アブサンはしっかりあったし、なんならニガヨモギを漬けた密造酒が見つかり、酒税法がどうたらで先日の通り魔にはオマケみたいな余罪が増えた。
玄沢龍仁のツテによる見立てが正しかったことが証明され、諸伏高明は異様に顔が広い部下とともに現場へ繰り出すことが増えた。なにせ使えるのである。本人は知らなくても、本人の知人を辿ればそのうち公安組織にすら話が通りそうなほどであった。
が。
「すっかり忘れてましたが、情報の漏出は褒められたものではありません」
「はい……」
「だので、三人寄らずともいいように君自身に文殊の知恵を叩きこんでいただきたい」
「はい……」
「ここからここまでのレポートを明日、この参考書は今週で読破してください」
「いたた……」
「耳が?」
「いえ肩が。寝床が硬くて」
「少しは反省なさい」
「してます……もうずいぶん長いこと……」
新野署の廊下を颯爽と歩く諸伏高明の後ろに、体いっぱいに紙類を抱えた玄沢龍仁がしおしおと続く。
事件情報の一般人への漏洩は職務倫理違反であった。あまりに便利なもので「へえ便利」など思っていたが、その実わりと本気で怒られそうなことをやっていたことに気づき、諸伏高明は大焦りして玄沢龍仁の「チューニング」を試みている。これ以上僻地へ飛ばされるわけにはいかなかった。
しかし腐っても警察、かつバカ人脈の中枢にいる男である。なにかとなにかを紐づけて覚える能力に特化しており、ひとつ覚えれば関連するものもある程度は覚えが早かった。
「検証! 東都大生ならポンコツも一流にできる説……」
「スズメがほざかない。君から謝礼が出るでもなしに」
「今度この辺ご案内しますよ。友達がやってる飯屋とか」
「君が現場でなにかに気づいてくれるほうがよっぽど助かります。早く合法で便利な糸口になってください。脱法はもうしばらく結構」
「ふぐぇ……」
この頃諸伏高明にとって、烏合のひしめく新野署にあって、面白いものといえば玄沢龍仁ただ一人。かつ、目指すところといえば県警本部への復帰ただひとつ。
ともすれば亡霊のようになってしまいそうな日々のなか、このかすかな灯火を消さないようにするのに必死であった。
「でも諸伏警部、書を捨てよ街へ出ようってなんかどっかの誰だったかも言いますでしょ」
「情報がない。どなたですか? 近代はさっぱりです。温故知新至上主義、人文よりも軍略が好きなもので」
「違う味もたまに食べたら美味いですよ。明後日非番じゃないですか、謝礼がわりに遠乗りでもいかがです? バッテリーが死ぬ前に愛馬走らせてやりたくて」
玄沢龍仁はバイクの趣味があるようだ。ホォ、と思っていれば、「鉄ですけど、まだ馬に乗って移動するのが好きな手合いで」と笑う。諸伏高明は鼻を鳴らして応えるに留まった。玄沢龍仁は先日の交通事故の際に言ったことを覚えているらしい。
「……まあ、近所なら」
諸伏高明の煉獄を往く旅路に、安寧はない。あるべきでない。道行きが苛烈であればあるほど終着点は早く近づくはずであった。
さりとて、諸伏高明とて人の子である。そのことに誇りを持つ男である。
人、なればこそ。
息がしたかった。
「やったあ! ボディ磨いて、コンタクト買っておきます」
だので、玄沢龍仁の誘いを、断れなかった。止まり木が欲しかった。
玄沢龍仁は紙類を抱え直して笑う。いま右手に持ち替えた束がまるごと今週締め切りなのだが、なんだか今言うのは憚られるような心地がした。
♢
二日後、玄沢龍仁はピッカピカのマシンとヘルメットを二つ、ペッカペカの笑顔で携えて諸伏高明を尋ねた。
「おはようございます! ありがとうございます! 今日よろしくお願いします! なんかねぇ、すごい綺麗な水まんじゅう売ってる和菓子屋さんがあるそうなんですよ」
