2. 遊びぢやない 暇つぶしぢやない
2 遊びぢやない 暇つぶしぢやない

 何といふ気はないけれど
 ちやうどあなたの下すつた
 あのグロキシニヤの
 大きな花の腐つてゆくのを見る様な
 私を棄てて腐つてゆくのを見る様な



 さて、ささやかな草庵を引き払って石神村へ越してきた万葉が最初に取り掛かったのは、無論村人たちへのプレゼンテーションである。
 エンターテイメントとは科学のみにあらず。文学もまたエンタメなれば、そして文学もまたそれのみがエンタメに非ざる。
 ただでさえ科学の邁進に日を割かれている村人たちに、これ以上、今度は言葉に時間を割けと強いるのだ。それ相応のメリットがあることを示さなければならない。
 それを万葉は、およそ3日ほどの時間と、ほかに数人ほどの協力を得て、成し遂げた。

「ーー舞台?」
「然り。初まりは炎や棒切れではなく音楽だった、星野源もそう言うだろう。プロパガンダに音楽が用いられるのは、それが何より効果的だからだ。そしてこの国には、古典文学と音楽の融合が古来からある。伝統とは流行が終わらないもののことを呼ぶのだ」
「だからって能をぶちあげようって、貴方もずいぶん……」
「突飛かい? ロックかい?」
「……ロックだ」
「善哉。今回一差し上演奉るのは能楽、しかしロックンロールでもある。御誂え向きだとは思わなんだかね」
「き……緊張してヤベェエ……」
「君、いつものウェイはどうしたね、見る影もない。失礼なことを言うようだが、君のドラムは最悪左手一本で一定に叩けていれば遜色ないし、ましてお客様はリリアンの歌の次にこれを観るのだから、期待値はそう高くもあるまいよ。気楽に構えたまえ」
「貶してんのか励ましてんのかわかんねぇ〜! ウェ〜イ!」
「さ、緞帳を上げよう。この舞台は僕と、操演の大樹くんにかかっている。タフネスは折り紙つきと聞く、頼むよ」
「おう! にしても助かった、万葉がくれた指示はとても簡単なのにわかりやすくて、どうしてここであれを動かしたいのかがバッチリ理解できた! やるぞ!」
「そしてこの舞台、言わずもがな目玉は右京くん、君だ。チカプカムイ、梟が如きその聴覚、奮ってくれたまえ」
「簡単なリフに留めてくれたおかげで、なんとか指も追いついてるよ。楽器隊、やってみせるさ」

 簡単な木組みで出来た、舞台に、颯爽と万葉が上がる。客席には石神村の村民と、気になるならば来たらいいよと招待(煽り)を受けた元司帝国の屈強な男たちがいて、千空は舞台袖から万葉の衣服の裾がひらめくのを観ていた。

「ご来場誠に感謝する! これより一差しご照覧頂きますは、我が国が誇る大ベストセラー叙事詩。平家物語より犬王が作、腕塚!」

 舞台上には万葉ひとり。右京が操る、即席エレキギターの音色が響くそのなかで、万葉は不可視の珠を抱くように空間を掴み、息を吸う。

「寿永三年、一ノ谷源氏と平家の合戦! 平家忠度、右腕を膝の上からぷつりと落とされ……首も取られた!」

 そこからは、千空に言わしめれば「よくもまぁ思いつくもんだこんなモン」と言うような、圧巻のロック能楽で平家物語を演じてみせた。

「ああここは腕塚! さぁ、はじまりだ!」

 万雷の拍手喝采の中で、瑞々しく大粒の汗をかいて、見るほうが苦しくなるような荒い息をついて、細川万葉の自称「僕こそが言葉」は、この瞬間をもって他称となる。
 ここにいた全員が平家物語を理解できたとは到底思わない。が、万葉の演じた物語には、歌には、なにか独特の響きがあって、それでもって「言葉」「物語」「パフォーマンス」のエンターテイメントは、ストーンワールドに再び産声を上げたのだ。

「……大成功だな。いやしかしおったまげた、音楽もやりやがるのか? 楽譜とか言う共通言語があれば世界中通用するから?」
「楽譜も、UnicodeもJavaも読めるよ。読めるだけで複雑なものを書けと言われると黙ってしまうがね。それにほら、この世の音楽は大体インストゥルメンタルかボーカル曲だろう。ボーカル曲には歌詞があって、歌詞は言葉だ。読むに決まっている」
「どこに出しても恥ずかしくねえ自慢の文字キチ」
「科学莫迦が何ぞ吠えておられる」

