4. おはよう世界 good morning World!
4 おはよう世界 good morning World!


 大地から手を離せ 二本足で立て



 およそ人からしていい音ではなかった。
 ガス漏れであるとか、穴の空いた風船のような音がしている。
 バックドラフトの爆発に呑まれる瞬間、万葉は上着を翻して、布一枚とはいえ盾を作った。機雷よろしく飛び散る破片から地獄行脚トリオを守り、そして自分は全て被弾した。
 万葉を呑むのみで、バックドラフトは実質爆風消火のような芸当を演じてみせた。周囲の火災は風圧に潰されてほぼ鎮火の様相を見せていて、ただ万葉だけが爆心地で倒れ伏している。
 倒れ伏して、人からしていい音ではない呼吸を紡いでいる。

「千空ちゃん! 千空ちゃんてば!!」
「あ……」

 記憶にあるなかで一番情けない声が出た。
 ゲンに大声で呼び立てられ、千空はやっと返事とも呼べない返事をする。気づけばクロムは烟る炎の鎮火に布を叩きつけたり蹴立てたりしていて、ゲンは万葉のそばに膝をついて容態を見ている。が、マジシャンの手には負えないようだ。科学屋の知見を、千空の正気を求めた大声であった。

「万葉ちゃん呼吸音激ヤバ! 思いつく怪我と対症療法、ない?!」

 ゲンに倣って膝をつくと、万葉はしかし未だ意識を保っている。何がどうなってる? というような顔ではあるものの、視界に現れた千空に対して視線を向けた。

「万葉、喋れるか! あんま喋ると死ぬから要点だけ喋れ!」
「……、いき、が。いきができ、ない……」

 空気の音はしている。が、おそらく肺がただしく膨らんでいない。
 肺気胸だ。飛礫が開けた穴から、胸骨内の余計な場所へ空気が漏れ出て肺を圧迫している。
 千空は弾かれたように近くで燻っていた金属片を手に取った。なりは原始的なナイフにも見える。つい先程まで炎に舐められていた刀身は、煤さえ払えば熱消毒が済んだ刃物と言えた。
 つまりよく熱せられた金属だった。手のひらが焼けるのも構わず、ゲンに「押さえろ」と鋭く指示を飛ばして。
 同じだけ鋭いーーつもりだけで、怯えきった目をきっと向けて、刃物を振りかぶって。

「……いいな!?」
「……やさしくして」

 少年と青年ははじめて一線を超えた。
 命を救うためとはいえ。唆したとはいえ。そうしなければ死ぬからとて。
 自らの手で人を刺したのだ。



***



 負傷者の手当てが終わって。
 片付けの目処が立って。
 焼けた刃をがっちり握った千空の手に、しっかり瘡蓋が張って。
 なお言葉は、万葉は目覚めなかった。

「なぁ千空よーォッ」

 クロムは千空の星見台の麓からのんびり声をかけた。
 あれから、負傷者も多かったので一旦ありとあらゆるクラフトや科学が据え置きになっている。久々に科学を知る前の生活時間帯で生活してみると、そりゃあ発展なんざ何世代先だったろうと思うような牛歩の歩みだ。
 歯噛みする気持ちはありつつ、これからまた息もつかせぬ全力疾走の日々が続くと思えば、ありがたい休暇として受け取らせてもらおう、村民たちの間では無言の間にそういうことになっている。
 さて、クロムがのんびりながら千空に声をかけたのは、メシの時間だったからだ。
 星見台には、万葉が臥せている。千空は万葉の看病をしている間、つまりストーンワールドで学問が歩みを止めている間、彼らは驚くほどしずかにそこにいる。
 返事はなかった。クロムは携えた弁当を持ち直して、そろそろと梯子を登る。どうせ皆んなと混ざってメシを食うとは思っちゃいなかったので誂えたものだ。夕飯の時にはコハクが呼びに来る手筈で、あの女は情緒がわからん奴なので、しかし情にアツい女であるので、しおれた千空を引きずってでも夕食に連れ出すか、さもなれけば何人か引き連れて星見台でメシを食おうとする。弁当箱はその時に回収できれば良かった。できなくても別に良かった。ちゃんと飯を食って寝てくれてさえいれば。

「……せーんくーう」

 病室代わりの天体観測室を覗く。
 千空は先のクロムの呼びかけに応えこそしなかったが、反応はしていた。黙って窓の下を伺い、しかしクロムがさっさと星見台を登ったので既に姿はなく、しばし探すついでに外を眺めていたらしかった。
 天体観測に必要なのは、なるべく地上の光が観測場所に及ばないようにする設備だ。村の灯りが星の光を遮らないように、星見台は暗い。
 なけなしの採光窓から外を眺めていた千空が振り返る。

「……おお」
「……メシ。食えよ。今日はコンゴウのおっちゃんが作ってくれたぜ」
「おん」
「万葉にってニッキーがおも…何? 重湯? っつーの作ってくれたがよ、まだだめそうか?」
「わかんね」
「そか」
「うん」

 ひっそり、が似合う仕草で弁当を受け取った千空は、意外にも腕がしっかりしてきた。
 細っこいとはいえ自身より体躯のある人間を床ずれしないように定期的に転がして拭い清めて着替えさせ、村人が万葉のために用意してくれる病人食も余すのを嫌って食べている。
 まして、口が静かでも頭の中まで静かになんてできない手合いであるし、万葉が目覚めるために必要なあれやこれやをひたすら組み合わせているだろう。頭脳労働も同時進行、フル回転でやりながら普段の1.5倍食って力仕事をしていれば、多少こうもなろう。
 それほどフィジカル強者でないクロムからしても、千空のモヤシさは時折不安になるほどだ。それがこうなっているのがどうにも面白くて、ああはやく万葉にこれを見せてやりたいと思う。
 無論、これ以外にも。

「じゃあ俺行くぜ、何かあったらすぐ呼べよな」
「悪いな」
「違ぇだろ」
「……助かる。……難しいな」
「すぐ教えてもらえるぜ」

 にん、と笑って、クロムは星見台を後にする。しばし歩いて振り返れば、まだ星見台が見える。
 窓枠から千空の姿は見えなかった。
 それでよかった。見えたら泣きそうだった。

