效伝 どうしてる? どうしてる? いつか会えるかい
「きみ」

 ひと通りの歓待をすっかり受けた旅団に声がかかる。
 散光のように透き通り、葉擦れのように普遍としてそこに響き、しかしその冷たさを涼やかとは言い難い。

「きみ、光の君」

 月の光。この世ならざるもの。彼こそが言葉、文系の頂点たる細川万葉。
 理系の頂点たる石神千空と壮絶な船出の別れを披露したのも記憶に新しい、科学王国首長の片割れ。
 彼が、まさか絶倒の怒りを携えて、片割れを迎えに来たのだ。

「おお万葉、帰ったぜ。銀狼以外の適当な連中から聴取して記録起こせ、あとこれから俺らソッコーで月に行くためにまず北米大陸行くから現地復活勢遭遇用に英語教育のシラバス組んでくれ。出航はでき次第すぐ、物資調達のチャートと管理はフランソワに任せてっがフォロー入っ」
「来たまえ」
「ああ、復活液の無限化装置はカセキに……あ?」
「来たまえ」

 そよ風のような嫋やかさだったので、千空は最初その声をただ相槌だと思った。
 モズ、よりも。よっぽど腕の立つ剣士なんじゃないかと思った。万葉の繰り出した不可視にして不可避の刃に、すっかり切り落とされていたことに千空は気付けないまま語っていたことになる。
 バベル事件みたいだ。千空はかすかに顎を引いてやっと万葉に向き直った。

「聞こえなかったかい? 言い方を変えようか」

 来い、莫迦者。
 万葉はギロチンのような瞳を鋭く伏せ、顎で離れを指した。
 余人が心底肝胆寒からしめているその真ん中で、理系の頂点はといえば。
 翻る銀糸の髪がきれいだなぁ、とか、首が心配だなぁとか、そんなことを考えていた。




 文系、理系、体育会系。
 世界のすべてを雑に三分すると、およそそう呼ぶことになる。
 石化装置メデューサを手に入れた科学王国がまずやるべきは、獅子王司の蘇生である。
 彼にこれまでを説明してやるつもりはない。世界を三分したとき、体育会系の頂点に位置する天才の理知である。説明の必要もなく、自身でこれまでを類推する力がある。
 それは、文系の頂点たる細川万葉も同じだ。
 文章であれば何だろうと蒐集し、理解し、そして忘れずに記憶し続ける彼であれば、なんとなしの科学論文の知識だけで現状を類推できる。その信頼がある。
 万葉は類推を完了した。その上で、なにか許し難いものがあったらしい。
 宝島の伝記を記してこなかったことか、航海日誌をすぐさま届けなかったことか。千空はこれまでの不足になり得るよしなしごとをありったけ考えて、しかし座して待つしかなかった。
 案内された万葉の草庵には、座布団と簡単な床が用意されていた。かたわらに細々とした針仕事の道具がある。
 何をするんだろう。一度こうと決めたら何を言っても聞かない文系の頂点は、きっと千空が何を言っても揺らがない。下る沙汰がせめて穏やかなものであることを祈る他ないのだ。

「さて、光の君。覚えておいでかい」

 花弁が開くように長い裾を捌いて、万葉は座った。真正面でそんな魔性の素振りを久方ぶりにされたものだから、千空はにわかにドキドキとなる。
 まして、しずかに着衣を解きながら。いっそ哀れなほどだ。

「忘れたことねェんだから、思い出しもしねェよ」

 だが、万葉の言葉を受けて返した千空の声音は温度がない。
 万葉がその肌を晒す。つまり、科学王国王立図書館が燃え落ちたあの火災、そのとき負った業火の傷を晒している。
 あの時の千空にできる治療の精一杯であり、限界だった。うつくしいものを完璧に治すことができなかった。傷を残してしまった。
 獅子王司を死なせたこと、細川万葉を十全に回復できなかったこと。この2つは、おそらく石神千空の生涯をもって、今後どんな偉業を為そうと消えることのない功罪として残る。

