3. 夏蝶の屍を引きてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず
3 夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず


 つきのようみに
 いちまいの
 てがみをながして
 やりました



 3000年で地形を大きく変えた東京に聳える堅牢な岩の神室は、手間を加えて人の場になりつつあり、科学王国王立図書館はついに完成を目前に控えるに至った。
 崩落したり岩盤が噛み合わずにできた竪穴の一部をモルタルで埋め、一部には穴を開け換気を促す風車を設置した。いくら堅牢な岩の神室とて、大自然の中に本を置こうというのである。工夫は尽くしても足りないほどであった。

「おおい、書架作業は中断、材料を庇に仕舞って蔵書整理に移ってくれ。雨が降る」
「雨ぇ? ヤベー晴れてんのにかよ?」

 晴れたある日、科学王国王立図書館の建造現場。
 万葉の声かけに、クロムは「ウソだろ?」の表情を隠さずに言った。だってめちゃくちゃ晴れている。山際に多少の雲はあるが、到底すぐに降り出すとは思えなかった。

「ああ、やっべえ降り出すぞ。寸法が変わっちまうから木材ダッシュで屋根の下ブチ込め!」
「待て待て待ってくれ、晴れだぜ?」
「西から風速だいたい35キロ毎時、気温だいたい22度ちょい、湿度……わからんが高め、山岳方面なら気温はもっと低いか。飽和水蒸気量の話はしたろうが」
「花筏に花曇り、メイストームの時期であった。4000年も経ってしまったから合ってるとは言いづらいが、昨夜は星辰が良くない陰り方をした。桜桃忌が近いのは関係ないにしても、偏西風があろうというもの。下手から来て上手に行くものは演劇に於いても得てして良くないものだ」

 そう言うと二人はサッサと片付けに入ってしまうので、余人はそれに従うしかなくなってしまった。その時には理屈が分からないでも、この二人が言えばのちに「そういうこと」となって顕現するのは、科学王国の面々は特にいいだけ見てきたので、なおさら。
 ほどなくして、二人の予想通りに雨は降りだした。大雨、と呼ぶにはまだ弱いが、普通の雨と呼ぶにはいささか規模が大きい。

「なんで当たり前みたいに天気予報できるの? 俺メンタリズム極めても天気まではわかんないよ」
「そりゃテメー、観天望気は科学のいちジャンルだ。人の歴史は古ければ古いほどお天気様とにらめっこだったしな」
「光の君の言うとおり、人は季節や天候と共に生きてきたものだ。だから二十四節気、さらに七十二候なんてものもあるし、死神が鎌を持つように描かれだしたのも結局は季節の廻りに思いを馳せた結果であるという。にしても、屋根があるのはいいねえ。あはれだし風情だし、庇の中から生まれる物語は山ほどあった。巌の神室、その庇護やアトラスの如し」
「それ今アフリカあたりで山脈んなってんぞ。調べたらヒトゲノムが出るかもしれねえ。あれが災害伝承系神話だとしたら、この異変は二度目ってことになるが」
「僕らは皆星の子さ。僕らの血は星屑の液体であるのだから、鉱物が巨人の血肉であったって特段驚くこともあるまいよ。そうなれば、あれは石化したのではなく先祖返りしたとも言える」
「宝石から人間のホメオボックス出してみてえな。芸能人の墓荒らし問題あるだろ、あの石探し出して解析かけたら出ねえもんだろか」
「長生きして僕の遺骨でも石にしたまえ、髪も長いことだし。炭素には事欠かぬと思う」
「なんの話よジーマーでぇ……」

 かつて世界の天を支えた巨人アトラスは、主神と巨人族の戦争ティタノマキアに敗れた後、山の上で天を支え続ける罰を負う。なんやかんやあってアトラス山脈となる説もあれば、天を放り投げたりまた誰かと喧嘩したりしている。ギリシャ神話は紀元前から続く超人気世界的覇権巨大ジャンルであるので、同人誌が後を絶たないのだ。万葉はそう言う。ゲンはものを言う気力もなくした。敵いやしねえのだ。

