1. ああかがやきの4月の底を
1 ああかがやきの四月の底を

 わたしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です



 文系、理系、体育会系。
 学問を雑に括る、というより、衆愚にもわかるように分類すると、そうなる。しかしこれが到底人の到達しえない高みにある人間にも扱いやすい呼称であった。だので昔から語り継がれている。
 石神千空は、理系の頂に立つものである。3700年前から、変わらず。
 散光、葉擦れ。
 千空はしずかな洞窟の前にいる。このなかには、石室がある。
 文系、理系、体育会系。3700年前から体育会系の頂点に君臨していた男、獅子王司を収めた石室は冷気を抱いて司とともに眠っている。千空はそのメンテナンスに訪れていて、自身が設計を、カセキが製作を行ったコールドスリープマシンは、今日も変わらず眠っている。
 千空はひとつ息を吐いて、凝り固まった首を鳴らす。上を向く。
 散光、葉擦れ。すずやかな空気。
 ここは、嫌だ。そう思う。
 どう表していいか、そのシソーラスを持ち得ていないからだと思った。

「……あ?」

 嫌なところに長居する趣味があるでもなし、千空は帰り支度をして。
 それに気づいた。
 献花である。ご丁寧に菊と榊と、その他のちいさな花々が束ねられたものが、ひそりと転がっている。捧げられている。
 仏花だ。墓前に供える花束だ。
 千空は考えた。石神村に、こういうことをしそうな人間はあまり思い当たらない。そも、それほど思い入れがある人間がいるあてがない。運だと言われればそれまでだが、陵墓めいたこの場所に菊と榊の花束を奉げる人間は、およそ鎌倉仏教の知識か、それに基づく墓参りの経験がある。石神村の大半は現地人で、それらしい風習はないことの確認が取れている。
 では司帝国の人間はどうだったかと言われると、しそうな人間がいないわけでもない。が、司は死んだわけではないのを知っているので、わざわざ花束のなかに菊や榊を入れる理由がない。煽りが過ぎる。まして力を優先して集められた人間、ゴロツキが多いなかで、素直に菊と榊を探して来そうな人間も思い当たらない。
 誰が残した花束だ、これは?
 千空は有り余る脳のリソースを5%ほど割いて、実行犯のことを考えた。
 花束は、持って帰ることにした。気分がいいものの気もしない。



 石神村に戻って、実験をして、採集をして、建築をして、内政をして。そんなふうに暮らしていたある日のことである。
 具体的に言えば、「ある日」を境に始まったわけではなかった。たまたま気づいたのが、その「ある日」であった。

「千空よお、こないだ遠出しちょったらな、こがあな石ばあ拾うたぜよ。あれこれ試してみよったけんど、全部これといって反応がぱっとせんきに、ワシじゃあわからん終いじゃった。なんちゅう名前かわかるがか?」
「あ?」
「千空、あんたはん、昨日は私が稽古つけたる言うとったのに、どこウロついてはったん」
「あ???」
「あいすまね、眼鏡の調子サあずましぐねども、カセキんとごサ行ってらってもいべが?」
「あ??????」
「スイカ、ゆるじなむんむっちちゃるんやさー! まじゅんかまんでぃうむとーたしが、いちゅなしそうやれー後なするんやさ」
「ああ!?!?!?!?!?」

 スイカの口から強烈なうちなーぐちーー沖縄方言が飛び出してきて、それまでも大声だったが、一層悲鳴のような声を上げて千空は頭を抱えた。
 クロムからは土佐弁が、コハクからは京都弁が、金狼からは秋田弁が飛び出す。関西ことばの感染力たるや凄まじいもので、メンズは比較的さっさと「あれ? 言葉遣いが変わってしまっていた」と我に返ったのに対し、コハクはいつまでも「何なん?」といった感じだった。クロムと金狼も言葉遣いこそ関東、NHKが定義するところによる標準語に戻ったものの、端々に西や東のイントネーションが入る。

「てめェかあさぎりゲン!」
「クッソ雑に冤罪着せるのジーマーでやめてくんない!? 俺だってこんな小器用な……いや手の込んだ……ええと……気の狂ったような事しないよ!? 万が一やるったって理由がないし!」

