昔も今も変わらない

※現パロ



「…うそ」

この世の終わりを見たといった表情を浮かべた友人を前に、ドッキリの成功を確信した名前はこみ上げる笑いを我慢出来なかった。

「吃驚した?」
「ッじゃないでしょ!アンタ何やってんのよ!?」

純粋な問いを投げかけるも返ってきたのは悲鳴に近いお叱り。詰め寄ってくる彼女から身を引くが背後の障害に気付かず退路を断たれる。当事者でもないのに何故か顔を青くする彼女の視線はかつての自慢が切り揃えられた肩の上から微動だにしない。

「私が髪切るのがそんなにおかしい?」

誰よりも乙女心を理解している彼女だが、流石に女と定義するのも微妙な私の変化には頭が追い付かなかったらしい。関東一と称される美貌に複雑な表情が浮かぶ。

「だって、あの鬱陶しいほどの髪をよりによってそんなにバッサリ…」
「変かなぁ」

そこで初めて関東一の美女改め熊姫の渾名を持つ彼女と視線が交わった。呆れたように溜息を吐くだけに留めるのは流石長年の付き合いといったところか。

「…似合ってる。けど、違和感やばい」

彼女はいつだって正直だ。偽らない意見にくすりと笑う。

「褒め言葉として受け取っておくね」

その言葉にも微妙な表情を浮かべた甲斐は道を塞ぐ背後の椅子に音を立てて着席した。机に肘をつきじっと見つめてくる彼女から視線を逸らし、腰の高さにある机を椅子代わりに拝借する。

「何かあったの?」
「例えば?」
「あいつに何か言われたとか」
「鬱陶しいとは以前から何回も言われてたけど」

そういやそうだったわ、と遠い目をする甲斐に同意すれば返ってきたのは反駁を意味する接続詞だった。

「アンタだって気に入ってたじゃん」

くすりと笑う。彼女の鋭い指摘はごもっともだ。でもそれ以上に、

「あそこまでのびると、普段の生活も大変なんだよね」

和式トイレに入る時は自分の髪で床をお掃除する羽目になるから纏めて持ち上げるか首に巻き付けなきゃいけないし、起き上がる時に髪を踏み敷いて転ぶハプニングは割と高確率で発生するがゆえに深刻な悩みでもあった。その上無駄にシャンプー代はかかるわドライヤーは一苦労だわ肩は凝るわ夏は暑いわで正直欠点しか見えてこない。老いとは無縁な年齢詐欺の父親に「それ、いい加減どうにかしたら?」と真顔で忠告を受けたのは一度や二度ではない。
そんな過去の苦労を振り返りながら頷いていると、眉間に皴を刻んだ彼女は低く唸った。

「天変地異だわ…」
「そこまで?」
「小少将がサラッサラのストレートにしたら同じ反応するかも」
「いやそんなの私でもビビるわ」

隣のクラスに在籍する妖艶の極地とも言うべき姿を思い出す。世の女性誰もが羨むボンキュッボンの体形維持の秘訣伝授は名前も以前から何度か打診していた。もっとも彼女とはあまりにも正反対の貧相な体付き故に可哀相な物を見る目で追い返されるのが常なのだが。しかしそんな彼女、美的センスが常人では理解できない範疇にあるのもまた事実であった。男性と言わず女性ですら虜にしてしまう悩ましいスタイルを持つ彼女だが、それ以上のチャームポイントとなっているピンクのアフロ――一体何世代前のトレンドかはわからないが本人は随分と気に入っているらしい。遠目でもよく目立つ――の良さは名前には一向に理解できなかった。キャンディー数十個が収容可能であろう例のモノを思い出していれば、脳内補正によりピンクのアフロが次第にストレートに変化していく。完全な直毛になる前に頭を振り想像を追い払えば、自分の肌が粟立っていることに気付く。あれを最後まで見てしまえば次彼女に会った時は確実に笑ってしまっていただろう。危ない。

