伊地知潔高もまた、言い伝えられた一人であった。だからこそ昼日中の仮眠室から出られなくなっている。ドアの前に、その仁賀保アレンがいるのだった。
問題は仁賀保がただ立っているとかではなく、物理でドアの開閉を妨げていることだった。
ドアのすぐ前で床にぶっ倒れている。だので、ドアを開けようとすると仁賀保がつっかえてしまう状況だ。リノリウムの冷たい床にぐったり倒れ伏した身体をドアの隙間から伺い見れば、呼吸が荒い。どうやら具合が悪いらしい。
困ったな。このとき脳内では「五条悟」にストレスとルビが振られている。
伊地知は間も無く「ストレス」を迎えに行かなければならないが、ヤツならこちらが行かなくてもダル絡みしに来るのだ。もし間に合わずヤツがここへ来たとき、またえらいアレコレ言われるに違いない。困ったな。マジで。
とりあえず、目の前の人命だ。伊地知は自分と他人を天秤にかけて、比較的ノータイムで他人を取れる男であった。通話履歴から家入を選んで架電する。
「何? 忙しい」
「お忙しい中申し訳ありません、往診を頼めませんか? それか、人手を頂ければと」
「何? の説明になってない」
「仁賀保術師が仮眠室の前で倒れていまして、何度か声をかけましたが反応がありません。ドアのすぐ前なので、私も出るに出られず……」
「そうか、わかった。今人が行く」
「すみません参考までに、どなたが来られますか?」
「クズ」
「うッ……スーッ……わかりました」
それが嫌だから頼んだのに。万が一これを言ってもどうにかなる次元は超えてしまったので、仕方なし、伊地知は精神をありったけ武装して待つ。
「あっ……うわ……」
すぐにドアの向こうからストレスの声がした。意外にも困ったような声を上げたらしい。珍しいこともあったものだ。
伊地知ー、いいよー。多少の衣擦れのあとにそんな声がして、伊地知は恐る恐るドアを開ける。人間電信柱、五条はこれまた意外にも仁賀保を抱き上げて立っていた。見たところそれなりに恵体というか、しっかりと筋肉の乗った大きな仁賀保の体を、しかし五条も片手で抱き上げているのだから訳がわからない。
「助かりました」
「ん。準備しといて、硝子んとこ預けてくるから」
伊地知は三度驚いた。あの人格マイナス600族の代名詞(不名誉な呼び方ではあるし万事そうでもないが)五条悟が、物みたいに抱えた仁賀保を物扱いしないとは。
自分の上司を、特級術師を、日本呪術界の至宝を日頃なんだと思っているのかと訊かれれば何も言えなくなってしまう感想だったが、それほどまでに意外だったのだ。
何か縁でもあったんだろうか。仁賀保術師って派閥はどこだったかしら。伊地知は素直に五条の指示を聞き入れて、社用車の車出しに向かう。後でこの貸しを「一生もんだからね」だのぐだぐだゴネられるとは微塵も知らないままに。
△
仁賀保はそれから案外早く伊地知と再会した。意識のあるうちに会うのはこれが初めてだが、そこは家入から事情を聞いたらしい。
かなりくたびれた様子ではあるが――しゃんと立つ仁賀保を見るのは初めてだった。
赤い。
目じりの紅が、袖口から除く墨が、爪先を彩るポリッシュが、カフスピンが。
本人はいっそ青いような漆黒の髪とスーツを纏っているのに、伊地知はどうにも差し色に目が惹かれて離せなかった。
「先日はご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした。大したものではございませんが、お詫びの品をお持ちいたしましたので、お納めいただければと……」
日本人離れした顔立ちから流暢に紡がれる詫びの言葉に、伊地知は平時ならかしこまってぺこぺこ頭を下げているところが、ぱちぱちと瞬きをするだけに留まった。ちょっとびっくりした。普通に街中で会ったら、英語で話しかけてしまいそうな顔から、こんな。
すこし遅れて、仁賀保が差し出している紙袋をお点前みたいな仕草で見る。伊地知とて根回しが仕事みたいなものなので、この紙袋がどこのものかくらいわかる。大したものしか売ってない店のものであった。
「は……いえ、受け取れません。お気持ちだけで結構ですので……いや、私のような者がもらっていいものではありませんし……」
「えっ、いえ、そうもいかず……。恐れ入ります、正直に申し上げますと、受け取っていただけないと仁賀保の家から土地が贈られてしまいますので……こちらで納めていただければと……。税金が発生するばっかりでメリットもない、アクセスが悪いところの土地をもらっても不便しかなく……」
「ひえ…………」
「さもなくば蟹と鱈が山ほど来ます、よく獲れるそうですので……ですので……こう言ってしまっては心苦しいですが、どうか……」
こんなシュールな詫びが今まであったろうか。さもなきゃ土地か蟹が来るからこれを受け取ってくれ、なんて何を食って育ったら出てくる脅し文句だろう。鱈かな。伊地知は「ひえ」以外の語彙を全喪失しながら、大したものしか売ってない店の紙袋を受け取る。仁賀保は見るからにホッとした顔で、誤差ほどの微笑みを浮かべた。
「お納めくださり誠にありがとうございます。何卒不躾をお許しください、これで失礼いたします」
「あ……あの、すみません、今度なにかお返しをさせていただけませんか? こんなにいいものをもらってしまって、何もしないままというのも……」
「とんでもない、これがお返しになりますので。ご勘弁を……」
「……すみません、私が、気が休まらなくて嫌なので……」
「……拝命いたします。ですが、大変申し訳ございません、この後ですと先約がありますので、後日またご連絡をさせていただいてもよろしいでしょうか……ご希望の日時でかまいませんので」
「いえ、こちらがお願いしてますから、ご都合のいい日で……」
これは、良くない。一生平行線してしまうやつだ。伊地知は「ええい」と心の中で叫んでから、「ではこちらからご連絡させていただきますね」と言った。途端に、すっかり途方に暮れていた仁賀保の顔が再びホ……とゆるむ。
