03
「決闘裁判」
「け……」

 呪術総監部が最近にわかに騒がしい。仕事でもなきゃ来たくもねぇ場所に七海建人がいるのは、悲しいかな仕事をしにであった。
 七海はしごてき男であるので、報告までを仕事と認識している。普段補助監督に上げれば済む報告をこんなゴミとカスとゲボでコンポストをやろうとして毒物を生成している場所まで上げに来ているのは、そう頼まれたからだ。死にそうな顔をした補助監督から。
 めちゃくちゃ嫌だが、頼まれたからにはやらにゃなるめぇよ。当たり前のことができない人間の多い場所では、当然の仕事をする人がしごでき呼ばわりされるものである。
 さて、七海が間抜けな相槌を返した相手、家入硝子は、あまり見かけない巻き紙のタバコを深く吸って、一度口元でボワワとふかしてから細長く吸い込んだ。

「重いから薄めて肺に入れるんだ」
「煙草を酒みたいに呑む人初めて見ました。それより」

 間抜けな相槌に言及する。家入はあんまり話したくない風だったが、そうは問屋が下さねえ。
 家入は七海の「なんだってこんなに騒がしいんですか」の問いに対する答えとして「決闘裁判」と答えた。
 誰と誰がやろうが知ったこっちゃないが、この騒がしさである。上から下まで決死の鉄火場を逃げ惑う面立ちだ。さも宝物を守ろうとするような。
 総監部の、呪術界の至宝。であれば、七海が人として尊敬できない男、五条悟に他ならない。
 七海は忙しなく行き交う人を喫煙所のガラス越しに「はえ〜」と眺めて、しかし思う。
 「あの」五条悟が決闘をする、まぁわからんでもない。「あの」五条悟を呪術総監部が総出で守ろうとする。まぁわからんでもない。
 呪術総監部がこうまでして「あの」五条悟を守ろうと動いている。わからない。
 決闘裁判の申し込みができる家柄で、それが受理されてこうまで騒ぎになるほどの人物。マジでわからない。
 七海はサングラスを外して眉間を揉んだ。深いシワが刻まれている眉間は人避けになるほどだ。そも着用しているサングラスが物々しいので、怪しい部品を売りつけてきそうな男から不機嫌なデカ男になっただけの話である。

「どこのどなたが?」
「気になるのか? 五条が負けてもカスがこの世から1人消えるだけだ」
「貴方はそういうこと言っても思ってはない人ですし、上司が変わるなら承知しておきたい。仕事ですから」
「どう転んでも、まぁ付き合ってやってくれると助かるな」
「……」

 頭の中で五条の身の回りにいた人間を洗い出す。あれもない。これもない。あれは申し出ならできるがこうも騒ぎにはならない。
 考えながら行き交う人影を見て、ふと気になった。
 補助監督がいない。
 術師や役員が行き交うばかりで、いつも世話になっている補助監督たちがさっぱり見当たらなかった。

「伊地知さんはお元気ですか?」
「知らんな。まぁ元気にやってるんじゃないか」
「ご存知ないんですか」
「こっちの台詞だ。休職中なの知らなかったか?」
「は…!?」

 あの伊地知が休職とな。七海はぽか、と口を開けた。
 あれは事務局のなかでも絶対防衛ラインのような男で、どんな地獄だろうが最後まで立つ手合いだ。それが休職と。まして、五条悟と誰ぞの決闘裁判であると。
 誰だ。五条にケンカを売れて、伊地知と関わりがありそうな人物。

「……まぁ、早めに終わることを願っておきます」

 めんどくさくなった。
 そもそも七海は業務規約外のことを労働時間外にやらされている。これ以上頭を使うのがもうイヤだった。レバーパテのこととかしか考えたくない。美味いもん食べたい。
 ゲンナリ疲れたまま生唾を飲む七海の隣で、家入は依然毒煙を呑んでいる。そうしてくれ、と細く吐いて、火をすり潰した。