「おはよう甲斐」

いつ登校していたのか、その声と共に大和撫子を彷彿とさせる黒髪さらさらストレートヘアが華奢な背中で揺れる。それを見た親友は嬉々として立ち上がった。

「姫様ッ!丁度いいところに!」
「熊姫サマは朝から元気ですなあ」

早川ちゃんに続いて入ってきたくのいちが肩を竦める。

「いいからこれ見なさいッ!」
「えっ」

勢いよく腕を引かれバランスを崩して床に着地すればそのままの勢いで並んだ二人の前に突き出された。やることが荒っぽいのはいつものことだが少しくらい手加減してくれてもいいだろう。腕が痛い。
一方で突然目の前に付き出された女子生徒を見た早川ちゃんとくのいちの視線はまず顔へ向けられた。次第に不思議そうな視線は頭の上から貧相な胸を通過して爪先へ。最終的に肩上に落ち着いた二対の目はみるみるうちに細められる。眉間に皴を伴って。

「……どちら様?」
「えーっと…もしかして、名前ちん?」
「もしかしなくてもその名前です」

逸らされることのない瞳は尚も肩の上。沈黙が痛い。

「あの二人とも、何もそこまで見なくても…」
「これが正常の反応よ」

それにしたって見過ぎじゃないか。そろそろ本格的に穴が開きそう。というかこの美女たちにサンドイッチされるとか視線が痛い。主に男子の。振り返って甲斐に文句を垂れていると背後で二人が唸る気配を感じた。

「名前、貴女また思い切ったことを…」
「本当に、思い立ったらその勢いだけで行動しちゃうんだから。猪突猛進で後々後悔するのは目に見えてるっちゅーに」
「それ甲斐が言っちゃうの?え、まさかの自覚ナシ?」
「でもよく似合ってると思うわ。とても新鮮よ」

フォローを忘れない早川ちゃんは友達の鏡である。

「でも名前ちん、ちょーっとは後悔してるんじゃないすか?あんなに毎日お手入れしてたんだから」
「んー…まあ、そりゃ多少はね」

すかさず甲斐から「それみたことか」と言わんばかりの視線が飛んでくる。しかし彼女が口を開くより前に肩上で揺れる髪を弄りながら正直な感想を述べた。

「あんだけの量が出たなら毛筆でも作って売れば良かったなーって」

続いて降ってくるのは沈黙。今回ばかりはさすがの早川ちゃんもフォローできないようでその綺麗な顔には苦笑いを浮かべている。

「さすが名前ちん…ブレないっすねぇ」

でしょ?と得意げに笑えば呆れた甲斐が腕を組む。出しっぱなしの椅子に腰掛ければすぐさま詰め寄ってくる美女の迫力は凄い。

「で、結局のところどうなの?」

白状しろと言わんばかりの鋭い視線。気付けばくのいちや早川ちゃんまでもが周りを囲んでいて、どうやら知らない間に逃げ道は断たれていたらしい。こういうときの女子の連携は凄い。さてどう言い訳しようかと思案していればそんな心を読んだかのように両肩に手を置かれる。純粋な心配と乙女心からの興味が半々くらいに滲んだ視線に一つ溜息を漏らし重い口を開く。

「…馬鹿に、されたから」

三人が顔を見合わせる。

「毎日のように馬鹿にされてるじゃない。何を今更」
「ちょっと、その言い方だと私がドМみたいじゃん」
「でも事実っすよね?」

くのいちに話を振られた早川ちゃんまでもが頷く。

「うん、じゃあもうそういうことでいいや。それでその…噂を、少し聞きまして」
「噂?」

首を傾げる早川ちゃんの隣でくのいちが閃いたとばかりに顔を上げる。

「それってもしかして、高慢不遜な生徒会長が大絶賛してた彼女?」
「はぁ?」

学年一の情報通ことくのいちの推測に、甲斐が勢いよく肩を掴んでくる。

「あんた、まさか出所不明な上に信憑性ゼロな、あの噂信じたの?」
「私だって兼続に言われなければ信じなかったわ」

それに火のない所に煙は立たない。

「だってあれ、絶対私のこと馬鹿にしてるでしょ!?誰もが振り向く美貌?ハッ、一回眼科行ってこい!ってレベルだし、ましてや才女でも器量よしでもないし!」
「噂なんて宛てになんないわよ。どこで尾鰭背鰭がつくかわかったもんじゃないでしょ」