「さて、日陰仕事をするとしよう」

 先ほど蔵書整理を指示した万葉は、自分も同じく作業をするかと思えば、岩陰からいそいそと道具を支度している。首をかしげてのぞき込む一同に、万葉は「いけないよ」と言った。

「煙草は二十歳になってからだ」
「たばこ!? たばこって草なのか!?」
「あ〜〜〜〜雑頭……保健体育だけ満点みてえなナリして実際満点なの体育だけ野郎がよ……」
「ふふふ、快刀乱麻を断つとはまさに彼の事じゃないかね、気分がいい。しかし大樹くん、これはただの薄荷、ミントだ」
「ミント? お茶にして飲むとかじゃなくて、呑むの?」
「欲を言えばシガリロもサティーバも欲しいがね、いや手は出さぬと誓うけれども」
「タバコはまだしも大麻はこの王国で許さねえぞお前!」
「あはははは! じゃあ麦をキメよう、セイレムのように。酩酊繋がりでもMKウルトラは流石に繰り返す気ないだろう。怖いしね、あれ」
「人手がねえっつってんだろ魔女裁判も洗脳実験もナシだ! 麦角菌で食中毒起こそうとすんな飴なら許す! つか麦芽糖はやりてえよ、種に目星ついてんのか? ジェネリックでやんのか?」
「ねえ〜〜〜わかるように会話して〜〜〜〜脈絡が飛びすぎなのジーマーでえ〜〜〜やんなっちゃうもお〜〜〜〜無力感〜〜〜〜」

 マジで敵いやしねえのだ。
 二人は大麻の品種から麦角菌による酩酊症状について、さらに発展して麦由来の砂糖の精製について話している。
 きゃらきゃらと舌戦を愉しむ二人を、司帝国の面々が伺うように見ていた。物欲しそうな顔である。

「……ところで、数助詞のはじまりを知っているかね? 魚なら一尾、鳥なら一羽というように」

 万葉がどこへともなく言った。千空の顔を見ず、中空へぽんと放り出されたような言葉の落ちる先は、司帝国の面々、いわゆるヒャッハーとでも呼ぶような荒くれ者たちであった。
 言葉をかけられたことに気づきながら、荒くれ者たちは万葉の手元を注視している。煙草が欲しくてたまらないのだ。

「名刺とはなぜ名を刺すと書くか? なぜ人は一名と数えるか? 僕がこんな話をし始めたのはなぜだと思う?」
「……知らねえよ」
「ふふ。生き物に対する数助詞は、死して後に遺るものを単位としている、という説がある。名刺は、この俺を覚えておけと一刀の元に刺す意図でもって差し出すものだ。そして君たちは、僕たちもまた、このストーンワールドに於いて名字が無用となっている。つまり、戸籍を消失している。言いたいことがわかるかね?」

 万葉は微笑む。いくらでも柔和な笑みを浮かべられるのに、この時ばかりは化生のような顔をして、笑う。脅す意図があるのだ。千空は黙って、魔の月を見据える。

「君たちはここで文字を書かねば、書いて遺さなければ。ここに復活したことも、そもそも3700年前に謎の光に包まれたことすら遺らず世界から消えるのだ。人の記憶のなんと儚きことか、君たちを覚えておける人間がどれほどいようものか。血肉に依らない生きた証拠を遺さねば、君たちは死んだことどころか産まれたことすら埋もれるのだ」

 オリジン、だ。
 千空はそう思う。今万葉から紡がれている言葉は、万葉の「きっかけ」のひとつかもしれない。知識の蒐集に悦楽を見出す人間が、なぜ物語の創出にまで手を出したか、その答えがここに垣間見えている。
 うきうき青空教室の目的は識字率の向上と筆記技術の浸透確立、並びに復活した人間たちの記録の収集であった。司帝国に復活した者たちは、著しく参加率が低かった。この年この気骨この性格この風貌で今さら手紙や日記を書くなんて、恥ずかしすぎてちゃんちゃらおかしいのだ。
 彼のシソーラスであれば、とろかすような甘言でもって促すことだって出来ただろうに。
 万葉は笑う。深淵から腑を撫ぜるようにして。