 怒りのままに吠えたててしまったが、濡れ衣を着せられたゲンがとっさに反論したとおりなのだ。
 理由がない。
 ほんの手遊び、暇つぶし程度にかつての日本で使われていた方言をなんとなく再現して教える、くらいならまだ理解できるのだ。
 これをやった犯人は、各人の言語野に一番馴染みやすい言語を選び、誰にも見つからずひっそりと教え、また違和感なく日常で発語するレベルに刷り込んでいる。
 タチの悪いバベルの塔だ。
 あれは一瞬にして起こるから天罰として受け止められるのであって、気づかれないほどじっとり、ひっそり、ゆっくりと侵蝕されようものならそれはクーデターとか侵略とか、そういった言葉がきっとふさわしい。

「おい、司帝国にこんな芸当ができる奴はいたのか? 右京や南みてェに一芸を買われて復活した奴が」

 千空が問うと、ゲンは心底嫌そうな顔をして答える。

「いたにはいた。けど、司ちゃんが復活させたんじゃなかったはずだし、追い出しちゃったよ。出禁にされてた」
「出禁? 司帝国をか?」
「あの人は息してるだけで反乱の種をまくようなもんだったからね。司ちゃんのガチエグ選民思想っぷりはご存じの通りでしょ?」
「ははあ。そいつ、知恵者か」
「よく知ってるわけじゃないから責任持てないようなこと言うかもだけど、アカい国みたいなことをしてたっちゃしてたのかもね、司ちゃんは。それをやるにあたって危険だから、でも殺すには惜しすぎるから、出禁」
「ポルポト政権下の眼鏡みてェなモンか……」

 司帝国の政治は、獅子王司の圧倒的な武力によって行われていた。復活させるものも厳選されていた。
 その基準と言うのも、司の武力で恭順させられる若者、といった具合だ。殴れば言うことを聞き、暴力でもって甘言を聞き留めなくなる者や、武力の価値を最上に置く者が多い。先に例示として挙がった右京や南はその基準からはすこし外れるが、司帝国での有用性を見込まれて蘇生された者たちだ。
 力による統治。つまり、知恵の必要ない国。原始社会主義。
 ポルポトとは、人類史における汚点のひとつ、ベトナム戦争の時代カンボジアにおいて大量虐殺を起こした為政者である。おおまかに、彼は自分の言いなりになる国をつくるために一定の年齢以上の人間、または医者や教師を虐殺し、眼鏡をかけている人物も「そうなるほどに勉学に励んだ証拠だ」として虐殺し、果ては少しでも学識がありそうな者を片っ端から虐殺した。反知性主義の極端な例として扱われる政策を実行した男である。
 ポルポトと例えられる司帝国政権下における「眼鏡」、しかし「眼鏡」であっても殺されなかった者。
 圧倒的な力でもってすべてを統治し得た獅子王司が、その存在を警戒し、内政どころか統治下に関与を許さなかった者。
 それが、石神村近辺にうろついている。
 千空は刀印のように指を組んで思考する。コールドスリープ装置の前で拾った仏花に割いていた思考のリソースは、5%から60%ほどまで跳ね上がった。
 石神千空にはやらねばならないことがある。科学の道を成さねばならない。そのロードマップに障害があるならば、出来得る限りの策を用いてこれを排斥せねばならない。
 その策を考える。3700年もの間、正確な秒数を数え続けながら並行して年月日を割り出し、復活後の計画を練り続けていた頭は、しかし興味に歩調を乱した。
 気になる。司ほどの思考力を持つ男が警戒した、それほどの思考と知識を持つ男。
 千空はニヤリと笑う。

「思いついた? あの人、そうそう捕まんないと思うけど」
「文系理系体育会系、そいつァおそらく文系の頂点だろうな。なら、とっておきがこっちにはある。奴を一本で吊り上げる、最高の、かつ旧世界には絶対に存在しなかったものが」

 気づいてからの千空の行動は早かった。
 住民全員の方言やイントネーションを修正し、相互監視体制を組ませる。
 特にコハクとクロムは念入りに。二人には今後、ルリの警護が待っている。

「石神村のお宝で釣ろうっての? あの人、女には興味ないよ」
「その口ぶりって事ァ、男なんだな? どっちだっていいが、俺の思うとおりの頂点なら、間違いなく食いつく。食いつかなきゃ、構うほどの危険性もねェよ」
「だからルリちゃんじゃ釣れないってば」
「ルリで釣ろうってんじゃねえよ。ルリの持ってる、ルリしか持ってねえモンで釣る」
「あ……百物語!」

 石神千空の養父、石神百夜が残した百物語。百夜の知識と経験を全て混ぜこんで百に分け、口伝で継がれてきた伝承である。旧世界の人間、かつ千空が思う「文系の頂点」ならば、食いつくはずだ。
 そう確信している。何故なら、自分は科学の道を選んだが、もし万が一文筆の道を選んでいたなら、そんなワクワクするものを放っておけるはずがないのだ。

