「杏寿郎さん、明日の帰りちょっと遅くなるね。」
「む?」
湯上りでほこほこと湯気が上がった恋人が思い出したように口にした。ソファで読書をしていた煉獄は雑誌をサイドテーブルに置いて膝を叩く。名前はちょこんと膝に乗り背を預けた。彼女の髪を肩にかかったタオルで拭きあげれば、あー、最高だーと嬉しそうな声に口角が上がる。
「何かあるのか?」
「うん、お世話になった上司が退職するから送別会なの。だから夕飯は何か買ってきてくれないかな?」
「承知した。帰りが遅くなるなら迎えに行こう。」
「えっ、いいよ。私お酒飲まないし、一次会だけで帰ってくるから大丈夫だよ。」
拒否する名前の顎を掴んで、触れるだけのキスをした。途端に頬が染まる初な反応に煉獄は気を良くする。
「こんな可愛い恋人を夜分遅くに一人で歩かせたくない俺の気持ちが分かるか?」
「ーっ、わからないよっ。杏寿郎さんは優しいから、私を甘やかし過ぎ…。」
「好いてる女性を甘やかして何が悪い。」
「甘やかされ過ぎて、私、杏寿郎さんがいないとダメな人間になっちゃう。」
「いやはや俺がいないとダメになって欲しいっ。」
「杏寿郎さんっ!」
名前、と名を呼び、ソファに押し倒した。愛らしい唇に口付ける。先程とは異なり口内を暴き、舌を絡める荒々しいもので。耳に届く子犬の様な息遣いに胸が熱くなる。
「ふっ、…ぁ、う、」
「もう一度言うぞ。迎えに行くから店の場所を教えてくれ。」
とろりと溶けた目をした恋人はこくりと頷いたのだった。
***
帰りたい。名前は割と本気でこの場から逃げたいと考えていた。
元凶は他部署の付き合いのない社員から異様な接触だ。
「名字さんも飲もうよー。」
「ですから、私はお酒が飲めないんです。」
「こういう席くらいさ、ちょーっと軽く飲むもんだって。」
今の若い子はー、とかなんとか話し始めたけど、今時飲めないという人に飲めと勧めるのはアルコールハラスメントだぞ。時代を逆行してるのか。タイムトラベルなら一人でやれ。
周りも異様な様子に嗜めてくれるもののお酒が入っているせいか聞く耳を持たない。
ここで頓挫するのも恩師に申し訳ない、と耐えて耐えての二時間。そろそろお開きという雰囲気に名前はほっと胸を撫で下ろした。
「では、私はこれで…」
やっと解放されると立ち上がった手を先程の男が引く。
「名字さんも二次会行こうよ。」
「いえ、私は、」
「全然話し足りないし、ね?」
「帰りますっ!」
気安く肩を組まれて鳥肌が立つ。すぐに振り払おうとするが、しかし酔いのせいか、それとも元々の体格差か肩から離れない。情けなく涙が出そうになった所で誰かが腰を引いた。
それは見知った金と赤で。体を包む熱に鼻の奥がツーンと痛くなった。
煉獄は名前の頭を撫でると男を一瞥した。圧のある視線に男は肩を震わせた。
「いつも名字がお世話になっている。もう夜分遅いので彼女はこれで帰らせて頂く。宜しいか?」
にこやかな声とは裏腹に目は怒気を孕んで有無を言わせない。
では、と二人はその場を離れた。後に残された男性社員は周りに散々非難された事は言うまでもない。
***
家に着くと煉獄はお疲れ、と温かいほうじ茶を淹れてくれた。香ばしい香りが広がって体の力が緩んでいく。
「今時分あんな輩がいるとは災難だったな。」
「私もびっくりした。」
思い出すとまた体が震える。
「名前、」
おいでと煉獄が手を広げる。優しい声音に今度こそ涙腺が緩んだ。マグカップを置くとぎゅうっと煉獄の背に手を回す。
「よしよし、よく頑張ったな。」
「もっとぎゅってして。」
「ふふ、これでいいか?」
「あと一緒にお風呂入って、また髪乾かして。」
「そんなに甘やかすのは駄目じゃなかったのか?」
「私はもう杏寿郎さんがいないとダメなのでいいんです。」
「そうか。では、その後は俺の好きにさせて貰おう。」
二人で顔を見合わせて笑うと、優しく触れるキスをした。