10年前のアラクネー1

その日は朝から雨が降っていた。

濁った空から零れ落ちる大粒の雨が薄汚れた窓ガラスを強く叩く。
休日になると男と母は自宅で過ごすことが多かった。この日も例に漏れず例の二人は一階で何やら談笑しているようだ。時々女の笑い声がシルビアのいる二階の部屋まで届いてくる。

シルビアは膝を抱いて床にうずくまったまま数時間後の悲劇を想像して顔を歪めた。母の前では“心優しく娘想いの夫”を演じている男は、きっと今夜もこの部屋にやってきてシルビアに乱暴を働くのだろう。恐怖に体を震わせるシルビアを組み敷き気が済むまで犯し続けるのだ。

「っ…」

男のかさついた手が身体中を這う感覚を思い出しせり上がる不快感に口元を覆った。
男がこの家に来てからというもの、シルビアは永遠に覚めない悪夢を見ているような気持ちだった。いつまでこんな生活が続くのか。
無限にも思われた日々だったが、その終わりはシルビアが考えるよりもずっと早くにやってきた。

「――…っ!」

どんよりとした空気を切り裂くように家の中に大きな音が響き渡る。
物が落ちて割れる音。誰かが叫ぶ声。家の中を走り回るいくつもの足音。
シルビアはそれを銃声だとはすぐに認識できなかったが、家の中で何か異常なことが起きているというのはすぐに理解した。

「(…逃げないと)」

本能がそう告げる。きっと、あの悪魔のような男から逃れるチャンスは今しかない。――でも、一体どこへ?この広いネアポリスにシルビアを助けて匿ってくれる知り合いなんてどこにもいない。
恐怖と不安、そして僅かな歓喜で震えるシルビアの耳に、ギシッと階段が軋む音が聞こえた。それは誰かが―いつもならあの男が、気味の悪い笑みを携えて部屋に近付いてくる合図だ。

その音を聞いた瞬間、シルビアは弾かれたように立ち上がると錆びついた鍵を開け力任せに窓を開けた。より一層強くなった雨がシルビアの顔中を叩き、侵入してきた水滴が木の床を濡らしていく。あっという間に水浸しになった窓枠に手をかけて這い上がると眼下に広がるのは真っ暗な闇の世界だった。

シルビアは震える手足を誤魔化すように全身にぐっと力を入れた。勢いよく部屋の扉が開いた瞬間、びくりと跳ねた体が窓枠から浮き上がる。

「ッ!」
「おい、ガキが一人逃げたぞ!」

何とか両足で地面に降り立ったシルビアは一歩、二歩と進んで足が折れていないことを確認するとスピードを上げて走り出した。背後から聞こえる声に一度も振り返ることなく狭い路地を進んでいく。

「っはぁ、はぁ…ッ」

一体何が起こっているのかシルビアには皆目見当もつかなかった。ただ、今足を止めれば殺される。そんな確信に突き動かされシルビアは必死に足を動かした。だがばしゃばしゃと水が跳ねる音はシルビアの背後からも聞こえてくる。
服が水を吸って重たい。酸欠を起こしているのか頭もぼうっとするし、視界は激しい雨で霞んでいる。しかし背後の足音は遠ざかるどころかどんどん近付いてくる。

「あっ…!」

刹那、鋭い痛みが足を貫いた。体勢を崩し勢いよく地面の上に倒れ込む。

「うっ、」
「追いかけっこはここまでだぜ」

地面に倒れ込むシルビアに、トレンチコートの男が拳銃を向けた。銃弾が掠めた皮膚は熱を持ち、雨で濡れた地面にはぽたりと赤い血が垂れた。

「お嬢ちゃんに罪はねェが、あの男の家族は全員始末するように言われててな」

顔からさっと血の気が引き寒さと恐怖でガチガチと歯が震える。逃げ出そうにも雨に打たれて冷え切った体は思うように動かない。
男は可哀想なほど震えるシルビアを見下ろすとコートと同じ色のハットを深くかぶり直した。残酷な行為とは裏腹に、どこか気の毒そうに顔を歪めている。

「ろくでもねェ男を父親に持った自分の運命を呪うんだな」

――運命。これが自分の運命だというのか。

シルビアは徐々に熱を帯びていく足を見下ろしながら、奥歯を噛んだ。

「(あんな男のせいで…)」

自分は今から見ず知らずの男に殺されてしまうのか。
誰にも気付かれずに、呆気なく、まるで路地裏で死ぬネズミのように惨めな最期を迎えることになるのか。

恐怖に体を震わせながらシルビアはようやく全てを理解した。自分はこの世に生まれ落ちた瞬間から神に見捨てられていたのだ。だから母親に愛されなかったのも養父に乱暴を働かれるのも、帰る家を失ったのも。全て“仕方のないこと”だったのだ。だってそれが運命だったのだから。

「…―?」

そのとき、何かがシルビアの視界の端に映った。暗闇の中で何かがきらきらと光っている。そこかしこに散らばるいくつもの気配に目を凝らしていると、何かが膝を這いあがってきた。
それはまるで花のように鮮やかな色をした一匹の蜘蛛だった。
シルビアの命を待つかのようにじっと大きな目で見上げている。シルビアが手を伸ばせば“それ”は素直に手を伝って登ってきた。

「―ピンク、スパイダー」


「な…ッ!?」

シルビアがそう呟いた次の瞬間、暗闇の中から勢いよく白い物体――“糸”が吐き出された。四方八方から飛び出した糸は男の全身を拘束するとギリギリと締め上げていく。

「ッ…ま、まさかスタンド使いか…!?ぐあっ、」

首元に絡みついた糸がギチッと麻縄のような音を立てて締まった。ぷつりと切れた皮膚の上に赤い玉が滲み、雨に流されていく。糸はゆっくりと、しかし確実に男の命を削っていた。気道を圧迫し、内臓を締め上げ、血の巡りを止めていく。死の気配がじわじわと男を侵食する。

