愛の在り処

シャツが汗で張り付いて気持ちが悪い。
起き上がってシャツを皮膚から剥がせば、額から滲んだ汗が顎を伝って床に落ちた。ぽたぽたと垂れる汗を見ながら浅い呼吸を繰り返せば、震えた喉からはか細い吐息が漏れる。まだ太陽が昇るまでには時間があるが、再び眠る気にはなれない。

目元を手で拭い、汗で濡れた髪をゴムでまとめると、立ち上がって裸足のままリビングに向かった。扉を開いて手探りで電気をつけると一直線に冷蔵庫に向かい、勢いよく水を煽れば、からからに乾いた喉に冷たい水が染み込む。

「っは…」

空になったペットボトルを潰して大きく息を吐けば、喉と耳の奥で響いていた鼓動がようやく収まった。目を閉じて乱れた呼吸を整えれば、ずきずきと頭が痛んでいることに気付く。
思い出した日にはいつもこれだ、と嘲笑が漏れる。何年経っても、脳と体に染みついた恐怖は消えてくれない。

それから少しだけ落ち着きを取り戻したシルビアがシンクに手をついたまま顔を上げると、リビングの扉がゆっくりと開いた。どきりと心臓が跳ねるが、それを表情には出さないよう努めて冷静に装う。

「――まだ起きてたのか?」

プロシュートがシルビアを見て僅かに目を見開く。濡れている髪を見ると、どうやらシャワーを浴びていたようだ。確か今日は一日中いなかったから、つい先ほど仕事を終えて帰宅したのだろう。再び冷蔵庫を開けて水を取り出す。

「おかえりなさい。任務お疲れ様」

水を手渡そうと近寄ったシルビアを見て、プロシュートが形の良い眉を顰める。

「どうした」
「何が?」
「とぼけてんじゃねぇ。顔、真っ青だぞ」
「…そう?そんなことないよ、大丈夫」
「大丈夫って顔じゃねぇから言ってんだろ」
「ほら、最近暑くなってきたでしょ?ちょっと夢見が悪かっただけだから」
「…俺にそんな言い訳が通じると思ってんのか?」
「っ、」

シルビアはすぐ目の前に伸びてきた手に目を見開くと、反射的にその手を払い落とした。ごとん、と重い音を立ててボトルの水が床に転がる。驚いたような表情を浮かべるプロシュートを見て我に返り、困惑したように目を泳がせた。

「ご、めんなさい」

罪悪感から一歩後ずさる。しかしプロシュートはそれを気にする様子もなく、再び距離を詰めてきた。

「っ…!」

強い力で腕を掴まれ、大袈裟なほど華奢な体が震える。プロシュートはシルビアが逃げるよりも早く胸に引き寄せると、震える背中と後頭部に手を回した。同じシャンプーの匂いが鼻を掠め、強張っていた体の緊張がほぐれる。すぐ耳元で聞こえる鼓動の音と、まるで幼子をあやすように背中を叩く大きな手に、体の震えが徐々に収まっていく。

「そういう反応をする時は何があったのかだいたい想像はつく。無理に笑ってんじゃねぇよ」
「ごめん、なさい…」
「そうじゃねぇだろ」
「…ありがとう」
「よし、それでいい」

プロシュートはそう言うと片手でシルビアの首筋に滲む汗を拭った。ほっとしたのもつかの間、今度は別の緊張感がシルビアを襲う。離してほしいと胸を押し返すが、背中に回った腕の力は弱まるどころか、逆に息苦しさを感じるほどに強くなる。

「あの、私今すごく汗臭いから」
「なあシルビア」

呼ばれておずおずと顔を上げれば、思っていたより近い位置に顔があって驚く。

「前にも言ったが、お前は何でもかんでも一人で抱え込むな。俺はそんなに頼りねぇか?」
「別にそんなことは…プロシュートのことはいつも頼りにしてるよ」
「だったら」
「でも、私たちは仲良しクラブじゃない。…そうでしょ?」
「…それはあくまで俺たちチームの話だろうが。俺がお前に抱く感情はまた別のものだ」
「…」
「お前が甘え下手なのは知ってる。だったらせめて、泣く時くらいは俺を呼べ」

言いながら目尻に指先が触れ、どきりと心臓が音を立てる。上手く隠せたつもりでいたが、どうやらプロシュートには全てお見通しらしい。

「約束できるか?」
「で、でも…さすがにそれは迷惑じゃ…」
「それができねぇってんなら、このままキスすんぞ」
「うっ…」

頬を包み込まれ、額がこつんと当たる。あまりの近さに目を白黒させるシルビアの脳内はパンク寸前だ。

「(だって、でも、そんなこと言われたって)」

自分は情けなくて弱い人間だと言っているようなものじゃないか、と思う。プロシュートは決して損得勘定で自分に接しているわけではないと頭では理解しているものの、そんなことしたところで、一体彼に何の得があるのだろうか。
無償の愛は、ある意味シルビアが一番恐れているものなのだ。

何とか言い訳をして逃れようと考えているシルビアに気付いたのか、プロシュートは困惑する顔を上に向かせると、徐々に美しい顔を近づけてきた。

「あ、わ、わかった!わかったから!」

シルビアが半ばやけくそ気味で返事をすれば、固定していた手は案外簡単に離された。あからさまにホッとしたシルビアを見て思うところがないわけではないが、今はまだこれ以上踏み込むべきじゃないか、とプロシュートは肩を竦める。

「何か…プロシュートがモテる理由がわかった気がする」
「言っとくが、俺がここまで気に掛けるのはお前だからだ」
「さすがモテる人は言うことが違うね」
「シルビア」
「ご、ごめ」

照れ隠しを思いのほか強い口調で窘められ、反射的に謝罪を述べたシルビアだったが、目の前に端正な顔があることに気付くと、そのままの体勢で固まった。時間にしてほんの数秒の後、重なっていた熱と影が徐々に離れていく。

「……え…?」

口のすぐ隣に感じた熱に、思わず目を見開いて手を這わせれば、プロシュートは仕返しだと言わんばかりの顔で笑った。

「え…あの、今……えっ?」
「やっと顔色が戻ったな」

言われて咄嗟に両頬に手のひらを当てれば、血の気が引いていた顔はまるで発熱したように熱くなっていた。
未だ状況が理解できずに佇むシルビアを他所に、プロシュートは落ちていたボトルを拾い上げると、シルビアの頭を撫で、何事もなかったかのようにリビングを後にした。


「…びっくりした…」

扉が閉まる音でようやく我に返ったシルビアはぽつりと小さく呟くと、力が抜けたようにソファに座り込んだ。