凛とせし冬景色に消ゆ

「そんなとこにいたら冷えちゃうよ」

頭上から聞こえた声に顔をあげれば、空と同じ色の隊服を着て沖田を見下ろす二つの瞳があった。雪が降り積もる真っ白な背景の中で、不思議そうに首を傾げた彼女の姿が一際輝いて見える。

『お帰り、翠。見回りはどうだった?』
「さすがにこの雪じゃ出歩く人もいないよ」

一つに束ねた綺麗な黒髪がさらりと揺れる。彼女が敬愛してやまない実の兄と揃いで整えられたそれに良い気がしないのは今更言うまでもない。何度忠告しても「絶対にやめない」の一点張りだったことを思い出し小さくため息をついた。翠を通して我らが鬼の存在を見ていた沖田だったが、隣に手招くと彼女は大人しくそれに従った。

「道中ではじめ君にすれ違ったけど、声を掛けても反応しないあの人を見たのは久しぶりだったなぁ」
『ということは、三番組の巡察は…』
「四條の渡瀬屋。食い入るように硝子を覗いてたよ」
『相変わらずだね。いっそ刀と添い遂げればいいのに』
「それ本人に言うと真に受けちゃうからやめてあげてね?」
『いくらはじめ君でもそのくらいの冗談は通じるでしょ』

そうかな、と笑顔を零した翠は、ふと思い出したように視線を空に向けた。

「さっき帰り道で見慣れた後ろ姿を見かけたんだよね。聞けば葵屋の妓女と馴染みになったとか。新八さん、いい加減左之さんと一緒に行くのやめればいいのに」
『あの人の中に一人で行くっていう選択肢はないんだよ、多分』
「ああ、そういうこと」
『左之さんがいるからこそ自分も視界に入れてもらえてるって理解してるんでしょ』
「…総司、何かされたの」
『別に?精々近藤さんからお土産で貰った金平糖を、丸ごとあの大食漢に盗られたくらいだよ』
「あー…私明日は祇園まで行くから帰りに買ってきてあげるよ。だから、あんまりその話で弄るのはやめてあげて」
『…そういうことなら、君に免じて今回は許してあげようかな』
「そうしてもらえると嬉しいな」

そう言ってごろりと縁側に寝そべった彼女を気に留める事も無く、澄み切った冬空を見上げる。

「なんか総司と二人でいると、多摩にいた頃思い出すなぁ」
『君、毎日のように竹刀片手に乗り込んできたよね』
「ええ、そうだっけ?」
『土方さんと近藤さんの制止を振り切って息巻いてたじゃない。「総司に勝てるまでやる」って。あの頃からじゃじゃ馬だとは思ってたけど、まさかここまで着いてくるとは思わなかったな』
「子供心ながら必死だったんだよ。置いてかれたくない、って」
『誰に?』
「試衛館のみんなに」

道場にいた頃から変わらず可愛がってくれる彼らは、翠にとって大切な仲間であり、家族だ。上洛して「純真無垢な少女」でなくなった翠を、それでも変わらず妹の様に可愛がってくれている彼らに対し、当然その想いは昔と変わらない。最初こそ刀を持たせることに反対していたものの、今や彼女は「なくてはならない存在」になってしまった。新選組という組織を成立させる上で、土方翠という人間は必要不可欠なのだ。それが、ここ最近身体の不調を感じる沖田にとっては苛立ちを感じるものでもあった。
『この子がいなくたって』心の中ではそう思っているものの、実際彼女は沖田以上の働きをしてくれている。なかなか外に出られない沖田に代わって一番組を率いているのは間違いなく彼女だ。それと並行して、激務が続く副長の補佐を立派に務められているのは彼女の優れた能力に他ならない。口応えばかりして命令を聞かない他人より、素直に従ってくれる実の妹のほうがよっぽど土方さんも安心するだろうと思う。至る所で男顔負けの能力を発揮する翠だからこそ、弱点は無いのかと探りたくなるのも頷ける。

