「伊地知いないの?」
「はい。三ヶ月の休職とのことで、しばらくは自分が」
新田明はこっそり冷や汗をかきながら答える。眼前で問いを投げかけたのは、いつぞや先輩が「公文書が読めない」と評した男であるからだ。
五条悟は鼻から深くため息をついて、頭をポリポリやる。本気で予想外のことをされて困ったようにも見えた。
「どこいんの?」
「さあ……」
「あソ。別に良いや」
五条は案外すんなり踵を返した。ホッと息をつくのも束の間、新田は慌てて五条を呼び止める。この後の任務の足として自分が来たのだ。任務地じゃないところへホイホイ行かれては困る。
「どこ行くんスか!? これから任務なんスけど!」
「え事務局」
「なんで!?」
「申請書見さしてもらおうと思ってさ」
「ハァッ!?」
マジで冗談じゃない。新田は日本呪術界の至宝に向けるに相応しくない怒声をあげた。
だって休職の原因はほぼお前なのだ。お前がこれ以上好き勝手やるとマジで事務局が終わるのだ。補助監督ブレイカーめ。心血がなめこでできているに違いない。味噌汁にして食ってやろうか。いや伊地知さんに振る舞ってやる。
自分でも思ってることの意味がわからないが、新田は現在限界地獄デスマーチの真っ只中に五条の仕事をブチこまれた限界人間である。誰も突っ込まない。突っ込むくらいなら憐れむ。
「出汁はちゃんと取ってるんでしょうね!?」
「は?」
「認めないッスよしいたけ出汁は! せめて顆粒でいいからカツオ出汁にしてください! 後生スから!」
なんとかして五条を止めたい新田の言語野はもう限界だ。味噌汁の出汁は味の素の顆粒出汁であれと叫んでいる。言語野以外も大概限界だ。
五条は新田をてきとうにあしらって事務局を後にした。背後からはいまも「絶対イヤっすからね、しいたけ出汁はぁ〜!」とかなんとか悲鳴が聞こえている。なんだってんだろうマジで。美味いじゃんかよ。
さて、五条はこれにて便利な私偵を失ったと同義と言えた。御三家の人間を動かして調べるには手間がかかり、逆に伊地知に御三家の特権を付与してしまえば罷り通った無法が一切通用しなくなる。それも三ヶ月もの間。
随分面倒なことになった。が、その実この状況はある種五条が望んでいたこととも言える。
不便を忌み嫌う五条が、伊地知の休職を喜ぶ理由を、今はまだ誰も知らなかった。
長い廊下を長い足で歩けば、目的地は案外さっさと見えてくる。医務室が見えたあたりで、五条は無下限をゆるめた。
余人にはできない挙動であった。
▼
仁賀保の体温はいつも低い。冷えないように毛布や膝掛けで巻きすくめても、ひどい時は歯の根をかちかち鳴らす始末である。凍える仁賀保に白湯を与えてやり、伊地知は日当たりの悪い荒屋でまた一体粗末な呪霊をかんたんに祓った。
休職中は、望まざる客が来ない限りはここに逗留すると決めた。片田舎の粗末な一軒家である。なんでも人死にが相次ぎまくるので管理会社も匙を投げた物件で、驚くほど格安になっていた。実態は階級もつかないような呪霊がいくつか巣食っていただけであった。
これだけ安いと買い手も怪しむところを、伊地知は「なんなら掃除もこちらでしますよ」と借家として住むことにした。過去何人もが頓死していたため、適当な家財道具も揃っていた。ノウハウがあればこんなにありがたい物件もない。問題は日当たりに難があることと、一般は事故物件に対するノウハウが普及していない点である。
略式で供養を終え仁賀保のもとに戻ると、仁賀保は白湯の入ったマグを包んだまま動いていなかった。歩み寄ると床がギィギィ鳴る。伊地知はまだ仁賀保の祓除を見たことがなかったが、この家でキレたゴロツキみたいな戦い方をされたら一発で終わりだろうと思う。
「仁賀保さん。白湯飲んでください。あったまりますよ」
「……」
「夕飯は何にしましょうか。何なら食べられそうですか?」
「……」
「寒いですし湯豆腐にでもしましょうか。ポン酢派ですか? 私ゴマだれ派なんですけど」
「申し訳ございません」
「どうして?」
「……た」
「はい」
「食べたことが、なくて」
「じゃあ今晩は湯豆腐にしましょう。美味しいですよ」
ニコ、と笑えば、仁賀保は床板ばかりを見ていた目線を伊地知の腹ぐらいまでなんとか上げた。人の顔を見るのはまだ怖いらしい。それでもいい。視線が自分に向いていれば十分だった。これでも進歩した。
