兵とは国の大事なり

常ならぬ乱世。故に情けや人の心は捨てねばならない。そう言った美濃の蝮も戦乱の世に儚く散ってしまった。

半兵衛が稲葉山城を占領していた際に、第六天魔王の名を取る彼の男は城を譲渡しろと言ってきた。城自体に興味はなかったが、主君としてはあまりにも頼りない彼を少しばかり痛い目に遭わせてやろうと画策したあの騒ぎ。色欲に耽る龍興を諫めるため、というのはあくまで口実で、本音はただの暇つぶしだ。多少は戒めの意味も含んでいたのかもしれないが。

では何故信長への譲渡を拒んだのかという問いにはこう答えよう。

"あの男が嫌いだから"

捕縛された際に口を突いて出た言葉は間違いなく本心であった。

半年の占領の後に龍興に返上した際、信長は半兵衛をどう思ったことだろうか。
山の上に聳えたつ道三自慢の難攻不落の要塞――稲葉山城改め、岐阜城を見上げる。

「(ま、別にどう思われようと構わないけど)」

風の噂で聞いたところ、幼少時にうつけと呼ばれていた彼は重力に逆らう丁髷を揺らして馬鹿みたいに高笑いしたのだとか。あの殿様なら大いにあり得る。…と、まあそのような経緯もあって、半兵衛は信長ではなく秀吉に降ったのだ。

殺し殺される戦を前に甘さを捨てきらないあの人に。
命を攻めるのではなく心を攻めると言ったあの人に。
思えばあの頃から秀吉には一目置いていた。官兵衛の二重の策を看破するだけでなく、持ち前の人たらしを発揮して心服させるとは考えもしなかった。

信長と秀吉は正反対の男だ。両人を知る者であれば誰もがそう口を揃えるだろうが改めて彼に仕えた今、それを実感する。秀吉という男は戦場には似つかないが天下を収める器を持っている。何より彼は半兵衛が切望する「みんなで笑って暮らせる世」を作ってくれると約束した。そんな秀吉の人柄に惚れ込んだ半兵衛はその言葉を信じて望みをかけたのだ。

近江での隠居生活をそれなりに楽しんでいた半兵衛が岐阜城下の木下屋敷に呼ばれたのは、信長と共に上洛していた秀吉が京から戻って暫くした頃であった。


「おお半兵衛、急に呼び出してスマンかったの」

言いながら眉を下げて手を合わせる秀吉に笑いかける。

「いいえ。秀吉様の活躍はこっちにも届いてましたよ」

箕作城を秀吉が陥落させたとの報せが入ったのは少し前のこと。秀吉は信長上洛の道を切り開いた陰の立役者だと言えるだろう。

「それで今日はどうしたんですか?」

足を組んだ半兵衛が上座に腰掛けた秀吉を見上げれば、彼は待ってましたと言わんばかりに笑みを浮かべた。

「お前さんに、ちと頼みたいことがあってな」
「頼み事ですか?俺に出来ることであれば協力しますよ」
「おっ!そう言ってもらえると助かるわ」

助かるも何も、半兵衛は秀吉お抱えの軍師だ。出自も関係しているのかもしれないが、一家臣に対してどこまでも謙虚な主君の態度に肩を竦める。
今の秀吉が半兵衛に頼みごとと言えば、信長の尽力により征夷大将軍の座に就いた義昭についてだろうか。ぼんやりと頭の隅で考えていた半兵衛に、秀吉は笑みを湛えて言い放った。

「よし、そんじゃあ半兵衛。娘を預かってくれんか?」
「……えっ、娘?」

あまりにも予想外の頼みごとに、半兵衛は思わず目を剥いた。

「娘って…え?あの娘、ですか?」
「恐らくその娘じゃ」

まさかそんな自分の聞き間違いだろうと半兵衛が反復すれば、秀吉は彼の言葉を肯定するように力強く頷いた。とはいえ秀吉は正室であるねねとの間に子はいなかったはず。親戚筋から子を引き取ったにしても、なぜ跡継ぎではなく姫を?というかそもそもそんな話は聞いていない。半兵衛の疑問を察したのか、秀吉は苦笑いを浮かべた。

「さきの戦で行き場がなくなったみたいでのう」

つまり六角親子との戦で討たれた家臣団の忘れ形見を預かっている、と。

「恐らく数えで七つくらいの娘っ子じゃが…ま、とりあえず一回顔だけでも見てくれんか。きっとお前さんなら気に入るはずだで」
「いやいやいや、ちょっと待ってください」

半兵衛は身を乗り出すようにして食い気味にストップをかけた。どう考えてもその内容と人選がおかしい。

「姫としての教育を施すのはおねね様の仕事でしょう?この屋敷には侍女もいますし」
「それがのう、人目につくんはちと不味いっちゅーか」
「人目につくのは不味いって、」
「いやいや!決してそういうんじゃねぇ。じゃが”あれ”は人を選ぶ。ワシもそうしたいのは山々なんじゃが、周りの目もあるからのう」