「お忙しい中呼び止めてしまって申し訳ありません。ではまた後日、連絡させていただきますね」
「はい。……お待ちしております」
仁賀保はきっちりを指をそろえて深く礼をした。伊地知は長年の勘で、というか経験で悟る。これ、こっちが早くいかないと一生頭下げてる流れだ。「失礼します」と丁寧に、しかし短く言って場を辞して、飛び込むようにして事務所に戻ってからやっと息を吐いた。あれ、少なくとも背中が見えなくなるまで頭下げ続けてるパターンだ。補助監督を見下す術師が多いなかで、術師にあれだけの対応をされたのが初めてすぎて、伊地知は正直最初からずっとパニックだ。
「うおー! 伊地知さん、すごい顔して飛び込んできたと思ったらすげェ紙袋引っ提げてるじゃないですか! 五条さんが来る前に隠して隠して!」
まだ疑問符しか浮かべられない伊地知に空気を読まない大音声を投げかけたのは、同じく補助監督の新田明であった。彼女もまた五条悟に苦汁を呑まされることのある立場なので、いかに難を避けるかの気回しがうまい。
「ひえ……?」みたいな返事をしながら新田が介助するとおりに紙袋を仕訳ける。伊地知はいじらしい小市民なので、こういった包装紙とかは取っておきたい性質だ。けれど、五条悟に絶対に見つからないところに隠せない限りは口惜しいが手放せ、と新田の声を聞きつけて集まった同僚たちの助言を受けて、泣く泣く処分することにした。
代わりに、円形に筆文字で書かれた文様のようなエンブレムの入った、何も書かれていないメッセージカードが入っていたので、それを大切に持っておくことにした。
「それ何スか? ここの店のカードじゃないでしょ」
「呪符だったらマズいですよ」
「術師が補助監督呪うか? そんなに暇じゃねえだろお互いに」
「いやぁ護符かもよ。仁賀保術師、俺らにもびっくりするくらい腰低いし丁寧にしてくれる」
「腰低いっていうか、あそこまで行くともう怯えに近くないか? 人質見てる気分になる」
「あそこってどこの派閥だっけ」
「五条派だよ。操霊術式の派生みたいな相伝持ちらしいよ、戦い方は癇癪起こしたヤクザ子飼いのゴロツキみたいだけど」
「ひでえ言いようだ」
同僚たちの噂話も右から左へ、伊地知は白紙のメッセージカードを、未だどぎまぎしたまま眺めた。ペールブルーの台紙はどこか雄大な自然を思わせる。「実家から土地が」みたいなこと言っていたし、緑の豊かな土地の出身なんだろうか。伊地知を中心に集まった同僚たちが伊地知をそっちのけで雑談に花を咲かせているのをいいことに、検索エンジンで雑に「にかほ」と調べた。
なるほど、秋田県の市であるらしい。秋田かあ、花火大会とか有名なんだっけ。今度の休みに足伸ばしてみようかなあ、そもそも休みがあるかなあ。どぎまぎを通り過ぎて夢心地の伊地知はすっかり空想旅行に出かけていて、伊地知を中心に集まった同僚たちがすっかり検索結果をのぞき込んでいるのに気づかなかった。
「……伊地知さん。伊地知さん?」
「はい? え? はい。何か?」
「いや、何か? じゃなくて」
「え何がですか? すみません何の話してました?」
「あー……先輩」
「俺え? あー、伊地知」
「はい」
「ゾッコンかよ」
「何がですか?」
「あー……」
「もうやめましょ。盲目って言うじゃないスか」
やってられるか、解散解散、と同僚たちが各々の席に散っていく。うっかり大事な話でも聞き落としていただろうか。おろおろする伊地知に、同僚たちは「お前はそのままでいろよ……」とほの温かいサムズアップで応える。
そういうことが聞きてえんじゃねえのであった。
メッセージカードは、身分証の裏に仕舞った。
▲
なんだか調子がいい。
調子がいいというか、なにかに脅かされることが減ったような気がする。五条悟以外は。
伊地知は呪術師ではないので、やれ〇級の祓除だのに駆り出されることはまずもってないが、それでも普段仕事をする場所が場所なので、最低限の自衛はできなければいけない。
いけないが。
最近、その必要がない。こまごまとした呪霊が襲い掛かってこない。寄ってこない。むしろ、こちらから行けば向こうが逃げていくような始末である。
どうしたことかしら。楽だからいいけど。
五条悟以外はもっぱら快適な暮らしを送っている。ご機嫌にもなろうというものだ。
だので、気まぐれに自販機に立ち寄ることにした。
「……あら」
「……あ」
そこで出会った。仁賀保アレンである。
仁賀保は、なにだか見覚えのある顔をしていた。実際に顔を見るのはこれで三度目でしかないのだが、なぜかすごく懐かしい気がした。どこで見たかはわからないが、ふと沸いた既視感。
「……お疲れ様です」
仁賀保は自販機の前で、財布を出すでもなく立っていた。恵体の前では、自販機も同じくらいに見える。なのに、向こう側が透けて見えるようだ。
仁賀保のぶ厚い前髪が、会釈をした拍子に傾いで両目を隠す。右目だけが出るマッシュヘアは黒々と輝いているが、なぜかその時の伊地知には、そう誂えられたものだと思った。妙に神経質なものを感じる。そうされていなければいけない、というような。
「あの! お、お時間ありますか」
呼び止めたい、と。そう思った。
仁賀保は陽炎みたいにゆら、と向き直る。普通に振り返るより時間がかかったのは、既に場を辞そうと踵を返しかけていたところを振り向かせたからだった。「はい」と耳鳴りみたいな返事をして、仁賀保は誤差みたいに微笑む。
さて、呼び止めたはいいが伊地知になにか予定や、仁賀保を誘うほどの大義名分があるわけでもない。何もない。
苦し紛れに、どもりながら、言った。
「あッの、えっと、よかっ、よければ。今休憩来たんですけど。ご一緒してくれませんか」
「……自分でよろしいんですか?」
「あなたがいいんです!」
言い切った!