「……これは本当、マジで本人に言ってやらなきゃだな」

 なぁ、早く起きろよ万葉。千空のために。
 観測室を覗いたその時、窓枠にもたれて外を見る千空が、クロムには絵画のように見えたのだ。額縁の中で獣がひとり泣いているように見えた。
 あれを救う手立ては科学にはない。人文の力がいる。
 怪物を殺せるのは怪物だけだ。殺した手前、弔いまでちゃんとやってもらわなければ、畏敬する無辜の我々にメンツが立たないというもの。
 いつか絶対並びたってやるが今はまだ難しいレベルでやってるケンカなら、手前らでオチをつけてくれ。で、ちゃんと仲直りをしてくれ。安心して肩を抱きたいから。最近やっと理知が追いついてきたが、どうにも義理が先立つ気骨のクロムはそう思う。
 星見台を後にして、村の手前でコハクと会った。大きな甕を背負ったさまは、今となっては懐かしい。

「……まだか」
「おう。この調子じゃ、千空の腕の方が先に出来上がるぜ」
「たまには外に連れ出してやらねば。枝葉の色が変わり始めた」
「……なんか」
「なんだ?」
「コハクが風情なこと言ってんの、面白えなって」

 甕を降ろそうと背負い紐に手をかけた様を見て、クロムは慌てて手を振る。
 あれはルリが臥せていたころ湯治のために湯を汲んでいた甕で、今も同じく湯気を登らせている。フィジカル強者にできる看病のひとつをこれだと信じて疑わないコハクは、頼まれてもないし結局使えもしないのに毎日万葉のために湯を汲む。
 コハクは「ハ!」と笑って、しかし甕をクロムへ投擲しなかった。素直に地面に降ろし、複雑な顔をする。

「……教養を学んだからな」
「……それよぉ、何の顔だ?」
「わからん。お前は?」
「俺もわかんねえ」
「まだ学び足りぬということだ」
「おう。まだまだ原始人だぜ俺たちは」
「あっ! おおーいコハク、クロム〜! 今ひま〜!?」

 伸びやかな声は銀狼だ。小さな袋を手に前を歩く金狼の後ろでぶんぶん手を振る。

「暇では……いや、暇になった」
「なんの話してたの?」
「いや、俺らまだ原始人だぜって。語彙がねぇんだよ」

 銀狼は鼻の下を伸ばすように「ほーん」と言う。眼鏡の奥でまなじりを緩めた金狼が、小さな袋を少し掲げた。

「俺たちは今から原始人を卒業しに行くが。来るか?」
「え何どういうことだよ?」
「時間の概念もない原始人だからできることがあるだろう。村の人手は足りているし」
「あー……あーなるほどな!? ニクいな、知らなかったぜ。お前らだけか?」
「いや、感想文を出していた子どもらの発案だ。今日はあれらを纏めに行く」
「あー書いてんの見たぜ! 見たけどそういうことだったのか! マジか、じゃあ俺も手持ちあるぜ。出していいか?」
「なんだ何の話だ全くわからんぞ!」
「コハク、情緒! さっきの情緒どこだよ! 察しろ!」
「エモかったの!? コハクが!?」
「この甕は銀狼の頭に着弾したいそうだが、お前は?」
「イヤです!」

 ぎゃあ、と再びのびやかな、しかし多少悲鳴の色を含んだ声が聞こえる。
 暦は春の少し手前。メイストームには少し早い。
 あのディザスターよりも健やかで嬉しい嵐を、無辜低能、原始人の俺たちだからこそ起こせるのだ。
 人の口角を上げられるものでなければ、それはただの売り物であって物語ではないのだ。いつかルリが言っていた。
 クロムは笑って一団の後を追う。伝えたいことがもう一つ増えた。
 万葉、早く起きろよ。俺たち頑張ってんだぜ。早く褒めてくれよ。



*****



「なんてことを」

 ある晩のことである。
 連行された村で夕食を取った千空が観測室に戻ると、いの一番に言葉が聞こえた。
 万葉が月明かりを受けている。
 床の上で状態を起こして、白く輝いていた。千空は驚きのあまり歩行運動を止め、しかし慣性はそのままに床にぶっ倒れたので、すぐさま見上げる形になった。
 万葉の向こうに、ぎろりと見開いたような月が見える。窓枠のなかの万葉は、絵画の中の怪物であった。よくは知らないが、きっと過去こんな絵があったろうと思う。

「……何が」

 みっともなく床に這いつくばったまま、千空は訊いた。先の声音は世界を呪う色をしている。

「君が、いいな、と言うから。僕はてっきり、君が殺してくれるものだとばかり。それだのに」

 万葉の光っていたのは月明かりを受ける髪や身体の輪郭だけでなくて、頬や唇、胸元までが光っている。泣き濡れた後が反射でてらてらしていた。
 彼こそが言葉、古今東西人文すべての生き字引。細川万葉は、生きながらえたことを泣いている。
 こんなはずではなかったと。

「君が殺してくれると、僕を終わらせてくれると、そう……そう思って僕は、僕は」
「万葉」
「君にはわからないか、言語の敷居に間借りして、それでも人々に求められ続ける科学の徒にはわからないか? あってもなくてもいいんだ物語なんか」
「万葉、聞け」
「どれだけ苦しんで産んだ物語とて、所詮消耗品だ。人は飽きる。すぐに次を作らなきゃいけないんだ。それでもいいさ、僕はそういう生き方しかできないように産まれた」
「聞け万葉、落ち着け。息荒らすな穴が開く」
「穴が開いてるのは僕のこころだ。自分の創作で埋めることが叶わないこの穴は、誰かに埋めてもらわなきゃ苦しい。だが、人が求めるのはわかりやすくて金になる話だ。物語じゃないんだ」

 千空はやっと万葉の手を取った。燃えるように熱いのに、凍っている。どちらが物理でどちらが心象か、どっちでもよかった。どっちも真実だ。
 下を向いたまま万葉は笑った。伺い見れば顔は笑っている。顔だけが笑っている。

「なぁ光の君、比翼の君。言語の敷居に間借りして、世界を紡ぐ文明のひと。今の君になら、僕を殺せる言葉が吐けるはずだ」

 言いながら万葉が額を寄せる。熱くも冷たくもない額に、千空も吸い寄せられて合わせる。思考を直接吸い取られるような様だ。
 額の間で、万葉の前髪がさり、と鳴る。額をずらした万葉は、ついばむよりもささやかにキスをした。

「説いて。君の言葉で。難しいなら、僕の唇を使って。また君に預けるから」

 慈悲の剣だ。長い間手入れのされず荒れに荒れた万葉の唇は、千空の唇も、また心も切り裂いた。ミゼリコルデが鋭い理由が今ならわかる。設置面がどうとか鎧の隙間がどうとかではなくて、石神千空が細川万葉の唇をそう形容したからなのだ。
 千々に乱れた心をかき集める余力すら薙ぎ払った万葉の唇に、千空は再び口をつける。唇の隙間同士で歯がぶつかって、クソ間抜けなキスだった。
 叩き返してやった。これは自分の唇で言う。それに心をかき集めている暇なんかなかった。むしろ、千々に乱れた今しかなかった。