「そんな知識価値のあるモン前にして、よだれブチ垂らさずに下らねえかくれんぼキメ込むなんざできやしねえ。この勝負、石神村を土俵にやろうって時点であっちの負けだ!」

 ルリを、百物語を生餌にした外部犯一本釣り作戦は、しかし失敗が続いた。
 村民や司帝国の人間に対するバベルの塔めいたミーム汚染こそなりを潜めたものの、餌にはかからない。
 なりを潜めた、というように、これもまた完全に途絶したわけではなかった。元より湖上の民たる石神村の村民は狩猟や採集をするために村外に出なければならず、司帝国の人間も多くは石神村近辺へ移住をしている。人が増えたことで広大になった所領を全てつぶさに回れるほど人手や伝達の妙があるでもなし、石神村で釣れるのを待っているだけではひどく年月がかかる。
 不味った。
 相手は思った以上に狡猾であり、言ったとおりに知恵者であり、慎重であった。
 となれば、目的はおそらく百物語、ならびに石神村ではない。
 明確に所有がこの村にあって、かつ他に代替の効かないもの。唯一にして絶対のオルタナティブ。一体……。

「千空ー!」
「コハク! なんでここにいんだよ、ルリ今ひとりか!?」
「メスゴリラ! てめぇルリの警護離れんなっつったろ!」
「貴様遺言はそれだけか!? 違う、収穫だ!」
「小麦はまだ早え」
「違う!」

 身軽に駆けてきたのはコハクだ。珍しく息せき切ってきたその手には、小さい紙切れがある。
 紙切れ?

「これを渡された! おそらく、お前が”バベル”と呼ぶ者に!」
「見せろ! ……こいつは……」

 漉き紙だった。相手は製紙の知識がある。四辺がきれいに裁断されていることから、最悪の場合製鉄の技術すらある。
 考えを改めなければならないかもしれない。相手は集団である可能性が浮上した。それであれば、日本国内に限ったとしても多種多様な方言の使い分けができる。それならば、日本各地のネイティブスピーカーを復活させている? 操船の技術がある? 走り出した思考が止まらない。
 天才の思考は、凡夫には追随できない。だからこそ、天才が見落とした箇所に気付くことも往々にしてあるものだ。
 千空が手にしたまま唸り始めた紙片を見て、クロムが口を開く。

「よー千空、これお前の時代の文字か? なんて書いてあるんだよ。到底読めやしねえ」

 言われて、やっと千空は紙から導き出せる情報ではなく、素直に紙の情報を見た。

「こいつは……なんだ? おいコハク、旧世界の人間、特にゲンと右京をソッコーで集めろ。俺だけじゃわからねえ」
「千空にもわかんねえことがあんのかよ。ヤベー」
「俺は科学屋だ」

 言いながら、千空はふたたび紙から情報を導き出すほうへ思考をシフトした。図案とも字ともつかないものは、まだ書かれて時間が経っていないらしく、どこかしっとりとした質感がある。なんともなしに懐かしい匂い。書かれ方を見るに、毛筆を用いたらしい。これらから導き出せるもの――おそらく、書道。これは墨汁で書かれている。墨汁で書く意味とは? にわか漆の採取と加工ができる? 毛筆を加工できるならば、狩猟ができている?

「――千空くん! 来たよ! 右京だ」
「僕もいるよ」

 思考の大海原できりもみ大回転していた意識を、右京とゲンが引き戻す。その集中ときたら、大声をかけながら揺すってもなお、といった具合であった。
 思考の大海原、とは言ったが、誤りだ。興味の大瀑布のただなかに、千空はいる。

「これ見ろ。意見聞かせろ。俺はこういった方面にはめっぽう疎い」
「これは……どこだろう。見たことあるような気がする、すごく」
「僕もだね。すごーく見たことある。けど、そんな高い頻度でじゃないな……」

 旧世界でも指折りの知恵者どもが寄り集まってなお頭を抱えているさまに、ストーンワールドの住民たちはにっちもさっちもいかない。だって、あれだけの文明で生きて来ていた人間たちがわからないことなら、自分たちにもわかるはずがない、と思ってしまう。
 けれど、そこで諦めたりなんかできやしないのが石神村の村民であった。わからないなりに自分も頭をつっこんで、まじまじと紙面を見る。

