心臓は貫かれる歓喜を待っている

「千景、まだ雪村の女鬼に付き纏ってるの?」

老若男女問わず誰もが見惚れる美しい顔に微笑を浮かべながら襖を開いたのは、ここ最近目にしなかった風間の同胞であった。もっとも、同胞というには余りにも人間に近く貧弱な存在 (これは鬼が本来持つ武力を一切行使しないという点で) なのだが。

生まれ持ったある意味天才的な頭脳を鬼のため最大限に活用して全国を飛び回っている彼女だが、相変わらず目上の人間に対する口の聞き方を学んでいないようだった。少しはマシになって帰ってくるかと思ったがそうはいかないのがこの女か、と風間は翠にも劣らない美しい顔に笑みを浮かべた。

『そういうお前は随分不知火に嫌われてるようだな。いいザマだ』
「匡ちゃんってば中々素直にならないから」
『お前の目は節穴か。どう見ても嫌われてるだろう』
「天霧さん、私にもお茶を頂ける?」
『承知致しました』

翠が奥に控えていた天霧に目を移すと従順な家臣は恭しく頭を下げて席を立った。普段は風間の目付け役を務める彼だが、昔から不知火家の影の実力者には頭が上がらない。これは彼女が、やけに自尊心に溢れ無駄に人間に興味を持つ誰かが引き起こす厄介ごとを全て笑顔で引き受ける女神のような存在(または苦労人と名高い天霧の唯一の理解者)だからだと推測されるが、それとは別に何か思惑があるような気がしてならない。天霧の彼女への崇拝精神も大概だが、ここまで主の許可も無しに案内した家の者にもよく言い聞かせねばならないだろう。

『今日は一体何のようだ』
「用がなければ来ちゃ駄目なの?」
『出口はあちらだ。早急に帰れ』
「京の鬼姫様は雪村本家の女鬼…いえ、彼女の友人に対する貴方の態度に大変腹を立てているそうよ」
『ふん。俺の知った事ではないな』
「千景だっていい年なんだから、そろそろ謙虚さを覚えたらどうかしら。それに私だって何も用事がなく来たわけじゃないの。呼ばれたのよ、御台様に」
『…何?』

そこで初めて、鮮血のような赤色が訝し気に翠を視界に映した。

『どういう意味だ』
「貴方が母上様の頭を悩ませている案件と言えば、思い浮かぶのは一つでしょう?」
『…』

眉を寄せる風間に、やはり思い当たる節があるのだろうと認識した翠が苦笑を漏らした。
気配もなく襖を開けて入室してきた天霧が流れるような動作で彼女の前にお茶を出すと、そのまま静かに退室していった。それは翠に対する同情か、はたまた彼の最大限の応援か。聞くまでもなく、確実に後者である。湯気が立つそれを白い華奢な指が包み込んで持ち上げた。

「男って大変ね。その点に関しては同情するわ」

特に里を纏める立場ともなれば、必要とされるのは個の意思ではない。自由気ままに暮らしていると思われがちな鬼だが、この辺りは不自由な人間社会の在り方と何ら変わりないだろう。むしろこの点に関して言えば人間の方がよっぽど自由だ。

「それと別に関連したことじゃないけれど…ここの人、私のこと奥方か何かだと思ってない?」
『ついに頭も沸いたか』
「それを言うなら風間の奉公人よ。玄関で待ち構えてたと思ったら持ってたもの全部奪われた挙句、「若様は奥にいらっしゃいますから、どうぞお顔を見せてあげてくださいまし」って頷く間もなく通されちゃったわ」
『安心しろ。そのような間違いが二度と起こらないよう家臣共にはよく言い聞かせておく』
「一度で理解してくれる者達じゃないってこと、とうの昔に分かってるじゃない。…第一、天霧さんだってそうよ」

苦笑を漏らしながら艶のある黒髪を耳に引っ掛ける。大方翠の容姿に騙された男が贈ったのだろう、美しい装飾が施された簪が涼やかな音を立てて存在を主張した。

「私ね、嫁ぐなら人間がいいの。ただ人間ってだけじゃ駄目よ?古い慣習に捕らわれない、でも真っ直ぐ一本芯の通った人。この前匡ちゃんが紹介してくれた晋作ちゃんの仲間もいい人ばかりだったけど、長州の革新的な考えは私達鬼も見習うべきだわ」
『お前が可笑しいのは元からだったな。人間と縁を結ぶなど、理解に苦しむ』
「古い人たちの教えを大切にする千景を否定するつもりは無いけれど、そういう時代なのよ。全国の鬼もこうなることを予め予測して、今は殆どが人間と暮らしてるっていうじゃない」
『奴らはあくまで保身のためだ。人間とは対等であり、他の種族には決して屈しないという証明のな。貴様は人間に毒されて性根まで腐ったか』
「千景だって、京では意味もなく新選組と刀を交えたんでしょう?それこそ彼らは立派な人間じゃない。それとも何、彼らは別物だとでも考えてるの?」
『我が同胞である雪村千鶴が奴らの元にいた。理由はそれで十分だろう』
「私より付き合いが長い貴方なら、天霧さんが嘘をつかないってことくらい知ってるでしょう。ちなみに匡ちゃんは素直に教えてくれたけれど…やっぱりあの子は私の弟ね。風間の頭領より、よっぽど人間に対して理解があるもの」

