お後がよろしいようで

※現パロ



試験直前の図書館はもれなく満員御礼。入館ゲートの真正面、新書と新聞が並べられた棚を抜けた先に申し訳程度に席として用意されている椅子を引く。三人横並びで座るその席に先客はおらず人が来るまでなら問題ないだろうと右肩に掛けていた憂鬱を下せば思いのほか大きな音がなり、新聞を読んでいた教授と記事越しに目が合う。謝罪の意味も込めて頭を下げれば彼は牛乳瓶の底を彷彿とさせる眼鏡を上げ、それきり興味がなさそうに目を逸らした。

それから暫く手元に置いたタブレットと睨めっこしていたが、斜め前―やる気を出すためにと置いたこの場所は間違いだったようだ。今すぐこの山崩したい―に出来上がった悩みの種を一つ摘まみ、目を通すや否やあえなく撃沈。無理。せめて日本語喋ろうよ。

心の中で教授を罵りながらふと顔を上げると、出窓の奥に学部では有名な正則の姿があった(勿論有名なのは時代錯誤も甚だしい彼の髪型である)。隣に並ぶ銀髪も、ある意味有名な清正。先日は通り過ぎたおねね先生に、恋する乙女よろしく熱い視線を送っていた。あの人旦那一筋で有名だから彼にはそもそもフラグすら立たないだろうに。彼のストーカーと化している女の子の話はよく耳にする。あの顔とルックスなら選り取り見取りだろうに、全く人妻に恋する男とは難儀なものである。

するとその時、机に投げ出したタブレットがメッセージの受信を知らせた。合流予定だった甲斐からだ。急いで打たれたであろう謝罪に思わず苦笑が漏れる。今日も自由らしい彼女の探し人が街を歩いていた際、裏家業の人間と間違えられ道が開けた話はあまりにも有名である。早川ちゃんには失礼だが実際に何人かは海の底に沈めてそうな顔だ。そこには同意する。

「(さて、この忌々しい山でも崩していきますか)」

タブレットから顔を上げた先、視線は図書館の真正面に構える講堂から出てくる人物に向けられた。その名も、義戦士。ちなみに彼らを陰で「愛戦士」と呼んでいるのはここだけの秘密である。その名の通り義と愛に溢れる青年、兼続を筆頭に、爽やかイケメンと名高い幸村。の、隣で心底面倒だと言わんばかりの表情を浮かべる三成。あの様子はどうやらまた何かに巻き込まれたようだ。

「(…いない、か)」

理解しているはずなのに無意識の内に探している自分に気付き頭を左右に振った。あの組み合わせで見かけたことは一度もない。全体的に白い彼の姿を見たのは、もう一か月は前になる。

試験前、友人と共に訪れた図書館。近世史が収蔵された中で彼を見つけた。

持っていた資料を一つ残らず落下させれば、少し前を歩いていた彼女が驚いたように駆け寄ってきた。あーあ、こりゃ片付けるの大変ですぜい。そんな声が聞こえた気がするが名前の目は通路の奥に向けられたまま。やっぱり今世でも隠されている口元をじっと見つめていれば音に驚いたのか立ち竦む名前に気付いたのか、不思議そうな色を浮かべた白群と目が合った。

「(嘘、どうしようっ!?)」

何か言わないと。懸命な努力で涙を飲み込んで開かれた口は一瞬にして閉じられた。彼の奥から、ひょいと顔を覗かせた美少女によって。

「吉継、見つかった?」
「ああ」

涼し気な色が名前の反対に向く。

「じゃあ早くやらないと。提出今日なんだから」
「元はと言えばお前が先延ばしにしたからだろう」
「あーはいはい、悪うござんした」

席取っておいたからね、と笑みを浮かべた少女の手が、腕にかかる。ああ、まあ、そうだよね。酷く冷え切った頭が全てを理解する。当然だ。なにも今世まで彼を縛ることはない。足元から不思議そうな視線を送って来るくのいちの手を引き、静けさの中を突き進む。馬鹿で臆病な自分を罵りながら。

『っちょ、あれってもしかして』
「違うよ」
『名前ちん!』

不満げに、同時に怒りを孕んだ瞳が非難する。今にも詰め寄って肩を揺らしそうな友人を振り返れば彼女は酷く驚いたように視線を逸らした。事の顛末は、彼女もよく知っている。