「司帝国の斃れたいま、君たちを担保するものは人的資源の1として、それのみだ。それで構わぬならそのままおれば良い。空恐ろしさを覚えたならば、筆を取りたまえ。上稿の数に応じて、遺志だなんだと目に見えぬものと、もちろん目に見える褒美も用意しようとも」

 巻き終わった煙草を鼻の下にあてがって、あえやかに息を吸う。万葉は笑う。うっそり、とか、ぎろり、とか、そういう擬音が似合う。
 ああ美味なるかな、お前たちもさぞ欲しかろ恋しかろ、これが欲しくば筆を取れ。そういうことだ。

「……紙がねぇだろ。書くものも」
「あるとも」

 悔しそうに荒くれ者が漏らしたのに対して一転、万葉は茶目っぽく笑ってタバコを差し出した。

「君らはきっとおそらく獄門島を読んだり見たりした経験はないだろうけどね、紙巻きタバコは紙で巻くのだ。まして、原初の筆はまさしく炭であるとも」

 金田一耕作シリーズの名作は、今やすっかり誦じられるのは万葉ばかりになってしまったので、誰も比喩だとわからなかった。古い辞書の紙はたばこを巻くのに佳い。
 荒くれ者はタバコを受け取って踵を返した。足取りを見るに、向かう先は製紙場のようである。微笑んだ万葉に対して、千空はゲンナリした。

「随分塩対応じゃねえか。せめて木炭にしてやれよ効率悪い、鉛筆くらいならもう少しクラフトが進めば生産できんだからよ」
「おや、それは聞き捨てならない、一刻も早く進めておくれ。それにあれは本当に木炭を巻いた紙、筆記具一式さ。いやね、僕も多少腹に据えかねたのだよ」

 この万葉に、この妖精に、この化生に怒りなんてあったのか。
 千空はパカ、と口を開けて、しかし出会いを思い出して閉じた。最初に会った時めちゃくちゃケンカしてたんだった。それすらも忘れるような時間を重ねてきていた。

「焦っているのだ僕は。僕とてモータルだ、永久不滅ではない。僕が覚えておける物語はあまりに少ない、まして僕が語らなければ物語はこの世界に遺しておけないのだ」
「……なんだったか、チベットの寺院の経典の解読率が3700年前で5%とかいう話。……悔しいよな」
「きみもヴォイニッチ手稿が解読されて、あれがもし未知の動植物の図鑑であったらと思うと、身が千切れそうだろう」
「ぬぁ…………! やめろ……もう原本が残ってねぇんだ……」
「そう。だから、なるべく早く世界中とコネクションを作って、世界中の物語とその記憶を蒐集したい」
「そのためには入れ物がいる」
「うん。……なにだか、君相手に言葉を尽くすのは随分野暮のような心地がしてきたよ。すべて理解してくれているんだもの」

 つみなひと。
 万葉は笑った。今度は、艶やかに。
 千空以外の全てを置き去りにして。


***

 万葉の髪は長い。ルリよりも。
 朝早くに万葉のもとを訪ねた千空は、朝日に差されながら髪を梳く万葉を見た。
 絶句した。あんまりにも美しくて。下手な夢だと言われた方がまだ納得できた。

「あら、光の君。おはよう」

 こちらに気づいて微笑むそのさまが、もっと信じられなかった。この美しい生き物が、なんだって自分にこんなに微笑むんだろう。
 千空にはじめての感情が去来する。
 未知のものに対する恐怖だった。何故万葉がこんなにも自分に微笑みかけてくれるのか、意味がわからない。

「すまないね、じきに終わる。切ってしまおうかしら」

 パッパと髪を纏めながら空恐ろしいことを言うので、千空は返事を「オハヨ」だけに留めた。「おう」か「はよ」だけ言うと、そう思うなら早く髪を切れと取られそうで。
 さて、千空が早くに万葉のもとを訪ねたのは、未だ無為に非ず。呼び出されたから来たのだ。

