鬼さんこちら、手の鳴る方へ

「鬼の子を出産するっていうのは、やっぱり相当体力が無いと駄目なものかしら」

下腹部を擦って悩ましげにため息をつけば、畳一面に豊かな髪を広げる男が眉を顰めた。浅黒い素肌に刻まれた模様は今日も惜しみなく晒されている。

『マジかよ』
「嘘よ」
『ッお前なぁ…もう少しまともな嘘つけよ』
「じゃあ本当かも」
『あー…俺に思い当たる節が無いってことは、風間かぁ?』
「いやだわ、あの人が人間の小娘に見向きするとでも?それに私、千鶴ちゃんとは仲良くしていたいもの」
『いや、お前なら案外イケるかもしんねぇぜ?』
「それを褒め言葉だと思ってるなら認識を改めて頂戴。あんな横暴な鬼が旦那なんて絶対嫌よ。あの物言いを少しでも善処してくれるなら考えない事もないけど、あの男が女の為にそんな努力するとでも?絶対ありえない。そんな事が起こりようものならそれはまさしく天変地異ね。槍が降るかも。言っておくけどあれは千鶴ちゃんだからこそ成せる業よ。ああ、おぞましい」
『ほんとにお前あいつの事嫌いだな』

言いながらごろりと寝がえりを打った鬼の髪に触れる。いつ触れてみても腹が立つくらい綺麗な毛並みだ。

「(あの子は今頃どうしているかしら)」

思えば彼女ともかれこれ数年の付き合いになるが、まさか揃いも揃って鬼と添い遂げる事になるとは思いもしなかった。もっとも、彼女は元々”鬼”であるのだから正当な選択ではあるのだが。となると、必然的に何故自分がこの場にいるのかと問いただされるだろう。簡単な話だ。そこに私の意思は無かった。そう言えば人間も鬼も、大概可哀想なものを見るような眼で私を気遣ってくる。けれど私自身は早いうちから割り切ってしまっていたので何も思う事は無いのだが、今更言ったところで立場は悪くなるだけだし、彼らの同情を引くのだって案外悪い気はしない。とまあ、此処までの過程はともあれ、結果的に何の感情も湧かない驢馬顔の亭主と添い遂げるより数倍幸せな日々を送っている。

「あの鬼の相手をするなら、まだ貴方の方がいくらかマシよ」
『マシってなんだよ。てか風間と一緒にすんな』
「一緒のようなもんでしょ?京にいる時の事、忘れたとは言わせないわよ。新選組や天霧さんにどれほどの迷惑と苦労を掛けたことか」
『説教なら聞かねぇぞ』
「私はてっきり千姫様と結ばれるのだとばかり思ってたわ。だって貴方、見るからに嫁の尻に轢かれそうじゃない?亭主関白なんて糞くらえーって感じのお姫様なんてピッタリ」

千姫様とは千鶴ちゃんほど長い付き合いではないが、京にいる頃に意気投合してからはお互い気心知れた良き友人だ。

『お前絶対俺の事嫌いだよなぁ?そりゃ俺だって、出来るなら亭主らしく踏ん反り返っていたいもんだが、お前やあの姫さんが相手となるとそうもいかねぇんだよ』
「それでも、今の時代人攫いなんて流行らないわ」
『お前だって嫌そうにしてただろ』
「誰かさんのせいで折角舞い込んできたお話が破談になったのよ?我ながら勿体無い事をしたと思うわ」
『よく言うぜ。その相手を見る影もないくらい伸したのは誰だっての』
「少なくとも、誠実であるべきはずの娘さんはしないわね」
『じゃあお前は武家の娘じゃなかったってこった』

“気に入ったから連れ帰って来た”なんてどこぞの悪党じゃあるまいし、あの頃は私の意見を聞いて欲しいとも思ったがそれももう昔の事だ。この地での快適な生活を知ってしまった私としては窮屈な実家に帰る気など微塵も無い。しかしそれとこれとは別の話だ。彼の気まぐれとも言える行動に思うところがないわけではない。

「(…女って、本当に面倒な生き物ね)」

退屈を紛らわせてくれた彼には十分感謝してるし、数か月寝食を共にしていればそれなりに情だって湧く。だからこそ、証拠となるそれ相応の態度と、何より“言葉”が欲しいと思ってしまうのだ。