 アンコールの拍手に応えて舞台へ戻り、プレゼンの真意を朗々と語る背中を見て、千空は確信する。この男、時代が違えば為政者であっただろう。否、いつの時代も為政者たり得たが、本人が国の運営に一切興味がないだけだ。文学、文化、言語を蒐集することへの興味関心だけで細胞が構成されている男だから、世界はその深淵なる手腕を免れ、言葉の大波に埋め立てられないまま存続している。
 獅子王司が万葉を帝国から追放したのは、基盤から作り上げるにあたって万葉がそこに興味を持てば、司の知性、治世とてその魔力を食い止める自信がなかったからだ。それほどまでに、言葉巧み。これの質の悪いところは、あさぎりゲンと違って一切の悪意や打算がなく、作為もない点である。

「いやー、俺かすんじゃう。千空ちゃん、俺との約束守ってよ? 乗り換えないでよジーマーで」
「別れ話を切り出されたくねえ女みてえな言い方すんじゃねえ。何の約束だよ」
「地獄」
「……ああ。忘れちゃいねえよ」

 千空、ゲン、クロム。科学王国の樹立と運営、その繁栄に際して発生する功罪。それを背負って地獄に行くものがあるならば、その三人だと誓った。
 ……不意に。
 万葉なら、地獄に相乗りしてくれやしねえか。そんな考えが千空の頭をよぎった。一緒に来てくれないだろうか。取材だとか言って。

「……物憂げな面立ちも素敵だが、君は興奮で脳内物質の瀑布に身を曝している顔のほうが美しいよ、光の君」

 無事プレゼンテーションと、科学王国の「洗脳」が終わったらしい万葉が涼しい顔で帰ってきていた。

「何の話だい? 君の言葉で聞きたい」
「言葉ならなんでもアリかテメーは。プライバシーには配慮しやがれ」
「どうせ推察できそうなプライバシーなら、ないも同然だとは思わないかね」
「天才トークにしたって、今のはちょっとどうかと思うよ俺」
「ふふふふ。あさぎりゲンくん、ちゃんと挨拶するのは初めてでしたね。ご高名はかねがね、つきましてはひとつ僕にも教えを説いていただきたいのだが」
「ヤダヤダ、エラッタならまだしもこれ以上アンタにバフ盛ると俺の居場所がなくなっちゃうでしょ。ただでさえコウモリ男なんだから」
「おや、ヴィランの何が不服かね? うら若い者は、ヒーローよりもヴィランを好むよ」
「はーん、興味なかったから考えたこともなかったぜ。なんでだ?」
「ヒーローは世界と君を天秤にかけたとき逡巡するが、ヴィランは迷わず君を取って世界を滅ぼすからだ。ときめくだろう」
「ああ、アイデンティティクライシス真っ只中の子たちが好みそうな言説」
「だろう。昔一度そういう話を書いたらこれがまた売れてね、当時は舞台が三作目まで上演されていた。巧く脚色できていたから、君たちにも観てもらいたかったな」
「君ら年いくつなの?」

 即席エレキギターを抱えて帰ってきた右京が、「聞くまでもねえ、こいつら人生二周目だろうよ」の顔をしながら問うた。三人は笑うに留めて、右京を労う。
 さて、万葉による「図書館建造の計画とそのメリット演説会」は成功に終わった。万葉が策定したフローチャートによれば、以降は元司帝国が主な作業場となる。あの城の跡地を一部改装する予定だ。

「いいのか? 大英博物館図書室とか、ホグワーツの食堂とか、ああいった手合いのを作ろうとか言い出すかと思ってたが」
「豪華絢爛、ネロ帝も羨む豪奢な巨大図書館を建てては教育の意味がないと僕は思う。華やかで晴れやかであればあるほどテンションはアガるし、相応の見目はあるべきだがね」
「シックなのが好み? 北欧風とかミニマルデザインみたいなスマート系の」
「いずれも異なり。教育とは即ち教養を育むもの。花は一輪あればそれで良いんだ。真なる花は、これからありったけそこに納められていくものたちであるから」
「侘び寂びだね」
「花は白いが能候、朝顔の茶会、まさに真髄なりや。一輪だけある朝顔から物語を邪推できる能力をこそ教養と呼ぶ。君も覚えがあるのではないかね? 光の君」