さて、夕飯は湯豆腐に決まったが、材料がない。仁賀保はまだ買い出しに連れ立っていける状態でないので、伊地知はまず頭の中のシソーラスを探る。
「仁賀保さんは、えー……待ってたほうが楽ですか?」
「……」
「悩みますよね。私といますか? 人がいないほうが良いですか?」
「ひ。人……が、いない……ほう……」
「わかりました、ありがとうございます教えてくれて。じゃあ私が買い出しに行きますが、すみません、このあと大家さんが訪ねてくるかもしれないです」
「……」
「怖いですよね。でも私が話をしなきゃなので、仁賀保さんは「契約者本人が不在です」って言ってくだされば、会わなくて大丈夫ですから。お願いできますか?」
「契約者本人が不在です」
「はい。「後ほど伺わせていただければ、と言ってました」と付け加えていただけますか?」
「後ほど伺わせていただければ、と言ってました。よろしくお願いします」
「サイコー完璧です」
床板に膝をついて、仁賀保の低い視線にゆっくり入り込んだ伊地知は、やわらかく笑う。
「コーンスープも買って帰りますから。すみません、お願いしますね」
「……こちらこそ、すみません。お願いします」
「いいんです。私がやりたいからですよ」
仁賀保のマグに湯を足してやり、伊地知は仮宿を出る。呪力の痕跡はことさら丁寧に消し、鍵も2種類かける。上から呪詛避けもかけて、後ろ髪を引かれながら最寄りの小さなスーパーへ急いだ。
そんな日がしばらく続いた。
仁賀保は時折伊地知の買い出しについて来たが、人の顔を見るなり白い顔を真っ青にしている。それでもファミリーカートに乗せられた子供が手を振れば、おっかなびっくり振り返せる程度には人に慣れた。親から会釈が来るともうダメだが。
仁賀保の身体は案外細くならない。豊かに積み上げられた筋肉は意外にもふわふわのままで、風呂上がりなぞに撫でてみても「変わったな」と感じることのない恵体だ。
変わったなと思うことはないが、あの美しいスリーピースの下にこれが隠されていたのか、と思い知ったものはある。
呪印の刺青である。
仁賀保の血統が継ぐ術式は、曰く調伏した呪霊の行動を縛るものであるそうだ。二百年くらい前に現在のにかほ市にいた地元の名士が疱瘡神をボコボコにして「二度と来ません、仁賀保の系類には手を出しません」と誓わせた逸話に端を発する術式であるらしい。
仁賀保の体に刻まれた刺青は、今まで調伏した呪霊の契約書であるらしい。以前もう書けるところがないからクラウド化したいと言ったら酷い目に遭った、と本人は笑うが、その笑い方がマジで洒落になってなかった。マジで酷い目に遭わされたのだろなと伊地知は下唇をちょっと吸ったのも記憶に新しい。
真っ白い体にびっしりと這う刺青は、当人の命を吸って赤々としているようだった。これが今日まで仁賀保の命を繋いできたものだと思う反面、これが今日まで仁賀保を苦しめてきたものだとも思う。
なんとなくちょっと嫌な気分になったまま、まじまじと刺青を眺めてしまった。そのことにも気づいていない伊地知の目線に、すっかりポリッシュの塗られなくなった楕円の爪が見える。
すっかりポリッシュを塗らなくなったのに、仁賀保の爪は赤い。爪の中まで墨が入れられているのだ。
「あ、すみません。じろじろと」
「……これは、県北での任務で調伏した呪霊の墨です。使い勝手がよくて重宝しました」
「……」
「すみません、差し出がましいことを」
「いえ。いえ! 嬉しいです。あなたのことを教えてもらえるのが」
「……伊地知さんに、私のことを。知ってもらえるのは……私も、嬉しい、です」
「一緒ですね」
「私があなたのことを知りたいと、思うのも」
「嬉しいです、知ってもらえれば。知りたいことありますか?」
「……伊地知、さんは」
「はい」
「好きな食べ物、とかは、さしつかえなければ」
心底言い慣れないふうに、舌をもつれさせながら仁賀保は訊く。
「うどん好きなんです。明日の夕飯うどんにしていいですか?」
「はい」
仁賀保は綻ぶように笑った。
今日まで随分長かったような気がする。伊地知は温がいいか冷がいいかを訊いて、明日の買い物の算段を立てながら寝支度をした。
⚪︎
伊地知ィ!