「なんかあ……絵、みてえだな」
「……水墨画?」
「あ、あっ! 花押!」
「はァ〜! これ漢字かあ!」
「漢字……待て、くそ、草書体ってことかこれ、違う、ああクソ! ユニコードで書け!」
「パソコンもないのにユニコードで手紙出されたって……」
「ゆにこーどってなに……? メンタリストだからよくわかんない……」
「黙ってろ詐欺師! ……パズル? いやパズルだが、……まさか、おい元司帝国! あとコハク! クロムも」
「はえ」
「なに」
「なんだ」
「ついでみたいに言う」
「出禁になってた奴、なんて名前だ? お前らはトンチキな方言教えやがった奴の外見上の見た目、吐け!」

 一気呵成に吠えた千空に、村民サイドが覚束ないながらもまず口火を切る。

「ふわふわしてて……こう、長くて……背は千空より高いけど、大樹よりかは低い。気がする……。雰囲気重視な感じっつーか、よくわからねえんだ、ふわふわしてたからよ。男か女かわからない見た目をしてた」
「確かにふわふわしていたな。浮いていたわけではないのだが、布が多いといえば良いだろうか。杠が作る衣服ともまた違ったような印象を受ける」
「杠が作るのと違う? いや、考えりゃそうか。コハク、描けそうか?」
「ひどいものになっても文句は言わんな」
「雰囲気が掴めりゃいい。現代組、名前は!」

 振り返った千空の先で、右京とゲンは驚いたような、ドン引きしたような、呆れたような、なんとも形容しがたい顔をしていた。

「……なんの顔だ、それ?」
「いや……千空ちゃん、本当に科学以外に興味ないんだなって」
「知らない人いないと思ってたけど……そうか、司のことも最初知らなかったんだっけ」
「あ?」
「いやね、千空ちゃんでもさすがに知ってるんじゃないかと思ってたのよ、ジーマーで。だから個人名出さなくても「あーあいつね」みたいな感じで話進んでるんだとばっかり」
「それはゲンくんのミスではあるけど……いや、そうか、サイエンス読む人は大衆小説読まないよね。否定するわけじゃないけど」
「テメーらが俺のことバッチバチにディスってんのはよーくわかった。言え、名前は」

 促せば、ゲンが口を開いた。呆れるような、企むような、面白がるような顔である。

「解読はもちろん手助けするけど、名前は本人から聞くか、千空ちゃんが自分で思いいたる方がいいんじゃないかな。でもこれは解読のキーで、名前の大ヒントになっちゃう」
「は?」
「千空ちゃん。それね、たぶん万葉仮名だよ」



***


 ひらがな。
 極度の崩し字が、使い勝手の良さゆえにそのまま言語として用いられたもの、と言ってしまっても遜色ない。
 崩し字ということは、崩された元があり、万葉仮名とは、漢字がひらがなになる過程の一場面として遺されたものである。
 千空が”バベル”と呼ぶ文系の極致は、これを自在に操って、理系の極致たる石神千空へ商売を吹っ掛けた。
 買ったものは技術と人員。売ったものは喧嘩である。
 手紙にはこうあった。

「これが読み解けたなら、君はぼくの期待に足る人間だと証明できたと言える。ぼくは君たちに技術と人手を幾ばくか供与してもらいたい。ぼくに相対したいと思わば、清水は草薙神社までおいで」

 石神村のある西伊豆から司帝国のあった東京まで何度も行き来した健脚ながら、石神村以西のことをすっかり失念していた。
 ”バベル”は静岡に居を構えているのか、ただそこに呼び出しただけなのか。こちらがいつ解読を終えるかが不明瞭なあたり、在住だと考えた方がいいかもしれない。千空は遠出の荷造りをせっつかれながら、もくもくそんなことを考えていた。
 どんな男だ。どんな集団だ。そもそも集団か?  文系の極致、果たしてどこまでか。自分を呼び出す理由は? 百物語よりも欲しいものがある? いったい何が?

「千空ちゃーん、千空ちゃんてば」

 ゲンに声をかけられ、千空はやっと荷造りするふりを再開する。道中どんな資源があるかまだ未開拓の地域なので、「ビジネス」に必要なものより「探索」に必要な道具ばかりが押し込まれている。
 ゲンの面立ちは、どこか悲しげだった。これがどういった顔なのか、千空にはいまいち的確な語彙がない。500億%、いらんことを考えている顔ではある。