「君は今駒形あたりほととぎす、忘れねばこそ思い出さず候。高尾太夫だね、僕も同じだ」

 万葉はトロリと笑う。稚鮎の腹みたいな指先でなぞる腕や頬には、痛みを物語る傷跡が今もありありと鎮座している。
 ふと万葉は、千空の腕を取った。頬を取った。ゆっくり撫で上げられていく様は、到底余人があればそそくさと席を外すような手つきであった。

「忘れたことなどありはしないのだから、思い出すなんてこともしない。君はいまどこだろ、駒形あたりかしら、待ち遠しいったら。そんなことを考えない時はなかった」
「悪いがこっちは、何手かミスれば全員死んでた。ちょっとそれどこじゃなかった時がある。寝物語にでもしてやる」
「ふふ、甘露。何より、斯様な死戦のなかにあって、無事にこの腕の中へ戻ってきたことを何より寿ごう。けれどね」

 万葉がたどる腕の先には、宝島の戦いで負った傷がある。神経をやったわけでもなく、石化光線から復活した後に負った傷であった。復活に伴う回復が発生していない、塞がってすぐの荒い肌がそこにはある。

「お前もいつかぜんぶ治してやれる。そん次くらいに俺もやっとくかな」
「ンン、朴念仁。僕が怒っているのは、合理を先立ちすぎて、君自身が後回しになっているのが許せないのよ」

 大言壮語とはもはや言うまいよ、僕こそが文系の頂点、僕こそが言葉。この僕が焦がれてやまない光の君、おわかりかい。
 この万葉は、同じく人文の頂たる石神千空が傷を負って帰ってきたことを、森羅万象のすべてに比類するような怒涛でキレている。
 とびきり上等な絹布で撫でるような手つきで、万葉は千空の手を取る。文学は時として人を狂わせるが、文学が人の形をとっても人を狂わせられることがあるのだな、と千空は諦めにも似た心地で思う。

「だのでね」

 絹布、そよ風、そんな手つきのまま、万葉は千空の手に針を持たせた。
 骨抜きにされていようが手のつけられない科学バカ、いくら情動にクソほども興味のない千空とて、明らかな形を見せられれば嫌でも察した。
 持たされた針は、いくつかを並行に並べられた根本でひとつの持ち手に括られている。
 刺青をやるための針だ。

「そこまでキレることか!?」
「きみね、僕にどんな面差しを向けているかご自覚なさいな。せっかく鏡を作ったのにすべて女人に下賜してしまってさ。それで自分の顔を見たらいいのよ」
「俺いつもどんな顔してた? バチギレか? いやバチギレしてるがよ自分の至らなさによ。お前から見て俺はどんなトンチキおもしろ珍妙フェイスだってんだ? お前が言うなら納得するから言え」
「めちゃくちゃな顔だとも。君がこうして帰ってきたことで僕も同じ顔ができる自信があるが、何を考えたらその面立ちになるの? というようなかんばせだ」

 比翼に傷がついたからどうだというのだ、自分はその深慮に惚れた。
 それはそれとして、比翼に傷がついた。それを防げず、あまつさえ治せなかった。
 どれだけの心持ちか、千空にはまず実感がある。万葉と同じ気持ちだと言いたいのだろう。そこまでか? と訊いてしまったものの、よく考えるまでもなく同様だろうと納得できた。

「光の君はとんと自分に興味がないと見える。わかっちゃいたけれどね」
「あー、何を言っても論破されんだろこれ。言いてえことはいくつかあるが」
「お言いよ」
「自分の身よりお前の無事のほうがメチャクチャ関心あるわ」
「だろうね。だので、思い知っていただこうと思うのだ」