 網切りはおそらく使えない。細々とした物理アタッカーをフレアに認識汚染系が主戦力になるだろう。
 仁賀保は歩きながら考える。あれはどうだ。これは身体のどこにあった。それはどれと組み合わせれば使えるだろうか。色々考えながら、鉄板が仕込まれた革靴のソールが恐ろしいまでにガツンガツンと廊下を鳴かす。
 五条悟が電信柱であるならば、仁賀保アレンは樹木である。長くて幹のような足が空気をガンガン蹴り飛ばして歩くさまは、下手な暴力にも比肩した。
 そうして余人を寄せ付けない歩き方をしばらく続けて、仁賀保は曲がり角で哀れな事務員と出会い頭にぶつかった。仁賀保の鍛えられた恵体は多少休んだぐらいでは萎まず、かわりに事務員が可哀想なくらい後方へ吹き飛ぶ。

「す、すみませ……。仁賀保」
「ええ。仁賀保ですが何か」

 仁賀保は耳が切れたかと思うほど冷たい声で応える。切れ長の目をさらに伸ばすアイラインは刃で、瞼を彩る紅は今まで散らした血であるに違いない。寄らば斬り、絶倒させてきた有象無象はいかほどばかりか。事務員には口紅も爪紅も、すべて洗い落とせない実績のように見えた。

「いえ、すみませんでした。お怪我なかったですか」
「ええ、ああ、痛いですね。ぶつかったところ痛みます」
「それは申し訳ありませ……」
「それだけですか?」
「え?」
「それだけですかと言いました」

 仁賀保はニコ、と微笑んで、事務員の腕を掴み上げた。テディベアよりも哀れな素振りでまんまと立ち上がらされた事務員に、樹木のような腕が振り下ろされる。腕は健やかに壁を殴り、到底健やかとは言えない爆音を響かせた。

「それだけですか?」
「そ……も、申し訳ございません! 大変失礼致しました」
「それだけですか?」
「ろ、労災手続きをさせていただきます、すべてこちらで費用を持ちますので」
「それだけですか?」

 仁賀保は生っ白い蛍光管の灯りの一切をその背で遮断しているので、事務員はすっかり影に覆われたまま逃げ場を無くしている。
 それだけですか、だと? 他に何ができるという。事務員は哀れなほど大汗をかいている。悔しかった。冷や汗と同じだけ知恵やらアイデアが浮べばいいものを。
 そして、こと対仁賀保にあって1番切ってはならない手札を切った。

「ご要望のものがございましたら……」

 仁賀保は影の中で形だけニコ! と笑った。Googleレンズなぞにぶちこめば、「ヤクザが汚れ仕事をするときの顔」と出るだろう。サジェストで「蛇がカエルを睨むときの顔」も出る。
 薄い唇がうっすら開いて空気を吸った。血まみれのハサミが開くようだった。

「貴方の名前を頂戴できますか。できますね? 貴方が仰ったことです」

 そう言われてやっと、事務員は目の前の男がどういった術師かを思い出した。
 操霊術式の一体系、仁賀保の詫び証文を相伝する男。
 秋田にかほの遣わした、見た目インテリの中身は暴力装置。
 夏油傑の再来防止のためだとかいう名目で、総監部に生きたままミンチにされていた男。
 異物。
 全てが繋がった。これは呪術界に仇なすものだ。
 そう思ったときには、事務員の眼前には大きな掌が広がっている。

「……仁賀保さんッ!」

 爪の先までビッシリ敷き詰められていた刺青が動きを止める。仁賀保は聴覚だけで声の出所を認知して、事務員はそれが号砲のように飛び出して逃げた。
 声の出所は、息せき切って立っていた。仁王立ちでそこにいた。もう我慢ならん、の顔をしていた。

「何やってるんですか」
「仕事をしています」
「いつから事務員をカツアゲすることが仕事になったんですか!」

 声の出所ーー伊地知は、踵からガツンゴツン大股で歩いて仁賀保の前に立った。壁に叩きつけられたまま、壁ドンのポーズで置かれていた腕を引ったくって、自分の首に叩きつける。