「心当たり、思いついた? 文系のトップ」
「いんや、全くだ。村上春樹じゃねえんだろ?」
「違うね」
「円城塔でもねえんだな?」
「違うねえ。SF作家さんなの?」
「どっちかってーと物理学者だ」
「そう……その人でもないね」
「著作にはどんなのがある? SFを書いたことがあるなら、もしかしたら読んだことあるかもしれねえ」
「え、あ、本当にジーマーで知らないね、これ……」
「あぁ?」
「千空ちゃん、考えてもみてよ。司ちゃんは武力の頂点、人類最強の高校生、事実ライオンすら素手で殺すでしょ? かたや、千空ちゃんは理系の頂点、科学のおよそ全てを網羅しているよね」
「……そいつは、文系の頂点。給料のために大衆小説を書いてるだけで、そのジャンルはアホほど幅広ぇってことか」
「そ。一時なんて朝ドラから深夜アニメの構成まで、クレジットに名前を見ない日なんてなかったくらいなんだからね」
「狂ってんのか?」
「どんぐりの背比べだと思うよ」

 ゲンは一度そこで言葉を切って、「だからね」と続ける。

「だからね。司ちゃんを忘れろってんじゃないけど、司ちゃんと同じくらい、……なんて言ったらいいのかな。期待していいよ。あの人はきっと、人と話をするのが大好きだし、たぶん千空ちゃんについていけるからね」
「……へっ、おありがたすぎて涙が出らぁ」

 千空はすっとぼけて、しかし荷造りをちゃんと始めた。
 総ての人を救う、その道程で友人を仮にでも殺してしまった事実が、またその友人がほんとうに話の合う男だったことが、今なお千空に重くのしかかっている。その重みの分だけ先に進む力はうまれるが、それはそれとして足が痛いなと思う時もあるのだ。
 千空は終わりかけの旅支度を見直して、一度部屋を睥睨する。しばらく経ってしまったので枯れかけた仏花の束が目について、なにだかすこし嫌な気持ちになったので、天井から吊るした。
 うまくいけば、ドライフラワーが作れる。







 鎌倉は草薙神社、正確にはその跡地は、平たく言えばよく整備されていた。整備した人間がいる。
 木立のなかに、その居庵は佇んでいる。

「……千空。止まれ」

 道中の警護、ガイドに随伴したコハクが鋭く言う。庵を認めて先陣を切った千空が足を止めたそのすぐ先に、背の低い草に隠れるようにしてまっすぐ糸が張られていた。

「ブービートラップか?」
「なんだそれは。罠か?」
「そんなとこだ」
「ハ! 何が飛び出すか、見てやろうではないか」
「おい待て、文系の頂点だぞ。体育会系の頂点様を忘れたか? 何が出るか……」

 千空の頭の中では、文系が思いつきそうなトラップがありったけ想像されている。マジクソ理系人間の千空が思うに、文系人間は文筆家とか歴史家とかそういったものだ。歴史に造詣が深ければ、高くない文明水準でも適度な殺傷力を誇った罠の知識ひとつふたつ、知っているかもしれない。壺にありったけの毒虫を詰めておくとか。
 マジクソ理系人間にはその規模の想像がつかない。止めている間にもコハクは千空を追い抜いて、ひとつ認めただけで、他に隠されていないともわからない草原をガシガシ歩く。もちろん、全幅の警戒をしながら。

 涼やかな。

 音だ。鹿威しのような。
 弾かれたように頭上を見遣れば、木立のなかにも糸が張り巡らされていて、枝葉の間で竹が揺れている。コハクが踏んだ糸は木の上に繋がっていて、どうやら乾いた竹が結ばれているらしい。

「――いや、思っていたより早かった」

 これもまた、涼やかな。
 声だ。響きをみるに、男性のもののようである。
 木立の奥、庵の前に人が立っていた。薄緑と言えばいいか、光に透ける若草のような人は、千空と同じく真っ白い髪をして立っている。

「……3700年経ってやっとと云うべきか、もはやと云うべきか。なんたる健やかさ、げに明光風靡なりや」
「あー、まだるっこしい挨拶は好きじゃねえんだ。この手紙を寄越したのはお前だな?」
「左様に。すくすくと育っているようで安心した」
「……百夜の知り合いか?」
「お会いしたことはあれども、友人と呼ぶには不足であったかな。君もながら、君のことではないよ。君の抱える国のことだ」

 もののけみたいな人間は、くふくふ笑いながら言う。
 こいつ、国と言った。科学王国のことを知っている。
 ようやくここにきて、千空はもののけが人手と技術を買った理由をいくつか思い当たった。が、これを外しては元も子もない。本人の口から聞くのが望ましいが、はたして吐くだろうか。今回の探索で随伴したのはここにいるコハクと、すこし手前で待機させたクロムのみだ。クロムには、もし半日戻らなければ「そういうこと」だと村に知らせるよう言い含めてある。