言い切って、私なんてことを言ったんだと伊地知は顔を青くした。なんてこと言ったんだ。絶対活字で読みたくない。これじゃあまるで。
一人でダバダバと顔色をゲーミングにしている伊地知をよそに、仁賀保は誤差、をすこし超えたアハ体験みたいな笑みを浮かべて「拝命いたします」と言った。
結局なにをするでもなし、仁賀保は水を、伊地知はコーンポタージュ缶を買ってチマチマ飲みながら、ポツポツ話した。喋っているのは伊地知ばっかりで、仁賀保は「そうなんですね」「素晴らしいです」「知りませんでした」と相槌を打っているが、これが会話のさしすせそなことに伊地知はとっくに気づいていて、気まずさで吐きそうだった。
とは言ったって、仁賀保は何もしゃべってくれないので、間を持たせようとすると結局また伊地知ばっかりが喋ることになる。そろそろ残弾がマジでない。
ええいままよ、伊地知は仁賀保に話を振る。
「仁賀保術師は、お休みの日とかは何されてるんですか?」
「申し訳ありません、お答えできません。口外を禁じられておりまして」
「そ、そうですか……あ、いろはす、お好きなんですか?」
「いえ、そういうわけでは。指示のないものの飲食を禁じられております」
「……え、ええと、スーツ、よくお似合いですね。素敵です」
「ありがとうございます。担当者に伝えさせていただきます」
こんなに涙ぐましい会話があるだろうか。伊地知はそのうちAIと会話している気持ちになってきた。さもなきゃ血も涙もないお役所だ。自分たちの仕事も近しいことをやっているが、もう少し血の通った話をしている。
緊張で乾く口先を湿らすように飲んだせいで、コンポタ缶にはすっかりスープ部分がない。コンポタ缶は美味いが、けっこう勢いつけて飲まないとコーンが無限に底に残るので、伊地知は頭の中だけで「ミスでフルコンボだドン」と叫ぶ。やってらんなかった。こんなつもりじゃなかった。
すっかり土気色になった伊地知の横で、仁賀保は相変わらず凪いでいる。こっちが冷や汗ドバドバかいているさまに微笑みかけられて、「あ笑ってるから大丈夫だ」となれる感性は伊地知には既にない。焦りばかりが累積されていく。
「あ、……あの……すみません、呼び止めてしまって……。あの、私行きますね……お疲れ様です、すみませんでした……」
折れた。心が。もうMPがひとつも残っちゃいなかった。
伊地知はコーンがごろごろ残った缶を揺すりながら、萎れかけた草花みたいな素振りで立ち上がる。ふらふらしているさまを仁賀保は凪いだまま見ていて、ああこの人は無だ、と伊地知は思う。
「はい。お疲れ様です」
そう言われてしまっては、もう立ち去るしか残されちゃいないのだ。詫びに来た仁賀保と出会ったときのときめきやらドギマギもどこへやら、伊地知はすっかり打ちひしがれてその場を後にする。
「よければ、またお誘いください」
都合のいい幻聴まで聞こえる始末だった。
▲
「……あら」
「……あ」
本来五条がやるべき虎杖の書類仕事を全て押し付けられたので、高専に足を延ばしていた伊地知は、再び自販機の前で仁賀保とばったり会った。
仁賀保は相変わらずきれいだ。そうでなければいけない、と思うほどに。そうあらなければならない、と見る側が感じるほどに。
このきれいさを、やはり伊地知はどこかで見ている。それも、懐かしさを覚える領域で。
そしてこの懐かしさは、繰り返してはいけない予感があった。この感覚のあとには苦痛がある、そんな経験が、いつかは思い出せないが、確かにあった。
なんとか回避しなければいけない。その方法を、しかし伊地知はこれしか知らなかった。
「せ、先日はすみませんでした。よければご一緒していかれませんか」
「……はい。是非に」
仁賀保は、笑った。
伊地知は前回の轍を踏まないように缶コーヒーを買った。意外だったのは、仁賀保が悩みに悩んでコンポタ缶を買わなかったことだった。
「いいんですか? コンポタ。迷ってましたよね」
「申し訳ありません、興味が……美味しそうに飲まれていましたので。水でいいんです。すみません」
「いえ謝ることないですよ、なにに謝るっていうんですか」
「え、あ……もう癖なんだと思います。申し訳ございません」
「あ、ああー……わかります、なんかもう、パッと口をついて出ちゃうんですよね。とりあえずこれ、みたいな」
「わ……わかるんですか?」
「わかりますわかります、五条さんといるときなんか割増しでそうですよ。何言ったって揚げ足取るんですからあの人」
「ごッ、……揚げ足……」
「ええ。あの人ほんと、数少ない特級術師なのはわかりますけど、それにしたって他に仕事投げっぱなしなんですよ。システム変えられるだけの権力持ってるのに」
「ひ……」
「あの人のおかげでできてることも沢山あるとは思うんですけどね……。すみません、愚痴っぽくなってしまって」
「い…………」
「……仁賀保さん?」
「ぁ……はい……」
「……大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
大嘘だ。脂汗をかいて、目が泳いで、いろはすのボトルを握りこんだ手が震えて、やわらかいペットボトルがパキパキ鳴っている。これっぽっちも大丈夫にゃ見えねえ有り様である。
ここで伊地知は、初対面のときのことを思い出した。仮眠室の寸前で倒れ伏していた男である。まして呪術師は上層部に近づけば近づくほど、大義のためなら労基が黙っちゃいねえようなブラックな働き方に違和感を持たないクソ運営体質であるので、またあれほど疲労をため込んでいるのではなかろうか。こんなところで自分なんぞとくっちゃべっている場合ではないんではないか。
「……仁賀保さん、家入さんのところ行きますか? 体調よろしくないように見えますが」
だので。伊地知は、至ってシンプルな思考でそう問いかけた。具合が悪いなら保健室。小学生でもできる。
が、仁賀保はこれを強く拒んだ。
「いえ! いえ、結構です。申し訳ございません、それには及びません。大丈夫ですので。ご心配おかけして申し訳ございません。大丈夫です」