 これ以上ないほどある。千空はいつだったか自分が「ポリエチレンの炭素分子をガソリンの長さにぶった切ってるだけだ、見りゃわかる」と言ったときのことを思い出した。
 クロムの成長も覚えに新しい。教えれば教えただけ吸い込んでいくあの才能は、最初こそ「やべー石」としか呼ばなかったものらをいつしか「タングステン」「銅」「酸化させりゃいいんだよな」と千空に追随する言語野で語る。
 あれを拡充するものが教育、見たものから情報を引き出す能力を教養だと万葉は言う。

「さあ、新たな万葉集編纂事業のはじまりだ。新しい時代のはじまりだ。人員や工期についての話し合いを持ちたい」

 陽光。風は東から。
 千空はシニカルに笑って応と答える。
 楽しい。とても。



*****


 化学王国王立図書館の建築と同時に、石神村ではうきうき青空教室が始まっていた。現代人たちは3700年前の読み書きを覚えながら、当時までに紡がれていた歴史を聞き学ぶ。
 新しいものにふれる時、人の反応は二分される。かたや未知への畏怖、かたや興味。村民の面立ちはおおよそ荒唐無稽にも思える科学のテクノロジーや壮大な歴史物語に目をきらめかせている。
 おおよそは。

「……これからは、この村が紡いできた百物語は、無用になってゆくのでしょうね」

 口伝を紡ぐ巫女、ルリはコウゾを濯ぎながら俯きがちな面持ちで呟いた。元来石神村の百物語は、3700年前に石神百夜がサバイバル術を物語形式に残したものである。科学と知識によって刷新されてしまえば、旧いものが形無しになるのは明白と思えた。

「お戯れを。まさか本気で仰せではありますまいな巫女殿?」

 それを、万葉は同じくコウゾをほぐしながら、割合本気で「こいつマジか?」の顔をして否定した。ルリにしてみれば青天の霹靂で、青天の眼をぱちくりさせている。

「死語、というものがございます。使う者の絶えてしまったものや、時代の流れのうちに同じ意味の言葉に取って代わられたものをそう呼びます」
「百物語もそうなっていくのですよね? 今まではこれでよかったのだと思います。けれど、人が増え、思いが増え、大きくなった社会を支えるために、百を超えた万の言葉が必要なのでしょう。故に、万葉集と」
「万葉の定義に限ってまさしくそのとおりですが、百物語が淘汰されるかと申されますと、それは全くもって否にございます。僕が命にかけて絶やすまいと誓いましょう。貴方の継いだ百物語は、果たしてサバイバル術を伝えるためだけのものだったでしょうか?」

 百物語を思うルリのなかに去来するのは、寝物語として説き教えてくれた母の穏やかな顔と、胸を踊らせて語りを聴く村の子どもたちの顔だった。思い出すだけで、ルリの心持ちをも上向かせる。上向いた心持ちは、口角を上げ、まなじりを下げさせる。

「物語に必要なのは、その心。その表情にございますれば。例え僕がどれほど売れる話を書いたところで、思い出した人がその微笑みを浮かべてくださらねば、それは真に物語にあらず。ただの売り物にございます。良き物語には、売り物にできない価値がございます」
「……物語とは、言葉とは、私が思うよりすごいものであったのですね」

 ぽつ、と。浮かされたようにルリが呟けば、瑠璃玉のような万葉の顔が一変、花のほころぶように笑った。

「左様にございます」
「ふふふ、作りものみたいな万葉さんの顔がそんなに笑ってしまうんですから、本当に。私、胸を張ります。百物語を継承する巫女であること」
「貴方こそが胸を張るべきです。斯様に歴史と伝統のあり、誇りのあり、愛のあり、想いのあり、学術的価値のあるものを今日まで紡いでこられた貴方こそ。若輩の文字書きなぞに遠慮される必要は微塵もありません」
「あ、本音が出ましたか?」
「人類史は発見や戦争の記録に非ず、是即人の営みの記録なり。そうも思っておりますが、しかしすべて本心にございますれば。この万葉、謀りなど申しますものですか」

 細川万葉が石神村を欲したのは大図書館建造のための人手と技術が主な理由で、最初こそ百物語を狙うとされて警護を固められたルリは、真意が違ってガッカリしたのを今でも覚えている。
 それが、蓋を開けてみれば、御仁はこんなにも百物語を愛してくれている人だった。もう価値も無くなるだろうものに胸を張れと言う。その価値は永劫無くならないと確約してくれた。その甘やかな赦しが嬉しくて、ルリは口を滑らせた。