「……幸せのまま死んでくれ」

 意外にも声は震えなかった。
 まっすぐに出た声は、空気を震わせ、万葉のまつ毛を震わせる。
 傷つけたろうか。だが、今自分がお前につけられた傷はこれの比ではないのだ。退いてなるか。加減してなるか。思い知ってもらわねば困るのだ。千空は次いで言葉を吐く。

「命の不死性を科学は実証できてねえ、それが叶うまでお前はたとえば湖畔で、俺を書き留めていてくれ。科学じゃなくてこの俺を、石神千空をお前がこの世に語ってくれ。最後の糸をお前がその奥歯で噛み切ってくれ」

 千々に乱れていなければ困ったのは、激情のままに述べなければ、絶対に茶化しや冷やかしが介在してしまう自分の悪癖を、千空が理解していたからだ。乱れた心は奥底にあった本音を何十倍にも増幅して出力する。ウーファーにしてはタチが悪い。これで万葉が打ち震えてくれる保障がなく、また打ちのめされてくれねば意味がないから。

「生きるのは哀しい、それは俺が連れてひとりで地獄に行く。お前は、生きるのは楽しいって笑って、最後に地べたに花束でも叩きつけてくれ。そこに楽土の花が咲くだろう。それでいい。幸せのままで死んでくれ」

 言葉が募るにつれ、最初こそ万葉を捉えていた視界は焦点を失い、ぐるぐるぶれて、気がついた頃には千空は自分の膝を見ていた。上体を起こした万葉の横に跪いた自分の膝は、クラフトをしないうちに随分小綺麗になっている。
 ひとりで世界を支えるのはきっとつらい。天空の巨人アトラスの膝はきっと血まみれだ。だから世界は文系、理系、体育会系に分たれた。
 万葉が死んでいざひとりで、となった時、彼がブチ蒔いた花が溢れる肥沃な土の上でもなければ、耐えられる気がしなかった。

「きみは」

 煤けた声だった。
 すっかり炎に舐められて傷だらけになっているのは身体だけではなかった。万葉は何度も生き延びたことを呪い、また生き延びさせた千空も呪っただろう。絶望の鋭い舌に舐められ続けて血が出た心でやっと言った、みたいな声だ。
 自分の膝ばかり見つめていた千空が顔を上げると、抜け落ちたような顔がある。

「やはり頂点だ。畑違いとはいえ、言葉で人が死ぬことを十二分に理解している」
「俺は幸せになってから死ねっつったんだ」
「すべて亡くしたこの僕になお生きろと言っているのは理解しているかい?」
「ああ。幸せになるまで殺してやるか。この世で最も満ち足りたとか忌憚なく言えるようになるまで、いくら身体が粉々になろうが脳さえ生きてりゃいくらでも論破してやらあ」
「その脳がもう駄目なのだけど」
「駄目なのは心だけだ。ちっと雑だが、メシ食って適温で寝りゃそのうち寛解する」

 数時間前まで寝たきりだった人間ができる挙動じゃねえよ。後に千空はそう語る。
 万葉は千空の胸ぐらを掴み上げ、しかしすぐに解いて手を這わせた。袂から這い入って鎖骨を、首筋を、喉仏を、顎を、こめかみを撫ぜて、耳の横をべったりと鷲掴み。
 殺意すら滲むような速度で再びキスをした。

「食う寝る遊ぶ、これら全て日本語における性の隠喩だ。僕はこれら全てが物語でできている。僕がなぜ一人で復活して生きてこられたと思う? 僕のなかのなけなしの物語を必死に唱えていたからだ」
「……」
「僕一人しか物語を記憶していないというのが、僕が一言一句でも違えれば、それは真にその物語ではなくなってしまう重責がわかるかい。今まで重責なんて思ったこともなかったがね、僕がやめてしまえばあの時代輝いていた珠玉たちは皆灰燼のままなのだよ」
「……科学は違う。生化学から天文まで、未知の探究を総じて科学と呼ぶから」
「そうとも。君はたとえば数字屋や医学屋と分け合えるだろう。物語はそうはいかない。その重責がわかるかい」

 類を見ない殺意だ。世界そのものが害意を向けてきたようだ。
 さもありなん、目の前にあるルナティックは世界を人文で切り取って人の形に誂えたものだ。
 さて千空は、万葉の啖呵を聞いてどう思ったか。
 バカクソ腹がたった。
 文系理系体育会系、世界のすべてをおおよそ三つに分けるとそうなる。細川万葉は文系の、石神千空は理系の頂点であった。
 万葉がいま凄んだのは、文系の頂点として立つ懊悩であった。なんでも疲れたらしいのだ。三大欲求が全て自ジャンルへの探究心で塗りつぶされた男をして、すべてを担うのにくたびれた、と。
 お前にはそれがわかるまい、と。
 マジクソ舐め腐りやがってんなボケが。

「マジクソ舐め腐りやがってんなボケが」

 思っていたことがそっくりそのまま口から出た。万葉がぱか、と口を開けて黙る。ここだ。論戦は思考ラグった方の負けだ、ラグってもすぐに詭弁で武装できなきゃもう勝ったようなもんだ。万葉の口から詭弁が、さもなきゃキスが飛んでくる前に千空少年は返す刀を構える。

「てめマジ本気で言ってくれてやがんのか? マジか? 国語は漢字書けて語彙増やしゃオッケーだと思ってたクチか?」
「そ……んなわけないだろう。あんまりだよ君、何を言い出すの。いくら君とて許せることでは」
「そっくりそのまま返してやらぁ。いくらお前ったって今のは許せるもんじゃねえよ」

 万葉がグ、と顎を引く。防御姿勢だ。据え膳食わぬわ男の恥、殴られる覚悟ができてるなら殴らねば済まない。獅子王司の思考をぼんやり理解しながら、千空は振りかぶる。

「お前、生まれた瞬間から釈迦かなんかのつもりか。シッダールタを知らねえとは言わせねえぞ。何もかもが最初からうまく行くと思うな」
「そんなことわかっている……」
「わかってねえ。お前言語屋の看板下ろすか? さっきから言う言葉が違うだろうが」
「ちがくない……」
「違う!」

 千空は万葉の顔を掴みなおして息を吸う。満身の力で、本心を渾身で振り下ろす。

「なぁ、俺の月。お前は俺と気持ちを同じくしてくれるやつだって信じてる。俺と同じ気持ちだって心の底から思ってる。お前の気持ちは今は確かに「もうやだ」かもしんねえけど、そうじゃねえだろ」
「……」

