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黒尾に教科書を見せる

「なまえ、教科書忘れた」

 高校最後の年を迎えて早1ヶ月。クラス替え当初あいうえお順だった席はくじ引きによって無作為にシャッフルされ、教卓の真ん前で教師の唾を雨の如く浴びていたアリーナから一転。窓際の一番後ろという最高の特等席を思いがけず手に入れた私は今、新しい隣人の言葉に顔を顰めた。

「だから?」
「見せて下さい」

 席はさながらラノベの主人公。されど隣は大男。
 人にものを頼む態度とは思えないニヤニヤ顔で頬杖を付くこの男、黒尾鉄朗の代わり映えしない頼み事を聞くのは今日で通算3回目だ。

「それ昨日も一昨日も聞いた」
「仕方ねーだろ? 先週から現代文の教科書見当たらないんですー」
「だったら違うクラスに借りればいいでしょ? 顔広いんだし、海だっているじゃん」

 今からでも急いで借りにいけと言おうとした途端、見計らったようにがらりと開いたドアから入ってきた教師の姿に口を噤む。全く、タイミングが悪いことこの上ない。
 私の言葉を先読みしたらしい黒尾のしたり顔も相まって更に腹が立ったから、取りあえず足を踏んづけておいたけど、うめき声が静まった教室に響いたのは誤算だった。可愛い顔に似合わず意外と手厳しいと有名な現代文担当の先生に睨まれ、慌てて授業の準備に没頭する。って、何で私まで睨まれなきゃならんのか。足を踏んづけたのは私だけど、元はと言えば黒尾が教科書をなくすのが悪い。

「なまえー」
「なに?」
「教科書、見せて下さい」

 語尾だけは随分と丁寧だ。どうせ現代文の授業なんて寝てて聞いていないんだから教科書なんてなくたって困らないだろうに。
 変な寝癖が付いた真っ黒な頭が軽く下げられ、また直ぐに軽薄な笑みが覗く。顔の前に掲げられた掌を合わせた両手が態とらしくて、でもまあここまで来たら見せない訳にもいかないから渋々左に寄せた机は直ぐに行き詰まった。渇いた音を立てて繋がった机の中央に、例の教科書を指定のページを開いた状態で置く。

「落書きしないでよ」
「さんきゅ、善処シマス」

 「どっちが忘れたの?」と先生に聞かれ素直に右手を挙げた黒尾が言う。それって要するに書くってことか? と首を捻るも、まあその時はその時。全力で防御すればいいだけの話だと無理矢理自己完結して席に着いた。

 黒尾の落書きは実に質が悪い。書く専用のノートとは紙質が全く違う教科書に書かれた文字がとんでもなく消しにくいことは言うまでもないが、それとは別の二次被害がとにかく酷い。
 教師の悪口を書いた黒尾の落書きが私のものとして露見したお陰で、こっぴどく叱られたことは一度や二度じゃ無い。

「……」

 黒尾の動向を伺いつつ授業を受けるのは本当に骨が折れる。隙あらば教科書の隅に落書きをしようとする黒尾の手を跳ね除けては、回転の早い板書を消される前にガリガリと必死でノートに書き込む、その繰り返し。お陰で授業はまともに聴けないし、その癖黒尾はしっかりノート取ってるしで私の怒りのバロメーターは毎度振り切れんばかりだ。
 しかし、どういう訳か今日の黒尾は妙に大人しい。善処する、という言葉通り何やら真剣な様子でノートを取っている黒尾に、私の教科書にちょっかいを出すような気配は一向に見られない。
 バレー部の主将を務めるだけあって根は真面目なんだと思う。成績だって総合的に見れば私より優秀だし、偶にノートを借りれば顔に似合わず意外と綺麗な字が並んでいる。今回みたいな例外もあるけど、基本忘れ物だってしない。
 普段からこんな風に真面目な様子なら、教科書の一つや二つ快く見せてあげるのに。

「なまえ」
「ん?」
「やるぞ」
「は?」
「三目並べ」

 前言撤回。二度と教科書なんか見せてやらない。

 その後私の告発により、散々一人三目並べを楽しんだらしい黒尾は小1時間廊下に立たされることとなった。ざまぁ。


2016.11.06
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