卒を視ること嬰児の如し

浮世離れした幼子を預かるのは彼女が他家に嫁ぐまで。そんな条件付きで半兵衛が翠を引き取ってから、早くも四年が経とうとしていた。

その間それなりの教養を、という秀吉の頼みもあり、まずは文字の読み書きと勘定から手ほどきをはじめた半兵衛だったが、その日々は驚きの連続だった。とにかく異常に覚えが早いのだ。一度教えただけで全て完璧にこなしてしまう翠を見て、最初こそ”これくらいの幼子は飲み込みが早いだろうし、まあこんなものだろう”と楽観視していたが、齢八つにして四書五経を暗唱したところで、ようやく翠が突出した能力の持ち主であることを知った。そして何より物事の見方が独特で面白い。物事に対する余計な知識がない分、半兵衛が思いもよらなかったことを口にする。時に奇想天外ともいえるその発想は、半兵衛の興味を引くには十分だった。

そんなわけで“白檀は二葉より芳し”と言わんばかりに兵法の教えを説くこと四年。半兵衛自慢の愛弟子として成長した彼女は現在、何ともいえない表情で立ち尽くしていた。

「こっちの書状が恒興殿と長益殿宛てでー、これは丹羽殿。あ、あれは勝家殿と光秀殿ね。あとこれは今日中に秀吉様に届けておいて」
「何だかいつにもまして多い気がするのですが…」
「やっと浅井・朝倉との問題が片付いたとはいえ、一向衆やら上杉やら問題は山積みだからね。これからは領内の普請事業に力入れてくみたいだし。はい、じゃあここで翠に問題」
「?」
「どうして信長は”これ”に拘ってると思う?」

そう言って半兵衛が翠に渡したのは織田領内の普請事業に関する書状だった。しかしその内容は大掛かりな作事というよりも河川や田畑の整備、地均しに焦点を当てていくというもの。ということはつまり。

「街道の整備、ですか?」
「うん」
「理由は二つだと思います。まず一つ目は、道幅を広げて地面の高低差を少なくすることで人や物資の出入りがより活発になりますから、商人の往来が増え、領内の発展が見込めます」
「もう一つは?」
「均した地面は馬が駆けやすく、より迅速な行軍が可能になる。…つまり、戦のときに大軍を動かしやすくするため」

それまで真剣な表情で翠を見つめていた半兵衛は答えを聞くとにっこり笑い、柔らかな白い髪をくしゃりと撫でた。

「うん、さすが俺のお弟子さんだね。正解したご褒美に署名と花押も任せちゃおうかな」
「それはご褒美とは言いません。というかそれだけはダメです」
「だよねー」

あっけらかんと言い放った半兵衛に溜息をつく。

「ところで半兵衛さま、一つお尋ねしたいのですが」
「ん?」
「本日のご予定は?」
「んーそうだねぇ、今日は天気もいいから縁側で昼寝かな」
「左様でしたか。だったらご自分でなさればいいのに…」
「そこ聞こえてるよ。ねえ翠」
「はい何でしょう」
「君の才は使わないと。宝の持ち腐れが一番勿体無いでしょ?で、俺はその間に英気を養う。実に理に適ってると思うけど」
「…。もうそういうことでいいです」

小さく溜息をついた翠の頭をもう一度撫でれば、歳の割に物分かりの良い―というかここ数年で諦めることを覚えた少女は手元に積み上げられた書状に視線を落とした。

軍略においてはまだまだ遠く及ばないが、執務に関してはてきぱき働くもう一人の自分がいるようなものだから半兵衛にとって翠がいない生活というのはもう考えられない。最初こそ厄介事を押し付けられ貧乏籤を引かされたとすら思っていたのだが、実際に半兵衛が引き受けたのは磨けば光る原石だったというわけだ。しかもこの頃は秀吉の奥方であるねねから忍としての極意も授かっているらしい。もはや何を目指しているのか分からないが、驚くことに翠は文だけでなく武にも長けていた。

「では、行って参ります」

やや膨れっ面気味で意思表示をする癖に決して文句は言わない翠が部屋を出ていこうとすると、古くから半兵衛に仕える家臣が部屋の前で膝をついた。

「半兵衛様、羽柴殿がお呼びでございまする」
「うわぁ、すごいタイミング」

その報告を聞いた翠は不服そうな顔から一転し、にんまりと山吹色の瞳を細めながら半兵衛を見上げた。

「お昼寝はまた今度ですね!では半兵衛さま、ついでに秀吉様への書状はご自分でお持ちくださいませ」

喜々とした声でそう告げる翠をじとりと横目で見れば、自分の身に降りかかる災難を予期したのか素早く視線が逸らされる。

「それでは私は恒興殿のもとに行って、」
「翠」
「はい」

妙な空気を感じ取った家臣はどうか翠様ご無事でと言わんばかりの表情でそそくさと部屋を出ていく。書状を落とすまいと腕に力を入れれば、真正面に立った半兵衛がにっこりと微笑んだ。