勝ち誇ったような笑みを浮かべる翠から視線を外した風間は、彼女に気づかれないよう小さく溜息を吐いた。一を言えば十を返してくる翠の反駁は、実弟である不知火は勿論のこと、口煩い風間を一瞬で黙らせてしまうのに十分な効果を持っていた。幕府の役人を黙らせてしまうというのも納得できる。

「ちなみに私は、人と交わった鬼でも純血以下だとは思っていない。彼らは間違いなく鬼の血を継いだ同族であることに変わりないわ。…もしかして千景、婚約話を蹴ったから怒ってる?」
『自意識過剰もいいところだな』
「本人達の意思が反映される結婚なんて、今この世にどれだけあるのかしらね」

風間の里の影の権力者―風間が京に滞在している頃は実質この里の支配者だった―である彼の人はどうやら相当御立腹らしい。その原因としては多くのことが考えられるが、まず、彼女は翠を痛く気に入っていた。ゆくゆくは嫁にと発案したのも彼女だ。しかしその申し出を翠はあっさりと一蹴してしまったのである。最初の頃はそれも面白い、と笑っていた御台だったが、雪村の鬼が望み薄だと分るや否や再び彼女に目を付けた。今日翠が里を来訪したのも、里の規律たる彼女が呼び戻したからに他ならない。

当然、幼い頃より頭領としての教育を施された風間が実の母親に逆らえるわけもなく、かと言って有耶無耶にするわけにもいかない。いずれは直面する問題なのだから、ならば早々に決着をつけてしまおうという母の魂胆は痛いほど伝わってくる。

しかし結婚を推し進める母とは対象に、有力な正室候補として目を掛けられている翠は結婚やら里の規律やらに縛られることを毛嫌いしており、婚約話を蹴ったのはそのことが起因していると考えられる。実家である不知火の里にも年に一、二回帰省するだけの彼女が、嫁として家を守るという伝統的な妻の姿を好ましく思っていないのも、また原因の一つであるだろう。

彼女たちの性格的な相性は抜群だと里の誰もが理解しているものの、その反面、古くからのしきたりや本来の鬼の在り方を重んじる御台と、鬼としての自由が尊重される世―彼女の言葉を借りれば革新的な世界―を望む翠とでは、方向性の違いで対立することは火を見るより明らかだった。しかし、ここで重要視されるのは板挟みになっているかと思われている彼の主張である。結婚という過程で抜け落ちてはならないそれに、どうやら御台も気を遣っているようだ。そして恐らくは翠も、彼の答え次第でここまで引き延ばした答えをいい加減出さなければと考えたのだろう。

『お前はどう思っている』

それをわかっていながら、他人を陥れることを得意とする彼女の本心が聞きたいがために、風間はあえてこの質問をぶつけた。

「それは私の意見を求めているの?それとも客観的に見た評価?」
『前者だ』

言い切った彼に面食らったのか、翠は若干驚いたように目を瞬かせた。

「女鬼としての役目を全うするのは私の義務だとは思っているわ。でも、周りが薦めるままに結婚して子を授かるなんて真っ平御免よ。それは相手が誰であってもね。私、自分のことは自分で決めたいの」
『それが貴様の本音か?』
「好きに受け取ってくれて構わないわ。千景の意思も決まってないことだし、私の意見は聞き流すのが一番だと思うけれど」

言いながら畳に指をついた彼女を、風間が咎めるように目を向けた。

『まだ話は終わってない。何処へ行くつもりだ』
「八瀬の里に」
『八瀬だと?』
「ええ。明治政府の発足で不安定だった京も落ち着いたし、久しぶりにお千ちゃんに会いたいもの」

眉を寄せる美しい鬼の顔を認めた翠は吹き出しながら立ち上がった。

「心配しなくても御台様には私が言っておいたから、千景は好きにすればいいわ。京の鬼姫でも雪村の女鬼でも、はたまた別の鬼でも」
『待て』
「まだ何か?」
『あの方がそう簡単に貴様を行かせるはずがない。…貴様は何を企んでいる?』
「企んでいるだなんて。全ては貴方を思うがゆえよ。御台様も、そして私もね」
『身代わりを作れば俺から逃げられるとでも思ったか?』