「あの、休憩だけでも。横になるだけでも」
「いいえ、いいえ、大丈夫です本当に。本当に大丈夫ですので、だいじょうぶです……!」
仁賀保はすっかり伊地知のほうを見ず、地面ばっかりを睨みつけて、必死になって立っているばかりだ。ペットボトルはすっかり手のひらの中でベコベコに握りつぶされて、中身も睨みつける先にぶちまけているのに、それにも気づいていないような必死さで。ただ立って、「大丈夫です」だけを繰り返す生き物になっている。
そうあれと教えられているように。躾けられているように。
……この人は。
きっとすこし大きな声で「医務室に行きなさい」と言えば、素直に聞くだろう。ちゃんと診察も受けるだろうし、休めと言われれば、休む仕草はするだろう。
けれどそれは、きっと、この人の本当に休める仕草ではないんだろう。
「……わかりました。少し待っててください」
伊地知はつとめて柔らかい声を出して、仁賀保に呼びかける。震えたままの仁賀保が、震えとも頷きともわからない仕草をしたのに「うん」と返事をして、自販機に向かい、戻る。
「どうぞ」
「は……」
差し出されたコンポタ缶を見て、仁賀保は心底わからない顔をしている。
「すみません、お気に障ること言ってしまいましたよね」
「そんな、とんでもない、おやめください……本当に大丈夫ですので」
「でも、仁賀保さんも嘘ついてますよね。とても大丈夫には見えません」
「……」
「なので、せめてもうちょっと、本当に大丈夫になるまで、休憩おかわりしませんか。さしあたっては、コーン飲み切るくらいまで」
優しいふりした罠である。
口ぶりから見るに、仁賀保は生まれてこのかたコンポタ缶を飲んだことがおそらく無い。つまり、コンポタ缶を粒一つ残さず飲み切ることがどれだけ難しいかの実感がない。缶コーヒーと同じぐらいの気兼ねなさで言えば、缶コーヒーくらいだろうと思って飲んでくれると思った。
この人を、帰してはいけないと。一人にしてはいけないと思った。この人が帰るべきところとしているところに帰しては、絶対にいけない。
自分の隣が正しいとも思わない。けれど、少なくともこの人が帰るべきだと思っているところは、この人が帰るべき場所じゃない。
いつか、この人が、自分の隣を選んでくれたら、そんな空想だけは許されたら。
この一時の下心くらいは、許されたら。
伊地知は、「どうですか?」と、さも純朴そうな顔を作って訊いた。こういうとき地味と言われる顔は、猫かぶりにバフがかかることは一切ないが攻撃性が増すこともないので助かる。仁賀保は浅い息を何度も吐いて、そうしているうちに「今どういう時間だっけ」みたいな顔をしてポカンと伊地知を眺めた。
「はい。まだ温かいですよ」
「は……はい、……いただきます」
おずおずと缶を受け取り、恐る恐る傾ける仁賀保を、伊地知もはらはらと見守る。
一口分を飲み下して、赤い舌が赤い唇を舐めて、ほう、と一息。
「……ふ。思っていたより、味が濃いんですね」
仁賀保は、誤差でもアハ体験でも蜃気楼でもなく。
はじめて、伊地知のまえで笑った。
笑った拍子に完璧に整えられていた前髪がすこしだけ崩れて、ああそのほうが可愛いと伊地知は思う。
仁賀保の左目はいつも完璧に整えられた前髪に覆われていて、右目と同じ色なのか、もしかして違うのか、そこにあるのかすらわからない。
いつか教えてくれたら、見せてくれたらいいと思う。
今のように笑ってくれるなら、一生教えてくれなくてもいい。
▼
それから何度かばったり会うのを繰り返すうちに、二人は「伊地知さん」「仁賀保さん」と呼び合う仲になり、時折自販機の前でチョコとかグミとかを食べながら少し喋る仲になった。
あれ以来伊地知は、仁賀保に愚痴と五条の話題を一切振らないようにつとめている。なんたって「何も大丈夫じゃねえ」と思うに十二分に足りる素振りを見せられたのだ。うっすらトラウマすらある。自分も「五条悟」と書いて「ストレス」と読む人間だが、おそらく仁賀保は「五条悟」と書いて「トラウマ」と読む手合いだ。
何されたらあんなことになるんだろう。
伊地知は上司のことが一層嫌いになりながら、しかし他の補助監督からも泣きつかれるので扱いだけは一層うまくなりながら、仁賀保と食べる菓子のことを考えていた。最初のうちは「大したものしか売ってない店」の菓子を仁賀保が持ってくるので、「すいませんマジ勘弁してください、菓子はこっちで用意しますので、飲み物ご馳走してください」と頼み込んで、今は伊地知がコンビニ菓子担当、仁賀保が飲み物担当になった。
今度は何忍ばせておこう。忍ばせるからには、常温でもつものが好ましい。セブンイレブンのガトーショコラ、あれはものすごく美味いが冷やして食べる方が好きだし、忍ばせようものなら個包装の中でぐっちゃぐちゃになる柔らかさだ。コンビニスイーツならやはりフィナンシェしか勝たん。
伊地知は傍目に見れば事務仕事をしていた。これができたら一度高専に立ち寄らなければならず、そこで教鞭をとっているはずの五条をピックして任務に向かう。高専に五条を迎えに行くまでにまだ時間はあるが、仁賀保と鉢合わせるのはなぜか高専の自販機が多かった。ので、早めに行って待ってれば、もしかしたら会えるかも、と下心を燃料に猛然と手を動かす。ここ最近の伊地知の調子の良さ(メンタル、事務仕事、呪霊が寄り付かない等)を羨む同僚たちからは、時折「ご利益……」の呻きとともにちょっとした茶菓子なんかをもらう機会も増えたので、完成したデータをサーバーにぶちこんで、カバンと茶菓子を携え、揚々と事務室を出ようと隣の同僚に声をかけ。
「お前! お前だろう、犬姫をどこへやった」
ようとした。
中年の術師は暑くもないのに汗をダラダラかいてフウフウ言いながら、事務室の扉を大げさに開いてギャンギャンやった。曰く、「犬姫はどこだ」「お前が犬姫を隠したんだ」「どうしてくれる、だれが責任を取るんだ」「五条が黙ってないぞ」と。