 万葉は宝石みたいな瞳をうろうろさせている。その中に光が湛えられていてほしい。光のあふれるその目で射抜いてほしい。
 それだけだ。
 千空は待つ。万葉から自分と同じ言葉が出てくるまで。

「……ふ、う」

 鼻にかかる鳴き声は、どちらから出たものだったか。
 万葉は目の下に、鼻に、歯茎に力を入れて、細切れに息を吐く。小さな鼻からふすふす溢れる息は、息苦しさに口を開いた拍子に涙になって宝石の目から落ちる。

「……くやしい」

 真珠の涙を落としながら、万葉は泣いた。今まで見たどんな顔よりもくちゃくちゃで、みっともなくて、情けなくて弱い顔だった。

「やっと誰かと分け合える、そういう場所ができるはずだったんだ」
「これから生まれてくるバケモンが、寂しくならねえように誂えたかった」
「君と、君たちと手を取り合えた事業だった。化物がひとと触れ合えたプロジェクトだった」
「とびきりいいものが出来るはずだったんだ。これからのクラフトに、生活に、歴史に必要なもんがたっぷり詰まった夢の船だ」
「僕が、僕らが、この世界で唯一できることだったんだ。こんなひょろひょろした生き物、頭脳労働しかできないのに」
「うるせ、俺はお前の介護で多少筋肉ついた」
「だからなんだって言うの。その間すべてのクラフト止めていただろ」
「たりめーだろ、お前がいなきゃ意味ねえ」
「僕がいたって図書館は作れないよ」
「俺だけでも図書館は作れねえよ」
「うええ、えぇ…ん」
「くそっ、くそ……畜生……」
「わああん」

 言い合いながら、不意に千空は目の前が覚束なくなる。ぎゅっ、と目を瞑ればいっとき鮮明になる万葉の顔が、すぐにボヤけてしまう。膝が冷たい。
 千空もまた落涙していた。
 ただ、ひたすら、くやしかった。
 人の夢を繋ぐ建物が、たった一条の落雷だけで灰になってしまった。科学の道も創作の道もトライアンドエラーの繰り返しなのは重々承知しているが、時折どうしても心が折れる失敗がある。
 文系理系体育会系、その文化部の頂点二人が揃って心を折られた。声をあげてわんわん泣いた。
 やることはまだある。やり直せばいいのもわかる。
 ただ、今は打ちひしがれていたかった。
 二人で抱き合って泣いていたかった。


***


 泣き明かして寝落ち。目覚めてみれば、天文台は小さな窓から朝日がさしていた。
 寝不足の頭を傾けて、細川万葉は久方ぶりの覚醒をする。昨日のはノーカンにしたい。あまりに前後不覚であったので。
 だが、思い返すまでもなく。紛れもなく本心だった。もう立ちたくない。まだ伏していたい。あまりに疲れた。
 半開きの目のまましばし周囲を見てみれば、なるほど確かに昨晩千空が言ったように、看病の積み重ねがありありと見える。着替えであったり、ここで生活していくための家財道具がある。
 次いで近くを見れば、きらめく白銀が朝日を受けている。規則正しい呼吸で膨れる肩は、まだわずかにおぼつかない自分のそれとは似ても似つかなく思えた。

「……光の君。御前様。あなた。……千空」
「ん゛ぁ……?」

 声をかければ、世界の半分はあっさり目を覚ました。二、三度目をぱちぱちやる間に、まつ毛が光を跳ね返して、それだけで天文台はプリズムの満ちたようになる。
 ぱちぱち瞬くのをやめた目は、ぎゅっと見開かれて万葉を見た。信じられないものを見る目である。何を驚くことがあろうか、この身は昨晩泣き倒した身だろうに。万葉はつとめて微笑みながら「おはよう」と言った。

「……はよ。体調は?」
「到底良くはない。いろんなところがひどく痛むよ」

 言うや否や、千空は飛び起きて布やらを支度しはじめる。脈を測ったりしたいらしい。
 それにしても。
 口惜しいな、と思った。微睡む千空の瞼で跳ねる光が、万葉にはとびきり美しく見えたので、どうにかして残しておきたかった。
 慌ただしく動く千空をぼんやり見つめて、万葉は細い呼吸をする。吸って、吐きながら、戯れに喉が鳴る。言葉がまろび出る。

「ひさかたの、光のどけき春の日に。しづ心なく花の散るらん……」

 ほんとうに何気なく、無意識で出た言葉だった。
 のだが、千空は弾かれたように振り向き、万葉は驚きのあまり覚束ない呼吸すら止めて目を見開いた。
 千空が這って近づく。見るとも無しに見たまま、ただ手を握られてもなお、万葉は目をぎょろりと剥いて黙っていた。

「……お前のことを月って呼ぶのやめるわ」
「……僕は、嫌いでなかったけど。何と謳ってくれるの」
「玻璃、玉鋼、そのへんがお前に似合いだ」

 ガラスも鋼鉄も、想像もつかないような業火のなかで鍛えられる鉱物加工品であった。

「ふは。は、ふははは」

 万葉は笑った。
 科学の極致が、このストーンワールドで自分を業火の鉱石に例えた。愉快だった。
 何より、言われた通り似合いだと思えた。怨嗟も後悔も売るほどある。悔しさも嫉妬もしぬほどある。情念の炎に焼かれながら、それでも言葉を紡ぐ生き物としてしかあれない。余人には、炎の中に残った綺麗なものだけ見せればいい。妬かれる前のものを見せたとて、到底理解してもらえやしないのだから。

「はははは。最悪の言い方だがなんだか僕ら、DV被害者のようだね」
「突然クソ最悪物騒だな。どうしたよ」
「どれだけ打ちのめされても。愛してるから、生きる理由がそれだから、また取り組んでしまうんだ。一緒にされて不快だった?」
「まさか。お前がそうなら俺もそうだし、今悲しくなるくれぇ色々腑に落ちたわ」

 憑き物が落ちた、とはこの顔のことを言うのだと千空は思う。確かにまだやつれてはいるが、すきっとした顔でワハワハ笑う万葉は、ただしく快活で、ただしく健全で、ただしく化物だった。

「僕はこれからも君を光の君と呼ぶよ。その威光、その輝き今後もぜひ収歛させて僕を灼き焦がしてくれたまえ」
「こんなのは二度とごめんだ」
「僕は構わないよ。君が蘇生してくれるし、産みの苦しみと思えば良いし。炎の中に失ったものは灰の中に見つかる、いい禊だ」
「クソ最悪物騒な禊やめろ! 素直に禊しとけ水の村だろうが」
「んふふふふ」