所詮伝言ゲームと同じだと力説する甲斐。

「でも、どうしてその噂で名前が髪を切る必要があったの?それに話自体だって間違ってないんじゃないかしら」

純粋な疑問を投げかけてくる早川ちゃんに答える前に甲斐が遮る。

「噂の美少女と現実にギャップがあり過ぎて、どうしようかと考え抜いた結果の愚行です」
「『あれが噂の?うわ、あれはないでしょ』とか指差されるのなんて真っ平御免!」

嫌がらせにも程がある。

「それにしたって過小評価じゃない?実際、名前はとても魅力的だと思うけれど」
「彼を知り己を知れば百戦危うからずって言うでしょ?自分のことは自分が一番知ってます。それに、期待した分落胆も大きい」
「ダメですよ姫様、この子吃驚するほど自虐趣味持ってるんで」

ここまできたら何を言っても無駄だというのは恐らく付き合いの長い彼女が一番よく知っている。

「でもまさか、そんな嘘かホントかわかんないような噂が原因だったとはね」
「だってどう考えても嫌がらせだとしか思えないでしょ」

しかしまさかこんな回りくどいやり方で精神を削ってくるとは思わなかった。もっともあの男らしいといえばそれまでなのだが。結局惚れてしまった方が弱いわけで、今回の件だって奴が仕組んだ罠にまんまとハマった名前が悪い。

そこまで考えてふっと笑みが漏れる。あの頃に比べると私たちの関係は面白いくらいに変わってしまった。見ているこっちが胸焼けするような空気を醸し出す浅井夫婦も、ツンデレ嫁が可愛くて仕方ない立花夫婦も、鴛鴦夫婦を地で行く信之殿と稲ちゃんも、何も変わっていないのに。

「前世の所業かな、なーんて」

顔を見合わせる友人達に笑いかける。もっとも、それだって今となっては笑い話だ。


***


最終下校を知らせるチャイムは名前しかいない図書館によく響いた。
校門に歩いていく集団の声を聞きながら分厚い冊子を閉じすっぽりと空いた隙間に収める。隣の椅子に置いておいた鞄を持ち上げると慣れた動作で西陽が差し込む窓を閉め、机に放置していた鍵を取り扉に向かう。立て付けの悪い扉の施錠にはいつも苦労する。なんとか閉まったのを確認すると、そのままの足取りで北館と本館を繋ぐ渡り廊下に足を向けた。

少し進めば見えてくるのは文化部の活動ですら使われない資料室やら社会科準備室といったプレートが掲げられた部屋。その最奥、一際大きな両開きの扉の前に立ち、控えめに訪問を知らせる。が、当然返事はない。鞄を持ちなおし、いつものように片側だけを押し開けて体を滑り込ませる。

入ってすぐ視界に飛び込んでくるのは綺麗に整頓された事務机。と、その上に積み上げられた書類たち。ペンで綺麗な文字が書き込まれているのを見る限りこれはもう処理済みらしい。相変わらず仕事が早い。
続いて部屋の中をぐるりと見渡し、扉の正面に配置された大きな机で双璧を成す白い山で視線を止める。山積する書類の間で黙々と作業を進める姿に苦笑を漏らせば、その音はよく響いた。絶え間なくペンが紙の上を滑る音以外、この部屋には何も聞こえない。

「お兄ちゃん」

呼び慣れない呼称に上げられた視線は一度交わっただけですぐに逸らされた。現代でも妹を持っているからか、反射的に反応してしまうらしい。しかしその対象が自分でないとわかるや否や、終わりが見えない作業が再開された。