「ふふふふ。……万葉さん、私、百物語をすべて書き起こしても、語りを続けていいですか?」

 万葉は再び「こいつマジか」の顔をした。何か間違えたかしら? 万葉もまた千空と同じく学術の頂点である。獅子王司との戦争も記憶に新しいルリは、にかわに肩を固くする。学術の頂に喧嘩を売られるということは、戦争が起こると言うことなのだ。

「巫女殿、百物語は語りでなければ意味がございません。口伝の物語が真に美しく映えるのは語りにおいて他なりません。貴方が説くから芸術たるのだ」

 強い語気だった。
 その後も万葉は「音楽を真に言葉に書き写すことはできない」「落語家や俳優はそれを読むだけではわからない声音や仕草を演じる仕事だ」「映画のノベライズの仕事を受けたことがあるがマジで映像に勝てなくて本当に嫌だった」「それ専用に開発されたものが代替コンテンツで勝てる例は極めて稀だ」「そも勝ち負けじゃないんだ」というようなことを、大洪水よりも激しく語った。
 その勢たるやまさに破壊力を備えた水流。ルリは固まりながら波濤にグッと耐えたが、意味自体は恐ろしいほど染み込んでくる。
 これほどまでに「貴方でなければ」と叫ばれたのは、2度目だった。

「……尽くしたかと思いましたが、思ったほど打ちのめされてはくださらぬな」

 仕事を放り投げて熱く身振りしていた手をパタ、と落として、万葉は呻いた。ルリは呆気に取られながらも、ちょっと誤魔化すように「アハ……」と笑う。

「はじめてではなかったので……」
「おや、実に羨ましいことですな。やはり言葉は全ての祖たり得るが、僕を満たしてはくれない」

 それまでそよ風になびくささやかな草花のようだった万葉の佇まいが、なぜか闇夜のなかで一瞬だけ閃く木の葉のように見えた。今なんと? ルリはにわかに不安になる。

「え?」
「え? 何か聴こえましたか。僕には何も」

 万葉は至って本気のように「え?」と言った。百物語がこれ以上なく価値のあるものと理解してくれたなら、ルリの演じる語りによる百物語こそがと理解してくれたなら、これ以上は野暮だと仕事を再開した手が、眼差しが、あんまりに澱みない素振りだった。
 この人が、万葉が言うなら、そうなんだろうな。
 純粋な信頼であったし、なぜだか少しアンタッチャブルだったのだ。ルリはそう思った。



 日本語は世界有数の難解言語であるという。しかし石神村の住民は先に言語野ができていたので、あとはこれを表すときに正しい記法を覚えるだけであった。幼い村民たちが持ってきた日記を添削してやりながら、万葉は美辞麗句をありったけ尽くして子らを褒める。

「よくできたね。この慣用句をちゃんと扱えているなら、もう怖いものはないよ。言葉巧みだ。また書けたら見せにおいで。またね」
「……けりを付ける、が書けただけでそんなに褒めるか?」
「ふふ、光の君。余人は君に非ず、だ。君は自身の興味だけを燃料にその頂まで至ったろうが、余人はそうはゆくまいよ」

 紙漉きを再開しながらすこし泥まみれの千空に答えた万葉は、さながらワイン造りをする娘のように見える。束ねた髪の隙間から額を拭う仕草をするが、額に汗なんか浮かんでいやしない。よくできたアニマトロニクスのようだった。

「進捗はいかがかな? 僕のシンデレラ城は」
「夢と魔法が使えたら一晩で築城できてら。予定通り、縦の穴だけモルタルで埋めてる。風車の設置もそろそろ始められるから、いよいよ本格的に書架の材料集めを始めてもいいかもな。油は塗るか?」
「欲を言うなら、あればあるだけいいだろう。繰り返すけれど、君は君のクラフトを進めてもいいのだよ。ダブスタで恐縮だが」
「構やしねえ、どっちみち必要だとは思ってたんだ。いつかはやんなきゃならねえことだったから、ケツぶっ叩かれて逆に良かった。ところでお前、今なに考えてやがる?」
「それは、どこまでの事?」

 どこまでの事? と万葉は言う。千空は驚きながら、しかし予想通りだ。

「全部だ。思考のリソースが100あったとして、何に何割使ってる?」
「紙漉きに1割、工期と進捗に1割、ビリティスの歌を思い出すのに3割、環境の知覚に1割、君との会話に4割。君との会話は常にパズルとクイズをやりながら戦うスポーツのようで、楽しいよ」

 予想通りの並行思考、しかしその後がまったくもって予想を超えていた。
 楽しい? 俺と話すのが? そのことに驚きすぎて、なんの話の助走としてこの話を切り出したかをすっかり忘れた。