「私の名前はなんですか!」
「伊地知潔高さん」
「さっきの方のお名前は!」
「存じ上げません。これから貰うところでしたので」
「何やってるか知りませんが、名前も知らない人にあんなことするくらいなら私から持っていきなさい!」

 日頃の姿を知る人が見ればスマホを構えるような音声で伊地知は吠える。それだけ許せなかった。仮宿とはいえ自宅は吹き飛んでいるし、仁賀保は自分に何も説明しないまま誂えられた姿になって本部にカチコミしにいくし、行ったと思えば見ず知らずの事務員をカツアゲしている。
 自分が正しいと思ったことなんてそうそうない。が、伊地知は自分の人を見る目をわりと信じている。
 その目が吠え立てている。仁賀保は何もなしにそんなことをしない。
 仁賀保はやっと伊地知を見た。高いところからキロリと視線だけを巡らせ、視界に伊地知を認めてからやっと首を巡らせた。怖すぎる。

「……」

 仁賀保は何も言わずに塊の息を吐いた。瞬間、伊地知の全身に鳥肌が立つ。
 10年前からよく知っている、これは強い術師が本気を出すときの息だ。






 ァんだってんだよマジで。
 五条悟はバカクソでかい塊の息を吐いた。シンプルにため息である。
 こっちァクソ忙しいってのによ。緊急連絡が来たと思ったら出所が失踪中の伊地知で、すわ何事かと来てみれば、現在五条をクソ忙しくさせている元凶の仁賀保アレンが思いの外本気で伊地知を狩ろうと追い回している。
 総監部のど真ん中で。

「あのさァ! 誰が僕に詫びてくれるわけ!?」
「私が! 私が詫びます! すいません何もかも!」
「謝んのが伊地知じゃないことしかわッかんないんだけど! お前ダンマリのまま帰れると思ってんの!? キングオブコント出ろよ!」
「恐れ入ります浅学で存じ上げないのですが、高ラのようなものでしょうか?」
「高ラ知っててキングオブコントわかんねぇヤツいんのかよ!」
「助けてくださいどっちも大したわかんないです!」

 やりとりこそクソバカだが、状況がひとつもバカにできない。呪術総監府のど真ん中で、特級術師五条悟と三級術師仁賀保アレンがわりと本気ギレの声を上げながら殴り合いをしており、その真ん中で補助監督伊地知潔高が双方に庇われながら悲鳴を上げている。
 パイルバンカーめいたパンチと重機めいたキックが飛び交い、圧し出された空気が壁という壁をメタメタにしていく。伊地知が「場所を変えてください!」と何度も叫ぶ。被害がデカすぎる。冗談じゃねえ、夕暮れの河川敷とかでやってほしい。結界は張るから。

「お前マジでどうしてほしいわけ!」
「お伝えしたいことがございます、お聞きしていただくことは可能でしょうか」
「ここじゃなきゃダメでしたか!?」

 いくつも壁をブチ破った末、3人は中空で吠え合う。夜景が綺麗だ。こんな眺め方でさえなけりゃきっと多少心も躍ったろうに。
 伊地知は首根っこを五条に引っ掴まれたまま宙ぶらりんで眼下を見る。見て、すぐ上を向いた。見なきゃよかった、タマがヒュンとした。
 無下限で中空に立つ五条に、仁賀保はほど近いビルの屋上から相対する。
 伊地知が仁賀保の素顔を見たのは二度目だった。ビル風に好き放題に煽られて、そうあれかしと誂えられた前髪は崩れきっている。痛ましい暴力の痕を曝け出している。
 その隣で真紅のシャドウに囲まれた目が、力強く五条を見ていた。先日までの力ない様子など嘘だったかのように、もしくは最期の瞬間のようにまっすぐな視線が五条を貫く。
 貫かれている五条は、意外にも苛立っている。伊地知は首の後ろでその様子を感じ取り、どこか懐かしさを覚える。学生の時みたいだ。

「今更どの口が何を言いてえってのさ。言っとくけど僕はオマエのこと嫌いだよ。見ててイライラする」
「ありがとうございます、もったいないお言葉です」
「どこが?」
「嫌いで留まっている部分がです。おおよその方は死ねと仰いますので」