「…何だそれは」

しかしどうやら突然変化した名前に違和感はあるらしい。投げかけられた質問に笑い、髪を持ち上げる。

「イメチェンしてみた」

その言葉には肯定も否定もない。尤も「どう思う?」と聞いたところで返ってくるのは嘲笑だけなのだが、今回ばかりは名前のなけなしの乙女心と加虐心が僅かに勝った。

「ねえ、何かないの?」
「精々性別を間違われぬよう気を配ることだ」

間髪入れずに返ってきたのは思わず拳を握ってしまう正論。それも嘲笑のオマケ付き。だが密かに貧乳を気にする名前には大打撃を与えた。

「…この反応どう思う?」

一つ下の役職に就く彼の友人に助けを求めると美しい白群が名前に向けられた。

「見慣れぬ故多少の違和感はある。が、俺はその髪型も良いと思う」
「ほんと?」
「俺が嘘偽りを好かんということは名前も良く知っているだろう」

微笑みながら感想を述べる彼の優しさに涙が出そうになる。

「ふん、世辞にも気付かぬとは呑気なものだ」
「ほんっとお前は空気ぶち壊すの好きな!」
「三成」

皮肉屋を制するようにペンの音が止まれば高慢不遜な彼も不満げな返事で応じる。今世でも意見できる唯一の存在は相変わらず頼もしい。

「頭の良いお前ならもう少し遠回しな表現ができるはずだ。思ったままを口にすれば反感を買うというのはわかるだろう。特に三成、お前の言い方は特にだ」
「……えっ」

そっち?真正面からばっさり切ってくれる批判自体に異論はないの?思わず視線で訴えかければ、全てお見通しな彼は目元を緩めた。

「お前が世辞の一つでも言えるようになれば、俺の苦労も少しは軽減されるのだろうな」

気の置けない友人の忠告に眉を顰める三成。の、前で突然の裏切りに遭い拳を震わせる名前。

「上げて落とすとか何なの」
「人によって価値観は違うものだからな、他人の感性にとやかく言うべきではないだろう。もっとも俺がその髪型を似合っていると感じたのは事実だが」
「それを差し引いても、飛び抜けて見目が良いというわけでもない。俺は客観的且つ公正に評価しただけだ」

正論だけにムカつく。そして確信する。あの噂、絶対嘘だ。
彼の友人もこれ以上の関与は面倒だと言わんばかりに顔を背けた。え、諦めるの早くない?
呆然と立ち尽くす名前を残し黙々と仕事を進める彼らの顔は真剣そのものだった。仕方なく会長職の彼に近寄り、机に出来上がった山にため息を吐く。

「ていうかこの量どう考えてもおかしいでしょ」
「そう思うなら手伝え」

いちいち癪に障る言い方である。悲しいことにこの高圧的な男に青筋を立てる時期はとうの昔に終わったのだが、聞いたところによると純粋な後輩役員のメンタルは毎日着実に削っているらしい。剣道部主将を兼任する情に厚い会計と、日々至る所で愛と義を説く庶務の仲裁で今のところ辞職者は一人もいないようだが、この様子ではそれも時間の問題である。名前にもそれとなく打診はあったが、面倒事は勘弁だと公言していたのに加え優秀な兄の出馬のおかげで辞退は楽なものだった。複雑な家庭環境(大嘘)も一役買ったと言えるだろう。

秋の恒例行事が重なり時期的に忙しいのはわかるが、それにしたってこの量はおかしい。見れば諸分野の暫定予算が見積もられた書類がどっさりと鎮座している。いや、これどう見ても秀吉様の仕事だよね。
相変わらず彼らに全面的な信頼を置いているらしいかつての養父を思い出し、思わず苦笑が漏れる。

