純真少女は桜草の夢を見る

忘れもしない、かつてないほどの恐怖を体験したあの夜―――
闇夜の中で美しく舞う後ろ姿は、一瞬にして私の心を奪っていった。そして今もまた私の前に立つ凛とした背中は、紛れもなくあの夜と同じものだった。



『ふう…』

大量の洗濯物を詰め込んだ籠を地面に置き、手に取った物から順にせっせと物干竿に掛けていく。

『(これが終われば屯所内の掃除と門前の掃き掃除…それからお昼の支度もしないと)』


私が"壬生狼"と呼ばれる剣客集団、新選組に保護(どちらかと言えば監視)されるようになってから早くも半年が経った。しかし半年が経過した今でも父様の行方は分からず、これと言って有力な情報も入ってこない。
一方の私も屯所の外には出られず、自力で父様の捜索に乗り出す事ができない状況にあった。そんな歯痒い生活に痺れを切らした私は、意を決して少し離れたところで素振りをしている斎藤さんに声を掛けた。

『あの、そろそろ父様を捜しに出たいのですが…』

刀を振る手を止め、チラリとこちらを見た彼は静かに口を開く。

『先日萩野からも進言されたな』
『翠さんが?』
『ああ。「いい加減今の生活は窮屈だろうから、巡察にでも同行させたらどうか」と』

翠さんは、云わば命の恩人だ。あの夜に彼がいなかったら、きっと私は今ここにはいないだろう。それでもやはり、思わずにはいられない。

『(―――私を助けなければ、捕まる事も無かったのに)』

初めにそう言えば彼は謝らなくていい、と笑った。私が無事なら結果はどうあれそれで良いのだと。確かに最初の内は正直、怖い人だと思っていた。
出会った時に彼が見せた冷酷な眼差しは、まるで人を殺す事を何とも思っていないような、そんな感じがあったから。それでも一緒に生活する中で彼が見せる優しさは、間違いなく本物だった。
そして私が彼に抱く思いは、いつしか友愛のそれではなくなっていることに気がついていた。

『翠さんも、外に出たいはずなのに』
『いや、あいつは…』

ぽつりと呟けば斎藤さんが何か言いたげに口を開く。けれど諦めた様に息をつくと再び刀を手に取った。

『人をおちょくるのが生き甲斐みたいな子だからね。別にそこまで不自由はしてないんじゃない?』
『沖田さん!』

いつからそこにいたのか、彼は柱に凭れかかる形でこちらを見ていた。

『君が洗濯物干してる辺りからいたけど?』
『ええっ!?そんなに前から…というか何故わかって、』
『君は思ってることが全部顔に出るからね。本当にあの子とは正反対』
『はぁ…』
『で?外に行きたいって?』
『はい、そろそろ自分でも父様を探したいと思いまして』

そう言えば彼は『どう思う?』と言いたげな視線を斎藤さんに送る。

『今は体調を崩している者が多く護衛の余裕がない』
『そうだよね。僕は別に同行してもいいけど、最低限自分の身くらいは自分で守れるようじゃないと』
『わ、私だって護身術くらいなら心得ています!小太刀の道場にも通っていましたし…』
『―――ならば俺が試してやろう』