 皮肉を吐いたのか、ド級の天然なだけなのか。仁賀保は「人に死ねと言われないのは嬉しいです、まして相手が五条様ですので」と、微笑んですら見せた。
 ミシ、と空気が歪む。伊地知は実際それを五条に掴まれているシャツから聞いたのだが。

「御前試合とかもうどォーでもいいや。僕がなんでオマエに伊地知を貸してやったと思ってんの? 死にたいんならもっと早くそう言えよ」
「申し訳ございません、ご質問の意図がわかりません。私は死ぬつもりがありませんので、現在行動を取っております」
「なんでンなこと始めた? って聞いてんの!」
「私が行動することで五条様がお怒りになられる理由がわかりかねます。ご説明いただけませんか」

 五条が鼻から大きく息を吸って、しかし呼吸は声にならなかった。
 伊地知がバカ大声で吼えたからだ。

「それ本当にここでやらなきゃダメな話ですか!?!?」

 あまりの大音声に、あろうことかマジギレしかけていた五条すら息を詰める。

「ほんとにここでこのまま進める話ですか!? ご飯食べながらとかじゃダメなんですか!? そんな怒りながらこんな方法でつける話ですか!? だったら別に良いですよ、良いですけど降ろしてもらえませんか本当に!!」

 あの五条がここまでイラついて、あの仁賀保がここまで手段を選ばず実行している話だ。こんな方法でもなきゃつかない話ではあるだろう。
 ただ、あまりの剣幕に暴力の実行者二人がパタ…と黙ってしまった。それほどの気迫であった。
 命綱もなしに中空で宙吊りの伊地知にとっては永遠に思える時間が過ぎた。マジで二度と経験したくないぐらい長い気がした。五条と仁賀保はどちらともなしに力をゆるめ、「ええと…」と口ごもる。

「あー……誰かんちで話しつける?」
「私たちは家が吹き飛びましたので、それですと五条様の家しか選択肢がなく……」
「何やってんだよマジで……あーいいよ、僕んち……あ食うもんないや。えと……」
「五条さんちでいいんですね!?」
「僕んち今食うもんないからなんか買うか出前頼むかになるけど……待てんの?」
「もうイヤです全部早く終わらしてください!! 降ろしてください!!」

 大の大人がやるガチの駄々こねであった。
 これのタチの悪いところは、全くもって正論な点である。さっさとどっかに腰を落ち着けて落ち着いて話をしろってのだ。
 ただ、その場所がない。

「……あの」

 先ほどまでの剛腕がとんだペテンに見えるほど辿々しく、仁賀保がそっと手を挙げた。

「遅くまでやっている町中華が……近くにありまして……」
「お前そんなん知ってんの?」
「もうそこにしましょう!!! これ以上話したって何も進まないんだからどうせ!!!!」

 そう叫んだのを最後に伊地知はすっかり力をなくして、五条の手の内でペチャ…と掴み上げられるだけになった。もう疲れたらしい。余人が見れば「そりゃそうだろ」となるが、悲しいかな今伊地知以外の二人は大概人の尺度がおかしい。「オヤ、動かなくなってしまった……」と思いながら、二人はひらりと眼下に降りた。
 階段なんてもんは使わない。そこから降りたほうが早いし、降りられる側の人間であるので。
 伊地知はそういうとこが嫌なのを知ってか知らずか。二人分の規則的な靴音と引きずりながら歩く足音が、静まり始めた繁華街に紛れていった。






 こじんまりとした町中華は、最後の希望のように磨りガラスからのっぺりした灯りを漏らしている。
 仁賀保は随分と迷って、背後の二人にヤイヤイ言われてやっと引き戸を開けた。上げ慣れているらしい鳴き声を吐いて、クソデカ男二人と平均的な成人男性を迎えた引き戸の奥には、クソデカ大声男性が待っていた。