水を打ったように静まり返る部屋の中で、翠が驚いたように目を見張った。

「…女の気持ちは分からない癖に、こういうときは頭が回るのね」
『貴様が分かりやすいだけだろう』
「貴方くらいよ。そんなこと言うの」

これ以上はぐらかすのは無駄だと踏んだのか、再び風間の前に腰を下ろすと溜息をついた。

「まず誤解しないでほしいのが、私は貴方から逃げようとしているわけじゃないわ。里にいれば嫌でも結婚話が出てくるでしょう?より良い血筋の鬼に嫁いで、子供を産む。里の中で育てられた女鬼たちは、そんな生活で満足できたのかもしれないけど、私は一度外の世界を目にしてしまった。伝統を重んじる鬼の考え方に異議を唱える訳じゃないけど、私はそんな生き方をしたくない。御台様との約束を果たした後は、里を抜けるつもりでいるわ」

そう言った彼女を鮮血のような瞳が射抜いた。普通の女であればたじろいでしまうところだが、そこは流石人間と長い間交流してきた翠。不機嫌そのものといった様子の風間を前に、尚も言葉を続ける。

「貴方も知っている通り、御台様には何度かお話をいただいたわ。お気持ちは嬉しく思うけれど、それはあくまで里のためであって当事者の意思なんてないでしょう?千景だって、本当に雪村の女鬼が欲しかったら強奪でも誘拐でもしちゃえばいい。そうしないのは、相手の気持ちが欲しいからじゃないの?」
『…やはり貴様は何もわかっていないようだな』
「どういうこと?」
『何故自分が母上に目をかけられているのか、考えたことは無かったのか』
「何故って…不知火なら家柄としても申し分ないし、風間とは良好な関係にあるからでしょう?私個人で言えば幕府に伝手があるから、里を外敵から守るために丁度いいもの」
『そこまで的が外れるといっそ清々しいな』

嘲るように笑う風間を目にした翠が、珍しく形の良い眉を顰めた。

「何が言いたいの?」
『何を勘違いしているのか知らんが、とっくの昔に答えは出ている。双方の気持ちがあれば御台様からの提案を承諾するのだろう?ならばあとは貴様の答えだけだ』
「…ちょっと待って、それ本気で言ってるの…?」

彼の言葉を理解したのか、翠が困惑した顔で呟いた。

「千景、焦りは禁物よ。急いて出した答えには後悔がつきものよ」
『俺はもとより冷静だ』
「だったら御台様の差し金」
『でもない。いい加減はぐらかすのをやめろ』

顔を上げた翠の眼前に迫るのは恐ろしいほど整った顔。それでいて燃えるような赤の瞳は獰猛な獣のように光っている。まるで、一度捉えた獲物は二度と離さないとでも言うような、本能的な欲望が垣間見える。

「っ…」

突然何かが頬を滑る感覚に、翠の肩がぴくりと跳ねた。

『何故俺が里を離れ、薩摩について多くの戦に手を貸してきたのか考えたことはないのか。貴様はもう少し自惚れるということを覚えた方がいいようだな』
「ほ…本気、なの?」
『俺が冗談を言うとでも?』
「少し時間がほしいわ」
『駄目だ。そう言って何年経ったと思っている』
「返す言葉もないわね…」
『誘拐も強奪もされなかったことに感謝するんだな』

強硬手段に出なかったのは、翠の気持ちが欲しいから。
その言葉でようやく彼の気持ちを理解した翠は首筋まで赤く染めた。

「…貴方のこと、何も知らなかったわ。子供の頃から知ってたはずなのに」
『これから知ればいい』
「…一つ聞かせて。私は、貴方の道具?」
『道具は主人に逆らわないだろう』
「確かに逆らうことはできないけれど…支配、はできるでしょう?」

頬に置かれた手にそっと手を重ねて赤い瞳を見つめれば、柔らかな金糸が額に触れた。
ほんの一瞬、唇を掠めた熱が恋しくなって。本能的に遠ざかる彼の裾を掴む。きゅっと唇を噛み締めた翠は、どこか期待するような眼差しで風間を見つめた。

「貴方は、私を支配する…?」
『この場合は、"できるはずがない"が正解だろうな。言っておくが、支配と独占は別物だと認識している』
「貴方はきっと、私よりも私のことを理解しているのね」
『今更気付いたのか』
「…千景が雪村の女鬼にご執心だって聞いたとき、少しだけ安心したわ。そしてそれ以上に怖くなった。いよいよ貴方にとって私の存在価値がなくなるのだと。…匡ちゃんやお千ちゃんからその話を聞いた私が、今までどんな気持ちでいたのか考えたこともないでしょう?」
『ほう?それは是非とも聞かせてほしいところだな』
「今日だけじゃ終わらないかも」
『だったら終わるまで、いくらでも聞いてやる』

するり、と。自然な流れで頬から下降した手は朱に染まった首筋を伝い、固く閉ざされた着物の合わせ目に掛かけられた。