「かはっ…く…ッ、そ…!」

吐き捨てるようにそう呟いた男がだらりと力なく腕を下ろせばついに拳銃が重い音を立てて地面に落ちた。

「―そこまでだ」
「!」

背後から聞こえた声にハッとしたシルビアが力を抜けば、締め上げられていた男は呆気なく解放され地面に倒れ込こんだ。ついさっきまで側にあった無数の気配もいつの間にかなくなっている。
恐る恐る振り返れば、闇に溶けるような真っ黒な傘をさした男が背後に立っていた。傘の下から覗くターコイズブルーの瞳が真っ直ぐにシルビアを射抜く。

「ひゅーっ、はっ…―!ゲホッ…モス、キーノさ…っ」
「ち、近寄らないで…っ!」

男の足元に落ちていた拳銃を拾い上げモスキーノと呼ばれた男に向ける。男はシルビアを見下ろすと静かに口を開いた。

「お嬢ちゃんにそれが撃てるのか?」
「っ…」
「それは人の命を奪う道具だ。それでも引き金を引くことができるのか?」

言いながら一歩ずつ歩み寄ってくる。この場において優位に立っているのは明らかにシルビアの方だ。頭ではそうわかっているのに震える足は目の前の男を恐れるように一歩ずつ後退していく。ずっしりとした拳銃の重みで徐々に手が下がってくる。男はシルビアの正面まで来るとゆっくり手を伸ばし、彼女の手からあっさり拳銃を奪うと遠くへ放り投げた。震える手は素直にその行動を許してしまった。

「あ…」

放物線を描いて再び地面に落ちたそれを荒い息を繰り返すトレンチコートの男が拾い上げた。

「(もう…―ダメだ)」

絶望から全身の力が抜け、がくりと膝が折れた。濁りの無いターコイズブルーは相変わらず感情が読めない顔で見下ろしている。

「生きたいか」

頭上から降ってきた静かな声にシルビアは立ち上がることも忘れてぼんやりと見上げた。今この瞬間、自分の命はこの男に握られている。生かすも殺すも彼の意思で自由に決定されるのだ。
シルビアにはもう帰る家もない。例え今ここで生き延びたとしても、稼ぐ術を持たず頼れる大人もいないシルビアにはこの先養父に暴行されるよりもずっと残酷でおぞましい生活が待っているのだろう。そんな悪夢が続くなら…―もう、いっそのこと。シルビアは男を見上げて笑った。

「…そうかい」

男は小さく呟くと後ろで警戒したように拳銃を構える男に振り返った。ああ、もうすぐ楽になれる。シルビアは恐怖と寒さで震えながらも体の底から歓喜がせり上がるのを感じた。
天国とは一体どんなところだろうか。きっとそこはシルビアが持つ言葉では到底表現できないほどうつくしい場所に違いない。色とりどりの花が一面に咲き誇り、穏やかな風が吹き、清らかな水が湧き続ける。果たしてそんな場所があるのかシルビアは分からなかったが、きっとこのまま殺されればその場所に行けるような気がした。

「マカーリオ、このお嬢ちゃんを連れていけ」

その言葉は激しい雨の中でもはっきりとシルビアの耳に届いた。

「え…」
「こ、このガキをですかッ!?でもボスがこのことを知ったら、」
「どうせ殺す命だ。俺がどう使おうが、上に文句を言われる筋合いはねェだろ」
「そうは言ってもモスキーノさん」
「ど、どうして…?」

我に返ったシルビアが急いで立ち上がる。

「どうして殺してくれないの」

この地獄から解放されて素敵な場所にいけると思ったのに。どうして。どうして。神様はあまりにも残酷だ。これだけシルビアを不幸のどん底に落としておきながら、それでもまだ生きて地獄を見ろと言うのか。そんなことは誰も望んでいないのに。
今この瞬間、間違いなくシルビアにとっての死は贅沢で、神聖で、何より尊いものだった。だから取り上げられたのだろうか。死という願いすら神は叶えてくれないのだろうか。
ついに感情の処理が出来なくなって泣き出せば二人は可哀想なものを見るような目でシルビアを見た。それを見て、シルビアの中で張り詰めていた何かがぶつりと切れた。嗚咽を漏らしながら足首から昇ってくる強烈な痛みにしゃがみこむ。痛い。頭が、体が、心が。剥き出しになった足の甲から心臓の音と共に鮮血が流れ出した。ゆっくりと地面に広がる血溜まりの中で剃刀の刃が鈍い光を放っている。

「はっ…」

雨に降られ続けて体温は下がっているはずなのになぜか酷く体が熱い。

「…?」

すぐ目の前に感じた気配に顔を上げたシルビアはそこで僅かに目を見開いた。
銀色の髪から滴り落ちた滴が二人の間に落ちて弾ける。

「(死神、だ)」

待ち望んだ瞬間に、シルビアは胸の奥から熱い何かが込み上げてくるのを感じた。
彼女はこの時を待っていた。悪夢が始まった日から。一人孤独に生きていたときから。この世に産み落とされた瞬間から。

安心したシルビアが全身の力を抜けばざあざあと降りしきる雨の音と体を叩く鋭い痛みが徐々に遠退いていく。
ゆっくりと霞んでいく視界の中で見えたのは、まるで闇のように深い黒だった。