「残りの工期に随分と余裕を持って完成させられそうだ。科学王国の民は皆勤勉で頭が下がる」
「焚き付けておいてよくもまぁヌケヌケ言いやがる。画竜点睛ってところか?」
「そうさな。君にもあるだろう拠り所が。自分だけのものにしておきたいと願わずにおれないようなマスターピース、マクガフィンが」

 髪を結い終えた万葉は、小さな木箱を手に居室を出る。千空は聞き慣れないシソーラスに、片眉を歪めてあとを追う。

「マクガフィンってなんだ」
「スターウォーズにおけるR2-D2、ゴジラにおける核、物語のはじまりにして終わりを導くもの。作劇における用語だ」
「はーん、チェーホフの銃みてえなもんか。舞台上に銃が置いてあるなら、作中で発砲するシーンがなきゃいけねえ、みたいな話だったろ。門外漢だが」
「別に撃たれずとも置いていいと僕は思うがね、銃」

 万葉は振り返って微笑んだ。慰めるような顔だった。
 こいつはおよそこの世のすべてを知っているような男なのであった。千空は不意に氷室を、獅子王司のコールドスリープ装置を思い出す。
 散光、葉擦れ、涼やかな空気。
 仏花。

「あの花束はお前か……」
「おや、今かね」

 歪めていた片眉を更に歪めた千空に対して、万葉は片眉をピンと上げて言う。
 意地悪な顔だ。しかし、寂しい顔をしている。

「僕は与太が好きだよ。けれど、あの出来事を茶化すほどの人間性もしていない。信じておくれ」
「その顔見たら、まぁな。……いい奴だ、話が面白くて、こっちが話すのに説明がいらねえ」
「ああなんて素敵なの、僕も話してみたかった。否、君が引き合わせてくれる」

 そうだろ、ラララ科学の子。万葉は歌うように言って、向き直って歩き出した。
 その通り、違うのは千空が百万馬力でも鉄腕アトムでもない点のみだが、千空は唇の内側を噛みながら微笑むに留めた。
 昔話の化け物だが、実際に語られる怪異じゃあるまいに。首の後ろに目なんかついていようもない。
 人である限り、万葉は今の千空の顔を知らないのだ。
 あの獅子王司は、体育会系の頂点である。理系の頂点が国を率いてやっと無力化できたような化け物である。
 その眼前に万葉を曝すのがなぜ嫌なのか、その語彙を千空は探しあぐねている。


 岩の神室に誂えられた図書館、その館長室に、ひっそりとマスターピースが設置された。
 しずしずと戸を閉めて出てきた万葉を迎えて、千空は頷く。自分にも覚えがあった。白夜のレコードを聴き終え、ひとり墓前に立った記憶を思い返しながら、再び「うん」と頷く。万葉も真似た。

「……ひとつ。誤謬を訂正したい」

 万葉は恥ずかしそうに言う。千空はしずかに待つ。

「マクガフィンは、ただ物語を貫くものである。例えば怪盗が狙う宝物が金塊だろうが宝石だろうが、そこに物語における差は無い。ただ宝物でしかないのだから」
「……だからって、お前の宝物があれ以外でいい理由もねえんだろ。だからマクガフィンだ」
「ふ。……光の君、文字書きに興味は? 古川日出男が田中芳樹がそうであるように、ある分野の研究者はその分野のフィクションを描ける。きっと君もまた」
「そこで円城塔だアイザック・アシモフだジュール・ヴェルヌだが出ねぇのが、俺とお前の決定的な差だな。それに500億%願い下げだ、俺はこれから船の図面引くのにお涙ちょちょぎれるぐれぇ忙しい」
「ふふ。早く君を解放してあげないと」
「はは。冗談キツいぜ。お前も手伝うんだよ、地球の本棚」
「アカシックレコードも自称に追加しようかしら」
「誰も文句言わねえよ」

