泣きしているのをじっと眺めていた。責務のために命すら投げ出そうとする男が、まさか自分の身の上話で泣くとは思っていなかった。ふと、未だに橋本の手を握りこむ煉獄の手が、狂言自殺を防ぎに来たときは指先が冷たかったことを思い出した。
 強い強いって、一番強いのはお前だよ。橋本は煉獄の涙を数えながら思う。橋本はただ一途に怒りのみで鬼に立ち向かってきたが、煉獄の炎は人を導く炎だ。救う炎は、怒りに比べて燃焼効率が悪いと思う。それでもなお、長きにわたって「人々を護る」教えに則って心を燃やし続けていた煉獄は、まさしくセントエルモの火であるのだと思う。

「は。なんだよそれ」

 そんな男が二束三文で売れる不幸を聞いて泣いているのが妙におかしくて、優しい炎であり続けようとした苦しみを思って、橋本は笑いながら泣いた。血を吐く咳のような笑い方だった。煉獄に反して、ともすれば見失うようなか細い涙だった。
 煉獄はこの時ばかりは左目が失われていることを悔しく思った。昼日中の月のような橋本の涙を、もっとしっかりこの目で見たい。煉獄は一度強く目を瞑り、涙を押し出して橋本を見据えた。橋本と煉獄の目が合う。泣き濡れた双眸は相変わらず深淵のような色だが、目じりが早くも赤くなっている。重たい漆黒の前髪と血の気のない肌に挟まれた瞳の淵の赤が雪中に咲く椿のようだった。
 なんという日だろう。今日は胸中がむずがゆくて仕方がない。

「うむ、やっと泣けたな。もう大丈夫だ」
「バカ野郎、お前が今まで我慢した分だよ。泣き方忘れたから長引くぞ」
「構わん。俺もだ。人間に一瞬で治る傷などないからな」


 どちらともなく笑い、どちらともなく落涙する。涙に濡れてしまわぬように橋本の両親の遺品を丁重に樺細工の小箱に仕舞い、二人して座布団を折りたたんで枕にして、横になって泣いた。互いを労い、許し、心の一番深いところを明け渡しながら陽は落ち、夜もまた更けていった。
 無断外泊だった。



*****


「見るたび怪我が増えているのはどういうことなんでしょう? さぞ頭が良いはずなので、わかると思うんですけれど」
「マ、あの。つきましてはお詫びに以前約束させていただいてました本がこちらにありますので、エー。すいません何卒ご容赦願えますでしょうか」
「あら、約束を覚えておける頭はあるのに、どうして怪我したまま無茶するなというのが聞けないんでしょうか……あなたもですよ煉獄さん。聞いているんですか」
「すまない胡蝶! 今は千寿郎への手紙を書くので忙しい! 少し待ってくれ!」
「バカ野郎火に油注ぐな! ホントすいません黙らせとくんで!」

 昼下がりの蝶屋敷である。厳密には、泣き明かした翌日の蝶屋敷である。主たる蟲柱、胡蝶しのぶは額に青筋を浮かべながら処置済みの橋本と煉獄を前にしている。煉獄は二つ、橋本は五つも年が離れているのに胡蝶には逆らえない。

「差し引きしてトントンといったところです。この図鑑は?」
「あー、それは蝶屋敷のこどもら喜ぶかと思って寄贈本です。海外の生き物が載ってます。面白いですよミツアナグマとか」

 胡蝶はサッサと本を確認すると「それは助かりますが、しばらく見張りをつけます」と言って病室を後にした。差し引きしてトントンどころかむしろちょっと負けた。歯噛みしていると煉獄が「書けた!」と大声を上げたので、橋本は思い出したように持ち物をまさぐる。

「屋敷に鴉飛ばすならこれも同封してくれ。お父上宛てに」
「構わないが何故?」
「槇寿郎殿が投げたぐい吞みに入ってたの、水だったんだ。酒に依存してしまう気の病があるが、それの治療として酒の容器に水を入れる方法があるらしい。それをやってらしたんだ。手前が酒嫌いだからって相手の事情も考えずに物言っちまったから、その詫び状だ」

 後日ちゃんとお会いして詫びるがどうこうと続けるが煉獄はさっぱり聞いちゃいなかった。しどろもどろしている橋本の顔があんまりにも棋士のような顔をしていたので手紙を受け取りながら笑いだしてしまった。