五条悟は叫んだ。ここにいないのも呼んでも来ないのも承知の上だ。それでも叫びたかった。何もかもがダルすぎる。
高専の医務室は、寄らば斬る、と読めるほど殺気に満ち満ちている。ダル絡みされている家入が、空気を歪めるほどの殺気を放っている。五条はさっぱり気にする素振りもなくダル絡みを続けるので、その切れ味は増すばかりだ。そろそろ死神のカマとて刃先が消える。
「遅いんだそもそもお前が動き出すのが! こうなるまでに何度私があれをやらされたと思ってる! 面倒なものを見つけてきやがって、新学期までにはけりをつけろ。ついてもつかなくても私はもうお前に協力しない」
「ここにボウモア12年と白州15年と国稀があるのに?」
「厚かましいにも程がある」
「仕方ない……地中海の島ごとラムでも買うか……」
「馬鹿野郎が……」
家入はぐったりうつ伏せた。小さな有人島くらいならうっかり買えてしまうのが御三家が一角五条である。ほんとヤんなる。
しかし、こればかりは五条もちゃんとダメージを受けていた。動き出すのがほんとに遅すぎた。こうなるまで動こうと思えなかった、の意でもある。
仁賀保アレンは、ただの哀れな若者だ。システムに轢き潰され、上層の慰みものであり、ただその遊ばれ方が五条の堪忍袋をブッ壊した。
「傑は僕が殺したっつーのにさ」
昨年の暮れ、五条は過去にひとつ整理をつけた。呪詛師夏油傑を、輝かしかったあの頃を殺した。
他でもない五条が殺したというのに、「夏油の再来に備えて」なんて理由で、別に系統が近くもない術式を持っているだけの虐待サバイバーを切り刻まれちゃ腹に据えかねた。二度と現れるはずがない。自分が殺したから。殺さなければいけなかったから。
事態の発覚からしばらく経っている。夏油の死からはさらにもう少し経っている。これだけ時間がかかったのは、他ならぬ五条の傷がまだ塞がっていなかったからだった。
「だからメンケアちゃんと受けろと言ったろ。それをダルいウザいいらないとゴチャゴチャごねて結局それか」
「正論パンチには無下限が効かないんでー、ほどほどにしちゃもらえませんかねー」
「じゃあ伊地知を召喚してダル絡みをやめろ」
「無理だよ〜アレンは伊地知にしか助けられない」
「わかってるならやめろ」
「無理だよ〜ダルいも〜ん」
「なら諦めろ」
「無理だよ〜……」
五条悟に仁賀保アレンは救えない。いくら国の宝たる術師とて、むしろ五条だからこそ救えない。彼がああなる原因のほぼおおよそが旧い呪術の体制によるもので、五条はその頂きを担う。
かと言って、諦めることもできない。あれは夏油を精算するならば、仁賀保の一件もまた精算されなければ終わったとは呼べなかった。
だから、伊地知に託した。
「もっと早く伊地知のケツを引っ叩いてやればよかった」
「治療できる範囲に留めろよ」
「ぼかァいつだって温情パンチしかしない」
「フフ……もう何も言わんから何も言うな。黙れ」
家入はブラックデビルに火をつけた。引くほど甘い匂いがする重いタバコである。優しいな、と思った。
さて、伊地知が無事? に仁賀保を連れて逃げてくれた手前、こちらでやることは二人に余計な追手のかからぬように、帰ってきたとき居場所があるようにの手回しである。
これが困った。なんたって伊地知は非公式の五条専任秘書のような男であったが、これがいない。五条は自分の任務の始末書すらヒィヒィ言っている。伊地知なしで、伊地知に頼むより高度な権謀術数を演じなければいけない。
五条はたっぷり息を吸った。鼻から吸った。重苦しいバニラとチョコの芳香がみっちり肺を満たす。
呻くようにすべて吐ききって、しばし黙り。
「まぁ、やるか。僕天才だし」
言った。宣誓であった。
▼
