美しくもない死を乞う

乾燥地帯特有の乾いた空気が走り抜け、無機質な廊下を淡く照らしていた蝋燭の炎が大きく揺れる。やがて真っ暗な闇が訪れるが、ナマエの視界は依然として良好なままであった。こんなところでも自分が人間をやめてしまったことを思い知らされ憂鬱になる。もっとも“やめさせられた”というのがここでは正解なのだが。

数か月前、一人でエジプトを旅行中だったナマエは星の美しい夜に一人の男と出会った。美しいブロンドに彫刻のような肉体。イタリア語で神を意味する名を名乗った美しくも妖しい男に導かれ、カイロにあるこの館にやってきた。しかしそれは決して彼女の意思ではなかった。いくら平和ボケしている日本人とはいえ海外ということでそれなりに危機感を持って行動していたし、何よりナマエの本能はこの男が危険であることを告げていた。だから当然あの時も「逃げる」という選択肢を選んだはずだったのだが、彼女の体はまるで誰かに操られているかのように言うことを聞いてくれなかったのだ。そしてナマエはその男――神というよりはむしろ悪魔と形容した方が正しい――DIOに言われるがまま、自分の持つ全てを差し出した。

「…今は何時なのかしら」

分厚い遮光カーテンで覆われた窓からは一筋の光も入ってこない。おかげで時間感覚はとうに麻痺している。館の中に常に狂気と闇が渦巻いているのもその要因の一つだろう。どれだけ素晴らしい造形美を誇ろうとも豪華な調度品で室内を飾ろうとも、ナマエにとってこの館が牢獄であることに変わりはなかった。
暗闇の中で絶命した女たちが廊下の脇に捨てられているのを見下ろす。そのどれもが恍惚とした表情のまま息絶えていて、喜びと幸福に包まれながらあの男に殺さたことが一目で分かる。恐らく自分もそうだったのだろうなとぼんやり考える。幸か不幸か彼女は殺される前に正気を取り戻したのだが。
この館を不気味たらしめる原因の一つであるカーテンで覆われた窓に向かって歩みを進めれば廊下に面する一部屋がゆっくりと開く気配を感じた。

「ちょ、ちょっとやだ、真っ暗じゃないの…」

背後から聞こえてきたのは女の声だ。ナマエはその声に振り向きもせず大きな窓の前に立つと、遮光用の分厚いカーテンを握って一気に左右に開いた。

「ひっ…!」

突如響いたレールが滑る音と明るくなった視界に驚きの声が上げる。暗闇の中で壁に凭れて怯えた表情を浮かべているのはナマエと同じ東洋人の女性だった。連れてこられて日が浅いのか衰弱した様子はない。女は明るくなったことで見えるようになった通路脇の死体に喉を引き攣らせながら窓の前に立つナマエに気付くと目を細めた。

「あ…っあなた、もしかして日本人…?」
「ええ、そうよ」

見知らぬ土地で同国者に会えた喜び。そしてこの館から抜け出せるかもしれないという希望に女が破顔する。

「ねえ、もし知っているなら教えてちょうだい。出口はどこにあるの?」

女はとても美しかった。若々しくハリのある肌も勝気そうな瞳も、気の強そうな性格もあの男が好みそうだ。

「――この突き当たりにある扉」

ナマエの細い手と共に女の視線が動く。

「その先にある階段を降りて右にまっすぐ進めばきっと玄関があるはずよ」
「そう、…わかったわ、ありがとう」

女はそれだけ聞くと艶やかな髪を揺らしながら走っていった。遠ざかる背中に呟く。

「…どうか無事に出られますように」

なぜナマエがこの屋敷に留まり続けているのか。女はきっとそれを疑問に感じなかったのだろう。ナマエはこれまでこの館から脱出を試みようとする女を幾度となく見てきたが、誰一人として達成できた者はいなかった。勿論それはナマエ自身も例外ではない。きっとあの女もこの迷宮から出る前に殺されてしまうだろう。そんなことを考えながら塵で曇った窓ガラスに手を置き、じわじわと焼き付けるような痛みを感じてため息をつく。