すると名前の背後で突然パイプ椅子が音を立てた。皮肉屋に物申し、かつ制裁を与えることができる数少ない友人はどうやら本日分のノルマを達成したらしい。

「もう帰るの?」
「ああ、任された分は終わったからな。それに俺がいては邪魔だろう」

首を傾げる。むしろ邪魔なのは私だと思うのだが。そんな心か流れだかを読んだ彼は今世でも唯一見えている目元を緩ませた。

「先に帰っている」
「うん、夕飯までには帰るって言っといて」
「ああ、わかった。帰りは気を付けろ」

くれぐれも、と副音声がつきそうな彼に笑う。相変わらず過保護だ。

「分かってるよ、お兄ちゃん」

呼称を強調すればその顔に浮かぶのは面白そうな笑み。

「やはり聞き慣れぬな」
「私も」

まさか吉継を兄と呼ぶ日が来るとは思わなかった。
それは私たちの友人知人も例外ではなく、前世から関わりのある彼らは酷く驚いたものだ。あの顔は今でも忘れられそうにない。中でも藤堂先輩は群を抜いていたと思う。

今世でも全体的に白い兄を扉の外に見送れば、二人しかいない部屋は耳鳴りがしそうなほど静かになった。といっても先程まで生徒会室にいた吉継が特別お喋りなわけでもないのでそれは名前の心理的な問題だろうが。しかしそんな気まずさも意に介さず、三成は立ち尽くす日本人形を鼻で笑った。

「やはり似合わんな」
「そんな何回も言わなくても理解してる」
「何を早まったかは知らんが、吉継の言うように馴染みのない容姿に違和感を覚えるのは当然だろう」

敬愛する今世の父親から受け継いだ唯一の自慢であったことは彼もよく知っている。もっとも、誰かさんのせいでその自信は真っ二つにへし折られた挙句粉々に砕かれたわけだが。

「確かに、髪の長い女の子は魅力的だもんね」

皮肉たっぷりに呟いて肩の上で揺れる髪に触れれば、某大河ドラマの主人公を彷彿とさせるそれは枝毛一本見当たらない自慢の質を誇っていた。

「短いよりは長い方が女の子らしいし。器量良しな才女なら尚更」
「…誰から聞いた」

やけに遠まわしな肯定に針が刺さったような痛みを覚える。その口から飛び出るのは辛辣な評価だけだと思っていたから、まさか彼にそのような一面があったとは正直驚きだ。

「女の子の噂は風より早いみたいだからね。ていうか別にそんな回りくどい言い方しなくても、直接言ってくれれば髪と言わず腐れ縁だってすぐに切、って…」

続くはずだった言葉は不自然に途切れる。散らばったパズルのピースが埋まっていくように、名前の頭の中で噂の真偽が素早く組み立てられていく。

思えば噂には不可解な点が多かった。そもそも彼がああまで絶賛する意味がわからない。
あんな噂を流す利点は?日頃から煩わしい人間関係は御免だというのにそんな彼が噂を容認した真意とは?いや、もっと言えば途中の脚色はあれど今回の原因は全てこの男だというではないか。
そこまで考えて辿り着いた答えにハッと目を見開く。
あれが嫌がらせなどの他意はなく、ごく純粋な賞賛と自慢だとしたら。
すとんと胸に落ちた事実は思いの外大きなダメージを与えてきた。だって、それはつまり。

「(同一人物じゃ、ない…)」

本命が噂に聞いた才女で、遊びが勘違い甚だしいこちら側だったというわけだ。成程それならば辻褄が合う。が、問題が一つ。

「(なにそれ恥ずかしい…)」

身の程知らずもいいところ。自惚れも大概にしろって感じだ。急速に顔に集まる熱を感じ自然と視線も下がっていく。

しかしそれも仕方のないことだろう。前世からずっと彼は硬派だと信じ込んでいたのだから。まさかこんなところで改変するとは誰も思わない。
するとずっと俯きっぱなしだった名前を不思議に思った三成が立ちあがり一歩踏み出す。その音に反応して両手を前に突き出すまでは早かった。