『あー…さっきの話だが、俺と試してみるか?』

不意を突いた彼の言葉に、反射的に開きかけた口を閉ざした。ゆっくりと言葉を選び、極上の笑顔で用意してあった彼への返事を返す。

「お断りするわ」
『んだよつまんねぇなぁ』
「だって貴方、純血の鬼を増やすために鬼の娘と交わらなきゃいけないんでしょ?」
『は?…まあ、そりゃ風間たちがなんとかすんだろ。それとも人攫いを働く鬼は嫌いだって?』
「私は貴方のこと大好きよ?旦那様ですもの、愛着くらいは湧いてるわ」

自由奔放で掴み所の無い殿方なんてまさに理想通り。それでいていざとなった時は頼りになるし、可愛さと(鬼の友達二人には理解できないと苦笑されてしまったが)無邪気さを兼ね添えていながら、妻を見守る寛大な心とそれに見合った逞しさも持っている。然程重要視するわけでもないが、それに加え莫大な財産なるものまで付いていたのだから驚くしかないなんて素敵な人に攫われたのだろうか。

幼い頃に何度も夢見て、周りからはそんな人間いないと言われ続け早数年。日頃の行いが良いせいか、どうやら神様(この場合は鬼様とも言う)が、私を見放す事は無かったらしい。結果的に運命のお相手は人間ではなかったわけだが、そこはまあ私の求める理想が人間の域を越えてしまったというだけで何も問題ない。

確かに鬼の世界にも旧態依然とした風習や慣習はあるが、頭領の気質ゆえか、不知火の家でその煩わしさに直面することは無かった。さすが高杉らと交流があっただけある。
要するに、居心地が良いのだ。むしろ良すぎて困っている。

『何で俺がわざわざお前を連れてきたのか、考えた事ねぇのか?』
「暇潰しか雑談相手か、はたまた一時の興味か…、趣味?」
『最後だとしたら俺確実に危ない奴だろ』
「失礼ね。どちらにせよ私に選択権は与えられなかったもの。だから、例え貴方がどんな危ない趣味を持ってても、私は寛大な心で全てを受け止める義務があるのよ。何をしても止める気はないけど、程ほどにね」
『…ほんと、何でこんな奴攫ったんだか』
「私が聞きたいわよ。まさか生きているうちに人攫いに遭うなんて思ってもみなかったわ。それも相手は鬼って…どこの世界のお話よ」
『その人攫いを選んだお前も相当だけどな』
「人聞きの悪い事を言わないで頂戴。私の目は確かよ。現に今の私は幸せだもの」

開け放たれた障子から、春の匂いを運ぶ風が二人の間を駆け抜ける。頬を撫でる風は思いのほか心地よく、いつか見た枝垂れ桜を連想させた。

『もう季節が廻ったのか』
「懐かしい人達でも思い出した?」
『ああ…単に気に食わないってだけで、自分より数倍もデカい男の顔面踏みつけた女の事思い出してた』
「あらいやだ、そんなはしたない事するなんて。何処かの矢場女かしら?」
『それが武家の娘なんだとさ。意志を貫くってのもあったらしいが、礼儀礼節を弁えるのも奴らの教えにあるんだろ?』
「礼儀礼節を弁えろ、女は泣くな、雨に濡れるな、爪はこう切れ化粧はああしろこうしろ、なんて。柄じゃなかったのよ。私ね、父と母の教えは納得していないものが殆どなんだけど、その中でも群を抜いて『三従』の意味がわからないの。だってそうでしょう?どうして従わなければならないの、って話よね」

ただ私は、思いのままに生きてみたかった。決められた武家の女としての生き様ではなく、自分がしたいと思った事をする。望んだ生き方をする。そんなありふれた自由が欲しかったのだ。

「だから、貴方を選んだのは運命だったと思うの。何物にも捕らわれない、自由な貴方が―――匡が、私の興味を引いた。貴方に攫われたとき、私の心も一緒に攫われていたのよ」
『…そうかよ』
「ええ」