 万葉は針を持たされた千空の手を墨壺に導いて、自らの腕にあてがった。

「これから君が怪我をするたびに、君自身の手で僕に墨を彫ってもらう」

 千空は声にならない悲鳴をあげた。
 べつに万葉の姿形に惹かれたわけじゃない。髪が焼け焦げようが、肌が焼け爛れようが、万葉が万葉であるなら美しい。それでいい、それがいい。そのためなら多少の怪我くらい喜んで負おうというものだ。そう思っていた。
 それをこの万葉は、赦さないと言った。きっとどんな墨を入れたってきっと万葉は変わらず美しい。
 ただ、自らの手で既に完成されている美しいものに手を加えるのが、難しいくらい嫌だった。
 万葉は、月に墨を彫れと言っている。

「ヴゥ……ぐぁ……ええ……」
「自らの至らなさを呪いたまえ、君が傷つくことでどれだけ怒りに身を焼かれる者がいるかを考え至らなかった自らをね」
「何べんだって蘇生してやるって確かに言ったがよ……これはお前を……石化させてスミが消えるかの実験台に……するってこと……」
「この際だから言うけれどね、僕は君が十全に治してくれたと思っているよ。これ以上は僕自身は別に必要としていない。だから、何かに巻き込まれでもしなければ石化復活治療を受けたいとも思っていないよ」
「こ……この……」
「なぁに?」
「ごうつくばり……」
「んふふははは! 何、おもしろいね。君からそんな言葉が出てくるなんて」

 万葉は事の重大さがわかってないみたいに笑った。万葉に限って事の重大さがわかってないなんてことは絶対にない。わかったうえで、だからこそこれを言っている。

「……わかった」

 千空は肝を舐めたような顔を俯かせたまま言う。万葉は微笑むが、どうせ臥薪嘗胆とかそんなところだろ、と気づいていた。気づいていたからこそ、いたからこそなお、その気骨を心底愛おしく思った。
 薪に臥し肝を嘗めて眠る。恨みを忘れないようにわざと劣悪な環境で暮らし、かならず復讐を果たすと誓った男に由来する故事成語であった。
 先の千空の「わかった」は、万葉の要求を承諾した、ではなく、自らの覚悟に理解を果たしたから出たのだ。
 万葉は死んでさえいなければどうあろうが美しい。灼けた傷が残ろうが、墨の彫られていない皮膚が残っていなかろうが、例えなにかが欠けようとも。
 ただ、それが自身の手で施されるものであってはならない。
 今後も人類救済の道行に怪我は避けられない。つまり、自らの手で万葉に墨を彫ることを避けられない。
 だから、「わかった」。
 万葉は笑った。量子力学はよく知らぬながら、この光の君はきっといつか、月世界旅行どころか時間旅行を為すつもりだろうなと思い至ったから。

「何を彫られてえか言え。言っておくが俺は絵心お悲しくなるぐれえ無いぞ、化学式を掘ってもいいなら話は別だが」
「化学式も唆るけれど、すまないが僕は文学屋でね。機会があればこれと決めていた憧れがあるのだよね」

 待ってました、とばかりに広がる裾の合間から紙片が抜き出される。

「これは……家紋か」
「如何にも。九曜紋、あ君福岡博物館行ったと言っていたね? そこにも縁がある家だよ」
「お前自身の縁は? もしかして武将一家のやんごとねえご子孫だったりしやがんのか」
「どうだろ、興味がなくて遡ったことがないのだ。ただ、あの気質が僕にまで継がれたなら、それは言葉の頑強を物語る詳細になり得る。嬉しいね」
「マジシンプルただの憧れか」
「そうだとも。何か謂れが?」
「ねぇよ。お前はそれに唆るタチ、俺はそういうお前が唆るタチ」
「言うようになったこと」
「おかげさんでな、口達者な伴侶がいるもんで」
「では、口は僕が請け負った。君には手を動かしてもらおう」

 墨壺を潜った針が、万葉の腕に宛てがわれる。

「…………いいな?」
「…………やさしくしてね」



古へも今も変はらぬ世の中に心の種を残す言の葉


「痛! いーった! いたたた! 下手! ねえ下手くそ! 早くして! まだかかるのかい!?」
「バーカバーカバーカ! お前が言い出したんだろが! カセキ先生に代わるか!? 絶対ヤダって言うだろうが! 大人しく掘り終わるまで拷問受けてろ!」
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