 楽しげに笑う万葉に、千空はホッと胸を撫で下ろしながら、しかし焦げ付くような不安がある。こいつ本当に大丈夫か。やっぱどっかおかしいんじゃないか。
 握った手の中の脈拍がおよそ1分間にだいたい70とかそこら。遅めではあるが正常範囲内だ。至って正気で言っている。

「……なぁ万葉、何したい?」

 戯れに、といえばそれまでだが。千空は問うてみた。万葉は笑顔のままだ。

「ン、欲求不満で身悶えしそうだ。早く言葉を書き起こしたい。この熱ばっかりは君にどうこうしてもらえるものではないから、僕がしゃんとしなければ」
「時間考えろよ……」
「なぜ悪い? ふふ、僕らしかいないのに」
「強いて言えばタチが悪い」
「うふふふ。赤点だが、君も随分言えるようになった」
「まだまだお前にゃ及ばねえ」
「応さ。及ばれちゃ立つ瀬がないもの。まだ負けてはいられない」

 手のひらでなんとなしに熱を測って、千空は手を滑らせた。ここ数日でこけた頬は、しかし血色はいい。ひたりと覆う下で微笑みの形に持ち上がったのを見て、ああなんだか大丈夫そうだと思う。リハビリは要るが。

「なぁ万葉、俺は理学療法は大した知らねえから機能訓練の面が強いが、お前がやりてえなら俺はプラン組む」
「うん、歩行訓練とレクリエーション、手芸はやってほしいかな」
「どこ行きたい?」
「図書館に」

 ひた、と視線を送られて、しかし万葉はまだ微笑んでいる。
 あれだけ心配させておいて、こいつはもうすべてを克服したらしかった。

「ぱっと見だが、ここにないものがまだあの場所にある。手ずから収めたものだ、手ずから回収し、僕の手で君に見せたい」
「意欲はどんくらい」
「今にも!」

 快活に掛け布団を引き剥がして、万葉は意気揚々とすっ転んだ。そりゃそうだ、数日寝たきりどころか意識もなかった。全身が「衰える」では済まない衰えかたをしている。
 ぱちぱち、と瞬きをやって、二人は目を合わせた。

「……これがフィジックス!」
「いや素直にフィジカルザコだろ」
「自己紹介をどうも」
「お前……」

 夜が明けている。
 千空は早めに安定して銀を採取できるようにしよう、と思った。ハロゲン化物にすれば感光剤としての利用ができて、これが簡略化できれば初期の銀塩写真が復刻できる。
 言葉たる彼は歌を詠んだが、科学屋はこの美しさをカメラで残したいと思った。



*****


 散光、風鳴り。
 焼け野原と化した岩山には、いくら春先とてこの期間では草木の生えようもない。巌の神室に吹き込む風が、再現性のないセッションをしている。

「疲れてねえか……?」
「辞書で木乃伊と引くと僕が出る……」
「せめて状態のいいまま無傷でさっくり脳死してくれ、上手くやればイレーシングデスでの蘇生が見込める……ここはナイル流域じゃねえからそこまでなられたら蘇生できねえ……」
「モツも入ったままだしね……日本の気候じゃあんなに干せないよ、やっぱり荼毘に付すのが一番その後も楽なのだな……腐らないし場所取らないから……」
「気にするとこ、そこじゃねえんだよ……」

 死に体の文系と理系である。
 ぜいぜい息をしながら、石神千空と細川万葉は図書館跡を訪れている。その疲れ方ときたら、方やモヤシ、方や数日前まで重病人とはいえいっそ哀れだ。
 あの時よりちっとも熱くない、だがあの頃より含む熱を増した風が二人の額を洗う。汗を干して顔を向ければ、図書館は煤けた姿でそこにあった。
 不意に、万葉が千空の手を取る。千空は黙って握り返して、引くでもなく横にいた。進む意思は万葉によってのみ表されるべきだと思った。
 足場を増やした場所はなかったので、図書館の中はひどい有り様だったが、足元に気を付けさえすれば難なく進めた。なんなら二人は施工者であり設計者であったので、かつ記憶容量がバケモノであったので、余人にはできない足取りで廃墟を進む。

「……やっぱりここか」
「うん」

 館長室の扉は粉々に焼け砕けているし、内部も等しく炎に舐められた跡がある。巌の神室の最下層、土間に誂えられた黒焦げの館長室に踏み入ると、万葉はあたりをキョロキョロ見た。

「何探してる?」
「いやね……。君、古今東西この国で失われた文化財、その原因に心当たりはあるかい」
「火災と個人所蔵主の紛失、あとは戦後のゴタゴタか。刀なんかはGHQが掻っ払っていったってな聞いたことあるが。まさか失くしたのか?」
「そこは君、僕が信じる君を信じたまえ。違うとも。文化財の損失のおおよそは焼失であり、その中でもエポックメイキングと言うべきか、2度と繰り返してはならないと言うべきか」
「子々孫々まで肝に銘じておかなきゃならねえとか、お前にとってメチャクチャ印象深えとか」
「そう。そういった焼失がある。結城の名槍、御手杵だ」

 千空は聞いたことがなかった。促すまでもなく、まして千空が茶々を入れても万葉の探し物と言葉は続く。

「西の日本号、東の御手杵と名高い天下三名槍のそのひとつ。人の想いが失わせた稀有な槍であり、今となってこう言うのは齟齬があるが、天下三名槍のうち焼失した唯一である」
「焼失したっつったって、なんだったか知らねえが焼けた状態で展示されてるやつもあるんだろ。あれもままならないほどか? 融解まで行った?」
「惜しい、もうひと声」
「……鉄の融点、ざっと1500℃だぞ。炭か、ナパームでも食らったか」
「両方だ」

 室町時代に鍛えられた名槍御手杵は、昭和期にはかつて徳川に連なった松平にて保管されていた。戦火を避けるため地中に埋めて守るように言い付けて出征した当主の願いも虚しく、旧家臣たちはお家の宝にそんな扱いはできない、と土蔵に防湿のための木炭を敷き、しかしそれが仇となる。
 焼夷弾の直撃を受けた蔵は溶鉱炉のようになり、焼け残りを研師であった本阿弥光遜のもとへ持ち込むも、もはやただの鉄塊を槍へ打ち直すことはできなかった。式部正宗や室町以来伝わる古文書など多くの宝物とともに焼失とされ、石化以前の世界にあった二振はレプリカであった。
 万葉はやっと手頃な板を見つけた。

「僕の宝物は、由緒なんざと縁もない。僕の短すぎる半生のなかで生まれ、しかしどうしようもなく僕のオリジンであった。土に埋められる宝物だ」

 言いたいことがわかった。万葉は、3700年前にそうと定め、あの日ここに埋めた宝物を掘り返すつもりだ。千空も倣ってスコップ代わりにできるものを探し、万葉が始めた場所を一緒になって掘る。
 土を掘る音に紛れないように、千空は聞いた。