「君は?」
「俺も楽しい」

 だので、万葉はおそらく「君は思考リソースを何に何割ずつ割いているの?」と訊きたかったろうに、千空は今の気持ちをバカ正直に答えた。バカになっていたので。
 万葉はぱち、と瞬きをした。漉いたばかりの枠をばちゃ、と落として、千空を見て、ぱちぱち、とやった。そのさまに「あ、俺間違えた」と千空がジワジワ知覚する間に、同じくジワジワと笑いを堪える顔になる万葉が、なにだか腹が立って仕方なかった。

「んッふふふ」
「笑うな! 工期と進捗に1割、超伝導の論文思い出すのに4割、風車の構造に2割、設置場所に2割、お前が1!」
「何も言ってないじゃない……1割だから間違うのではないかね……」

 目尻に涙を浮かべるほどヒクヒク笑った万葉は、息をついて「はあ、嬉しい」と言った。何が? 千空が問う。

「君も並行思考を飼い慣らすタチのようだから。余人は君に非ず、そして僕に非ず。級友は愚か、教諭や親にも匙を投げられたタチだったから、こうしてフルスペックで殴り合うような会話をできるのが、ああどうして、とても楽しいよ。それが嬉しいんだ」

 獅子王司もそうだった。聡明な武力の王は、千空がひとつ言えば、すべてを理解したうえでひとつ返した。説明の労がない会話は、心地いい。

「飢えてたんだな。泣けてくるほど分かる」
「……ふふ。飢えているんだよ、今もなお」

 万葉は紙漉きの木枠を結局水の中に打ち捨てて、手の水を払った。手拭いで千空の頬も拭う。ついでのようには見えなかった。

「僕を満たす言葉を、ずっと探している。言葉を扱える者が増えれば、それだけ人手が増えることでもある」
「砂漠から砂金を探すような真似しやがるな。……俺もか」
「そうよ。君もそう。君のほうが途方もないだろう、君は科学であればおよそ何でも唆るタチだから」
「お前のもキリがねえだろ。古今東西あらゆる言語、プログラミング言語すら探して見つかってねえなら……これから生まれる言葉か」
「そうかもしれないし、既に触れた言葉やもわからない。僕が受け取れてないだけなのかも」
「ミューオンみてえにな。あれも技術が進めば、壁画すら壁ブチ破らねぇでも読み取れたかもしれなかった」
「ピラミッドの石室調査のことだね。あれも胸踊る技術であったねえ、古墳なぞ調べ尽くして欲しかったものだが」

 それを言うならあれがこれが、と矢継ぎ早に繰り出す千空に、万葉は一切の気遅れなくついてきて、なんなら返す刀であれはこれは? と訊いてきた。
 認めよう。楽しい。あまりにも。
 千空は初めて直に出会う奔流に、脳を洗われるような心地で陶酔する。これほどの甘露、千空にしてみれば酔っ払うなと言うほうが無法なのだ。
 ここに来て千空は、以前自分が万葉に向けて宣った主張に唾を吐いて、ありったけタコ殴りにしてやりたい気持ちでいっぱいになった。
 現代人たちは科学の発展のために協力してもらっているに過ぎず、望むなら元の生活に戻ってもらってかまわない。
 バカヤロウが! 頭の中だけで千空は映える。そんなことできるわけがないだろうが。
 ーー今から、万葉を喪うようなことなんだから。
 そう考えて、千空は万葉との会話をそのままに、フルスイングで自分の頬をブッ叩いた。会話してる最中に相手が全力で自ビンタかます様を見せつけられた万葉の驚きたるやいかばかりか。呆れ、驚き、混乱を含有する「ええ……?」を聴きながら、千空は自分で引っ叩いた自分の頬を自分で押さえて黙り込む。
 ……なんだってそんなことを考えた?
 あまりに脈絡がなく、あまりに再現性がなく、あまりに根拠がない。物心ついた頃から科学的思考で生きてきた科学の現人神、石神千空が、非科学的な思考をした。由々しき事態である。

「ねえ、どうしたんだい。気を違えたの? 勘弁しておくんな、君がいなくちゃこの国は終わりだよ」
「やめろ……黙れ……それ以上言うな……秒数数えてた時のほうがよっぽど狂いそうだった……そうだろ……そのはずだ……」
「知らないけど、君は数を数えて気を保っていたのかい? 僕は日本国憲法と民法だった。そんなことはいいんだ、何がお気に召さなかったのか教えてはくれまいか? 僕が言葉を誤っただろうか」
「テメーはマジ毎回クソ涙ちょちょぎれるぐれぇ正しい……」
「そう……」