えっ、と驚く私を余所に斎藤さんは言葉を続けた。

『遠慮は無用だ。どこからでも打ち込んで来い』
『でも、』

予想外の展開に処理が追い付かず、渋る私の腰元にチラリと目をやる。

『どうしても刃を使いたくないなら峰打ちで来い』
『〜〜っ、お願いします!』

柄に手を掛け引き抜けばすらりと刀身が現れる。ぐっと震える手に力を入れて、小太刀を身体の正面に構えた。



それはまさに、圧倒的な力の差だった。あまりの速さで見えなかった刀身を思い出し、今になって身体が震える。

『(これが、三番組組長の腕前…)』

驚異的とも呼べる斎藤さんの腕前に、ただ己の未熟さを痛感し項垂れた。

『(流石、各地に最強の名を馳せる剣客集団の幹部―――)』
『巡察に同行できるよう俺達から副長に頼んでみよう。師を誇れ、お前の剣には曇りがない』
『、え』

斎藤さんの思わぬ評価にぱっと顔をあげる。

『(彼の足元にも及ばなかったのに、それがどうして?)』

疑問を口にしようとした瞬間、聞き慣れた足音が近づいてきた。

「あれ?千鶴ちゃん相手に刀抜いて、何してるの?」
『翠さん!』

声が聞こえた方に顔を向ければ、案の定縁側にしゃがんで不思議そうにこちらを眺める翠さんの姿があった。日光を反射して輝きながら、さらりと肩に零れる綺麗な髪に目を奪われる。男の人とは思えないほど綺麗な目元に思わず見惚れると、翠さんは再度不思議そうに首を傾げた。

「で、何やってたの?」
『あっ、今斎藤さんに腕試しして頂いて…』
「はじめ君に?またどうしてそんなことを」

首を傾げた翠さん。すると沖田さんが一瞬斎藤さんの方にちらりと視線を送るのが見えた。

『私もそろそろ父様を捜しに行きたくて…自分の身くらい守れるという事を証明したかったんです』

そう言えば何か思案していた様子の翠さんが納得したように顔を上げた。

「ああ、そういうこと」
『君は僕が相手になるよ』
「遠慮しときます」

さらりと即答された返事に、不機嫌を前面に押し出した沖田さんが何で、と小さく呟く。

「俺、刀の扱いは"得意"だけど"好き"じゃないんで、悪しからず。千鶴ちゃんも無理はしないでね?」

ふっと笑って立ち上がった彼は呆然とする私に背を向けて遠ざかっていく。

『ほんと、気に食わないなぁ』
『えっ、沖田さん!?何して――!』

呟いた沖田さんを振り返れば、彼の手に握られているのは大粒の石。すると彼はそれを迷いも無く翠さんの頭目掛けて振りかぶった。危ない―――!そう叫ぼうとした矢先、宙を舞っていた石は翠さん本人の手でしっかりと受け止められた。呆れたようにため息をついた彼は不機嫌そうに振り返る。

「不意打ちとは、また随分と卑怯な手を使いますね」
『残念。抜刀してくれるかと思ったのに』
「こんな悪戯に抜刀する人間はまずいませんよ。ていうかもう今度からは止めてくださいね。こういうの、割と心臓に悪いんで」
『その割には随分余裕そうだったけど?』
「そりゃまあ、こんな石に当たって怪我しても言い訳が出来ませんしね。ああ、それから…無いとは思いますけど、千鶴ちゃんの可愛い顔に傷でも作ったら許しませんから」
『へっ?』

不敵に笑いながら振り向いたその顔に、心臓がドクリと音を立てた。じわじわと、頬が熱を持つのがわかる。

『ほんと、君ってこの子が最優先だよね』
「当り前でしょう?ここに来た時から、何時如何なる時も俺の最優先事項は千鶴ちゃんですよ」
『じゃあ、今から僕がこの子の相手をするって言ったら…当然君は見過ごせないよね?』
「そこまでして戦いたいなんて、とんだ戦闘狂ですね。卑怯を通り越していっそ清々しいですよ」

心底迷惑そうに眉を顰めた彼はくるりと方向転換しこちらに歩み寄ると、私を庇うようにして前に立った。

「じゃあ、沖田さんから一本取れたら俺の勝ちってことでいいですか?」
『随分と余裕だね。少しは怯える素振りくらい見せたら?』
「逆に聞きますけど、そんな相手に全力でぶつかりたいと思いますか?」
『僕は相手が誰であろうと殺すつもりで挑むよ。それが例え君でもね』
「…ま、そんなことだろうとは思いましたけどね」

ちらりと後ろを振り返った翠さんと目が合う。私はその瞳が一瞬、あの闇夜に見た冷たさと重なった気がして目を見開いた。しかしそんな想いとは裏腹に、彼は涼しげな目元を和ませてぽんぽん、と頭を撫でる。

「はじめ君相手によく頑張ったね。そんなに肩を落とさなくても大丈夫だから、自信持って?」

そう微笑んだ翠さんの髪が、生温い初夏の風に揺れる。目が痛くなるような刀身の輝きに、私は思わず目を細めた。