「今となってはっつったが、他の二槍ももうねえのか? いや、鉄の風化速度が年0.05ミリなら、3700年で200メートルある鉄柱が5センチ残る程度か。まして雨風防御ナシなら理論値じゃ済まねえ」
「人が思うほど日本刀は強くない。強い日本刀は絶えず手入れが施されているものだ。無銘や数打は鞘の中で錆びてしまったものもあったという。日本号は青貝螺鈿貼拵だし、蜻蛉切は個人所蔵であった。保たなかったろう」
「螺鈿細工? 槍がか? すげえな、唆るな、惜しいな。日本号、もしかしたら見たことあるかもしれねえ。アロー号見に行ったときに。水冷2気筒4サイクル、当時は現存する一番古い国産自動車だった。クソかっけえんだあれ」
「格好いいよねぇあれ、動かそうと思えば動かせたのだよね。実に浪漫哉、映画バトルシップのミズーリが如き哉」
「原子力潜水艦のほうか?」
「否、アイオワ級戦艦の三番艦。太平洋戦争の日本降伏調印が成された艦だ。いい映画だったよ、覚えているからそのうち書き起こす」
「船……そうだ船作るんだ。お前元気になったから。なぁ航海術とか覚えてねえか? 操舵手として船乗らねえかお前」
「理論しか覚えてないから、南くんあたりに訊いて腕利きを雇ったほうが賢明だろう。まして僕では航海中も文字が書きたい代わりに一生喋り倒すだろうから、クルー全員から「お前船降りろ」と言われるに違いない」
「俺がルフィだからそこは問題ねえ。メリーだろうがサニーだろうが、ヨミヨミを食わせてでも引きずり回すぞ。ワンピース最後まで読みたかったな、尾田栄一郎見つけたら復活させよう」
「井上雄彦先生も頼む、僕はあの人の描くバガボンドを最後まで読みたかった」

 あれの続編が、これの結末が。言い合いながら手を動かす。作業自体は二人には造作もなかったが、かたやモヤシ、かたやつい最近死にかけた人間であった。
 それだけが原因ではなかったが、目当てのものはなかなか見つからなかった。
 文系と理系の頂点をしてなお話題に区切りがつきかけた矢先、万葉の道具が硬いものを叩く。白銀の髪が土に塗れるのに一切の躊躇なく、万葉は両手で土を掻いた。

「……ああ、あった」

 両手で下半分を包めるほどの土器は、中に藁草を噛ませてガラス瓶が納められている。御手杵に学んだ今できる耐火を詰め込んだ宝物の揺籠だ。
 万葉は中の小瓶を恭しく取る。取り出さなければ中身を伺えないほど濃い緑色から、口にかけて透明色のグラデーションになっている。ガラス製作における緑色の原料は酸化鉄、クラフトの際には飽きるほど出る代物だった。
 やっとの思いで再び手にしただろう小瓶を万葉は一度顔の高さに掲げて、小瓶越しに千空の顔を見た。しばしそうやって、やがてぎゅっと胸に抱く。

「……聞いても?」
「僕がはじめて詠んだ詩だ。誰にも見せたことがない。聞かせたこともない。この世界にこの詩を知っているのは僕、そして君だけだ」

 万葉、そして千空だけ。
 理系の頂点、色恋はホルモンバランスと脳のバグだとのたまうクソ朴念仁も、流石に気づく。ましてもともと理系の頂点ではあるのだ。理解力はある。

「君はこれから海原へ漕ぎ出すのだろ。その時、僕は行かれないだろ。だから連れて行ってほしいのだ、僕のオリジンを。そして、旅には口ずさむ歌が要る。だから連れて行ってほしいのだ、君が謳うにふさわしい言葉を」

 絵画のようなうつくしさで、万葉は小瓶を差し出した。
 彼のなかで生まれたものが迸って、やがて戻っていく場所は心臓と呼べた。キリスト教絵画において心臓を差し出すモチーフは、神への信仰を表すという。

「……俺でいいのか?」
「君でなければ誰が。それとも、たとえば獅子王司に簒奪されてもよいと」
「他の男の名前出すな」
「ふふ」

 受け取ろうと手を伸ばして、しかし一度、千空はただ万葉の手を包んだ。小瓶を持つ万葉の手に触れた。

「……君に差し出せるものなんて、これくらいだ。もらってばかり、奪ってばかり」
「はン、例えば?」
「この手にこんな大きな瘡蓋、傷をつけた。この命だって君に救われた。こころも」
「じゃあお前、全部俺ンだな」
「僕こそいいのか? 願うところだ」
「バカ言え、お前じゃなきゃ願い下げだ。それともあれか、例えば」
「僕じゃない名を紡ぐ悪い唇」
「お前がそう呼ぶならそれも悪くない」
「言えるじゃないか」
「おかげさんでな。……ありがとう、大事にする」

 窓のない館長室に風が吹く。
 千空は小瓶を受け取ろうとして、勢い余って万葉ごと抱擁した。規模が違うが、やろうとしていたことは間違っていない。万葉も笑った。ひどく、やっと、満ち足りた顔をして。
 この世の全てを三つに分けたときの、うち二つ。孤高なる頂点。理系の極地と文系の極地は、ここに愛する人を得た。



*****



「向こう火を放てば良かったんだよ。これまで僕がどこに居を構えていたと思って。なんたる愚昧か、恥ずかしくなってしまった」
「知らねえよ。伝承まわりは俺マジで日本住吸血虫しかわかんねえぞ」
「草薙神社は記紀にも登る由緒ある社だ。というのも、ヤマトタケルが賊に焼き殺されそうになった際に向こう火を放って難を逃れたと……」
「待てそれ焼畑じゃねえか? 人間進歩してねえな。ある種の正解が大昔に発見されてただけかもしんねえが」
「そういうこと。もってこいじゃないか。広く平らな土地もあるし、僕らの国には大樹くんもいる。この国はそろそろ農耕を取り入れないと食糧と健康寿命がご破産だ」
「そういやお前、航海法どこまで書き起こした? 龍水や右京が覚えてるだろうが、クルーにも周知する用、ないし海外で復活してた奴らがいた場合に備えて作っておきてえ。芝居はクソだったが着工の時の芝居のホン良かったし、それ方面も頼むかもしれねえ」
「万難は排しておきたいものね。もう上がるよ、日本と国際法と大昔の万国海洋法も、日本語中国語英語と、ブラジル用にポルトガル語でまとめてある。脚本は三パターンある。そこまでいらぬと言ってくれるな、楽しくてね」
「わかるわ。止まんねんだよな。じゃあ何がどれだけかかるかはまだ不透明だが、とりあえずしばらく治世はお前に任せた。ゲンあたりも使って刑法整備してくれ」
「拝命した。君の頼みであれば何であろうと」
「んでお前の拠点だが、どっちがいい? 村のほうが静かで落ち着いてるとは思う。ここらは今作業場とドックだが俺がいる」
「正直を言えば答えに困るね。世界と生命のどちらを取るかという話だろ。君が置きたいところに置いておくれ、僕はそこで咲くことにする」
「じゃあここだ。屈強な野郎が多いったって岩山で寝泊まりは労働環境がカスすぎらぁな、そのへんの設計やら頼めるか。手が空いてる奴使って手が空いたらでいいが、手前の環境整備はお前が一番最初に着手しろ」
「仰せのままに。君の床も誂えよう」
「前よりギア上がってねえか。マジでヤベェぜ、何言ってるか何もわかんねえ」
「いやクロムちゃん頑張って、今万葉ちゃんタスク量がアホになったのよ。ヤベェーって言って。誰か止めて。出来るんだろうけど見てて不安になるのよジーマーで」