「なんだ、棋士のような顔をして。父は将棋でも囲碁でもないぞ!」
「言っとくがお前も同じ顔してたからな! けんッ」

 橋本は顔を背けてしまった。存外そんな顔もできるのだな。感慨深くなりながら煉獄は鎹鴉を飛ばす。その羽ばたきの音に混ざって足音が三つ聞こえた。煉獄は「おや」といった顔をし、橋本は凶悪な笑みを浮かべる。

「こんにちわ! 見張りを仰せつかったので来ました!」
「親分に無断でどっか行くとはいい度胸じゃねえか! めちゃくちゃ暇だったんだぞ昨日!」
「主に伊之助の面倒見るの大変だったんですよ昨日! 今日はもう俺何にもしないから! 橋本さんに面倒見てもらうんだから!」
「よく来たな少年たち!」
「ああよく来たな! 見張りついでに勉強して行けや! 体の訓練はもう飽きるほどやったろ今度は俺が頭の稽古つけてやる!」

 てっきりゲンナリした顔をするものだとばかり思っていたちびっこ達は「ええ!?」と瞠目し、次々と投げ渡される書籍を泡食って受け止めている間に突貫ウキウキあおぞら(室内)教室は始まってしまった。

「まずァ五分だ! 五分計るから読めるところまで読め! 終わったら感想と意味わかんなかった単語言え! じゃあ始めェ!」
「ちょっと! わけわかんないんですけど!? 急展開にも程があるんですけど! 今までお菓子つまみながらお喋りする流れじゃなかった!?」
「もう五分始まってんだぞ! お喋りとはずいぶん余裕じゃねえか我妻ァ! 頭の稽古終わったらキッチリカッチリお前らの話も聞いてやる!」
「うええ!? もおー!」

 結局我妻も黙って本を読み始めた。竈門と嘴平は最初から静かに本を読んでいたように見えて前者は最後のページから読み始めており、後者は本が逆さまだ。まさか本の読み方から教えることになろうとは。橋本は頭が痛くなってきたのを知覚しながら煉獄に向き直る。

「ほい。お前も頭の稽古だ」
「突然だな。どういう風の吹きまわしだ?」
「技術はいくらでも盗める。もとからいろいろと変態技術者集団だしな鬼殺隊は。だが、そればっかりかまけてて戦略が無きゃ命の無駄遣いだろ。金と元気と人手と技術と知識はあればあるだけいい。その知識の部分で手助けができりゃなと思ってよ」

 言いながら渡されたのは洋書だった。厳かな十字が書かれた表紙には見慣れない文字が並んでいる。

「何の本だ?」
「いやなに、面白い名前だなと思ってよ、煉獄」

 ここだ、と橋本が煉獄の手の上から本を開く。どうやら宗教上の煉獄について書かれているらしい。煉獄は、橋本の手が冷たくないこと以上に、記憶のある範囲で初めて名前を呼ばれたことに驚いて声も出なかった。

「炎柱で、しかも煉獄って。できすぎだなあと思ってたんだよ。俺が死ぬときはお前に頚を斬られたいもんだね。……聞いてるか?」
「いや、聞いてない。初めて名前を呼ばれたなと。思って」
「……ああ。ほんとだ」

 橋本も気づいていなかったように「あらまあ」と口元に手をやった。

「うっかり八兵衛」
「うっかりで人の名前を呼び忘れるものだろうか? まぁ、心境のこともあるのだろうが」
「あーそうかそれだ。じゃあそうなあ、これからは杏寿郎って呼ぶ」

 煉獄はついにあんぐりと口を開けた。
 よもや、心境の変化たるや。心境の変化がもたらす関係の変化たるや。やっと俺はこの男と、友、と呼べるものに成ったのだな。
 煉獄が感動に打ち震えている間、橋本もまた感動していた。
 友ってのは、名前一つ呼ぶってのは、こんなに気恥ずかしいものか。こんなに気兼ねないものか。ああ俺は猗窩座と戦っている間、この兆しを失いたくないと思っていたのかもな。

「わ」
「わっしょいは禁止」
「む、ぬぬぬ! うーん! 俺も呼び方を変えた方がいいだろうか!?」
「うーんいや、うーん。例えば?」
「新ちゃんなどどうだろう!?」
「却下も却下だバカタレが」

 穏やかな日の光が温かい。まさか今生で陽の下で笑うことがあるとは思っていなかった橋本は、暖かいのは日の光だけでなくちびっこ達の視線もそうだったことに気づいて「クレェ!」と声を上げた。
 教えたいことはまだまだ山のようにある。
 例えば、鬼がいなくなった世界でお前たちが生きていく方法だとか。
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