「あの!別に…その、結婚前だしそれはいいと思うんだけど、世間的にあんまりいい顔はされないっていうか……やっぱり相手はちゃんと選ぶべきだと思う。あ、いや、噂の子じゃなくて私のことね!いくら身近で騙しやすそうな女だって言っても私結構引き摺るタイプだし、ムカつくとすぐ殴り飛ばしちゃうし、昔の考えそのまんまだから超古風だし、色んなところで面倒くさいし」

喋りながら心の中で思う。自分ほんとろくな人間じゃないな。
お陰で頭の中で纏まらない拒絶はやみそうにない。とにかくこれが惨めな思い上がり女からのアドバイスだと言えば、彼は吊り上がった柳眉を盛大に顰めた。どんな顔をしてもその美形は崩れないのだからこれまた腹が立つ。恐らくその後に続くはずだった文句を飲み込んで浮かべたのは呆れたような、それでいてどこか困惑したような表情だった。

「お前が何を勘違いしているか知らんが、あれは」

逡巡しながら唇を一度閉ざすと、代わりに漏れたのは小さな溜息。心なしかその顔は赤い。

「…お前の他に誰がいるというのだ」
「…………」

は?

辛うじて声は出さずに顔で驚きを表現すれば、彼はちらりとこちらを見て不服そうに眉を寄せた。

「顔も知らぬ女から立て続けに文が届くなど気味が悪くて仕方ない。それも犯罪を仄めかせるものであれば尚更だ。その上毎日のように付き纏われては、あれが最良だと思ったまでだ」
「…そんな物好きがいたの?」
「お前ほどではないがな」

それはそうだけど。

虫除け(彼曰く)に使われたと知りながらそれでも嬉しく感じる自分がいるのだから、乙女心とは何とも複雑なものである。

「それで、くだらん誤解は解けたか」
「…あと、一つだけ」
「何だ」
「その…やたらと脚色されてるのは何で?」

愛に煩い共通の友人のせい?彼に悪意がないことはもはや周知の事実だが、純粋かつ善意の塊だけにまた面倒なのだ。そう言えば腕を組んだ三成が「何を言っているんだ」という目で見降ろしてくる。

「お前にどう曲解して伝わったのかは知らんが、兼続を経由したということは上杉まで話がいったのだろう。つまりそういうことだ」

そこで上品に笑う上杉の要である美女――現在の英語教師を思い出す。越後に行く度に散々扱かれ…否、愛を説かれたのが懐かしい。ていうか、綾様と兼続なんて愛の最強タッグじゃん。確実にそこじゃん。絶対そこでいらんこと付け加えたじゃん。

「…ごめん、全部把握した」
「どうやら、全てお前一人が暴走したというだけの話だったな」

ぐうの音も出ない。が、少しくらいオブラートに包んでほしい。流石の私でも今はキツい。

「第一、馬鹿の相手は片手間では務まらんだろう」

小さな声が聞こえた瞬間、弾かれたように顔を上げてしまった。ちらりと見えた耳はやけに赤くて、こっちまでつられて熱が集まってしまう。
彼はこんなに、素直に胸の内を明かすような人だったか。

思えば三成とは豊臣の子飼いの時期から一緒にいた。そこから彼が一世一代の大博打を仕掛けるまでずっと側にいたのに。まだ、知らないことが沢山ある。

今だって、彼がその想いを言葉にするなんて想像もできなかった。
その言葉自体捻くれてはいたけれどそれでも幼い頃から共に過ごしてきた名前には十分すぎるものだった。

「…三成さまは、ずるい」

抑えきれない素直な感情が零れると彼が驚いたように振り返る。本当は知っていた。彼が誰よりも優しい人だということを。最期の最期で手を離した時から。形だけの人質になった時から。それよりもずっと前、同じ場所で共に育った時から。