『翠さぁ、最近好い人いないの?』
「え、この流れでいきなり?」
『そういうくだらない話も最近出来てなかったじゃん』

やけに真剣な顔をした沖田に肩を竦めた翠は、空を見上げたまま小さく言葉を紡いだ。

「一度だけ、恋と言える感情を抱いたことはあるよ。私が普通の女のままだったら、想いを告げてたかも」

驚いた様子の沖田を視界に入れた彼女はどこか気まずそうに目線を逸らすと溜息を吐いた。

「なによその顔。私だって恋の一つや二つしてるんだから」
『上洛してから?』
「うん。上洛してすぐ」
『へえ。誰?』
「直球で聞いてきたね。残念だけどそれは教えられないよ。あ、新選組の敵じゃないからそこは大丈夫だけど」
『今は?もう諦めたの?』
「んーどうだろ。会いたいかと言われれば素直に会いたいとは思うよ。でも、きっと彼は想い人と幸せに暮らしてるだろうから。そう考えると、自然と気持ちに区切りがつくんだよ」

よっ、と腹筋に力を入れて起き上った翠にちらりと視線を向ける。

『今は?そういう相手いないの?』
「いないよ。というか、今の私には必要ないの。今はただ、みんながいる新選組を守り続ける。私の望みはそれだけだから」
『傷つくのが怖いから逃げてるんじゃなくて?』
「まあ、それも全くないわけではないけどね。私一人が傷つくのであれば幾らでも受け止めるよ。でも好きな相手に同じ苦しみを与えることになったら、私は私を一生赦せなくなる。私の気持ちはそれくらい重くて、厄介なものだからね」
『へえ。それでよく離れる事ができたね』
「幸せそうに笑ってたから。ああ、この人は私なんかといるべきじゃないな、って直ぐに理解しちゃったんだよ。最初の頃は馬が合わなくて言い合いばっかりしてたのに、不思議でしょ?きっと私は、心の何処かで孤独な彼を助けたいと思ってた。でも、彼にはその強さがあった。一人でも十分立ち上がれる強さが。それにあんなに可愛い子に想われたら、気持ちは簡単に傾いちゃうものでしょ?」

陽の反射で目が痛むのか、過去を懐かしんでいるのか。黙って耳を傾けていた沖田は目を細めた翠を驚いたように見つめる。

『ねえ、それってもしかして』

思い当たる人物の名を口にする前に、彼女の冷えた手が口を塞いだ。

「それ以上言わないで」

お願い、と悲しそうな声で付け足された言葉にそれ以上踏み込めるわけもなく渋々引き下がった。自分もよく対立していたな、と過去の記憶をぼんやり思い起こせば、何故だか無性に苛々してくる。

『あんな嫌味な子に惚れるなんて、趣味悪すぎでしょ』
「ね、何でだろうね。気付いたら好きになってたから仕方ないでしょう?恋っていうのはそんなもんだし」

困った様に首を傾げる翠を前に、沖田は思わず眉根を寄せた。その気持ちを誰よりも理解しているからこそ、痛い位に彼女の心中がわかってしまう。そしてそれ故に、嫌でも気付いてしまうのだ。翠の心は、絶対に手に入らないのだと。

「誰もが笑って暮らせる平和な国ができるその時まで、私は刀を振るい続けるよ。例え周りからどんなに非難されようと、罵られようと、私は最後まで戦い続けるから」
『どうせ今更何かを言ったところで君は聞かないでしょ。…本当に、何処かの誰かさんとそっくりだよね』
「同じ遺伝子だから仕方ないでしょ?兄さんがこの組のために鬼になるつもりなら、私だって同じ気持ちだよ」

ふっと笑って立ちあがった彼女の背中で、黒い髪がゆらりと揺れる。

「早く風邪治さないと、一番組組長の座はもらうからね」

何度も見てきた華奢な背中に、この日初めて憎らしい背中が重なって見えた。