 それから、どちらとも喋らなかった。岩の神室に誂えられた風車が回る音がする。冷たい空気が2人の間を通り抜けて、やっと気がついたように館長室を離れた。
 それだって、これを終えたら次にやることが決まっていたからでもない。なんともなしに、このままここにいるのも座りが悪いからだった。

「あら……湿気た風。雨が降る」
「空見るか。出口あっちか?」
「あちらだよ。ふふ、光の君が自然光を見失っておられる」

 簡素な採光窓があるのみで、主に龕灯提灯を携えなければ歩けないような場所を、万葉はヒョイヒョイ歩く。してやられた気分だ。明るい方を習性として知っているふうに歩く万葉が自分より先に光に溶けていくのを見て、千空は「どっちが」と思った。
 さて。空を見て、2人はサッと顔を青ざめた。弾かれたように向き合って、見合ったままありったけ息を吸った。

「総員撤収!」
「ディザスターだ!」
「木材一旦置け! 小道具庇に仕舞え! 最悪流されるぞ!」
「日干ししていた書物をすべて仕舞ってくれたまえ! 一刻も早く! 大嵐が来る!」
「台風んなかでもとびきりみてぇなのが来るぞ! 備えろ! 無意味ならそれでいい!」
「綴じ糸は後回しだ! もう流されても飛ばされてもいい、針と本文をすべて、すべて守ってくれ!」

 ありったけ吠えた。細っこい全身を精一杯楽器のように反響させて、声帯以上の大声を出す。
 突然吠え立てられた群衆は、呆気に取られながらしかし指示通り動き始める。この天才二人が突然何かをほざき始めるなんざ珍しいことじゃなかったからだ。ただ驚いたのは、その剣幕であった。

「僕らの本は現状墨で書いている、水に耐えられない! 濡らすならせめて表紙紙だけに留めてくれ、二度と失われていいものではないと覚悟してくれ! それ以上に、君たちが一人でも失われることが何よりあってならないと自覚してくれ!」

 死がくるような口ぶりであった。その必死さときたら、聞いているだけで不安にさせられるほど悲痛なのだ。ネガティブな感情ほど伝播は早く、芯まで理解が及びやすい。
 万葉は喪失を恐れていると、その場にいる誰もが、言語化できないなりに理解していた。
 二度と失われてなるものか。現場で作業をしていた面々のうち石化から復活したものたちは、万葉に呼応するようにどんどん顔を強張らせていく。なかには以前万葉が筆記具を渡したグループもあった。
 文明を作るのは人ひとりの手でも可能だが、文化はそうもいかない。これだけの人間が、腹に一物抱えながらだろうと協力し合ってやっと蘇らせた母国語だ。世界屈指の難易度を誇る言語の喪失は、アイデンティティの喪失とも言える。誰もが焦っていた。
 半ばパニックになりながら彼こそが言葉、万葉の叫びに従って書物を小道具を人命を巌の神室に仕舞い込んでいた最中、野外での撤収指示を引き受けた千空が、またも張り裂けんばかりの大音声をあげていた。

「万葉、万葉ーー!!」

 巌の神室の最深部にて雪崩れ来る物品を千切っては投げている万葉に声が届くまで、雪崩れ来る物品を持った村民たちがバケツリレー式に繋いでやっとほどの時間がかかった。
 千空の言葉を人伝に聞いて、万葉は色を得た。ただでさえ真っ白い顔が、明確に青くなったのだ。

「そこから出ろ、逃げろ、落雷が来る。近隣で一番高いのはここだ、換気用の風車の車軸を伝って落雷火災を引き起こす可能性がある」

 作業員たちは声を繋ぎながら徐々に出口へ引き返し、万葉のもとへ伝わるころには、全員がせーので駆け出しても群衆雪崩が起きることもない程度に人がはけていた。

「万葉先生! 早く!」

 かつて漫画家だった男が振り返って、ああ振り返らなきゃよかったと思った。
 そこにあったのは奈落だ。狂気だ。絶望だ。
 そうとしか書けない。そうとしか表わせない。人類はこのときの万葉を襲った情感を、その様子を表すシソーラスを持ち得ていない。