仁賀保はうどんは冷が好きなようだった。昔よく食べた感じがするらしい。言われて調べれば、なるほど稲庭うどんがある。秋田の銘産もそのうち食べたい。通販の届け先をここに変更するか、それより早く全てが解決するか、さてどちらが早いかしら。
伊地知はキャベツを両手で比べながら思案する。右の方が重い。右を買おう。
今日の買い出しに仁賀保はついてこなかった。
最近は最初に比べると断然人慣れして、ご婦人と少しなら話せるようにまでなった。ご婦人は物怖じしないので仁賀保ほどのタッパがあっても「あら大きいのね!」と話しかけに来る。その代わり引き際を知らない。仁賀保が真っ白になっていてもなお「あの角のお宅がね、人が亡くなってるから嫌で」と続けるので、伊地知が焦って飛び込まねばならなかった。その角のお宅にお住まいなのがこの二人である。
今日は豚バラとキャベツでどうしよう、回鍋肉にでもしようか。精肉コーナーへ足を向けながら、次いで伊地知の脳内には先ほどの仁賀保が浮かんでいる。
「今日は留守番をしています。大丈夫です、契約者本人が不在です、ですよね」
最近はすっかり突っかからずに喋れるようになったし、よく笑うようになった。笑うったってアハ体験みたいな微笑みだが、それでもちゃんと笑えるようになっていた。
が、買い物に出る伊地知を見送る仁賀保の微笑みは、いつぞや壊れかけだった時とそっくりだった。目も見えないまま五条に向かって頭を下げて伊地知に頭突きをかました時と同じ。
嫌な予感がする。自分では感じ取れない領域のなにかを、仁賀保は察している。
休職中も手当は出てるから、多少の出費はいいや。今は急いで帰らないと。伊地知は適当に目についた豚バラを雑に掴んでカゴに放り込む。
広い歩幅でぐんぐん歩きレジに並ぶ直前で、しまった。ピーマンがないことを忘れていた。
伊地知はその場で「グゥ……」と悩んで、結局ピーマンを探しに戻ることにした。
仁賀保には美味しいものをたくさん食べてほしいので。
呪術師はネジが何本か飛んでいなければ務まらない。
少々補足がいるにせよ自身に務まっているということは、自分もまたネジが抜けているのだろうと思う。
好き好んで握り拳が平たいわけではなかったし、柔道耳になったわけでもなかった。
ちょうどいい捨て駒がいるから、使おうか。駄目なら別のを用意すればいいし。
そんな理由で望まざる物々しい刺青を入れ、重いタバコを吸い、肘まで血塗れになってはブツをせしめ、寝床に入って小さくなる日々を送っていた。
望まざる生活のなかで、しかし自身が望まれる世界を諦められないことだけが、きっとどこかに自分を求めてくれる人がいるのだと小さな希望を抱いたまま生きていることだけが、何よりの絶望であった。
そういうことなんだろな。と、仁賀保は自分の処遇を理解している。
「そういうことなんだろ。な?」
だからこそ、目の前の男に、理解していることをそっくりそのまま言われた時。狼狽した。
西日のさすあばら屋で、男は袈裟の裾を捌いて床に座る。仁賀保は立ったまま、動けないまま目線だけで男の動きを追った。
「おかしいとは思わないかい、私の術式は私にしか使えないってのに。似ても似つかないってのに、粉々になるまで切り刻まれて。こんなあばら屋に幽閉まがいのことまでされて。そんな連中のために君が身を削ることはないんだよ」
「……」
「本来享受するべきだった生き方をしたいとは思わないか?」
「……自分が」
「ン?」
「やりたくてやっている事です」
「すべて? そう言える?」
「身を削るのも、ここにいるのも」
「自分がやりたくてやってる?」
仁賀保は黙った。
目の前の男は、なにか無窮のようなものを感じる。切れ長の目の奥に、ゆったりとした服の中に、なにかを潜めている。
歴史のある仏像とか、そういったものが持つ気配と同じだった。これの前で嘘はつけない。