 釈然としないながらも、有り余るシソーラスの中から今の千空に合致しそうなものを探している顔で万葉は頷いた。ひとまずそれでよかった。深掘りされたら死にそうだ。

「……ねえ光の君よ。君はどうか怯えてくれるな、この無窮に。君は唆りこそすれ、恐ることはないのだと思うけど……」

 けれど。そう言った万葉の顔は、ひどく不安そうだった。結末のわかっている悲劇を最初から見るような。
 千空は抱えていた頭を離して、万葉の顔をジッと見た。葉のひとつひとつが月でできた柳の枝のような男は、文系の極地は、この世の言葉およそ全てを網羅した男は、言葉を選びながら言う。

「僕はいまほんとうに嬉しいんだ。君も思考リソースを並行に割り振って、すべてをホットライン化したまま思考し続けられる。そういった傑物は今まで僕のまわりにいなかった。意味がわかるかい」

 無窮に怯えないでくれ。
 万葉が抱えたものは孤独だ。余人は我らに非ず。千空がやるのと同じように、万葉もまた莫大なリソースで並立演算した思考の最先端ばかりを話す。その話題に至るまでの計算式を推察できない余人にしてみれば、会話が飛躍し過ぎているのだ。
 だので、天才は孤立する。そして万葉はきっと、物心ついた頃から。
 自分はひどく恵まれていたんだな、と千空は思う。強請れば強請っただけ環境を誂えてくれた百夜や、全く意味を理解していなくても全幅の信頼で肯定してくれる大樹の存在がある。
 万葉には、なかったのだ。
 機械がそうするように、真っ直ぐ。千空は頷いた。出来のいいアニマトロニクスみたいだった。

「科学王国王立図書館ができれば、これから生まれ得る僕らのような怪物が寂しくないだろうと思うんだ」
「怪物、……その通りだ。俺らみてえな知識欲のバケモンは、社会の役に立つから排斥されなかっただけだろう。もちろん排斥されてきたバケモンたちもいたろうな。それが限りなく少なくできりゃあ、つまり人類のスペックが段階的に上がる」
「僕の見聞きした物語をすべてどこかへ書き残しておきたい、これから生まれる物語が収められる場所があってほしい、それらと同じくらい、未来の怪物たちがその才を持て余さないように。すべて等しく究極の僕の願いなんだ」
「今同じ時空にはいなくても、過去に、未来に同じ考えを持つ人間がいた証拠を作りたい……どんな些細なことでも。ジュール・ヴェルヌが人を月に連れて行ったみてえに。物語から生まれる物語が、人類を発展させてきたからな」
「うふふふ。僕あのドラマ本当に好きだよ。科学莫迦の何ぞ吠え立てた大音声が、紀元前から続く天球をついに打ち破ったのだから痛快でならない。H・G・ウェルズの著した反重力での星間飛行も、いつか実現したろうか」

 君もいつかそんなことをするんだと思うよ。万葉は笑う。彼は文字であればなんだろうが読解してしまう怪物であるので、科学分野の話にもにこにこ楽しそうに笑う。
 歯痒かった。呪わしかった。千空は、米ソ宇宙開発戦争の影に、始まりとしてジュール・ヴェルヌの著した「月世界旅行」という本があったことは情報として知っている。が、内容までは知らない。自分がいままで如何に物語に触れてこなかったかを恨む。後悔は微塵もないが。
 薄い布の風にたなびくような、奏でられる旋律のような万葉の言葉づかいは本当に心底美しいと思わされる。本人の出立ちも相まって、月の使者がそこで話しているようなのだ。
 これに並び立つにふさわしい男になりたいと思った。
 そしてそれは、もしかしなくても。とても時間がかかることだろうと思う。

「万葉、テメーの髪は…………いつから伸ばしてるモンなんだ」

 自分が科学に費やしたのと同じだけ、もしくはそれよりも長い時間を、万葉は文字に費やしてきた。これからもそうしていくだろう。理解はできるが納得ができなくて、苦し紛れに千空は問うた。
 万葉は、葉擦れのように答える。

「言葉に触れてからずっと。取材やイベントの折、整えろと言われた時にスタイリストさんに任せてばかり」
「……言葉は、いつから」
「第一母国語として教わるより後は、つまり気を狂わされてより後は、そうなあ……いつだったろう。お前は今まで食べたパンの枚数を覚えているのか? とは言うが、まさしく。食むように呼吸するように眠るように愛するように、耽ったさ」