「今頼んだ分の複写を終えたら、アレも全部終わらせておいてくれる?」

半兵衛が指さした方向に顔を向ければ、部屋の隅に鎮座する書状の山が見えた。

「アレ、ですか」
「そう。アレ」
「…」

満面の笑みを浮かべる半兵衛と忌々しい書状の山を交互に見た翠は、今度こそ不満そうに唇を尖らせた。


***


「半兵衛は翠を軍師に育て上げるつもりか?」

秀吉が発した一言に半兵衛の口元が弧を描いた。

「余計な事はしない方がいいですか?」
「いや、何も責めとるわけじゃねえ。お前さんのことじゃ、何か考えがあるんじゃろ?」
「あの子がこの世を生き抜くために必要な術を教えているだけですよ。まあ、俺の自己満足と言えばそれまでなんですけど」
「そうか」

唸る秀吉に肩を竦める。翠の神々しさすら感じる容姿を万人が美しいと感じるわけではないというのは、この四年で嫌という程思い知らされた。物の怪だと目を逸らす者、祟りだと恐れる者、口には出さずとも不審な視線を向ける者。そんな周囲の様子を聡い翠が気付かないはずがなく、三月ほど前に半兵衛と秀吉の元を訪れたのを最後に、城下には出ていない。

それを考えると、養女にして他家に嫁がせようにも和睦どころかいつ争いの火種になるとも限らない。そうでなくとも、今後女として生きることを選択すればあの容姿は少なからず彼女の足枷になるだろう。だったらせめて、彼女自身で生き方を選べるように。半兵衛の教育はそんな親心でもあった。

「翠の評判はワシにも届いとるからな。お前さんのやることにとやかく口を出すことはせんが」
「翠は優秀ですよ。あと数年もすれば日ノ本にその名を轟かせることでしょう」
「そのうち特技は寝言で孫子を暗唱すること、とか言いそうじゃな」
「どこかで聞いた話ですね」
「そうか…あんなに小さかった翠がもう十になるんか」

懺悔と後悔。秀吉の呟きはその二つの感情が綯い交ぜになったものだった。
先日、関ヶ原にて処刑された万福丸も齢十だった。信長の命とはいえ捕らえて主君の前に突き出したのは秀吉である。とはいえ長政に対して最後まで織田に降るよう説得していたのも秀吉だった。四年に及んだ浅井・朝倉との戦を終えたことで一先ず肩の荷が下りたとはいえ、お市の立場を考えると手放しで喜べないというのが本音だろう。

信長が掲げる天下布武を実現するために、果たしてあとどれほどの犠牲を出す必要があるのか。

「のう、半兵衛」
「はい」
「ワシらは一体何のために戦っとるんじゃろうな」
「…らしくないですね。秀吉様が弱気なことを仰るなんて」
「こんなの半兵衛の前でしか言わんて。そんくらい許してくれてもええじゃろ」
「みんなが笑って暮らせる世をつくるため、秀吉様にはもっと頑張ってもらわないと」

厳しいことを言って秀吉を追い詰めている自覚はある。だが、もう後には引けないのだ。

「ワシらが目指す世は、まだまだ遠いのう」
「…そうですね」

長政を喪ったお市の泣き声が、いつまでも耳から離れない。



***



「おかえりなさい…」

部屋に戻った半兵衛を出迎えたのは、疲労困憊といった様子で文机に額を乗せた翠だった。

「まさかあれ全部終わったの?」
「…まさか?」

半兵衛の言葉を反復して勢いよく顔を上げる。

「もしや半兵衛さま、最初から終わるはずがないと知ってあの無茶苦茶な書状の処理を私に命じられたのですか?」
「別に急ぎじゃなかったからね」
「ひどい…」

ごん、っと鈍い音を立てて再び文机に沈む。一度いじけると長引く彼女の性格をよく理解している半兵衛はやれやれといった様子で翠の隣に腰を下ろした。

「ほら翠、あとは俺の方でやっておくから。これもう終わってる?」
「…」
「ありがとう」

顔を向こう側に向けたまま渋々といった様子で書状だけを差し出す。苦笑いを浮かべた半兵衛が頭を撫でると小さな体が一瞬だけぴくりと反応し、強張っていた肩の力が抜けていった。

「うん、上出来。早めに仕上げてくれて助かったよ。ありがとう」
「…左様ですか。それは良かったです」
「それじゃ、頑張ってくれた翠にはお土産をあげようかな」
「お土産!?」