『ちょっと聞いたわよ。見つけたんだって?』

良かったじゃない、と魅惑的な桃色が弧を描く。目をハートにする取り巻きを視線だけで瞬殺した彼女は同じ女であることが恥ずかしくなるほど整った顔を近づけた。

「それで?」
「何が?」
「とぼけないで。そこには壮絶なドラマがあったんでしょう?」

要らないことは流れる癖に肝心な所が抜け落ちているようだ。

「小少将と元親さんじゃあるまいし」

氷の融けきったカフェオレを口に含めば目の前の美女の顔が不満そうに歪んだ。

「あれは違うわよ」
「えーっと、付き合って何年だっけ」

あれは確か赤と黒の幼子の象徴を背負っていた時だったから―…指を折って数えるものの片手じゃ足りない。

「十年?」
「だから違うっつってんでしょうが」

髪型と同じ色をした頬に野次馬精神が働く。

「いいのいいの、例え小学生の女の子がいきなり男に平手打ち喰らわして抱き着いたって」

このご時世それくらいやってのける肉食女子は少なくないだろう。それに何もマセガキは一人二人じゃない。

「ああもう、私のことはいいのよ。それより問題はアンタ」

文字通りびしっと向けられた人指し指の先に目が寄る。この爪にするのにどんだけ時間かけてんだろ。

「見つけたら押し倒してキスの一つや二つお見舞いしてやらないと」
「わたしゃ痴女か」

そんなんしたら通報される。肺の底からの溜息で否定すれば艶やかな唇が尖った。

「で、どこの馬の骨ともわからない女に取られたって?」
「初めから私のじゃなかったけど…まあ、可愛かったし」

それにあの雰囲気は長いと見た。

「学部じゃ見かけたことなかったし、院生とかかな」

あれだけ可愛ければ噂になっても良さそうなものだが、生憎ミスコンの座は濃姫先生が奪っていった。あの人教員なのに、という疑問と不満は一瞬で蹴散らされた。渾名が第六天魔王の彼女の旦那によって。
そこで騒々しかった小少将が動作を停止させていることに気付き握っていたペンもそのままに手を振る。すると暫くの間どこかを彷徨っていた彼女は音が鳴りそうな偽装睫毛を瞬いた。と、思えば掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出してくる。

「嘘でしょ!?見てて胸焼けしそうになるくらいアンタにベタ惚れだったアイツがっ、他の女と!?そんなの嘘よ!」
「脚色やべぇな」

どこぞの浅井夫妻でもあるまいに。冷静に返して再びカフェオレを手に取る――が、糖分を求める手はお目当てのものを掴む前に真っ白な柔肌に包まれた。

「私の目を見なさい名前。その子、本っっっっ当に彼女だったの?」

真剣な表情を向けてくる彼女には悪いが今回ばかりは名前の勘が正しい。

「何ならくのいちに聞いてみれば?」

情報の早い彼女の事だ。今回何も言ってこない辺りあの光景は真実だったのだろう。優しい友人を持った私は幸せ者だ。

「…後悔してないの?」
「ぜーんぜん?」むしろ陰ながら応援しているくらいだ。
「酷い目に、遭わせちゃったし」
「っそれはアンタのせいじゃ――…!」

不満そうに口を開く小少将は名前の顔を見て諦めたように詰めていた息を吐いた。思わず苦笑が漏れる。

「私、優しい友人がいっぱいいて幸せだなぁ」
「…本当は寝取ってきなさい、って引っ叩きたいところだけど」
「その爪で叩かれたら無事じゃ済まないだろうね」
「…」
「やっぱりさ、彼には幸せになってほしいんだよ」

それが、彼を裏切った名前に出来る唯一の罪滅ぼし。苦い顔で手元のカフェオレを奪っていった彼女の目が潤んでいたことは名前だけの秘密にしておこう。


***


「馬鹿は馬鹿でも大馬鹿だったとはな」
「あれ、珍しい。秀吉様ならいないよ?」

とっとと帰れ。にっこり微笑みかけると女でも気後れするような美人顔が歪んだ。

「俺はつまらん意地を張っている馬鹿に用があるのだが」
「あら、そう。でもその馬鹿は何も話すことはないって」

そう吐き捨てればあっさりと手元の本を引き抜かれる。恨みがましい目を向ければ今世唯一と言ってもいい娯楽は書類の海に捨てられた。こいつ殴っていいかな。

「もうさあ、みんなして何なの?昨日は小少将に怒られるし、今朝は甲斐に励まされるし、今はまさかの三成。一体何を楽しんでるの?」

今が一番いいって、その賢い頭はわかっているはずなのに。

「他は知らん。被害者面されるのが鬱陶しいだけだ」
「心配してくれるのはわかるけど、それってお節介だって気付かない?」
「言っておくが、誰も貴様のためを思って言っているのではない」