「てめえ、何が望みだ? いつから起きてたか知らねえが、これだけの基盤を一人でやってんなら、生活の運営に支障はねえだろ」
「おや。その気心実に妙(たえ)なりや、と思って頼んだことだけど、果たして君の頭脳は気骨は、ぼくと同じ環境で耐えられたかい?」
「……まだるっこしいマネはよせ。何が目的だ?」
「ふふ、すまないね。人と口を利くのが久しくて、どうにも浮かれている。しかし君、ひどい言い方はおよしよ。聞こえが良くない」
「目的もなくこんなことやるほどお暇じゃねえだろ。……焦ってんだろ?」
「……ふふ」

 もののけは笑った。先に踏み込んでしまったコハクは、その実自分の行動をすっかり後悔している。会話の意味がまったくわからないのだ。挟まれる側の気持ちも考えて会話して欲しいと思った。
 散光、葉擦れ。風の音。竹がからから鳴いて、それがどうにももののけの笑い声のようであった。

「失礼をした。知ってはいたが、ああ君もひとかどの修羅だ。僕は細川万葉。むかしは文字で飯を食っていた者だ。僕は君に、科学王国に、人と技術を供与してもらいたい。目的は、3700年の間に生まれた人類史、そして喪われた人類史の編纂だ」







 コハクは初めて日本茶というものを呑んだ。苦い。しかし村で飲む草木のジュースよりも、こう、よくわからないが、複雑な味がする。ような気がする。今のコハクにはこれを表すシソーラスがない。ほえ〜、と思いながらボンヤリ湯呑を傾けていた。
 隣ではクロムも茶を呑んでいるが、その面持ちは神妙だ。
 というのも、今一同が集っているのは万葉の草庵であるが、その主と主客たる千空がバッチバチにケンカしているのだ。

「やってる場合か? これから俺たちは船を造る! そのためのクラフトだの探索だので手いっぱいだ、他所に貸してる暇なんかねえんだよ」
「わかった、クラフトをした、探索をした、船を造った! そうして漕ぎ出した海で口遊む歌は? 出会う人がみな日本人だと思うかい? 」
「多言語ユーザーを抱えてるんでな、そこいらは苦労しねえし、歌もいらねえよ」
「君が現代人を……おおかたそこの少年を抱え込んだ方策を当てようか。昔のエンタメで釣ったろう? 外の世界にいる現代人すべてを釣れるほど君はエンタメに通用していたかい。フランスのコメディアンの名前は? リオで愛された古典劇は? そも、人を釣れるエンタメとは? そういった次元の話をしているんだ」
「科学がすべてのエンタメだ」
「数字屋風情が、ずけずけと言語の敷居に間借りしておいて偉そうに吠えるんじゃない」

 電撃。衝撃。制圧。緊張感。圧迫感。不可視の窒息物質に草庵は満たされ、にわかに息もしづらい。コハクはグッと身を固めた。
 千空がバベルと呼ぶ男――万葉が言うことはあいかわらずわからない。旧人類のふたりにしかわからない「許せないこと」を、理解するシソーラスをまだ持ち得ていない。

「文系のすべてを以てこの世界の脚本を知り、理系のすべてで以てこの世界の演出を知る。科学だけがすべてのエンタメたるものか。そこに含まれる文脈を理解できる素養があればこそ、それはその人の生まれ育った国の言語を用いられてこそ。科学だけがエンタメであるものか。理系だけがエンタメであるものか。何がエンタメであるか、判断できるだけの土台を誂えるのが知恵者の責務でもあるだろう。僕らは時代の開拓者であり、継承者であり、伝道者であるのだから、今を生きる彼らに選択肢を与えなければならない」
「与える選択肢がお前の手によって選別された修正主義者の歴史じゃない保証は誰がする? 別に文系がエンタメじゃねえなんて言ってねえだろうが。科学は時代を開くのにいつだって求められてきて、現人類に必ずしも強制するものじゃない。石神村、科学王国は俺の目的のために協力、してもらっている。つまり、これが終われば別に元の暮らしに戻ったってかまやしねえんだ」
「本気で言っているのかい? できるわけがないだろう君。手に取るようにわかるよ、いま行っているすべての実験やクラフト、当時あった設備やツールがあればと繰り返し唱えているだろう。僕だってワード使いたい、データベースが足りない、国会図書館に近かった住居が恋しい。戻れるわけがないんだ、あんな甘露を悦楽を知ってしまったなら。それをさんざ浴びせたあとに「はい、戻っていいぞ」だなんて、嘆かわしきかな、どれほどの非道なりや」
「言葉は達者になればなるだけ分裂を生む」
「きみ、獅子王司と同じことを言っている自覚はおありかい?」
「……でもよお、俺、きっと科学が好きだぜ」