 光のどけき春の日である。
 頂点どもは、主に万葉は実に久しぶりに石上村を訪れ、村民の満足するまで歓待や悪態を受けたあと、「じゃあ手を動かしてもらう」と図書館跡で機織りをしている。その横で千空は必要な布の計算を何度も改めて、また糸の計算をやり直す。
 図書館事業は一旦中止となった。さまざまな理由があるが、主に万葉がリハビリをしている間に七海龍水なる人格破綻ながらクソ有能、高機能社会不適合者が巌の神室の天辺に趣味の悪い金の御殿を建てたためである。万葉はあれを喜んだ。しきりにクロムに朝顔の種を強請っているのを見るに、利休の朝顔の茶会を再現したいらしい。
 人も増え夏になり、図書の拡充も急務ながら生活基盤の確立を急がねば、次の冬で人的資源が激減してしまう。
 通貨の誕生で様々なものが信頼で買えるようになったが、信頼は無からは生えてこない。物品が確保できる実績がなければならず、実績は実際に物品を確保しなければ確立されない。
 七海のもたらした「通貨」における信頼を損ねること。つまり、生活を支える頭数が減ること。それだけは避けねばならなかった。

「生活が安定していなければ豊かな物語は書けないよ。危機の中でこそ生まれるものも、もちろんあるけれど」
「君死にたまふことなかれ、とか」
「アンネの日記とか?」
「待て待て待て古代? 現代? だけで盛り上がるな! ズルいぞ!」
「危惧せずとも全て書き起こそう。その間に、君たちストーンワールドの物語を今後も書き記してくれたまえ。君たちにしか書けないものがあるし、一度滅びを経た僕らにしか書けないものもある」
「万葉が書いたものならなんドラゴでも買うよ」
「ウェイ万葉先生、ハンターハンター書き起こしてくんね? キメラアント編」
「せんせー、私たちの書いたの読んでくれた?」
「勿論! 実に美しかった、あれは僕には書きえない感性だ。徹頭徹尾声に出して読みたい言葉に満ち足りた素晴らしい文書であった。まずね、書き出しの文が……」
「長くなるから適当なところで逃げろよ」
「イヤ! 万葉せんせーに褒めてもらいたくて頑張ったもん」
「万葉俺も俺も俺も書いてんだぜ! なかなか時間取れなくてまだ完成しねえけど! もう今日書くから朝まで! クソヤベェの書くから!」
「ねえ光の君、あなた僕に治世任せると言ったよね」
「……労働基準法発動か……」
「わざと無視してたのかい!? 千空くんちょっとこの元自衛官と話そうか!?」
「何そのスゲェ大事そうな言葉!?」
「余計なこと言いやがってお前はよォ!」
「んふふふはははははは! 口を滑らせたのは君だとも! いいじゃないかシンギュラリティだ。ふははは」

 万葉は笑った。笑いながら頭を振る。
 火災の時に焼け焦げてしまったので、万葉の銀糸の髪はところどころ短くなっている。全頭を滝のように伸ばしていたので分けるなりしていれば楽だったらしいが、今は顔にかかってきてしまうので、万葉は時折頭を振って髪をよける。
 気が気でなかった。万葉のその仕草が、千空はちょっとイヤだった。
 素直に「ヘキ」なのもあるが、忘れてはならない、この男はついこの間までガチで死にかけていたのだ。先進医療のないストーンワールドで、内科的な病を発症されると打つ手がない。まして、首なぞ痛めようものなら。不安だった。

「なぁ、……明日。星観ねえか」

 ひそひそ、と。他人に聞こえないように。千空は言った。
 科学王国は現在、海へ漕ぎ出すために船を作り、船を動かすために石油が必要であり、石油を探索するための気球を作っている。
 その気球の飛行のまえに、逢えるか。
 頼まれるまでもなく、この事業にあって頂点ふたりは大体一緒にいて、あの時より健やかな声で方々に指示を飛ばしている。
 頼まれたと言うことは、そういうことだ。二人きりで話がしたい。
 万葉は笑った。うっそりと、艶やかに、幸せそうに。
 少し短い前髪をゆったり耳にかけて、答えた。

「紅を差して行くよ」




 レグルス、アークトゥルス、スピカ。大三角は記憶にある天球より位置が違う。
 その夜は、よく晴れた。
 千空は灯りの落ちた帆船の工事ドックで、ぼんやり空を見ていた。作業のことを考えれば早めに寝るべきだが、この化け物は寝ていても思考が回る。かつ、疲労を知らない脳みそだ。身体が休まりさえすれば特に支障はなかった。

「今晩は。佳い夜だ。月が綺麗だね」
「お……」

 万葉は、ほんとうに紅を差して現れた。わずかな明かりでもわかるアーモンドアイと唇は、誘蛾灯のように千空の目を惹く。
 にこりと首を傾けて、顔にかかった髪を払った万葉は、何だか綺麗だった。細い月明かりと星明かりだけの夜でもルナティックは輝いている。当たり前のことがなんか嬉しかった。

「ベストセラー作家様のご登場だ」
「ご紹介に預かった。よもや、これほど早くまた僕の書いたものが売られる世界になるとは。僕が書いたものでないもののほうが多いが」
「石油買う用の金勘定はゲンに任せてるが、お前の著作が一番売れてるそうだ。お前が語る不朽の名作も唆るが、お前が書くお前の物語をこの国は待ってた」
「泣かせてくれる」
「事実だっつの」