呪術の才を伸ばすために人間性を失った術師も少なくない業界で、そのサポートを生業とする補助監督たちの連係プレーはすさまじく、全員がとりあえず立って「落ち着いてください」と言った。伊地知だけがウキウキを中途半端に邪魔された気持ちのまま茶菓子を持って立っている。
「佐竹さん、落ち着いてください」
「落ち着いていられるか! お前だぞ、よくもやってくれたな!」
「申し訳ございません、確認させていただきますので詳しく伺ってもよろしいでしょうか?」
「お前が犬姫を隠したんだろうって言ってるんだ! どうしてくれる。五条が黙ってない」
「犬姫、というのは?」
「犬姫は犬姫だ。他に呼び名などない! 必要ない」
「恐れ入ります、登録名を犬姫にされている方がおりませんので、本名などおわかりでしたら」
「知るか、犬姫に本名などあるものか! あれは犬だ、犬で十分なんだ」
暖簾に腕押しである。中年の術師がヒステリックに叫ぶ間に、同僚のひとりが「いまのうちに一旦逃げたほうがよさそうです、壁作っとくんで」と伊地知に耳打ちする。埋め合わせはマルメンのカートンでいいので、と遠慮がちに微笑むが、一個でも下手な本が買える値段のタバコが10個束になったものがカートンだ。それなりの出費である。それでも、中年の術師の剣幕に伊地知は「これから逃げおおせてカートンなら安い」と同僚と短く握手をする。
こっそり事務室を出てもその剣幕はまだ聞こえてきて、さっきまでのウキウキもどこへやら。伊地知はすっかり何もかもがイヤんなっちまって歩く。なんだってんだろう本当。勘弁してほしいマジで。
佐竹といえば、呪術界ではわりと古くから続く袚魔の家系であった。清和源氏の末裔だろうに、先祖に佐竹義重がいるだろうにあんな行動が許されるんだから血筋はどこでどう変わるかわからんもんだし、呪術界は本当にクローズドでブラックなんだなあと思う。あれはきっと公に出ないからできることなんだろう。この世界は高貴であればあるほどノブレスオブリージュとは無縁になる。
思っていたより足止めを食らってしまった。伊地知は胸の内だけでへそを曲げ、足早に呪術高専への道を急いだ。仁賀保に会えたらそれで帳消しでいい。
「あ、伊地知〜。遅かったじゃん」
お前が早いんじゃい。こんな日に限って。
高専へ踏み込んですぐ、伊地知を呼び止めたのは普段どれだけ急かしても動きやしないくせに、今日ばっかりはさっさと来やがった五条悟である。クソ……と思った感情がすべて顔に出た。
「何? ホンソメワケベラみたいな顔して」
「どんな顔ですか。いえ、少し……」
五条の耳に入れることではないだろうしな。そう思って、適当に話を畳もうと思った。
が、あの中年の術師は繰り返し「五条が黙ってない」と言った。その「五条」は、この「五条」なんだろうか?
「……あの。さっき事務室にですね」
「ふん」
「佐竹術師が来て、犬姫はどこだ、お前が隠した、五条が黙ってないって大騒ぎだったんですよ。何か知ってます?」
言い終わる前に五条はいっそ見たものがその顔をしたくなるほど顔を歪めた。目隠しをしていてこれなので、素面で見たらさぞ苦しいだろうと思う。
同時に、中年の術師が言う「五条」はこの「五条」であったことがわかる。あとわからないのは、「犬姫」と「どこへ隠した」だ。
「あの、五条さん。犬姫って」
「それ絶対に僕以外の人間がいる所で口に出すなよ」
絶対に。
その口調があまりに冷たくて、伊地知はキョト、と固まってしまった。
一人称こそかろうじて「僕」を使ったが、その声音や話し方ときたら、学生時代のようだったのだ。
豆鉄砲を食らっている間に、五条は伊地知の手から荷物類をさっさと奪い上げてしまった。豆キャノンの追撃が来たことで一層思考回路が遅延しているは伊地知に、五条は不機嫌そうに言う。
「行けよ。行くとこあんでしょ。ただし十分な。いるから、たぶん」
「え? は?」
「は? じゃねんだって。行けよ」
「いや……」
「マジビンタ」
「ひえ……」
これだからこの上司が嫌いだ。
そこまで言うなら、十分だろうとあなたの顔を見ないでいいなら、言うとおり行ってきてやるポポ。伊地知は釈然が頭の辞書から落丁したまま、言われた通り自販機へ向かうことにした。やってらんないっポね。
そんなことを考えていた数分前の自分を、伊地知は五条よりも先に死ぬまでマジビンタしてやりたいと思った。
仁賀保は自販機の前で伊地知を待っていた。
ただしくは、凪になって置かれていた。
「……に、仁賀保さん? 大丈夫ですか?」
日頃からしずかなそよ風みたいな人ではあった。が、これはもうなんか色々なことが規格外だ。鉛筆の芯で作った彫刻とか、針を組み立てた模型とか、そういう次元だ。
声をかけるのも正直怖かった。振り向いた拍子に崩れて壊れても納得するぐらい、危うい。
「……、はい」
仁賀保は、振り向かないまま微笑んで答えた。その声だって、時と場合によっては幻聴に迷いなく区分するくらいか細い。
「どうされましたか? お辛いようでしたら休んでくださって良かったんですよ」
「いえ、お会いしたかったので」
「でも」
この仁賀保を見て、自分が優先される道理が伊地知には全くわからない。あまりにおかしい。
伊地知が仁賀保の肩に触れると、仁賀保は焦って、しかし辿々しく伊地知の腕を伝う。伊地知の肘を掴んで恐々と立つ様子は、明らかに噛み合わない目線は、まさか。
「目が見えてないんですか」
「いえ、お会いしたかったので」
「答えになってません仁賀保さん、答えてください。今、目見えてないですよね」
「ご心配には及びません」
「……ンン……!」
暖簾に腕押し、本日二度目だ。このここ一番での芯の強さはどこから来るんだ。伊地知は仁賀保の肩をそれぞれ両手で包み直して、子供に言い聞かせるようにして言う。すっかり見上げているのが傍目には多少無様だったが、ここには他に誰もいなかった。
「仁賀保さん。自分の顔、見えますか」
「見えます」
「どんな顔をしてるかわかりますか」
「……笑顔でいてくださってるかと」
そらただの願いだろうが!