「らっしゃ……おーあん時の若い兄ちゃん!! いらっしゃい!! あんたアレまぁ元気かい!! 後ろ友達かい!? お友達も来てくれてアリガトねぇ!! 好きなとこ座って!!」
「声デッカ……」
「気持ちのいい店ですね」

 手狭ながら、長いことここで商いをしてきたらしいことがわかる店構えだ。安心感と共に居た堪れなさがある。ここまで人の温度がすると、飲食店は人ん家みたいな趣になってしまうものか。伊地知は壁にビッチリ貼られたメニューの値段を見て、今度からすき家やめてここに来ようと思った。もうここん家の子になりたい。

「すまんね! 揚げ物の機械洗ったばっかだから! 揚げ物は時間かかるよ! ヤァ兄ちゃん久々に見たな! 元気だったかい!?」
「夜分遅くに申し訳ございません」
「かまやしねぇっての営業時間内だよ! てか元気かい!? マグロの赤身ででけぇのがあるから出してやりてぇけど食えそうかい!?」
「わ……あ……えと……」
「ワァワァ店長ちょっと待ったげてよ」
「わわわわ店長さんちょっと待ったげてください」
「なんでェ兄ちゃんたち! 友達!? アリガトねぇ!」
「でっけ〜んだ声がもう。二回目なんだそれ聞くの」

 仁賀保が店主の音量に押されてワァワァ呟いている間に、五条と伊地知は流されてオーダーを済ませた。

「兄ちゃん何にする?」
「恐れ入りますが、お冷で結構です」
「おお……あいよ! ところで兄ちゃん、元気かい?」

 店主は頑なに仁賀保に「元気かい?」と聞く。どういう意図だろう、と五条も伊地知も返事を待った。

「……はい。元気です」
「ウハハ!!! そうかいそりゃいいね!!! ウソだな!!!」

 やっとのことで仁賀保が返事を返したと思ったのに、店主はバッカでかい声で一笑に伏した。
 一同がびっくりしちまって「え?」の顔のまま、まだ笑っている店主を見る。視線になんかとっくに気づいている店主は、芝居がかった素振りで言う。

「不健康なこともあらァよ! 兄ちゃん、別に隠し立てするこたァねぇんだぜ。良いならいい、悪いなら悪い、言いたくねぇなら「ぼちぼち」って言やいいのよ。飯屋に連れて来れる仲間もいるんだろ?」

 頼んなよ! 店主は初夏の太陽みたいにカラッと笑って言う。誰が見ても気持ちのいい男が気持ちのいいことを気持ちよく聞こえるように言った。
 これを心底悔しく思ったのは伊地知だった。
 仁賀保は人のふりがうまい。平気なふりがうまい。これに対して自分は今まで、良いか否かしか聞いてこなかった。ダメなら一切を取りやめていた。全身を生きたまま粉々にされて繋ぎ合わされた仁賀保がダメじゃないわけがないので、ほぼ全てを取りやめていた。
 ゼロか百かでしか行動の有無を訊かなかった。やりたいか否かの一切を封殺してきたことを、心底悔しく思った。
 何を答えても「いいですよ、わかります、しんどいですよね。今日は止めましょうか」と言う男に四六時中世話を焼かれては、そりゃ何かしようにも言う気なんか起きないのだ。だって「今日ダメでしょ?」って言うんだから。
 これまでを激烈に反省した。自分が心底教員に向いてないと思った。
 伊地知が唇の内側に歯を立てているころ、現職教員の五条が目から鱗を落としていることに店主だけが気づいていた。

「あいお待ち! これサービスね!」

 五条と伊地知のオーダーには刺し盛りが追加され、仁賀保の前には小ぶりなうどんが置かれた。伊地知が癖で遠慮すると、店主は「いいのよいいのよ! これこっちが勝手に先払いやってるだけだから!」とバカクソでかく答えたので、伊地知は是非また利用させていただきます、と微笑んだ。