珍しく歯切れの悪い秀吉に首を傾げていると、上座に座る秀吉の背後からがたりと物音が聞こえた。

「!」

反射的に腰を浮かせる二人を他所に、音の原因と思しきものは掛け軸の裏からひょっこりと姿を現した。小さな”それ”に、半兵衛は思わずぱちくりと目を瞬かせる。

「…白い」

思わずそう零した半兵衛を、白狐…もとい、全身”真っ白”な幼子がじっと見つめた。
色素の薄い雪のような髪に同じ色の眉と睫毛。ねねの忍装束と見える着物から伸びる腕や足は、血管が透けて見えてしまいそうなほど白い。全身が雪のように真っ白な中、山吹色をした丸くて大きな瞳と熟れた果実のように赤い唇だけが確かな”色”として存在を主張している。

あまりの物珍しさからまじまじと見つめていれば、それに気付いた幼子は居心地が悪そうに秀吉の後ろに隠れた。破顔した秀吉が優しい手付きで幼子の頭を撫でる。

「なんじゃ翠、またここに隠れとったんか」

視線は半兵衛に向けたまま幼子がこくりと頷く。それを見た秀吉は再び上座で胡坐をかくと半兵衛に視線を向けた。

「半兵衛、これがその娘子じゃ」

どうやらこの不思議な幼子こそ、たった今預かってくれないかと打診された娘らしい。

「驚いたじゃろ?箕作城でワシが見つけたんじゃ。可哀相に、手首と足を縛られとったわ」

どうやら半兵衛の予想は大きく外れていたようだ。世話を頼まれた幼子がまさか秀吉とは縁も所縁もない、それも見世物として売られてきた異国の少女だとは誰も思わない。

「親は?」
「わからん。あの城におったんは翠だけじゃ。出自は不明だが、言葉は通じるみたいでのう。最近になってようやく口をきいてくれるようになったわ。名前もそん時教えてくれたんじゃ。ほれ翠、これからは半兵衛に世話になるでのう」

秀吉は幼子の背に手を添えて前に出すと、すぐ近くに座っていた半兵衛の前に立たせた。もはや半兵衛が預かるのは決定事項らしい。文句の一つでも言いたいところだが、小さな娘が不安そうな顔で半兵衛を見つめるものだから何も言えなくなる。

「初めまして」

努めて優しく声をかけた半兵衛を見上げる顔は今にも泣きそうで、自分の裾を握りしめる手は小さく震えている。何度も不安そうに秀吉を振り返るも優しく笑って大丈夫だと言わんばかりに頷くのを見ると、幼子は再び半兵衛に向き直った。重度の人見知りなのか、はたまた半兵衛が知らないだけで幼子はみなこうなのかわからないが、とりあえず現時点で半兵衛はこの幼子にとって恐怖の対象であるらしい。その容姿から子ども扱いされることには慣れているが怖がられるというのは滅多になく、ある意味新鮮な反応だと半兵衛からは思わず苦笑いが漏れる。

「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。何も取って食おうとは思ってないんだから」
「は、はい…」
「俺の名前は竹中半兵衛。秀吉様のところで軍師をやってるんだ」
「ぐんし…」
「そう。秀吉様を支えて、みんなが笑って暮らせる世をつくるのが俺の仕事」

真っ白な髪に手を伸ばせば、幼子の肩がびくりと跳ねた。露骨な拒否反応に一度手を止め、落ち着いたのを見てから安心させるようにゆっくりと頭に手を置いて優しく撫でる。絹のような滑らかさに思わず、おお、と感嘆の声を上げれば真っ白な幼子はおずおずと顔を上げた。

「まっしろだから、きもちわるい?」

消え入りそうな声で呟かれた言葉に、半兵衛は首を傾げる。

「わたしは”くろ”じゃなくて、”しろ”だから…きもちわるいの?」

まだこんなに幼いのに、ここまで心に深い傷を負っているなんて。

「そ?俺はすごく綺麗だと思うけどな」
「でも…さっき”びゃっこ”って」

幼子の言葉に半兵衛は大きな目を瞬かせた。思わず飛び出た言葉に違いはないが、半兵衛は何も彼女の容姿を謗るつもりで言ったのではない。

「白狐っていうのはね、白い狐のこと。人に幸せをもたらす存在なんだよ」
「しあわせ」
「そう。みんなを幸せにするの」
「じゃあわたし、ばけものじゃない?」
「化け物なんかじゃないよ。その髪も、肌の色も目も、神秘的ですごく綺麗」
「きれい…」

幼子は視線を落として噛み締めるように半兵衛の言葉を繰り返すと、上座で様子を窺っていた秀吉を振り返った。彼が満面の笑みで頷いたのを確認して再び半兵衛を見上げる。その顔には先ほどまでの不安そうな様子は見えなかった。

「竹中さま」
「堅苦しいのは嫌いだから半兵衛でいいよ」
「じゃあ、はんべえさま」
「うん」
「えっと…わたしのなまえは、翠です」
「うん。よろしくね、翠」
「はい。どうぞ、よろしくおねがいします」

指をついて頭を下げる仕草こそ幼子とは思えないほど畏まったものだったが、その顔には年相応の無邪気な笑みが浮かんでいる。秀吉が安心したように微笑むのを見て、半兵衛はもう一度翠の頭を優しく撫でた。