伊地知はぐっと我慢した。立派な社会人であるので。
間違いなく見えていない。家入さんのところに行けと大声を出せば、仁賀保は従う。前にもこんなことを思った。
そう考えて、はた、と伊地知の心臓以外のすべてが止まる。
犬姫をどこにやった。あれに他の呼び名などあるものか。五条が黙ってない。僕以外の人間がいる場所で口に出すなよ。
「仁賀保さん」
それ以外の何も言えなかった。何も言えなくなっている伊地知のなかで、様々なピースが最悪の形で組み合わさろうとしている。
嫌だ、このピースがこれと繋がるのは嫌だ。仁賀保の肩を掴む手に力が入る。音が鳴るほどに掴まれていても、仁賀保は微笑んでいる。
伊地知と目線は交差しないまま。
「……はい。ここにおります」
そう言って、仁賀保は微笑む。
あれだけ繊細なさまでありながら、これだけ不安定なさまでありながら、今微笑む仁賀保の顔は、そうあれかしと誂えられた人形のようだった。そうでなければいけないような。
仁賀保、と呼ぶだけで、なぜ笑うのか。伊地知の中で、最悪のピースが噛み合う。
「伊地知。十分」
最悪のアラームだ。背後からかかった声に振り向けば、不機嫌をひとつも隠さない五条が立っている。
この人がわざわざ? ここまで? 時間を知らせに? なぜ? 伊地知の頭に疑問符が満ちる。
むちゃくちゃになっている頭に、ゴチ、と何かが当たった。
「った……?」
「……」
目の前に立っていた仁賀保が、かっちりと腰を折って頭を下げている。おそらく視力を喪失しているままに頭を下げたので、伊地知との距離感を誤って頭突きした格好になっていた。
「伊地知行くよ」
「待ってください、なんでです? おかしいこんなこと、説明してください」
「伊地知」
「仁賀保さんもなんとか言ってください。自分にわかるように」
「……」
「なんで何も言ってくれないんですか、五条さん、佐竹術師が言ってたのは」
「お前!!」
仁賀保と五条の間で説明を求めていた伊地知に、ではなく、ただ頭を下げて佇む仁賀保に。五条は大声で呼びかけた。
「硝子んとこ行け」
「かしこまりました」
それまで伊地知がどれだけ呼びかけても応えなかった仁賀保は、はっきりと返事をして踵を返した。プログラミングされた機械のような素振りで自販機前を後にする。
ぱか、と口を開けたまま、伊地知はほんとうに何も言えなくなっていた。
「伊地知。時間」
恵体に首根っこを引っ掴まれて引きずられても、運転席に押し込められても何も言葉が出てこなかった。
黙ったまま運転して、黙って五条の任務の終わりを待つ。戻った五条を乗せて帰る。
そのさなか、ハンドルを握る自分の手が五条より、仁賀保より小さいことに気づいて、腹が立って仕方なかった。
▼
それから数日、五条は意外にも伊地知に車の用意をさせなかった。伝達や事務まわりの仕事はあるものの、移動時間として拘束される業務がパッタリとなくなった。
ので、伊地知は自販機の前にいる。
隙を見てはここに来て、仁賀保を待っている。
日が差す向きが来た時とすっかり変わったのを認めて、伊地知は事務所へ戻った。今日も仁賀保は来なかった。
「伊地知さん、休んでますか?」
「休んでますよ。五条さんから来る仕事が減ってますから」
「そらそうなんでしょうけど……寝てますか?」
「寝てますよ。短時間で質のいい睡眠取るの、特技なんです」
「そらここの全員がそうだよ。食ってるか?」
「前よりはよっぽど健康にちゃんと3食……なんですか? 職務倫理違反とかしましたか自分」
「だめだ! 自覚がねえと来た」
ある日の事務所で、伊地知は同僚たちにあれこれ詰められ、「そう言われましても」と頭を抱える。
だってマジで何もないのだ。体調に関しては。仕事は減ったし、飯はうまいし、相変わらず呪霊も寄ってこない。いいこと尽くしだ。
気苦労、というか、心労はある。
あれから一度も仁賀保と会ってない。
お互い連絡先の交換なぞはしていなかったし、時折運良く出くわしてそのままちょっとコーヒーブレイクをしていただけの仲だ。ただ、伊地知はいち小市民であるので、コーヒーブレイクする仲を「その程度」で済ませてハイ次、とはできなかった。
嫌な予感のピースはすっかり組み上がってデカいパーツになり、心臓の上のあたりで今日も重さを主張している。胸が重い。息がしづらい。気が重い。
「伊地知、そろそろ家入さんに診てもらえよ。マジで顔がヤバいよ」
「そんなにですか」
「なんか南極探査してきた人みたいだ」
「どんな例え……」
「そんくらい顔がカスってこと」
「素直に貶されましたか今、拝まれてもご利益分けられなかったからってこの仕打ちなんですか?」
「違えし、その件は悪かったって! これからもちゃんと土産買ってくるから。とにかく一回診察でもカウンセリングでも精神鑑定でも受けろ、その顔のやつと働かされるこっちの身にもなってくれ」
同僚は「お前は健康でいてくれ」と拝み倒す素振りをする。随分な言われようだが、その拝み方がガチだった。仲間が死にそうな顔をしているのは自分も嫌だし、かつて死にそうな顔をしていた先輩がトんでえらい目にあったこともある。伊地知は同僚の暴言を今は素直に諫言と受け止め、家入に診察を頼んだ。