 バッチボコに盛り上がっている旧人類に、あどけない声がかかる。神妙な面持ちのクロムは、すっかり冷めた湯呑の水面をじっと見つめたまま、誰の顔も見ないまま言う。

「エンタメって、きっとルリの百物語みてえなものなんだろ。ならきっと面白いし、きっとアンタほどの人が語るなら、子どもから大人まで楽しめるものになるんだろ。それならそれでいいと思う。でも、俺はきっと、ずっと科学が好きでいると思う」
「……私は、きっとずっと、体を動かさずにいられないだろう。美しい科学も美しい言葉も、どれもちゃんと美しいのだと思う。それでも私は、私の体が躍動する瞬間が好きだ」
「……善哉、それでいいのだよ。なんと不毛な事であろう、光の君。僕らがどれだけ文系だ理系だを議論したところで、結局選ぶのは僕ら以外のひとだ」
「……内容には口を出す。やらなきゃならねえことがある、それまで内ゲバしてるわけにはいかねえ」
「折れようとも。あれこれ偉そうに並べ立てはしたが、僕はほんとうに僕の覚えていることを、僕の忘れないうちにどこかに書き残しておきたいだけなのだ。そして、他者の書いたものが読みたいだけだ」

 万葉はクロムとコハクの物言いが気に入ったらしい。手のひらをコロリと返して千空の主張に従った。
 そのあまりの変わり身の速さに、千空はなにだかカマをかけられていたような心地がする。こいつ本当に言ったとおり働くんだろうな? すこし心配になって、万葉の顔を見た。
 見ようと、して。

「ーー何の顔だよ、それは」

 ブラックホールが黒く見えるのは、光が歪むほどの重力場を発生させ得る超密度の質量を持った天体であるからだ。
 言葉の真意を確かめようと伺った万葉の顔には、光がない。影もない。音もない。宇宙の只中、それよりも重く歪んでいて、それでいて作り物のように静謐で整っている。

「ーーずいぶん野暮なことを。君もその道の、ひとかどの修羅ならば覚えがあるだろう」

 原初のストーンワールドでのクラフト、ケミカル、サイエンス。石神千空、その源流。
 思い当たるのは、ふたつ。そのうち、それを強く胸に抱いたとき、あさぎりゲンでもなければ表層にありありと顕われるもの。

「怒っているんだよ、僕は。悔しいとは思わなんだか、僕と同じ修羅の君。得体の知れない、たかが少々美しいぽっちの光ひとつで、僕らの総てが石になった。過去なん千年と英傑たちが紡いできたものも、今紡がれていたものも、これから紡がれただろうものも絶たれた。人類有史以来の総てが、簒奪されたのだよ」
「……文系には、例えば何があった」
「すべてがあったさ。先程は礼を欠いた物言いをしたが、すべての学問は言葉の上に成り立っている。どんな化学の最奥も、論文として発表されねば発明に能わず。論文として発表されたならば、それは立派に文章だ。逃さず読むとも」
「ククク、テメーまさか言語ってだけでネイチャーもサイエンスも読んでたクチか?」
「勿論。翻訳を待てなくて、英語版を定期購読していたさ」
「メチャクチャじゃねえか!」

 千空がゲラゲラ笑い出したのを見て、現地人たちはキョトンとなる。ついさっきまで殺し合いにも比肩する、否、彼らなりの殺し合いが勃発していたというのに。頂点同士の会話の中で、なにやら落とし所があったらしいことだけは理解して、コハクは肩の力を抜き、クロムもやっと茶を含んだ。