「……葉、万葉! 早くしろテメェ!」

 やがて、もうひとりの頂点の声がした。千空がいつまで経っても出てこない万葉を連れ戻しに来ている。あの頭脳をして処理落ちしている万葉を、細っこい身体でなんとかなんとか引っ張って、図書館から投げ出そうとする。

「千空ー!! 空がバカ暗ぇ!! ヤベェーぞ!!」

 造船の資料を探しに図書館を訪ねたクロムが、理由をあらかた聞いたらしかった。避難誘導をしながら、聞き覚えた科学だけでも十二分にヤベェことが理解できた彼もまた、人死にの危険性を理解している音量で吠える。
 あと少し、あと少しで外に出られる。あと一歩で、
 というところで。
 古今東西の怨霊に例えられる。これから実りの時期であることを知らせる。人の生活にあまりに身近であったのに、動力として活用し始めて以来、人類がその威力をとうに忘れたまま3700年経っていたそれ。
 3700年の気候変動で威力を上げた雷霆が、神室に落ちた。



 耳鳴り。
 寒いかんじ。
 肌を叩くなにか。
 身じろぐと、頬の下で尖ったものがざらめく。

「は……万葉、万葉……いるか……」

 千空は呻きながら、いつもみたいに軽口を叩こうとしてやめた。「弾け飛んでねぇだろうな」なんて口に出して、その通りになっていたら怖すぎる。
 とびきりの落雷は巌の神室に落ちて、その衝撃で二人を吹き飛ばした。地面に叩きつけられ、雨が降り出してから間も無く我に帰った千空が、手を引いていた万葉を探す。目はまだ完全に開かない。
 さもありなん、一概には言えずとも落雷は約一億ボルト、300キロワットを抱えている。電圧は一般家庭で扱う100倍、エネルギーにして一般家庭2ヶ月分であるとされる。五体が繋がっていたことがまず奇跡だ。

「……ああ」

 千空の必死の問いかけに、万葉は応えた。
 否、答えではなかった。

「あ、ああぁ、ああ……!」

 呻いていた。喘いでいた。慟哭していた。
 うっすら開くようになった目を、それでも必死に向けてみれば。
 神室が火を吹いている。
 厳密には、換気のために誂えた風車の空気孔から火の粉が吹き出ている。
 まずった! 千空は自身の予想の正しさと、それを設計段階で思いつかなかったことを心底呪った。
 図書館の湿度管理のため誂えた風車は、神室の天地を貫くようにして設置した。一番下層部の車軸には簡易モーターをつけて、ささやかながら発電と蓄電ができる設備を搭載してある。ゆくゆくは風力発電と並行で館内の電力需給を賄う計画であった。
 それが、落雷により火災を起こした。何が最悪かって、発火元が風車の車軸の最下層であったことと、ここが図書館であることだ。
 根元から起こった炎は風車によって上へ上へと運ばれて、蔵書を巻き込みながら膨れ上がる。神室の天地を貫いた車軸に導かれた炎が、遅くないうちに図書館を焼き尽くすのが目に見えてわかる。
 万葉は吹き漏れる熱風に髪を好き勝手弄ばれて、ひりつくだろうのもお構いなし、正しくは見開くしかできない目を震わせながらひたりと図書館へ向けて、悲鳴を上げる。
 その悲痛さと来たら、仮にこれが夢であっても夢であれと願ってしまうほどに。

「嫌、嫌だ……! 僕らが、僕が……!」

 浮かされたように図書館は駆け寄ろうとする万葉を、千空はズタボロのまま必死で止めた。あそこへ行けば必ず死ぬ。死ぬ思いで止めるのは当たり前だった。

「馬鹿野郎、わざわざ死にに行くんじゃねえ! また書きゃいい!」

 そう吠えたのに対して、万葉はやっと千空を振り返った。
 今まで何を言ってもこっちなんか向きやしなかったのに、やっと向いたと思ったら、ああなにか泣きそうだ。その目はあんまりにも怒りに満ちている。掴みかかる細腕を振り払って、言葉は吠えた。