勿論それは知っている。しかしそれを名前に言ったところでどうにかなる話じゃない。苛立ちのままに机から資料を引き抜けば、よりによって示された数字は1600。呪いか。

「とにかく、私のことはもう放っておいて」
「未練がましい女の言い訳など、聞くに堪えんな」
「…、は?」

未練がましい?誰が?零された嘲笑に反応した不愉快な音は彼の望む反応だったようだ。

「裏切った傷付けたなどと、被虐趣味も大概にしろ。あれは奴が決めたことだ。生憎お前の言うことなど俺たちは一度も聞いた覚えがない。それとも貴様は、あの時の決断を否定したいのか」
「別にそういうわけじゃ」
「ならば何時までも引きずるな。鬱陶しいのだよ、馬鹿め」

この人なりに、責任を感じているのだろうか。
冷静になった頭が体を冷やしていく。どう足掻いても届きそうにない懺悔と後悔が指先にまで伝った時、呪いの数字の下に書かれた地名を見て名前は自嘲気味に笑った。

「そうしないと、私が苦しいんだよ」
「…」
「私はあの人を、夫を、自分の意思で裏切った。自分の保身の為に。勝てるかもしれなかった戦に…私が幕を引いた」

それも最悪の結果を以て。優しいあの人に甘えて、享受して、のうのうと生きながらえて。本来なら顔向けもできない立場のはずなのに。どうしようもない、やり場のない感情に涙腺が刺激される。ああほら、余計な事を言うから。しかし初めて見る三成の表情に涙も引っ込んでしまう。

「全部無かったことにできたら、どれだけ幸せだろうね」

立ち上がって手に持った後悔の塊を机に戻す。僅かばかりの希望は彼女自らが断ってしまった。
もう二度と、目を覚まさないように。加害者を自称する被害者が苦しすぎる空気を入れ替えるように窓を開けた。入り込んできた風に知識の海が波立つ。

「ごめんね、三成」

欲しい言葉は謝罪ではないというのに。

「…貴様は、救いようのない馬鹿だな」
「うん、400年以上前から知ってる」

からからと笑えば、彼はもう一度口癖を呟いて部屋を後にした。


***


耳鳴りがしそうな空間に乾いた紙を捲る音だけが響く。
その内容は現在の名前には些か耐え難いラブストーリー。しかも前世からの繋がりをやたら誇張してくる。タイトルから名前の神経を刺激してくるそれは敬愛する秀吉様――の、愛する妻から貸し出されたものだった。

何らかの陰謀が働いたとしか思えないこのタイミングに眉を寄せれば、後期の課題図書だと言われた。しかも彼女、読ませるだけでなく感想を述べろという無茶ぶりまでしてきた。明後日の期限付きで3000字。胃薬が必需品となりつつある現在の名前を胃潰瘍で殺す気だろうか。本好きだし、と安易な気持ちで文学を選択した過去の自分を呪いたい。

「(…やってられるか)」

一枚出さなかったくらいで落単するとも思えん。生憎セミナー内イチ貯蓄に長けていると自負している。これまで無駄に書かされた英文学やら中国文学やらのレポートには自信がある。そっちで稼げばいいだろう。
勝利を確信した名前は手元の文庫本を鞄に突っ込んで、代わりに分厚い冊子を引き抜いた。昨日どこぞの馬鹿に奪われた彼女の宝物は今じゃ使用する機会も場所もなくなってしまった。周りの友人からは溜息をつかれるが仕方ない。

「(だって、これすっごく面白い)」

今やビジネス書としても認知されているそれは今世でも名前の知的好奇心を存分に満たしてくれる。兵は詭道なり、とはよく言ったものだ。

幼子のように目を輝かせ食い入るように手元に視線を下ろしていた名前は、自分の目の前の椅子が引かれたことに気付かなかった。中ほどまで捲られた冊子に視線を向けた白群が小さく笑う。