からからになった喉に、やたら湿度の高い空気をなんとか送り込んで声を出す。カラッカラの声が出た。
「……やりたくなんかない」
「じゃあやめたらいい。逃げたらいい」
「逃げない。やめません」
「どうしてだい。やりたくないんだろ?」
「自分がこれをやると喜ぶ人がいるからです」
からからの誓いを聴いた目の前の男は、「バカすぎて話すのも嫌になった」みたいにため息をつく。侮蔑を孕んだ息の塊は、下手な日没よりも親しみがあるので平気だった。
「君、自分が捨て駒だってわかってるだろう。君が死んでも代わりはいるんだよ。やりたくないんなら、やめたらいいじゃあないか。なぁ?」
代わりはいる。身内を人質に脅されているわけでもないし、その身内が上席なのだ。仁賀保に生家に残るメリットはマジで毛ほどもない。
滅ぼしてなお有り余る怨嗟しかない。男の甘やかな声音に揺蕩って、呪術界を離れるのが一番いいのは仁賀保自身が一番わかっている。
ただ。
「いやです。そこは伊地知さんがいないでしょう」
仁賀保がはたらくと喜ぶ人がいる。もはや憎しみすらわかない生家ではなく、無事を確かめるまで心配そうな顔をして、無事がわかるとニコニコと菓子をくれる人。あの人がいればどこへだって行く。
かわりに、伊地知がいないところに行く気はない。あの光の差さない場所はすべてカスであると、仁賀保は心に誓ったので。
「また愛の話か? ウンザリだマジで」
男はゲンナリ天を仰いだ。
「もういい、勝手に野垂れ死んだらいい。あいや、せめて面白い死に方をしてくれ。時間を無駄にしたから、それにかなうエンタメ性のある死に方を」
「エンタメ性」
「妙なところで箱入りだな君は。見世物ってことだよ。呪術総監部に殴り込むとか、五条悟を殺すとか。面白いことして死んでくれ」
「……それは」
「君には無理だろ?」
「いいですね」
「ハ?」
男は仁賀保に向き直って、しかしすぐさま飛び退いた。男の頭があった場所に、デカい拳がある。仁賀保が放った拳だった。貰い事故で殴り下ろされた空気が床を叩き、家屋全体がギィギィ悲鳴をあげる。男にとってそれが悲しいくらい耳障りで仕方なかった。
「そのエンタメというのは、死んだはずの特級呪詛師の首を持って帰る、とかでもいいわけで」
「正気か?」
「正気で務まる仕事じゃないでしょう」
「というか、君、私のこと知ってたんだな」
男は再び飛び退る。頭があった場所に、空気を蹴り出してけたたましい音を立てた足があった。
「おかしい。知ってるに決まってます」
呪力の立ち上る気配。仁賀保はゆるく腰を落として笑った。笑ったと言ってもかすかな微笑みで、今までと見比べてもアハ体験みたいな笑みだった。
「夢にまで見ました。あなたの顔を見せられながら何度ミンチになったことか」
「フフ! クソガイジ」
「よく言われます」
仁賀保のひと薙ぎはまさしく「薙ぎ」で、直線上にある壁から柱から、粗末なあばら屋を一挙手一投足で着々と住処を破壊していく。男はしばらくいなしていたが、舞い散った100均やパンのポイントシールに視界を塞がれるのがウザすぎて、大酒呑みの呪霊を呼び出す。
「テロや事件後に今までの体制が見直されることはよくあるそうですが」
「何の話だ?」
仁賀保は大酒呑みをラリアットで殴り伏せ、フォロースルーの動作のまま考えながら言う。床板の破片が舞う隙間から、仁賀保は射抜くように男を見た。右目だけだが、その目があんまり大きいので隻眼でも迫力がある。男はニコッとして迎え撃つ。
「ひとつ提案があります。悪い話ではないと思いますが」
「何の話?」
「テロの話です」
フィンガースナップで爪から網切りを喚んだ仁賀保が飛ぶ。
網切りで男に敵うとは思わない。一瞬肉薄する隙ができればいい。内緒話は至近距離でこそ。男と拳を交わし、お互いの腕を掴み合った。