眼鏡もないのにぴかぴか笑ってあれやこれやを諸伏高明に手渡して、にこにこ後部座席を叩く玄沢龍仁は、あれやこれをセットアップする手つきこそ慣れたものであった。が、時折「あれ?」と小言を挟む。
鉄の愛馬に乗るのが随分久しぶりと見えて、怖すぎる。諸伏高明はヘルメットの内側で唇をモニョモニョ曲げた。
「随分乗っていなかったようですが?」
「道交法では2ケツ大丈夫です、ダメな期間とっくに抜けてるので」
「降ります」
「大丈夫ですって! 半年乗れなかったんです寒くて! 警部も毎年雪のふり始めに「雪道ってどうやって歩くっけ……」ってなりませんか?」
「マイカーがあるのでなりません」
「ぜったいスーパーの駐車場とかで危ない目にあってますよ、覚えてないだけです」
言いながら収まりが悪そうに何度も座り直す様子は、なにやらまさしく髀肉の嘆と呼べそうな様であった。久しく馬に乗らなかったので太ももにすっかり肉がついてしまった……と劉備が嘆いたことからなる故事成語である。
そう考えて、ふと。
なぜここまで気がつかなかったか。諸伏高明は自分の脳みそに唾でも吐いてやりたい心地になる。
玄沢龍仁、なにだか劉備玄徳を随分思わせるような名前であった。
「……時に。愛馬に名前などは?」
「つけてないです。カワサキのバイクなのでそのままカワサキとか、愛馬とか。うちのゴツゴツくんとか」
玄沢龍仁が懐こく撫でるカワサキのNinja H2 SX SE+は、特段カスタムを施されていないベーシックな状態で長く愛されているようだった。黒い車体に緑の塗装、随所に光るメタリックシルバーが目映い。
さて。諸伏高明はメット越しに髭をなぞる。バイク用インカムのマイクがモゾモゾ触れてくすぐったかった。
エンジンが元気に嘶く。
南信州の雄大な自然は、しかし新野署の管轄であったので、諸伏高明にとって長くない新野生活でも似た光景は何度か愛車やパトカーから眺めた。東都に比べれば穏やかで豊かで、生まれ故郷まことむべなるかな。なんとも心の安らぐ緑色であった。
玄沢龍仁の愛馬は快調で、スマートなスポーツマシンの様相に似合わぬ排気量で軽快にアップダウンを走破する。
「いいマシンです」
「でしょう、知人から譲り受けたんですよ。なんでも曰くのついた呪いのバイクだって言うんですけど、ビビ! と来て」
なんてものに人を乗せているんだ。諸伏高明は三たびメットの中で唇を歪めた。感じ取ったように玄沢龍仁が声を張る。
「でも譲り受けて長いですけど、危ない目にあったことないので大丈夫ですよ。かっこいいし頼れる相棒です」
「半年ご無沙汰していたのに」
「雪道にはさすがに4WDしか太刀打ちできませんて」
「然もありなん。しかし冬の間は乗れず、シーズン中も呪いがちらつくようなバイクを、何故随分長く乗っているんです?」
「警部のシトロエン、冬道は?」
「四駆なし、左ハンドル、クラシック。何か文句でも」
「ハハ! ないない、文句ないです。自分もロマンと便利ならロマン取ります」
好きだから乗る、それ以上でも以下でもないらしかった。諸伏高明は愛車のナンバーを想い、なるほどと思う。身に覚えがあった。
ひとしきり遊んだ二人が道の駅で缶コーヒーを傾けているさなか、二人の携帯がほぼ同時に鳴った。
発信元を見やると、諸伏高明は同じように発信元を見て表情を険しくしている玄沢龍仁に訊く。
「誰からですか?」
「竹田班からです。警部もですか」
「ええ。事件のようですね」
答えながら受話器をあてれば、ここから少し走ったところで殺害されて間もない惨殺遺体があがったらしい。すぐに見つかった犯人は警察を見るなり逃走し、追走に人手を割くので、非番のところすまないが実況見分はお前たちがやれ、とのことであった。
