アンダンテ・ラブ・ロマンス

例えばそれは、今まで何気なく聞いていた曲を突然気に入って何度も繰り返し聴くようになるような。
ナマエの心境が変化したのはまさにそんな感覚だった。
だからこそ、その変化を受け入れて納得するのも随分と早かったように思う。
昨日まで嫌いだった物が突然次の日には大好物に昇格していたといった劇的な変化ではなかったからそれも当然なのだが。
しかしあくまでそれはナマエの主観であって、彼はそうではなかったらしい。

まるで「明日は雨だって」という何気ない会話の流れで、「私、貴方のことが好きなんだよね」と想いを伝えられた男は、信じられないと言わんばかりに目を見開いていた。
まさに青天の霹靂。あるいは天変地異。そんな表現が正しいだろうか。
それにしてもまさかここまで驚くとは。
あまりの驚きように笑いが込み上げてきたナマエはけらけらと笑いながら手元のグラスを傾けた。

「そんなに驚くこと?」
「ああ…いや…まあ、そうですね」

相当困惑しているのか、珍しく歯切れの悪い男に笑みが漏れる。

「それとも私だけはナイって思ってた?」
「は?いや、そういうワケじゃありませんけど…」
「じゃあどうしてそこまで驚くのよ」

組織の同僚であり、たった今想いを告げたばかりのフーゴに詰めよれば、彼はようやく観念したように呟いた。

「まさかナマエが先に言うとは思わなかったんですよ」
「ふーん」
「…」
「……えっ、先?」

ワンテンポ遅れて反応したナマエが目を瞬かせる一方で、何かを察したフーゴがしまったと目を泳がせる。が、後の祭りである。

「フーゴって私のこと好きだったの?それっていつから?具体的にどこらへんが?」

カウンターテーブルに投げ出された腕を掴んで次々と質問を飛ばしてくるナマエにフーゴは呆れたように溜息をついた。

「まさかそこまで君が鈍かったとは…」
「鈍いってなによ、失礼ね」
「というか、だとしたら君はいつから……その、」
「いつからフーゴを好きかって?」

言い淀むフーゴから質問を引き継いだナマエは一気にグラスを煽るとにこりと笑った。

「昨日かな」
「……は?」
「昨日」
「き、昨日…?」
「そう」

思わぬ返答に聞き返せば、彼女はけろりとした顔で頷いた。

「フーゴ昨日、ナランチャに数学を教えてたでしょ?それを見て「あれ、私フーゴのことすごく好きかも」って思ったの。それまでは本当にただの同僚だと思ってたし、ぶっちゃけ恋愛対象として見たことはなかったんだけど。不思議なもんだよね」
「…そうですか」

フーゴがナランチャに数学を教える姿なんて、チームの中ではもはや日常の一部である。
それがなぜ突然恋愛に繋がったのかフーゴはわからなかったが、“恋愛対象として見たことはない”とはっきり言われ若干ムッとしている。
もちろんそんな変化に気付くはずもなく、ナマエは隣に向き直ると笑顔で首を傾げた。

「で、フーゴはいつから私のこと好きなの?」
「貴女には羞恥心というものがないんですか…」
「だって気になるじゃない。別に減るものでもないし、教えてくれたっていいでしょ?」

せがまれたフーゴは溜息をつくとグラスを手に取った。
まだ溶けきっていない氷がグラスの淵にぶつかって高い音を立てる。

「僕はナマエのこと割と初めから好きでしたよ」
「具体的にいつぐらい?」
「…さあ?」
「さあって」
「強いて言えばブチャラティが貴女を連れてきたとき、ですかね」
「…それ、つまり一目惚れじゃん。フーゴってば私のこと好きすぎない?」
「あのですねナマエ」

茶化されたフーゴがついにキレだすかと身構えたナマエだったが、予想に反して彼は穏やかな顔で笑っていた。

「仕方ないでしょう。気付けば好きになってたんだから」

驚いたように目を見開くナマエに気付くと、フーゴはハッとしたように視線を戻した。
そのまま静かに肩を並べてグラスを傾けていた二人だったが、ナマエがぽつりと呟いたことで沈黙が破られた。

「やっぱりさっきの撤回」
「…さっきの?」
「私がいつフーゴを好きになったのかっていう質問の答え」

言いながらナマエは空になったグラスを机に置いた。

「多分私も、結構初めの方からフーゴのこと好きだったんだと思う」
「何でそんな曖昧なんですか」
「だってさすがに昨日の今日でここまで好きにならないでしょ」
「それはわかりませんよ。世の中には、恋はするものではなく落ちるものだっていう人もいるくらいですから」

苦笑いを浮かべながら隣に視線を向けたフーゴは驚いたように飲む手を止めた。

「…ナマエ」
「なに?」
「貴女は本当に可愛い人ですね」
「いきなりなに、どうしたの。まさかもう酔った?」
「いえ、酔ってませんよ。それより今日はナマエの方が酔ってるんじゃないですか?」
「? 私はどれだけ飲んでも酔わないって、フーゴも知ってるでしょ?」
「ええ、もちろん知ってますよ。貴女はどれだけ飲んでも酔わないし、赤くならない体質でしたよね」
「…?」

何故か楽しそうに笑うフーゴを見て不思議そうに首を傾げるナマエの肌は、酔いではない何かによって首筋から耳まで真っ赤に染まっていた。