言いながら肌に差す朱を指摘すれば彼は背中を向けてしまった。同時に揺れる髪にそっと触れれば彼が耳まで赤く染めている事に気付き、何故だか此方まで熱くなる。

『俺は人間の女になんて、興味の欠片も無かったんだよ』

暫く経ってから、大きな背中がぽつりぽつりと懐かしい日々を語るかのように言葉を紡いだ。

『俺ら鬼を抹殺しようとする種族は皆同じだと思ってたし、何より奴らに何の価値も見出せなかった。弱くて愚かで、一人じゃ何もできないと思っていた。だがある日、一人の女と出会った。女はしつこく見合い相手に縋られていたが、ついに我慢の限界だったのか男を蹴り飛ばしてこう啖呵を切った。“私は誰かのためじゃなく私のために生きる。自分らしく生きて、自分らしく死んでやる”って。俺はあんとき初めて知ったんだよ。一目惚れってのがこの世に存在することを』

耳に流れ込んできた言葉に、思わず数回目を瞬かせる。私の耳が正常ならば、今有り得ない単語が聞こえた気がする。

「雰囲気に酔うなんて、貴方らしくもない」

絶対嘘ね。心の中で呟いたつもりだったが、それはしっかりと彼の耳に拾われていたようだ。

『自分でもらしくねぇと思うが、今言ったのは嘘じゃねぇよ』
「…本当かしら」
『嘘でわざわざこんな木っ恥ずかしいこと言うかよ。大の男に蹴り食らわした挙句胸倉掴んで啖呵切ってる女に惚れたとか、俺だって信じたくなかったっての。高杉に言ったらあいつ膝叩いて笑ってたからな』
「ちょっと、何てことしてくれたのよ」
『けど、そんだけ啖呵切ったあとに真っ青な顔で立ち尽くしてる姿を見た時に、守ってやりたいと思った。…我ながら情けねぇと思うよ。鬼が人間に惚れて、拒絶されたくないから有無も言わさず攫ってきたなんて』
「…本当に嫌だったら、あの時自害してたわ」

護身兼自害用の道具を持つのは我が家の代表的な教えだった。

「往来であんなはしたないことしたわけだから家に戻っても間違いなく勘当されてたし、向こうのお家も決して私を許さないことが分かってたから、あの時現れた貴方のこと、本当に神様だと思ったのよ」
『んじゃ、俺は自惚れてもいいってことか?』

薄らと朱色を残して起き上がった彼の髪に手を差し込めば、癖のある髪が珍しく素直に従った。

「好きに決まってるじゃない。匡の事は心から愛してるわ」

ぴくりと揺れた肩が恨めしそうに振り向く。

『…じゃあ何で、子供は嫌がるんだよ?』
「(あら…)」

私の発言を気にしていたなんて、見た目に寄らず小さい事を考える鬼だ。それでも愛しいことに変わりはないのだけれど。

「さっきも言ったでしょうけど、貴方はもっと子孫繁栄の為に損得を考えるべきよ」
『俺は翠との子が欲しいんだよ。鬼の為だとか、そんなんじゃねぇ。愛した女との子が欲しいと望むのは、駄目な事なのか?』
「…原田さんみたいな事を言うのね」
『あー、あいつも同類みたいなもんだから…ってお前、あいつにそう言われたのか?』
「いいえ?永倉さんとお話していたのを聞いただけよ」

どこか安心した様子を見せる彼の背に凭れる。たったそれだけで落ち着かないように体を揺らす愛しの旦那様にふふっと笑って言葉を紡いだ。

「私もいつかは欲しいと思っているわ。大好きな旦那様との子ですもの。でも今はまだ貴方と新婚気分を楽しみたいのよ。こうやって二人で過ごす時間を大切にしたいの」
『念のために聞くが、嫌がってるわけじゃねぇんだな?』
「まさか。…ねえ匡、覚えていて頂戴。私がこの腹に宿すのは貴方との子だけよ。私、昔から体力と忍耐だけは自信があるの。貴方が望むなら、何人でも元気な子を産んであげるわ」
『あ〜〜〜くそっ!お前ほんとにいい女だな!男を喜ばせる天才か?』
「当然でしょう?貴方の妻ですもの」
『マジで攫って正解だったわ』
「そう思って貰えて何より。…でも、もし私の血が入ることで貴方の立場が悪くなるならそのときは『翠』…何でも悲観的に捉えるのは私の癖ね。善処します。何なら口を閉ざして三歩下がった方がいいかしら?」
『お前にそういうのは似合わねぇからやめとけ』
「じゃあ、三歩前?」
『ったく…お前はここが一番お似合いだっての』

若干乱暴に引き寄せられる肩に、未だ鮮明に覚えているあの力強さが重なった。