空いていると言われた日時に、ただ診察室を訪れただけだ。それだけのことを伊地知は今後一生後悔するし、一生感謝することになる。
「……何してるんですか?」
「急患が入ってる。検死と復元だ。正確にはまだ死んじゃいないが」
家入はタバコをふかしていなかった。
ざんばらな髪をきっちり纏めて、全身青緑のよく想像する手術着みたいなものを着て、ぴっちりとゴム手袋をはめて。
仁賀保の肉片でパズルをしている。
空いた胸腔のなかで、心臓が拍動しているのが見える。反転術式をかけながら太い血管を元に戻したいらしい家入が乱雑に手を突っ込んでも、仁賀保は微動だにしない。
ぐらっ、と歪んだ気がしたのは、果たして実際に伊地知の視界だったのか、なにか観念のようなものだったのか、本人にわからなければ余人の知りようもない。伊地知は硬い床に情けなく尻餅をつく。
五条が黙ってない。犬姫をどこへ隠した。仁賀保アレンの名を知らない呪術師は少ない。それ僕以外の人間がいるところで絶対言うなよ。目が見えないんですか。仁賀保術師の術式ってなんだっけ。操霊術式の派生みたいな。
はいめいいたします。たんとうしゃにつたえさせていただきます。こうがいをきんじられております。
最悪のピースと最悪のパーツが、ついに噛み合う。
「仁賀保さんは夏油さんと関係ないでしょう!?」
「私に言われても困る」
「硝子に言っても何にもならないよ」
クソ最悪。今一番聴きたくない声だった。
へたり込んだまま声を荒げた伊地知の後ろに、すらりと五条悟が立っている。面倒くさそうに鼻根を擦ってため息をついている。
なんだそのツラ。全部知っててあの日行かせたのか。バレたみたいな顔するな。目隠しのせいでろくに見えやしないが。
ありとあらゆる問いかけと罵詈雑言が伊地知のうちで湧いては、言葉になる前に焼け焦げて消える。どうにかなりそうだった。
「僕が言ってもやめないんだもん」
「あなた最強なんじゃないんですか」
「あのさあ、お前仁賀保アレンのことどこまで知ってんの。どこまで知ってて言ってんの?」
五条もイラついている。言われて、伊地知は「仁賀保アレン」のことをほとんど知らないことに気づいた。
操霊術式の派生みたいな相伝の術式を使う、戦い方がキレたゴロツキみたいな、目を合わせると難癖つけてくる術師、としか。これもすべて人から聞いたことだった。
伊地知が知る仁賀保は、陽炎みたいな、一瞬しか見えない儚さのある人、コンポタ缶を完飲できない人。おやつ選ぶのが下手で、結構よく笑う人。おかきや煎餅よりかは甘いものが好き。それだけだった。
「アレンは生まれから術式からクソ厄介でね、仁賀保の当主が外人パブの女に孕ませた相伝持ちだよ。操霊術式に区分できる零細土着術式があるってんで、傑攻略の手がかりがないかって上層部のエンタメにミンチにされてんのさ」
「仁賀保の家でどんな目にあってるかはお前もそろそろわかるでしょ」
「僕がいくら傑とこいつの術式は関連がないったって、仁賀保のジジイどもがやめないんだ」
「あいつらが怖がってんのは五条じゃないんだよ、手前のメンツに傷がつくのが怖いのさ。アレンにおんぶに抱っこしてるくせに」
聞いてもないことを、聞きたくもないことを五条はぽつぽつ語る。伊地知にそれらを聞く余裕なんか一つもなかったのでほとんど聞いていなかった。家入も変わらず忙しそうにしている。誰も聞いてないからこそ、五条ももう限界だから言ってる、みたいな空間になっている。
鉗子が置かれる音を最後に、処置室から一切の音が消えた。
安いライターがつく音。香ってきたのはいつものセブンスターではなく、ガラムだった。家入は疲れ切った顔でガラムを含み、口元でクローブがバチバチ燃えるのをしばし見てから、すぐに床に打ち捨てた。ゲロ甘いエスニックな線香を焚いているみたいだった。
「……アロマ感覚でガラム燃やすなよ」
「お前がここで一番甘党だろ」
口腔で濃い煙を燻らせたまま家入が答えたが、すぐに細長く吐き出す。仁賀保のなまっちろい顔にうっすら煙がかかって見える光景が、その時唯一伊地知が感情を思い起こした景色だった。
漠然と、でも泣きそうなぐらいマジでめちゃくちゃ嫌だった。
「私は疲れた。お前の感傷に付き合うのも、上層部の娯楽のケツ拭うのも、知らん土地の知らん家のお家騒動に巻き込まれるのも」
「……ごめんて」
「なんとかしろ」
「なんとかできたらやってんだろ」
「もういい。今日は解散」
家入が髪留めの類いをバサバサ取り払って処置室を出る。五条も言いたいことをありったけ口に含んだまま、少ない歩数で去った。
残された伊地知は、やっと生まれたての偶蹄類みたいな挙動で立つ。横たえられた仁賀保の顔を見る。
いつも顔の半分を覆っている重たい前髪が退けられて、その日初めて伊地知は仁賀保の顔をちゃんと見た。
左目が、あるのかないのかわからない。顔の左半分は腫れて膿んで爛れて、他はきちんと治療を施されたろうに手付かずのままだ。たぶんそういう契約なのだ。
伊地知は以前見た遺体を思い出す。虐待死した子どもを媒介にした呪術の後片付けで見た顔は、ぜんぶ左側が特に損壊していた。右利きの人間が向かい合って殴るからだ。