一瞬、逡巡。そも今日はオフであるし、今日はシトロエンを連れていない。足は玄沢龍仁に頼むことになる。諸伏高明が伺い見れば、向こうはすでに了承して電話を切ったところであった。
「警部連れていきますって返事しちゃいましたが、大丈夫でした? 行けますか?」
「むしろよろしいので? 願ってもない僥倖ですが」
「ダメな理由がありませんよ、帰りに寄り道するぐらいの気持ちで乗ってください。ちょっと飛ばしますけど」
「安全運転を心がけて……いえ完遂してください」
このカワサキは呪いの愛馬であったことを思い出し言い直せば、玄沢龍仁はワッと笑った。これで事故れば笑い事ではねぇのである。
閑静で緑ゆたかな風景に、遠からん音は耳に聞けと言わんばかりのエンジン音を高鳴らせ、道交法を遵守しながら鉄の馬は駆ける。
直線道路に出たところで、ふたたび携帯が鳴る。
「インカムに出します」
ナビ代わりにハンドルに設置している携帯と運転用インカムを無線接続していたらしい玄沢龍仁が鋭く返し、手早く通話を繋いだ。用意がいい。
発信元は竹田班の三枝守であった。
「は」
「玄沢! 今どこだ!」
「国道151号線を北上してます」
「逃走中の犯人が同じ道路を南下してる! すれ違うだろうが、バぁカ危険運転してる! 巻き込まれるなよ!」
言う間にもサイレンが近づいてきており、間もなく近からん二人の目にも見えようと言わんばかりの距離感が窺えた。三枝には了承を伝え、諸伏高明を伺おうと玄沢龍仁が身じろぐ。
瞬間。
「見えましたね」
「おい早いて!」
余罪を重ねていそうな殺人プリウスが2人の前にまろび出た。まろび出る、と言うにはあまりに致死性が高いのだが、その証左たる血飛沫がバンパーを彩っている。
一瞬、フロントガラスごしにドライバーと目が合う。狂を発した、というよりは、人間性をまるごと喪失した、というほうが似合うような面持ちであった。あれでよく車が運転できるものである。幾人かをはねている時点で、実際できてはいないのだが。
考えこそ冷静であったが、諸伏高明は身を固くした。なにせ呪いの鉄馬に乗せられて、向かう先からはデスプリウスが爆走してきている。玄沢龍仁の胴に回した腕に力が入る。
どう出る、この新野にあって唯一面白い余人。
伺おうと目を巡らせた矢先、腕を回した胴がブワ、と膨らんだ。
「ついに俺を殺す気かよ! やってみろ! そんなタマじゃねえだろ!」
玄沢龍仁が吼え、確かめるようにタンクを引っ叩いた。その力強さたるや、一端の武人のそれに近しい。
玄沢龍仁はブレーキハンドルから離した手を自身の胴に回された諸伏高明の手に重ねる。断じて離すなということらしい。残った右手でアクセルをブチ回し、迫り来るデスプリウスへ加速した。
なにごとか、吼えられたことは気づいている。
なにを言われたかは、聞く余裕がなかった。
慣性。反動。浮遊。重力。衝撃。
腕のなかの体温。
「ッぶねえマジで! ようやった俺! ようやりましたよ警部! 助かったウワ良かった〜!」
諸伏高明がやっと聞こえたのは、デスプリウスが向かってくるわりには気の抜けた声だった。何を悠長な物言いをしているのか、諸伏高明は再び腕の力を強める。
ここで死ぬわけにはいかない。あの比翼に再び並び立つまで死ぬわけにはいかない。家族の無念を晴らすまで死ぬわけにはいかない。諸伏高明には死ねない理由が多すぎた。
「いててて、警部もう大丈夫ですよ。一回メット外しますか」
言われてふと、身体にかかるGがない。
恐る恐る玄沢龍仁から離れると、最後に見た景色から10メートルほど進んだ場所でバイクは停まっていた。お互い負傷はなく、長野県警のパトカーがみるみる二人を抜き去っていく。パトカーの向かう先では、デスプリウスが電柱に突っ込んで停まっていた。