「……話、これ食ってからにしよっか」
「そうですね」
「そうなんですか?」
「そういうことにしときましょう」

 五条は片手で割り箸を割って、猛然と刺身を食い始めている。こうなった人に手を止めさせて面倒くさい話をするものではないし、こうさせた人がいる手前、ましてありったけ厚意を受けているなかケンカをするなど言語道断だと思った。
 そういうもんなの? とうどんを前にそわそわしている仁賀保にも微笑んでやり、伊地知も割り箸を取った。この回鍋肉を前に、それ以外のことができようもなかった。よだれがあふれ過ぎて顎の下がめちゃくちゃ痛いのだ。





「ありがとさん! また来てね! 気をつけて」

 身構えていてもでかい悲鳴を上げるドアを閉め終えて、一同は夜の空気を全身で浴びる。
 店主の見送りは優しかった。滞在している間にあのバカデカ大声に慣れてしまった、では説明がつきそうにない。呆れるほど優しい人間なのだ。
 五条はあの御仁とあの頃会っていれば、と考えかけて止めた。たらればで救われることなんてない。起きたことは変えられない。

「けっこう歩くけどタクシー呼ぶ?」
「じゃあ私呼びますよ」
「一台ね」

 店んなかで済ませときゃよかった、と思いながら、伊地知が電話をかけるのをぼんやり待つ五条の裾を何かが引いた。
 仁賀保だった。先ほどまでもちもちチマチマ小うどんを食って、なんなら残した仁賀保が、ささやかに五条と伊地知の袖をそれぞれの手でちまこく引いている。

「何?」
「……あの。調子がいいので、あ……」

 言い淀む仁賀保を、意外にも伊地知が覗き込まなかったので、五条はおっかなびっくり覗き込んだ。これであってるんだろうか。
 仁賀保は唇の先で「えと」やら「その」を繰り返している。焦ったいな。五条は一度唇の内側を噛み合わせて訊いた。

「いいよ。言ってみ?」
「……歩いて帰りたいです。お二人と」

 伊地知がニコ、と笑顔を作って、タクシーをキャンセルした。

「そうしましょう。そうなりました。よろしいですか?」
「え? いやいいけど。マジで歩くよそれなりに」
「問題ありません、ありがとうございます」

 やりとりの間にわずかばかり顔を上げた仁賀保の顔は、思っていたより仕事の顔立ちだ。こいつのことがよくわからない。少し考えて、しかし五条は「じゃ行くよ」と仁賀保に袖を預けたまま歩を進めた。



 ほんとにこいつのことよくわかんない。
 伊地知はコンパスみてえな股下の二人にヒィヒィ言いながら袖を引かれて歩いてきて、仁賀保は結局のこり三分の一くらいの道のりで眠くなったらしくフワフワ歩いていた。部屋のロックを開けるから、と伊地知に預けてすぐグニャグニャになって、挙句「お腹いっぱいです」とか言った。
 道中で「さっきの店あれが美味そうだったから今度食う」とか話しているなか、仁賀保はポツリと「外食をしたのは初めてで」と呟いた。なんかもうお察しだし、なんかもう「ァ゛ァ゛…」とか言ってしまった。飯食ってすぐ眠いとかガキかよと思ったが、色んなことがガキの時分から育てられてないのが仁賀保なのかもしれない。
 五条は「とりあえずソファまで歩けよ!」と大声を出しながら二人を案内してやった。飲み会ってこんな感じなのかもしれない。ちょっと楽しい。

「あとは寝落ちていいから。水飲む?」
「いえ私は結構です、仁賀保さんは?」
「お話を……したかったので、してからお言葉に甘えたいです」

 そうだった。店主の歓待ですっかりそんな感じじゃなくなってたが、我々は本部をメチャクチャにする大喧嘩をしてたのだった。
 とりあえずソファに安置された仁賀保にとりあえず待っとけよ、とグラスを渡して、伊地知と五条も適当な場所に座った。

「結局話って?」
「決闘裁判、動機と経緯につきましてご説明をさせていただければと」
「仕事の話ンなった瞬間流暢だな。布教を許されたオタクみたい」
「茶々気にしないでくださいね」
「言うじゃん……」