視界が狭いなと思うたびに、どうしてこうなのかを思い出すためにわざと治していないのだ。治さないよう依頼をされているのだ。
あんまりつらすぎると、人は涙も出てこない。伊地知は三時間後に様子を見にきた家入に「帰れ」と言われてようやく帰り、一週間仕事を休み、二日目にやっと泣いた。
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先輩が呪詛師として離反しても、ましてテロを起こしても。それ以外にもアホほど辛いこと尽くしでも仕事を休んだことだけはなかった伊地知が、突如一週間休んだ。
この知らせは補助監督たちを震撼させ、なんなら道連れ的に体調不良者を生んで事務局を殺しかけた。
あの伊地知がオチたら俺たちもう終わりだ、クリスマスを過ぎたアウシュヴィッツのような事務局で新田明はポッキーをサクサク食べている。なんたって仕事が多い。やる人間がいないからだ。
「あーーー…………」
返事はない。新田はいま事務局にひとりだった。軒並みオチた。「自分なんかが」とさんざ自分を卑下する伊地知だが、お前がいないとこうなるというのを見てもらいたい。同期の何人かはすでにメールで知らせたらしい。返事はなかった。
「なーーーにが悲しくてこんなタスクを……ひとりで……いやヤメっス……インフルの時よりひどいな……」
限界環境が来ると人間は意外と「じゃあ倒れるまでやるか、労災出るだろうし」と無茶をして、結果壊れるものである。新田明の無茶スイッチが入った。終わりの始まりだ。
ポッキーを食べ切って、キーボードに向かう。
「すみません、事務局長いますか?」
「んぁー事務局長は胃腸炎ッス……」
反射で応えて、答えながらその声音を分析して、言い終わる頃に新田は爆速で振り向いた。
事務所の入り口に、すこし痩けた伊地知が立っている。
「伊地知さん! 大丈夫スか? 理由ぐらい教えてください、ヤ嘘つらかったら言わなくていいッス」
「皆さん帯同ですか?」
「伊地知さんがオチたって聞いてみんな糸が切れたッス」
「ああ……申し訳ないことを……」
椅子を蹴り倒して駆け寄る新田に、伊地知は素直に申し訳なさそうな顔をする。が、新田明は勘が鋭く、またこの状況で崩れていない豪傑であった。
気づく。これは復帰しにきた顔じゃない。
「いえいいんスよ、お元気ならよかったッス。事務局長は胃腸炎で死んでるスけど、なんかご用でした?」
新田が訊くと、伊地知は少し悩んだ。悩むってことは、たぶんもっと迷惑かけるとか思うようなことを局長に頼みに来たんだ。新田は無茶スイッチをもう一度入れ直す気持ちで返事を待つ。
伊地知は迷って、しかし覚悟の方が固かった。いくつか書類の入ったクリアファイルを新田に差し出す。
「あー……と、最後にちょっと聞きたいんですけど」
「はい」
「人を盗むって犯罪ですかね?」
「は?」
人を盗むのは犯罪か。
伊地知はそう言った。
犯罪か否かと言われれば、犯罪だ。ただ、おそらくこれは比喩だろうと思う。盗みたいほど好きな人でもできたか、はたまた。新田は唸って、しかし疲れていた。脳死でケロッと答える。
「自分らいつ死ぬかわかんないッスし、やりたかったら何でも挑戦してみるほうがいいと思うッスよ」
「じゃあこれ、事務局長に渡しておいてもらえますか。辞表じゃないですけど、ちょっとご迷惑おかけします」
「……中身聞いてもいいッスか?」
「休職の申請書です」
「分厚くないッスか」
「自分と、仁賀保さんの分です。局長から人事に渡してください」
「……仁賀保術師の?!」
人がいない事務所はよく音が響く。
伊地知は自身と仁賀保の休職に必要な書類を提出しにきた。
伊地知は、仁賀保を盗む気なのだ。新田明はそう思った。
何をしようとしてるかは知らないし、別に知ろうとも思わない。むしろ、あの仁賀保の危うさも伊地知ならなんとかできる気がする。仁賀保アレン、事情知らないけどなんかあんまりに可哀想すぎて帯同任務は気が重い、と補助監督が口を揃える男である。あれをなんとかしてもらえるなら、もう何踏ん張りでもやろうってな話だ。
新田は分厚いクリアファイルを両手で受け取った。実際そうだが、相当な重要書類を扱う手つきで、しかし小脇に抱えて笑った。
「どっか行かれるんスか? 休んでる間」
「まぁ色々逃げ回ろうと思います。公文書が理解できない人がいますから」
「ああ……五条さん……」
「なのでまぁ。気の向くまま、状況に応じて、の予定です」
新田はそっかぁ〜、と言いながら少し上を見る。石膏ボードの天井がのっぺり蛍光灯を跳ね返している。
似合うだろうなぁ。伊地知さんと仁賀保術師が、お天気のいい日に太陽浴びてるの。
そんなことを考えて、お土産楽しみにしてます、と笑う。
「はい。すこしご不便をおかけしますが、お土産、楽しみにしててください」
伊地知も笑った。
これを言って帰ってこなかった元同僚は大勢いたが、なんとなく伊地知はちゃんと帰ってくんだろうなと思った。
逃避行へつづく
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