「わたしだって、いっしょにいきたかったのに」

それなのに彼は一緒に生かしても、逝かせてもくれなかった。
自分一人で勝手に決めて早々に手の届かないところに行ってしまった。

「…やっぱり、ずるい」

そっと頬に添えられた手は血の通った温もりを伴っていて、それがまた床の上で次々に弾ける後悔を助長させる。
ああ、そんな顔が見たいわけじゃないのに。

「名前…俺は、」
「もういいんです。…今世で一緒にいてくれるなら」

鼻を啜りながらそう言えば彼は穏やかに微笑んだ。すまない、と小さく聞こえた言葉が胸の奥まで響いていく。それを受け取るのは、かつての自分だ。

「今でもずっと、あなただけ」

唇に降ってくる熱を予感して目を閉じれば、柔らかな赤毛が額を掠めた。そのまま二人の熱が重なると思われた――その時、突如大音量で部屋に鳴り響いた、雰囲気をぶち壊す機械音に慌てて名前が顔を背けた。
昨日までの長さなら確実に顔面を打ち付けていたであろう髪がひらりと舞う。
液晶に映し出された名前を遠目に見て血の気の引いた顔で震え続ける端末に飛びついた。

「っはい、もしもし!?」
『あ、名前ー?今どこにいるの?』

電話口の向こうから聞こえてきた声に三成が眉を寄せる。声だけでは男か女か判別できない高さ。だがそれは酷く聞きなれたもので、姿の見えない相手に向かって青い顔で頭を下げ続ける名前の姿を見ればその相手の特定など造作もない。親馬鹿と言うよりは完全に下僕と化した名前の姿を見て、長年押し込めていた懸念が頭を擡げる。

「はい、すぐに帰ります!寄り道?いやそんなのしませんって!だってそんなことしたら殺され…じゃない怒られちゃいますからね!玄関で正座しながら寝るのは御免です!」

それから何故か名前が一方的に謝罪の言葉を述べて終了された通話。短い通話時間が表示された液晶を見ながら肩を落とす名前の腕を取れば青い顔が体温を取り戻していくように赤く染まった。予想外の反応に思わず怯む三成だったが疑問は依然として残ったまま。

「まだ未練があるのか」

あまりにもストレートな問いを受け、赤い顔に浮かんだのは苦笑いだった。

「さすがに父親は対象外です。今回は血も繋がってるわけですし」

口ではそういう癖に、やんわりと三成の手を払って帰宅の準備を進める彼女に舌打ちが漏れる。すると三成の急降下する機嫌に気付いたのか、再び名前が困ったように笑った。

「ここだけの話、実はこう見えて後悔してないんです。最初からおねね様の言う馴合なんて夢物語だと思ってましたし」

それはあまりにも現実的で、ある意味では冷酷な判断。しかしあの時代においては最も必要とされた才能の一つ。

「私は結局、豊臣のお家を盤石にするために縁付いたわけだけど」

薄い端末を机に置いた名前が遠い昔を思い出す様に呟く。

「それも案外、悪くなかったなぁって」

そう言って穏やかに笑う顔は間違いなく豊臣時代を共に過ごした名前という女で、ただ一人と決めた三成の伴侶だった。考えるより先に彼女の後頭部を引き寄せ、そのままの勢いで思いをぶつける。
微かに漏れる吐息も、涙も、全てを飲み込んでいく。その途中で限界を訴える名前に気付き仕方なく顔を上げた三成は思わず破顔した。

「酷い顔だな」
「そうさせたのは貴方でしょう…」

真っ赤に染まる顔に加虐心が擽られるのは昔と変わらない。しかし前世とは違い、傷一つない女の手が頬を滑る。

「お慕いしております、三成さま」

ぽつりと漏れた情愛を再び飲み込む様に唇を重ねれば、熱に侵された瞳が交わる。学生服のシャツを滑る弱々しい抵抗がやんだところで、無造作に投げ出された端末が机の上で本日二度目の着信を知らせた。