「うまくやれば貴方の望み通りになるかもしれません」
「へえ。……聞かせてごらん」
暮らしのわりに荒れひとつない仁賀保の唇が、薄く空気を吸った。
▲
帰ってきたら家がなかった。
伊地知はせっかく買いに戻ったピーマンをエコバッグごと放り捨てて、家を出るまでは家だった瓦礫へ走る。
「仁賀保さん! 仁賀保さん!」
敷地に踏み入った瞬間に、噎せるほどの呪力が漂う。伊地知が施していた呪詛避けの結界の内側をみっちり満たす呪詛と呪術の気配に、伊地知の心拍がバグった。
なんでだ。痕跡も全部ちゃんと消してた。どこから。誰に。どうやって。
「おかえりなさい」
これが素直に玄関先だったらどれだけ良かったろうな。伊地知は後にそう回顧する。
仁賀保はけっこうボロボロになって、しかし小ざっぱりした顔で立っていた。土埃を払いながら、「片付けができていなくてすみません」なんて言う。そこじゃない。そうじゃない。何から聞いたもんかわからなくなっちまって、伊地知はパカ、と口を開けて黙った。
「すみません、ちゃんと説明はさせていただきます。ただ、早めに終わらせてしまいたいことがあるので」
「……に」
「携帯電話をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「え、あはい、あどうぞ。いや仁賀保さん」
「もう一点、申し訳ございません。五条悟様のご連絡先はご存じありませんか」
この家で暮らしていた頃の仁賀保の5倍よく喋る。びっくりしちまって、しかし二度目に会った時は社交辞令とはいえよく喋ったのを思い出した。
加えて、この状況。伊地知は、仁賀保は脳汁がジャバジャバに出ると言葉が増えるタイプであると知った。
すっかり番号を喋っちまうまえに、伊地知は「いやそれより!」と流れを切る。何が動いてるのか理解しておきたかった。
「何があったんですか? どうしたんですか。どうなってるんですか?」
「今は急いで五条様に連絡を取らなければいけませんので、申し訳ありません。説明は少しお待ちください。かならずします」
「五条さんに話をしなきゃいけないことが起こったんですか?」
「それもありますが、事態はずっと前から動いていました。もう終わらせないとキリがないので」
仁賀保は子どもをあしらうように伊地知をなだめる。背格好だけで言えばそう見える。伊地知がチビなのではなく、仁賀保がバカデカいだけなのだが。
ムカついた。恩着せがましいことを思った自分に一番腹立った。
伊地知は、「あれだけ世話を焼いたのに自分は二の次か?」と腹を立てる。その事実に一番キレそうだった。そんなこととんと思ったことなかったのに。
苛立ちがムス、と顔に出た。仁賀保は伊地知の表情を認めて、グッと息を詰める。噛み締めるように微笑んで、こらえるように言った。
「すみません、もうひとつ」
「まだあるんですか」
「すみません。伊地知さん、お嫌いなものありますか? あなたのことをもっとよく知りたい」
「今ですか?」
「今です。あなたのことをもっと知って、あなたのための行動をしたいんです」
職も矜持も放り投げて助けたい人にそうまで言われれば、伊地知のむくれ面はギニュ…と歪んでしまう。嬉しいやらムカつくやら悔しいやら、どれがどれだか。
さて、乞われて考える。伊地知が嫌いなもの。食べ物から現象まで。瓦礫と呼ぶには残穢が危険すぎるがらくたの山の中で、二人は押し黙る。かたや言葉を待つために、かたや何かが降ってくるの待つために。
しばしの沈黙のあと、不意に仁賀保が前髪を直した。乱れてもない前髪を直す癖は、仁賀保が生家にそうあれかしと教え込まれたせいでついたものだ。つややかな毛先を赤い指先が通り過ぎたのを見て、ふと思いつく。
「……呪術界、ですかね」
仁賀保は笑った。アハ体験みたいな笑みよりも深い笑い方だった。