「光の君。僕はね、望月博士の友になりたかったよ」
「宇宙際タイヒミュラー理論の望月博士か? あれを読んだのか? ネイチャーが査読に7年かけたクソ長編大論文だぞ」
「ああ。御仁の世界では、ABC予想は解けるのだそうな。あれの査読に7年の月日を要したのは、……君や科学者を謗る意図はないことを明言しておくが、ひとえに人らの理解力の無さと、畑意識だ。あれは数学畑で留めておく話ではなかった。例えば量子力学畑なんかの学者があれを理解できたならば、あの論文は時空航行の糸口にすらなり得たやもしれない」
「ABC予想を証明できる数学世界と、未だ証明できていないこの数学世界の通信を考えたとき、その情報の歪みは不等式であらわすことができる、だったか。時空航行……待て、マルチバース理論持ち出しやがったな? その不等式がABC予想を証明できる平行宇宙のどこかへの片道切符だって言いてえのかテメーは。物好きだな」
「そうだとも。僕は世界五分前仮説も地球空洞説も神智学も大好きだよ。世界を超える移動ができたならば、この単一の世界で時空を航行することも不可能ではなさそうだろう。門外漢ゆえ、詳しくは知らないがね」
「文系はロマンチストか。つーかテメー、アレを読んどいて文系名乗るのは大分詐欺に手慣れすぎてるぜ」
「ジュール・ヴェルヌの小説ひとつと百年ぽっちの研究で実際に人間を月まで飛ばした連中と、色恋の文筆で飯を食う人間のどちらがロマンチストかだなんて、些かナンセンスだ」
「お前には月世界旅行が書けるのか?」
「一言一句暗記しているよ。映画版との差異を並べ立てて、とっくり説いて差し上げようか」

 うっそりと笑ったそのさまが、案外シャレになだていなかった。
 こいつならやる。その無窮の欲、文筆であれば何だろうが読み記憶してきた頭脳にワクワクを覚えると同時に、千空は言われもない恐れを覚えた。
 仮説、ラプラスの悪魔。万葉はおそらく、量子力学がとっくのとうに否定したその存在に、今現在存在する何よりも、きっと近しい。

「ああ、ふふふ。そうとも、僕は怒っている。僕の脳髄は有り得ないほど飢えている。言語を、識字力をこの世界にもたらさなければ、僕は人類史上2人目の憤死者になってしまう。悪い話ではないはずなんだ。今ここに、この日本にあるのは脈々と続いてきた彼らと、君たちが起こした当時の者たち。この全てが君に比肩するまで及ばずとも、君が言葉を尽くすまでもなく君のしたいことに理解が及ぶようになれば、君の理想はぐんと近づく。そうすれば、その過程に必ず言葉はあり、それは物語となる」
「そりゃーマジでリッター単位で涙が出るほどおありがてえ。一億総専門職ともなりゃア、助かりすぎて何なら俺がお役御免にならぁ! ……できんだな」
「君の村がバベルの崩れたようになったことを忘れたかい? 僕を誰とお思いかね。大言壮語なれど、僕は文系の頂点、文筆の修羅、言語の粋を極めた者。僕こそが言葉、細川万葉だ。やろうとも」

 万葉の微笑みは、折よく吹いた風が木立を揺らして木漏れ日を集め、星の瞬くように光った。
 地球は地軸が傾いているので、実は長い時間の中で繰り返された回転によって、さらに傾いている。だので、星の位置は何千年で少しずつ変わっている。
 かつて北極星だった星があの頃開陽と呼ばれ、新たな北辰が定められたように。
 3700年後の世界でまた一つ、千空は世界の変化を認識した。

「……いいぜ。唆るじゃねえか!」

 決めた。細川万葉に、科学王国の識字率向上と基礎学力の担保、並びに娯楽の提供と、新しい時代の自然法ひいては国家運用法の策定を任せる。任せる分野があまりに多岐に渡りすぎで、ゲンや右京がここにいれば「マジ?!」と言われそうなものだ。
 が、万葉ならできる。
 楽しくなってきた。
 原初のストーンワールドにおけるクラフト、ケミカル、サイエンス。石神千空、その源流。
 解き明かしたいと思う気持ち、理解できないものに対するもどかしさ。
 何より、好奇心。その全てが、細川万葉には備わっていた。



 まことのことばはうしなはれ
 雲はちぎれてそらをとぶ
 ああかがやきの四月の底を
 はぎしり燃えてゆききする
 おれは一人の修羅なのだ




「憤死、とは何だ?」
「怒りすぎて死んでしまうことだよ、お姫様。文筆を愉しむのと同じくらい、人間にしかできないことのひとつだ」
「ヤベー、人間キレすぎて死ぬことあんのかよ? マグマとかヤベーんじゃねーの。てか、二人目ってことは一人目がいたってことか?」
「聡いな少年、いたのだよ。14世紀だから……およそ4,400年くらい前のことだ。ボニファティウス8世という人物がフランス王フィリップ4世及びコロンナ家と争い晩年に起こったアナーニ事件の後に憤死したという記録がある。良くも悪くも豪華な御仁であったともされ、ヴァチカンの文化や芸術を保護し……」
「あーあーあーあー手加減してやれ!」
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