 それだけの情熱、狂気。その生き方を選んだのではなく、そういうものに生まれ、そうとしか生きられなかった者の口ぶりだった。誰にも止められないし、止められるものでもないし、止めようとも思わない。千空も身に覚えがあった。

「君はいつから? 科学を志したのは……違うね。そうとしか生きられなくなったのは」
「自我を得てから。たりめーだろ」
「うふふ……」

 万葉は笑った。そうだろう、と言いたげな顔だった。


*****


 千空の管轄する国立図書館建造、旧司帝国跡地は着々と工事が進み、実際に書架として運用できるエリアも増えてきた。
 万葉の管轄する石神村わくわく青空識字教室も定着し始め、掲示板なるものが設置されるなど言語を生活に落とし込み始めている。
 これらを、二人は時折報告し合った。石神村は東伊豆、元司帝国は東京近郊にある。それぞれの拠点がぼちぼち離れているためである。
 それを克服するために開発された電話もそっちのけ、二人は互いを往復しては進捗を、のみならず与太をもとっくりと語り合った。

「気になってはいたけど結局観ないまま世界が朽ちちまったが、ゴジラシンギュラポイント。あれどうだったんだ、物語的には? 円城塔がやってんだ、物語ったって数字で大嘘つくとは到底思えねぇが、お前の感想が聴きてえ」
「各地の信仰をベースにゴジラなる荒御魂を表現しようという試みは今までもさんざ行われてきたが、君の信頼によるところのとおり、数字を用いてゴジラを形容しようとした意欲作だ。「猫のゆりかご」におけるアイス・ナインやチオチモリンのような、ひとつのサイエンス的フィクションから世界を丸ごと呑む物語、素晴らしかったよ。星雲賞を受賞していた」
「SFに贈られる賞みてえなもんか? アニメがか。観とけばよかった」
「十二分に文学として、またある種論文として成立したよ。僕個人としては、あの物語は古典も科学も物理もすべて織り交ぜて作られたゴジラ叙事詩であるので、宇宙際タイヒミュラー理論に近いものを感じている。日本人数学者の思考はああなりがちなのかね?」
「取材してみたかったか? いやしかしポリウォーターの話が出てくるとはおったまげたな。テメーマジカバーしてない範囲どこだ? 流石にインターネットは無理だろ」
「すべては流石に。特に鍵アカウントとかかな、なかなかフォロー許可をくれなくてね。ああ君、どうせネットワーク構築するだろう。青空文庫を復興してもいいかな?」
「ククク! あー良い良い、なんぼでも好きにやれ。パブリックドメインが真っ青になって泣き出すぞ、なんたって3700年経ったからな」
「ふふふ! やったぁ、青空文庫で三島由紀夫や寺山修司が読みたかったのだよ。そも著作権法がまだ機能するかの問題でもあるが、光の君そこらへんはどうお考えだい?」
「法が息してたらアウトなこと諸々やってっから、なるだけ自然法と刑法だけ復活させてえ。あでも刑法復活させたら薬事法その他も策定しなきゃならねえよな」
「何の話をしているのだマジで?」

 コハクが額を抑えながら呻く。石神村は千空の居室、星見台にて短い逢瀬の最中であった。二人にしてみれば逢瀬、なんのことはない与太話、睦言であるのだが、余人にしてみれば会話難易度がぶっ壊れすぎている。

「邪魔すんな、会話パズルバトルの最中だ」
「いかにも。知識量で殴り合いながら手を取って踊っているのさ」
「レスバじゃん……千空ちゃーん、荷物集まったから、あとは千空ちゃんの支度ができ次第行けるからね」

 とはいえ、無為に逢瀬を繰り返しているわけではなかった。共に開拓事業の頭取を張っている。今回はモルタルの材料にする貝殻の回収と、石神村で生産した記紀の運搬のために来た。
 千空は短く返事をして、斜め座りをする万葉に向き直る。千空のそれよりも白く輝く長い髪が、着付けた衣服の広がる裾が、なにだか月みたいに見えた。

「ワリ、もう行く。長居しちまってすまなかった」
「ううん、こちらこそ引き留めてすまなかった。現場で作業している面々にも書き留めてもらいたいから、今度は僕が紙を運ぶよ」
「助かる。何かあれば、あと村出る時は電話寄越せ。迎えに行くから」