思っていたより力を込めすぎていたらしい手指は、思っていたより解くのに時間がかかった。マァそれだけの決死線ではあった。玄沢龍仁は「ゆっくりでいいですよ、俺もハンドル離せねえ」と笑う。なにだかイニシアチブを取られているような気がして、諸伏高明は悔し紛れに、しかしやっと口を開いた。
「一人称……俺なんですね。普段は「自分」と」
「ヤベ! すいません、失礼でした」
「好きな方を使えばよろしいのに」
「いえ、尊敬してる人の前ですから。形無しですけど、畏まらせてください」
「その自覚があるなら、まあ」
「一言多いなあ」
尊敬、とな。また面白い物言いが出たものだ、と諸伏高明は思った。
新野署にあっての諸伏高明とは、命令違反で左遷されてきた鼻つまみ者、厄介者、問題児、一匹狼、そのあたりの呼び名をほしいままにするような男であるし、本人にもその自負がある。長居する気もない。その信念を隠そうともしていない自覚もある。
それを尊敬とは。
諸伏高明は、改めて玄沢龍仁を胸中で評した。面白いのがいる。
「おい無事だったかデコボココンビ!」
血相を変えた三枝がパトカーを降りて二人を呼び止める。自分たちは新野署でデコボココンビと称されていたらしい。それもそう、と思う気持ちとコンビか、と驚くような心地の間で、諸伏高明はお腹が痛そうな顔をした。
「自分もしかしたらバイクスタントの才能あるかもしれません」
「彼に免許が与えられてるのが不思議でなりません。どこの教習所ですか? 公安は何をしているんです」
「それだけ文句が言えりゃ無事だな」
三枝は犯人確保が一応完了したことと、追走に割いていた人手を実況見分に回せるので呼びつけておいて申し訳ないが帰っていい旨を二人に伝えた。諸々の手当をちゃんと給与に足すように文句をつけ、すっかり苦い顔で立ち去った三枝を見送る。何がどうなって無事かわからないが、玄沢龍仁もまだ動く気にはなれないようであった。
「何をどうすればあの状況からこうなったんです?」
諸伏高明がそう訊けば、やっとハンドルから離せたらしい右手をモギモギ動かしながら玄沢龍仁は答えた。
「あー……まぁ、ざっくり、飛び越えました」
無法にもほどがある。
玄沢龍仁はメットのバイザーをあげて、汗ばむ顔をパタパタ仰いでいる。いやぁなんとかなって良かった、と続ける目元は笑顔だ。
どんな肝っ玉をしているのだ、この男は。諸伏高明は呆れるような、怯えるような、なんとも言えない心地でその顔を見ていた。
「ただまぁ、愛馬ですし、後ろに警部もいましたし。やらなきゃ死ぬし、できないわけないだろと思ったらできましたね。ご無事でよかったです」
「……はは……」
「呆れてます?」
「よくわかりません。何なんです君は?」
「え、ご存知ないんですか? 警部にそう言われたら、他に誰にもわかりませんよ」
玄沢龍仁はワハ、と笑ってすぐにバイザーを下ろした。遮光フィルムの貼られたバイザーの奥の顔はよく見えない。どんな表情をしているのか、諸伏高明にはすっかり見えなくなってしまった。
「……時に。君の愛馬には愛称がないとのことでしたが」
「ありませんね。でもこんな大アクション乗り越えたら、なにかあだ名で呼びたくなりますね。何にしようかな。なにか良いのありませんか?」
「では、的盧と呼べばよろしい」
「てきろ」
「劉備玄徳の愛馬です。呪いの馬として敬遠されてきましたが、劉備のもとに渡ってからは主人の危機に彼を乗せて河を飛び越えた逸話が」
「ドンピシャすぎませんか!」
玄沢龍仁は先ほどひっ叩いたタンクを両手で撫で回しながら「てきろ、覚えた。今日からお前は的盧」と繰り返した。こういうところが彼の人好かれする所以だろうな、と諸伏高明は思う。
「帰り道もひとっ走り頼むよテッちゃ〜ん」
「的盧だと言った矢先にこれ」
こういうところもそうなのだろうな、と諸伏高明は思う。