「そこで何をしている」

艶やかでありながら威圧的な声が廊下に響いた。彼が昼に動くなんて珍しいこともあるものだ。姿は見えないがすぐ近くに気配を感じ反射的に体が強張る。

「死にたいのか?」
「随分面白いことを言うのね」

ナマエは男の言葉に思わず笑みが漏れた。確かに彼女はあの夜”人ならざるもの”へと変貌した。だがそれはあまりにも不完全なものだったのだ。自嘲気味に笑いながら窓ガラスに触れていた掌を見つめればそこは薄っすらと赤くなり僅かな痛みは感じるものの灰と化さずその形を維持している。ナマエは吸血鬼でありながら人間でもあり、また人間でありながら吸血鬼の要素も持つ不完全な生命体だった。太陽の克服を目論むDIOにとってナマエという存在は確かに希望であったが、スタンドも発動せず人を殺すこともできない彼女は失望の対象であり致命的な欠陥でもあった。

「ここなら私は貴方から解放されるもの」
「このDIOから逃れるだと?」
「ええ。確かに私は弱くてちっぽけで何もできないけど、ここでなら貴方よりもずっと自由なのよ」

ナマエは知っている。DIOはスタンドと呼ばれる不思議な能力を持っていたが、日の下では満足に使いこなせないということを。

「―――テレンス」
「かしこまりました」

どこから現れたのか、彼の従順な世話係によってカーテンが閉められ再び闇が訪れた瞬間、ナマエは冷たい石の壁に叩きつけられていた。鮮血のような赤い瞳が威嚇するように細められる。瞬く間もなく目の前に姿を現す不思議な現象――これこそが彼の能力なのだという。肋骨が折れた痛みを感じて眉を寄せる。いくら化け物とはいえこの痛みばかりは何度経験しても慣れそうにない。

「今の私は気分が悪い」
「そう。楽しみにしていたデザートを横取りでもされたのかしら?それは残念だったわね」
「口の減らぬ女だ…」

瞬間、細い首に鋭い牙が突き立てられ快楽にも似た痛みが全身を駆け巡る。いっそこの身に流れる忌々しい血を吸い尽くし、身体中の骨を折って殺してくれればどれほど幸せか。しかし全身の血を抜かれたところで数時間もしないうちに回復するし、全身の骨を砕かれたところで待っているのは全身が燃えるような痛みだけ。その先にあるはずの死はどれだけ待ってもやってこない。とはいえ彼の強力な能力を以てすればナマエの存在を消すことなど容易いはずだが、残酷な悪魔は決してそれをしようとはしなかった。

首筋に当たっていた吐息がゆっくりと上昇してくる。ナマエは顔を背けることすら許されずされるがまま彼の口付けを受け入れた。

「はっ…ん、…っふ、」

呼吸すら許されず、まるで肉食動物が草食動物を捕食するかのような緊張した行為に背中に汗が伝う。せめてもの抵抗だと侵入してくる舌に牙を立てれば、突如として芳醇な香りが口の中に広がった。喉に流れ込んでくる甘美な味がナマエの化け物の部分を刺激して体が急激に熱を持つ。酸素が行き渡らない頭は思考が鈍り、視界は徐々に白く霞んでゆく。

「かはっ…あ、ひゅ、はあ…ッは…」

膝の力が抜けたナマエが冷たい床の上に座り込めば、男は肩で息をする様子を見下ろして満足そうに笑っている。息を整えて頭に酸素を送りながら、彼女は男を憐れんだ。なんて可哀想な男なのだろう、と。唇の端から零れた血を舐めとれば甘美なその味は彼女の舌によく馴染んだ。

