その実、分庁舎の交番長やらと挨拶はしたのだが、さほど覚えちゃいなかった。必要がなかったからである。いかにして長野県警本部に戻るか、そのロードマップの策定。諸伏高明がその日考えていたことはそれだけに尽きる。
「諸伏警部でらっしゃいますか、お会いできて光栄です。新野署博望分庁舎刑事係、玄沢龍仁です」
だので、正直、その男の挨拶もとんと覚えちゃいなかった。どうでもよかったのだ。
その時は。
♢
上信越自動車道で起きた四台が絡む交通事故は、死者二名負傷者六名を出す大事故であった。初報が新野署にもたらされるや否や、諸伏高明はポケットのキーを確かめる。愛車のガソリンに不足はない。
「諸伏警部! ご一緒します」
「いえ結構。私一人で行きます」
玄沢龍仁の名乗りも虚しく、諸伏高明は現場に降り立つ。
誰とも連む気はなかった。言い訳を重ねるならば、先日起こった通り魔事件にリソースを割きたかった。犯人は明らかに正気を失っていたのだが、各種検査をどれだけ検証してもアルコール以外の反応が出ない。この謎を早く解きたかった。
人が死んでいて言うのもなんだが、気分転換がしたかった。手っ取り早く明らかになる謎を手遊びたい。諸伏高明はそんな考えで愛車を停め、規制線を潜る。
「……少々考えが杜撰でしたか」
現場を見た諸伏高明は、己の甘さを恥じた。
先頭車両が停止しただろう場所まで、ブレーキ痕に混じって、いやに濃い液体の漏出した跡がある。事故からそう経っていないにせよ、ただの水にしては揮発が遅い。ところどころ燃えた形跡を見るに、なにがしかの油ではあるようだ。
「警部〜! なんで先行っちゃうんですか。車出し申請してたのに」
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。君には別の仕事を任せたかったんです」
「どゆ意味ですか?」
「刑事ならばご自分で調べてみては」
追いついてきた玄野龍仁が「字がわかんないから検索できないんですけど」とゴネているのを横目に、諸伏高明は鑑識の結果を聞いた。油の正体はエンジンオイルであるらしい。
「そんな気軽に漏れるものではないですよね」
「そんな気軽に漏れるものであるなら、世界中がまだ馬に乗って移動しているでしょうね」
加えて、つれない物言いだ。
諸伏高明の脳内に、ここ数日の交通事故の件数と場所、原因の一覧が翻る。上信越自動車道全体で見れば六件、うち三件がこの近辺で起きていた。気軽に車外に漏出するはずのないエンジンオイルが撒き散らされているということは、これを利用した事件の可能性が浮上する。
ふむ。髭を撫でて思案のなかに沈んだ諸伏高明は、すっかり思案に沈んでいたがために、玄野龍仁がなにごとか電話を繰り返しているのにさっぱり気づいていなかった。
「諸伏警部。あの、警部? 諸伏警部!」
迸る思考を遮る音声に、諸伏高明は髭から手を離す。玄野龍仁が携帯を片手に諸伏高明の肩を何度も叩いていた。
「なんです? 邪魔立て無用」
「鑑識に先頭車両のエンジン付近調べさせてください。陸運局に知り合いがいるんですけど、今年下請けの業者が変わってから車検がザルだそうで、整備不良が相次いでるそうです」
過去にも鳥取で似たような大事故あったそうですよ、と玄野龍仁は続けた。
なるほど、その線が。諸伏高明が鑑識に指示を飛ばしている間、玄野龍仁は携帯に向かって「ありがとう、また今度飲みましょうね」と朗らかに笑っていた。
仕事中だぞ。怠慢して身を忘るれば、禍災すなわちおこる。彼が新野署の今日の件数の一になるやもしれない、鼻の横にかすかに力が入るのを知覚しながら向き直った諸伏高明に、玄野龍仁はまたも朗らかに言った。
「暦オタの友達が面白い話知ってました。先日の通り魔事件、犯人の自宅って菜園と酒の保管庫ありましたよね?」
ひとつ説教をしてやろうと思って向き直ったのに、予想だにしなかった言葉が出てきた。呆気にとられてキョト、と目を剥く諸伏高明もお構いなし、玄野龍仁は続ける。
「薬物反応は出ませんでしたが、キメてたのは薬物じゃないかもしれません。庭にニガヨモギを植えてたか、保管庫にアブサンがあればそれが怪しいです」
「アブサン、酒ですか」
「ゴッホが狂人になった原因の一説らしいです。自分も医学と歴史はさっぱりですが、最期は自分で耳を切り落として拳銃自殺したんじゃありませんでしたっけ?」
西洋美術の大家フィンセント・ファン・ゴッホは、晩年さまざまな要因によって正気を失い自ら命を絶った。
ビッグネームであればこそさまざまな憶測が憶測を呼ぶが、当時の酒精による中毒症状を一説に唱える層もいるらしい。諸伏高明は史学、戦術論や推理に明るいが芸術方面の人文に弱かったので、その発想はなかった。
どうです? ありそうでしょ、と笑う傍らにも、玄野龍仁の携帯はひっきりなしに通知音を吐いて、緑色のキーホルダーとぶつかって音が響いている。いろいろな友人が彼に連絡を取っているらしいことが伺えた。
「あと、さっきの、調べました。燕雀も一羽でチュン、二羽でチュチュン、三羽揃えば牙を剥くってなもんですよ。とはいえ大型鳥の頭脳には及ばないので、知恵をお借りしたいんですが」
タハ、と眉根を寄せた玄野龍仁に、諸伏高明はムニ……と唇を歪めて応えるにとどまった。なんとも言い難かった。咎めるべきでも、手放しで褒めるべきでもなく感じられた。
ただその時は、なんか、思ってたのと違うのがいるな、新野署には。そう思った。
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