 笑った頬に見える紅は万葉本来のもので、どうやらただの幻覚のようだった。血色がいい。
 万葉は千空の隣に座って、同じく空を見た。星図は千空にリードがあるが、付随する神話の類いはおそらく万葉に軍配が上がる。わかりきっていたので、二人は特に星に関して口火を切らなかった。

「……来週にも気球ができる」
「うん」
「風速にもよるが、テスト飛行のゴールは石神村だ。ざっと二時間かそこら」
「クロムくんが言うには、すごく走って二日の距離とのことだ。それを二時間か、科学は凄まじいね」
「お前、体調どうだ」
「悪くないよ。君が毎日診てくれているもの」
「おう。そか。……あー、テスト飛行の日、村にいてほしい」

 万葉が千空の顔を見たとき、千空は万葉のほうを向いていなかった。いつも腰に下げている道具袋を弄っている。

「これを着けて、俺を待っててほしい」

 道具袋から出てきたのは、両手で包めるほどの木箱だった。
 今村に流通する道具のほとんどを万葉は見た。金属の加工品であればカセキが作った鋳型がベースになっており、木の細工箱はまだ見ない。最近やっと彫刻刀が製作されたからだ。
 カセキの作る彫刻刀を真っ先に入手できる人物のワンオフ。熟考するまでもない、石神千空が作ったものだった。

「……君、気づいているかしら。僕のことを一度も「テメー」と呼んだことがないのは」
「そうなのか? そうかもしれねえ」
「それほどまでに、フフ。ぞっこんかい」
「ブーメランは刺さって抜けない力で投げろ。帰ってくるぞ」
「君は空を見るのだよ。地平をその目で見るのだよ。いいの?」
「なにが」
「そのどれより僕が綺麗で」
「そうあって欲しいから言ってるよ。そうだと思ってるし」

 万葉は千空の手のひらごと木箱を包んで、千空の指先に口付けた。紅が指先につく。

「航空機事故の確率は、3700年前時点で宝くじの当選確率よりも、落雷事故よりも低かったそうだ」
「そうだな」
「けれど、君は奇跡の人よ。血の滲むような努力こそすれ、当たり前みたいに良い奇跡だけを引き続けるような、そういう人であるのを覚えているかい?」
「ちっとも。奇跡の再現性を限りなく100に近づけるのが科学で、俺は科学屋だ。光学レーダーこそねえが、知識だけはマジ売るほどある。最強の航海士も準備した。メイストームの時期も過ぎた。心配すんな、ぜってえ無事に帰る」
「何に誓ってくれる?」
「言葉にしてお前に誓う。俺は細川万葉のもとへ帰る。絶対に」
「五体満足、無傷で、まで言ってくれなきゃ嫌」

 指先から唇を離した万葉は、移った紅を指先でなぞって伸ばした。右手の中指に爪先から伸びる赤は、ぐちゃぐちゃになったペンダコみたいに見える。

「お前の心臓もらってんだ、血が出るような真似してやるかよ」
「……ふふ、60点」
「100点じゃねえのかよ。……待て、お前箱開けてねえだろ。どこでバレた?」
「君ね、金属加工ができるんだから銅鏡紛いくらいさっさとお作りよ。それで今の顔を見てごらんな」
「そんなにひでえ顔してるか」
「膝に矢を受けた人の顔をしているの。隠す気はおありかい?」
「見えねえモンは隠せねえし、お前にならいいだろ……」
「ふふ。5点追加してあげる」
「平均点は?」
「3かな」
「偏差値ぶっ壊れたな」
「今更。二番目に壊れたのは僕だとも」
「一番目は?」
「世界じゃないかしら」

 手を取り合って、額をすりつけ合って、鼻先に呟くようにして。

「お前のところに絶対に帰る」
「君を迎えて書き記すよ」

 終生の。誓いだとか、契約だとか、信仰だとか、色んな言い方があるが。
 二人にとってはただ、告白が成った。





 この世界の全部を見たいし知りたい。
 今までは自分だけでできればよかった。他の誰とも為せるなんて思わなかった。
 これからは、今からは、君と。

 朝日はにわかにオレンジ色を孕んで、万葉の銀糸の髪を縁取る。朝焼けに混ざった雨の匂いと西風が、きっと一波乱あっただろう男を連れてくる。

「万葉! 見えたぞ!」
「……うん、僕にも見えているよ」

 散光、葉擦れ、涼やかな空気。
 万葉は銀細工の髪留めを風に遊ばせて、紅の引かれた目を細める。眩しかった。
 最終の着陸態勢に入った気球の客室から、待ち望んだ姿が見える。

「……!」
「……ふふ!」

 息を呑んで客室を飛び降りようとした千空は、しかし限界まで疲労した腕にあっさり裏切られて崩れ落ちる。
 受け止めたのは万葉だ。機織りで僅かばかりながら健やかな輪郭を得た腕を目一杯のばして、精一杯力を込めて。

「ワリ、色々あって腕限界だ! 抱き返せねえ! けど無事だ!」
「そのようだね! 旅のお客人、しばし休まれよ! 休んだら此度の冒険、全て語ってくれたまえ!」
「うぁ゛ー疲れた! チクショウ! 疲れたけどお前見たら全部スッ飛んだ!」
「脳汁が出ているだけだよ! 暫時ゆるりとされませい。どうせ高山病ギリギリの高度まで攻めたろう」
「ゔぁ……それはそう……クク、マジ最高だったぜ……もっと安全にやれるようにしてお前連れてってやるからな……」

 気力の糸が切れた素振りの千空は、万葉に抱き止められながらゆるゆると膝を地面につけた。むき出しの土だが、二人なので痛くない。

「あ、これお前に最初に言おうと思って。メチャクチャになっちまった」
「ン? なぁに」

 腕の中でモゾモゾやる千空があんまり愛おしくて、万葉はくすぐるような返事をする。
 モゾモゾした末、千空の手の中には緑の小瓶が、万葉の心臓がある。

「…………おはよう、世界」

 千空と万葉にしか伝わらない魔法の言葉。かつて万葉がそう訳し、千空へ預けた言葉。「愛してる」だ。

「…………。3700年、お待ち申し上げておりました」
「永いこと待たせてすまない」
「まさか。光の速さで来てくださいましたとも」

 特段雨が降ったり風が吹いたりしたわけでもない、本当になんてことないある朝であった。
 理系の頂点と文系の頂点が甘ずっぱい初恋を確かめ合っているのを横目に気球は片付けられ、さて石油探索の計画へと話は進む。
 けれど、それでよかった。人類の夜明けは、歴史の始まりは決してドラマチックではない。
 今日も人間が始まる。
 それだけのことが唯一できるのが、人間であった。




この進化を ダーウィンに捧ぐ
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