「また読んでいるのか」
「はい。これ、すっごく面白いんですよ!」

みんなにはドン引きされるけど。
外堀を埋められた城郭やら雨霰のように浴びせられた砲撃を思い出したくないというのは勿論あるだろうが、それ以前に彼らは肉体労働専門だ。びっしり詰められた活字を読む必要はないと判断したのだろう。故にセミナー室に並ぶのはよく知った顔だけだった。淡い期待を抱きながらセミナー室の扉を開け、その顔ぶれを見渡して落胆したのが懐かしく思える。

あの時の彼女は、まだ見ぬ想い人を探していた。

「(…なん、で)」

思わず机に落とした本には目もくれず、目の前の人物を見つめる。
咄嗟の事で頭をショートさせた名前に代わり、彼の人は穏やかに告げた。

「この前会ったな」

どこで、なんて聞かなくても鮮明に覚えている。

「…え、と…」

口籠る彼女を見て白群が細められた。

「まさか他人の振りをされるとは思わなかったが」

弾かれたように顔を上げた名前を見て小さく笑う。

「冗談だ」
「(…どうしよう、どうすればいい…?)」

むしろどうするのが正解?
緊張で震える唇を噛み締めながら爆発しそうな脳を必死に回転させる。だってこんなの誰も予想しない。彼の流れは、こんなにも急だったか?

…知らないフリ?いや、もうここまで過敏に反応したら丸分かりだ。マイナスイメージが加速するという最悪の結果しか得られない。ただでさえ少ない語彙力を恨む時が来たようだ。身から出た錆とはまさにこのこと。…違う、そんなことが言いたいんじゃない。

「名前」

いつまで経っても言葉を発さない名前に痺れを切らしたのか、彼は確認するように彼女を呼んだ。ああもう、どうしてそんな声で呼ぶの。他人のフリが一番幸せだったはずなのに。

机の上に投げ出された手に、温もりが重なる。――駄目だ。私は彼を、解放してあげないといけない。

「…忘れて」

お願いだから、私のことなんて最初からなかったことにして、幸せになって。
あの日言葉に出来なかった後悔が膝の上で弾け、同時に零れた切なる願いが不意に昔日を思い出させる。あの日私は、貴方を、吉継を置いていった。立ち込める霧の中で小さくなる背中に、私は…

「俺には、お前しかいない」

熱を帯びた白群が涙で濡れた彼女を射止めた。

「(…この人は、ずるい)」

人が折角努力して作った壁をいとも簡単に壊してしまうのだから。
賢い頭があるくせに、友のためだと言って負け戦に行っちゃうような友人想いの人。私が愛した、唯一の人。尚も零れる懺悔は彼の人が掬った。

「それに、流石に無かったことにはできないだろう」

共通の友人は相当なお節介になったようだ。

「…三成の癖に、余計なことして」
「ああ。良い友を持った」

今世でも。というような副音声が聞こえそうな表情で呟いた彼に笑みを零す。

「…あの子、大事にしてあげないと」

家に縛られた昔とはもう違う。
私が欲しいものは、彼が全部くれたから。
小さな呟きを拾った彼が苦い顔になる。

「やはり、盛大な思い違いをしているようだな」

一つ、溜息を零した彼は再び名前に目をやった。

「言っただろう。俺は名前だけだと」
「…浮気」
「元からないものはどうしようもない」

嘘偽りのない白群が自責の念に駆られる彼女を射抜く。素直になれないのは今も変わらない。

「私なんかよりずっと可愛いかったのに」
「それでも」

珍しく熱を宿した瞳が揺らいだ。

「俺が愛した女は、名前以外にいない」

…もう、末期だ。
あんなに気になっていた好奇の視線が、気にならない程度には。小少将の言葉を思い出し思わず苦笑が漏れる。

「いいの?…私、何もないけど」

家も、名誉も、価値も。あの頃に持っていたものは全て無くしてしまった。一方であの頃から何も変わらない、美しい白群が名前を映して柔らかく細められる。

「俺がお前にそんなものを望んだことがあったか?」
「…、ない」
「ならばもうわかるだろう」

椅子の音がやたら大きく響く。囃し立てる野次馬も、今だけは見世物になってやろうじゃないか。昔と変わらない腕の中、ぐちゃぐちゃの顔で笑う。

「名前」
「…はい」
「願わくば――今世でも、お前と共に在りたい」