「君はやはり文字書きにはなれない! また書けば良い? 馬鹿なことを! あそこにあるのはあれらを産んでいた時の僕らだ! 書かれたものには、書いた人間がかけた時間が集約されている! 二度と同じものなんて書けない!」
「だからって考えろ! あそこは常に新鮮な炎と空気が供給され続けてるようなもんだぞ! 死にに行くのは物語ん中だけにしろ!」
「君は……君なら理解してくれると思ったのに!!」

 万葉は吠えて、千空の手を打ち払った。払われた、と思う間にも万葉は駆け出している。あの男、文系理系体育会系で言うところの同じくデスク系であるのに、ここぞのフィジカルがおかしい。千空は、ストーンワールドで少しばかり鍛えられたはずの体がまだ細っこいことを恨んだ。あいつの手を咄嗟につかみ返すことが出来ない手が嫌いになりそうだ。

「万葉……!」
「おい千空! 大丈夫かよ?!」
「千空ちゃん! 万葉ちゃん何しに行ったの?!」

 クロムと、どこからか湧いて出たゲンが千空に駆け寄る。あらかたの救護と誘導は残る人員に任せてきたらしい。ゲンに理由を問われて、千空はガンと頭が痛んだ。
 あれが自分のラボだと思ってみろ。星見台だと思ってみろ。
 あそこは仲間たちと作り上げた場所で、文明再開拓の鋒で、ああ。あそこには、百夜のレコードがある。
 万葉は、その箱の中身が何かは結局教えてくれなかった。けれど。
 千空は痛む頭を自ら一度殴った。
 あそこには、万葉のマクガフィンがある。

「……矜持、魂、理由、そんなもんを取りに行った! 服ありったけ濡らして布用意しろ! 万葉回収作戦だ、ハッタリ上等アドリブ満載、ぶっつけ本番ミスれば全員死ぬ!」

 出てくる時に迷ったが、それでも3700年分の秒数を数え続けた頭で考えた。万葉の行き先までの最短ルート。最も危険が少ない場所。
 万葉を呼び戻せる言葉を。
 千空がふたりに向き直ると、意外にもふたりは素直に頷いた。お前が行くなら俺も行く。それが当たり前の顔だった。
 今一度千空は声を張ろうとする。が、体の制御が感情に負けて、なにだか掠れた声になった。

「ひと足先に一回地獄付き合え……!」

 ついてくるなら止めはしなかった。が、万葉が1人で先に地獄に行くのは、訳が違った。


***


 目端を通り過ぎる焼け焦げたページの中身が、すべてわかる。
 ここは通俗の棚、エンタメ小説やブロックバスタームービーのあらましを纏めた書物が並べられていた場所だ。書架も焼け、並べられていた本たちは爆風で砕けてしまっていたり、今まさに失われていたりする。
 焚書よりもタチが悪い。文化が失われていく。万葉は運動や環境だけでない理由で呼吸がままならなくなるのを、全く自覚できないまま走った。
 このためだけに生きてきた自負がある。これでしか生きていけない自覚がある。どれだけ人に満たされようが、結局脳髄が欲するのは、文章を書くことの快感と、それを認められる悦楽、そして文章を書いたことによる功績の羅列であった。
 光の君に偉そうなことをさんざ垂れておいて、戻ったら素直に謝らねばならないな。万葉はそう思う。
 千空はおそらく、自分がそうするのと同じように、満身の感情でもって万葉を好いている。
 だからこそ、万葉が文章にかける熱意も理解して欲しかった。万葉がありったけの矜持でもって心血を注いでいることを、千空にも理解して欲しかった。
 3700年前のファンミーティングを思い出す。年若い乙女から老いぼれた紳士までが、口を揃えてこう言う。