 万葉は甘く微笑んで、しかし万華鏡のような目をして黙った。千空の瞳の中から「千空」を読み込もうとするその仕草は、研究者がよくやるものだ。

「何が気になった?」
「いえね、君、そんなに人に甘い性質だったのだろかと思って。心憎い人。僕に対してまでスクラップ&ビルドをやろうというの?」

 随分詩的な返事が返ってきたが、ここしばらくで石神村、ないし千空のシソーラスや言語神経はありえないほど発達させられてきた。
 刀印を構えて考える。
 が、仕草だけに終わった。万葉と会話をする際に思考はありえないほど冴えわたるのに、万葉のことを考えるときは信じられないほど鈍化する。温泉に浸かるような心地だった。思考を回す気はめちゃくちゃあるが、気力が動力に結びついてゆかない。クラッチペダルを踏まれたマニュアル車の如き愚鈍で、科学の頂は口を開いた。

「別に、だってお前に会えんの嬉しいし……」

 はっ、と息を吸った音は、果たして誰のものであったか。鋭い空気の音に思考のギアが嚙み合って、千空は自分が何を言ったのか理解した。

「今のなし……! 」
「嫌! なかったことにしないで」

 無意識に口元を覆うように持ち上がっていた手を、万葉が掴んだ。傍目に見るだけでは想像もつかないような力強さで握られた千空の手は 、また掴む万葉の手も、かすかに震えている。
 万葉の顔は必死だった。請願する顔そのものだ。千空はすっかり面食らって黙り込む。

「大切なフレーズを零さないで、物語がごみになる」
「物語が、ごみだァ?」
「君によってなら、僕の物語は如何様に蹂躙されたって構わないよ。けれど、君の満足いく物語は、君しか紡げない。後悔しない言葉を紡いでおくれ、光の君」
「……お前が嫌だから言ったんじゃねえのか。俺の物語とやらにフリーライドして思い通り乗り回そうとすんなよ詐欺師、言葉使いは皆根っこがそうか?」
「……ふふ」

 万葉は眉をひそめて下を向いた。科学屋の千空がいくらボキャブラリーをアップデートしたところで、生まれた時からひたひたに漬かってきた怪物にはそう易々と比肩はできない。感情を読みあぐねている。
 観念したように万葉は息を吐いた。掴んでいた千空の手を、自分の頬に持っていく。
 指先が万葉の唇に触れた。手首の内側を、三日月の形をした爪先がカリカリ撫ぜる。それたけのことが、とても苦しかった。苦しさの名前をまだ千空は知らない。

「君は、暴言が一度堰を切ると止まらなくなるきらいがあるね。だから、この唇を君に預ける」
「は……?」
「君は君自身が僕にとってどういう人間であるか、理解しているかい?」

 千空は押し黙った。そんなのわからない。わかったところで、ゲンやコハクがいる前で言えるほどメンタル方面に肝が据わっているわけでもない。科学に人生を費やし続けた千空は、こと自分を詳らかにする、自己表現の分野においてヨチヨチの赤子であった。
 生唾をがぶりと飲んだ千空を見て、万葉は細く笑う。月は昔から魔性とされていた。ネロ帝、カリギュラ、いわゆる「ルナティック」。千空は、自分の無意識が万葉を月と比喩するその危険性に気付いていない。
 スクラップ&ビルド、恋は互いをまず破壊する。

「後日用紙の搬入と、これを返してもらいに僕は往く。それまでに、僕にとってどういう人間であるか、探して。この唇で爪弾いておくれ」

 そうして、触れるだけのイタズラみたいなキスをした。



 愛する心のはちきれた時
 あなたは私に会ひに来る
 すべてを棄て、すべてをのり超え
 すべてをふみにじり
 又、嬉嬉として




「……これは何を見せられているのだ?」
「やーねえコハクちゃん、俺たち見せつけられてるんだよ。わかる?」
「全くわからん。何を見せつけられてるんだ」
「お前たちは千空ちゃんと肩を並べるなんてできないんだよー、悔しかったら勉強しなーって。マ、そんなこと思っちゃないだろうけどね。俺がひねくれてるだけ。なんでもないよ」
「ハ!? 私の方が万葉の何倍も漉き紙作っているのに上から目線なのか!? おかしくないか理屈が! 千空だって、頭脳こそ村の誰も敵わないがクロムに負けるような軟弱だぞ! 知力だけが偉いのか!?  そうは思わん! おい二人とも表へ出ろ、肩を並べてやる! 千空、私の方が背が高いということをみっちり理解させてやるからな!」
「あー、あはははー……万葉ちゃーん、書架にはロマンスもいくつか入れてね。科学王国は情操教育にも力入れよう」
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