「…あなたは寂しい人ね」

ナマエは出来損ないの自分が殺されずこの館に閉じ込められている理由に薄々勘付いていた。世界を支配する神になったところで、やってくるのは終わりの見えない孤独なのだ。

「何だと?」
「貴方は確かに強くて恐ろしい。能力だけでなくその美しさですら遥かに人間を凌駕している。けど、それ以上でもそれ以下でもない。貴方はまるで神のようだけど、決して神にはなれないのよ。この世のどんな生物より残酷で非情だけれど、一方で誰よりも孤独で寂しい人」
「貴様…」
「そうでしょう?だって、こんな小娘一人殺せやしないもの」

不快そうに歪んだ顔にくっと唇を釣り上げる。ナマエは再び首元に鋭い爪が突き立てられる痛みを感じ、そっと目を閉じた。



***



ナマエが次に目を開けた時、視界に映ったのは見慣れたブロンドと美しいエメラルドグリーンの瞳だった。ナマエの体質を気遣ってか僅かに開かれた窓から夏の爽やかな風が入ってくる。

「すみません、起こしてしまいましたか?」
「…いいえ。平気よジョルノ」

遠いカイロから意識を手繰り寄せたナマエは彼女が眠るベッドに腰掛ける美しい男に手を伸ばした。彫刻のような神々しさと崇高さは生き写しかと見紛うほどだが、優しく微笑む顔は到底似ても似つかない。その顔には確かにあの時見た母親の面影があった。雪のように冷たい手を包み込むように暖かな掌が重なり、滑らかな頬に導かれる。

「この暑さで流石に体も熱を持っているのかと思いましたが、やはり冷たいままなんですね」
「それでもこの体には貴方と同じ赤い血が通っているの。不思議よね」

ジョースターという者たちの手によってあの化け物が滅んだことでナマエはついに一人になった。DIOの呪縛から解き放たれ永遠の自由と孤独を手に入れたナマエがエジプトから遠く離れたこのイタリアの地で、DIOの息子であるジョルノと出会ったのは数奇な運命としか言いようがないだろう。美しく爽やかなエメラルドグリーンを見ながら毒々しいほどの赤を思い出していると突然握られていた手の力が強まる。

「ナマエ。今貴女の目に映っているのは誰ですか?」
「ジョルノ以外の何者でもないでしょう?」
「ええ、そうです。それなのに貴方は今他の男のことを考えている。…違いますか?」

美しさはそのままに、どこか鋭さを孕んだ瞳にくすりと笑う。

「怒った顔も素敵よジョルノ」
「はぐらかさないでください」

優しく笑って目を閉じれば小さなため息が聞こえた数秒後に柔らかなブロンドが額に触れた。角度を変えて何度も重なるうちに雪のように冷たいナマエの唇に熱が移る。

「ん…、ふっ…」

優しくもどこか余裕の無さが混在する口付け。まるで彼女の存在を確かめるよう頬に触れた手に力が入る。ナマエは身を委ねながら空いているもう片方の手を背中に回した。

ナマエは何も望んでいなかった。人の愛情や優しさを望めばいずれ孤独に襲われることになると薄々勘づいていたからだ。孤独に永遠を生きなければならないこの身は何も望んではいけないと分かっていたからだ。それなのに、ナマエは愛することを知ってしまった。愛する人と共に生きる未来を望んでしまった。そんな愚かなことを望まなければ、その先に待つ別れに恐怖し絶望することも無かったのに。

人間でも吸血鬼でもない中途半端な存在として永遠の孤独を生き続ける。
愛する者との別れに怯え続け、ただ心臓の鼓動が止まることを願う。
DIOがナマエに残したのはそんな消えない呪いだった。

「ジョルノ、今日は貴方のそばにいてもいい?」
「ええ、それは勿論ですが…珍しいですね、ナマエがそんなことを言うなんて」
「吸血鬼にも人肌恋しい時があるみたい。それにたまにはそんな日があってもいいでしょう?」
「むしろ毎日そうだと嬉しいんですけどね」

二人分の重みを吸収したベッドのスプリングが軋んで音を立てる。

ただ一人この世に残される不安と恐怖は確実に足元から忍び寄っている。
きっとこの先ナマエはあの男と同じように別離に恐怖し孤独に苛まれるのだろう。
ならばいっそ、そうなる前に。