「あなたの作品に救われました」
「この作品で人生が変わりました」

 いいことだと思う。物語は、それを想起したときに頬が持ち上がらなければ、ただの売り物に過ぎない。物語と呼ぶに値しない。
 ただ、万葉が気に入らないのはひとつだ。
 諸兄らが救われて、僕が救われ得はしない。諸兄らの人生が変わったとて、僕の人生は変わりはしない。
 飢えている。いつも。いつまでも。
 この渇きをなんとかしなければ、万葉は気が触れてしまう。この渇きの名前が「承認欲求」であるのか「知識欲」であるのか、終ぞ名前をつけられないまま、名前をつけられそうな人間は全て石になり、また獅子王司に発見されたものはおおよそが砕かれた。
 あれだけ知識を蓄えたのに、こと心にあってそれらは全く役に立たない。こんなことなら理系の道を進めばよかった。全てがそうじゃないのは知っているが明確な答えがある。言葉は、全てが正解で全てが不正解だ。今だって何もわからない。
 だが、わからないなりに抱き続けてきた矜持がある。抱き続けた矜持がこれだと叫んだ言葉がある。
 あのマクガフィンを、きみにあげたい。
 いつか大海原へ漕ぎ出すきみに、この言葉を抱いていてほしい。
 そして何より、それはぼくが伝える言葉ではなくて、ぼくがかつて紡いで記した言葉であって欲しい。
 何もわからない。けれど万葉は走る。
 あれを抱いてほしい人のために。あれを抱いて、きっと笑うだろう人を見るために。


***


 業火の迷路は、まさしく地獄ながら、しかし走りやすかった。先を切り拓いたひとがいたからだ。なんだか時代みたいだ、と呑気なことを思う。
 千空たちは濡らした布を口元に巻いて、大層息がしづらいままなんとか先を急いだ。少々シチュエーションが変われば拷問として扱われる方法であるし、そもこのシチュエーション自体が十全に拷問である。気を抜けば泣きそうなほどしんどい。
 ひとつ書架を曲がった先に、白く翻るものが見えた。名実ともに焦がれた、万葉の後ろ髪である。

「万葉…!!」

 千空は今日イチ焦っている。
 くらくらしている。空気が焼き尽くされて、呼吸に足るほど無いのだ。
 それに、おそらく万葉が向かっているだろう館長室は、予想が正しければすでに窒息消火寸前だ。炎は酸素を燃やす。酸素を燃やし尽くした炎は消えるのみである。
 万葉には辛いことを強いてしまう。が、万葉があの扉を開ける前に、あれを連れ戻さなければならない。できなければ、万葉が彼岸へ連れて行かれる。

「クロム退路確保頼む! ゲンはついてこい!」
「おう! 絶対捕まえろよ!」
「オッケー! 待って! 死にそう!」
「走れ止まるな死ぬぞ!」
「ひええ!」

 館長室までの道のり、その最後の曲がり角を抜けて、千空は万葉をやっと捕捉した。足りない酸素をありったけ吸って、今日何度目かの大声を出す。

「万葉!!」
「光の君……! 待ってね、中に……!」

 言われて、やっとその顔のみでなく、万葉の全身を見た。万葉の全容を捕捉した。
 内臓から思考に至るまでのすべてがストン、と抜け落ちたような心地。あらわすなら絶望が相応しいか。
 万葉の手が、既に館長室の扉にかかっている。

「開けるな!! バックドラフト!!!」

 叫んだ。
 今後どんな偉業を成し遂げたとして、千空はおそらくこれを何度も苦悩する。あと数秒だけでも早ければ。

 万葉は叫ばれた内容をすぐさま理解して、はっとした顔をして、しかし勢いを殺しきれないまま。
 館長室の扉を開けた。
 酸素の絶えて虫の息になっていた炎に、多少とはいえ空気が供給されてしまった。炎は酸素を求めて、空気のある方に瞬間的に進む。
 つまり。
 爆炎が吹き出して、万葉を呑んだ。




 なみだは
 にんげんのつくることのできる
 一ばん小さな
 海です
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