 その実びっくりしたのだ。眠くなってたところに仕事の話をされたものだから。そして、このメンツで、加えて「お前を衆目の前で殺す」と言ってきた相手を前にして自分が眠くなってたもんだから、驚いて軽口を叩いた。

「もう幸せになりたいと思って」

 仁賀保はポツポツ話し出した。

「夢を見ていました。迎えに来るからと言っていた方はついぞいらっしゃらず、亡くなられたと聞きました。この生に意味があるかないかで言えば、利用価値の点ではあります。ただ、もう仁賀保のために生きていたくない。死ぬ前に、自分の利用価値がどれだけだったかを知りたくなりました」
「だから僕とケンカしてどれだけ殴れるか、仁賀保の連中に見せてやりたかったってこと? なら別にさっきでも良かったんじゃない」
「書類を経て形式を踏みたかったんです。五条家が保管する書面に名前が残ります」

 伊地知は「そんなことは」と息を吸いかけて、止めた。仁賀保を止めてはいけないし、嫌というほど思い知ったが改めて、仁賀保が生まれ育った場所は「そういうこと」を平気でやるのだと思った。
 いなかったことにするぐらい、やる。今や疑いようもなかった。

「面白いね。オマエ、けっこう強かじゃん」

 五条は薄い唇をニン、と曲げた。どこがだ? サバイバーの告白にしか思えなかった伊地知は五条の二の句を待つ。

「幸せになりたい、ってことはただで死ぬ気ないんでしょ? この僕に何発かくれてやるぐらいの気概はあるんだ。それもオマエを三級に押し込めてる仁賀保本家の前で」
「五発は当てたく思います」
「二、三かと思ったら随分言うね!」

 五条はドカンと笑った。壁が厚い部屋でよかった。

「なぁ、仁賀保本家がオマエをそこまで育成できると思えないんだけど。誰?」

 最後の「誰?」だけを、五条は殊更鋭く言った。末席とはいえ五条家の傘下で、これなら五条悟に届くと思わせられるほどの怪物が育てられていたことを五条は一切聞かされていないし、知りもしない。
 他所の手が入っているとしたら。五条はそこを問うている。腐ってはいるが御三家の当代なのだ。

「夏油傑様です」

 音がしたかと思うほどストン、と。
 五条の表情が抜け落ちて、仁賀保が申し訳なさそうに頭を下げた。

「迎えに来るから生き残っててよ、と。指導を受けました」
「特級呪詛師って認識はあった?」
「ありました。ただ……」

 むに、と唇を噛んで、仁賀保は止まってしまった。
 伊地知が仁賀保の隣に座り直して、膝を撫でてやる。手つきは覚束ない。慣れてないのだ。やってこなかったから。

「ただ、はじめて私に「そんな小ちゃくなって寝なくていいのに」と仰ってくださった方でした。信じたかった」

 それだけでした。
 それだけを言って、仁賀保はソファを降りて床に膝をついた。平身低頭し、五条に土下座をした。実に慣れた素振りである。
 悔しかった。すべてが。
 その姿勢をとることに恐ろしく慣れた様子が。それをさせるのが当然だと思っていたことが。あのストレートを放てる男が、こうも小さくなることが。それを育てたのが、かつて袂を分かった友だったことが。
 仁賀保にいちばんに声をかけた男が自身でなかったことが。あのあばら屋で過ごした時間なんかで到底解けない呪いが、こんなに優しいひとにかけられていることが。その呪いを未だ誰も解けないことが。
 今日まで仁賀保を生かしてきたのが、年末に殺した旧知だったことが。
 仁賀保はなにか頭のスイッチを切ったような様子で、ぴったりと動かない。伊地知と五条も、そのさまを見せつけられて、また自身の感情がグッチャグチャになっているのでマトモな言葉なぞ投げられようもないことを自覚して、ぱったりと押し黙る。
 永遠のような、案外早かったかもしれない沈黙の後。二人は毛布を抱えてきて、仁賀保ごと包まって、小さくなって寝た。
 誰かが呟いた「寝よう」がことさら大きく聞こえて、瞼の隙間がじわじわ冷たい、長い夜だった。
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