あまりにも素直な反応に思わず噴き出すように笑えば、翠はしまったと言わんばかりの表情で視線を落とした。はらりと肩から零れ落ちた白い髪を耳にかけてやると、僅かに不満が残る琥珀色の瞳が半兵衛の様子を窺う。こんなにも素直で綺麗な子なのに、と思うのは親の贔屓目だろうか。くすりと笑いながら後ろ手に隠し持っていた包みを持ち上げる。

「これ、何だか分かる?」
「?」

包みを受け取り、ゆっくりと風呂敷を開いた翠は中から出てきたものを見ると瞳を輝かせた。

「お団子!」
「おねね様が翠のために作ってくれたんだって」
「嬉しい…今度おねね様にお礼がしたいです!」

先ほどまでの不機嫌さはどこへやら。瞳をきらきらと輝かせながら半兵衛を見上げる。

「じゃあ城下で何か探してみようか」

嬉しそうだった顔がほんの一瞬強張る。膝の上で固く握られた手を見た半兵衛は諭すように声を掛けた。

「ねえ翠。厳しいことをいうかもしれないけど」
「違うんです」

食い気味にそう言って顔を上げた翠に首を傾げる。

「この前半兵衛さまと一緒にいたときに聞こえたんです。”あんなのを連れて歩くなんて気が知れない”って。わたしは何を言われても平気です。その…慣れてますから。でも、わたしと一緒にいることで半兵衛さまが不快な思いをされるのが嫌なのです…」

一呼吸おき、小さな声で紡がれた真相に半兵衛は目を丸くした。しかしその意味を理解するや否や、むっと眉を寄せる。

「あのね翠」
「は、はひ…」

突然頬を左右に引っ張られた翠は目を白黒させている。

「そんなのが嫌だったら最初から君の面倒見なんて引き受けてないよ。そういう非難の声があるのも重々承知のうえで君を引き取ったんだから。というか見ず知らずの他人の意見なんて知ったこっちゃないし」
「え…」
「まさか翠にそんなことを心配されてたなんて。あーあ、俺傷付いちゃったなぁ」
「あっ、あの、いえ、わたしは別にそんなつもりじゃ、」
「冗談だよ。まあでも、陰で人にこそこそ言われるのは気持ちのいいもんじゃないし、回避できるなら手を打っておくべきだとは思うんだよね。と、いうことで」
「…?」

半兵衛はそう言うと懐から何かを取り出し、翠の頭にすっぽりと被せた。

「…袖頭巾?」
「そ。白でも良かったんだけど、黒もいいね」
「いえ…白色だと、私の場合白装束みたいになっちゃうので。それに黒の方が忍っぽくて好きです」
「…まあ、翠が気に入ってくれたならそれでいいけど。しばらくはこれで大丈夫でしょ」
「はい…本当に、嬉しいです。ありがとうございます」

髪色とは正反対な頭巾を取って眺めると、嬉しそうにそう呟いて胸に抱いた。俯きがちの琥珀色が潤んでいることに気付いた半兵衛は優しく笑って頭を撫でる。

「ほら、折角のお団子が硬くなっちゃうよ」
「あ、はい!じゃあ私、お茶を入れて参ります」

そう言って立ち上がった翠だったが、障子を開けた途端目の前に広がる光景に思わず感嘆の声を漏らした。

「わあ…!」

つられて半兵衛も視線を上げると、外に広がっていたのは夕陽によって赤く染まった美しい空だった。茜色に染まる横顔を見ながら、同じ色で燃えていた小谷の城を思い出す。
浅井が籠る支城を徹底制圧し、反逆者は一人残らず根絶やしにする――それが、信長が下した命令だった。例えそれが戦意喪失した民兵だろうが、敗北を悟り逃げ出す者だろうが容赦なく切り捨てる。城内に民がいようが構わないと火を放つ横暴で残酷な仕打ち。とはいえ一定の成果が出ているために、彼の無慈悲なやり方を咎めることができない歯痒さ。いくら配下とはいえ、彼の残酷なやり方に迷っている将も多くいるはずだ。

「やっぱり俺、あの男は好きになれないなぁ」

言いながらごろりと畳の上に寝そべる。いくら人に笑われようとも、夢物語を信じる秀吉の方がよっぽど好感が持てる。

「秀吉様にはそろそろ覚悟を決めてもらわないとね」
「覚悟、ですか」
「そう。みんなが笑って暮らす世をつくるためには覚悟が必要だって、あの方とはそう約束したんだ」
「そのお話なら以前秀吉様から聞いたことがあります。三顧の礼で半兵衛さまを召し抱えようとされた時、三つの条件を出されたと」

昼寝の自由と官兵衛の仕官。そして必要とあらば信長を排し、天下を泰平に導くこと。秀吉にその強さがあると見た半兵衛は彼に仕えることを決めた。

「半兵衛さまが大丈夫だと仰るのなら、きっと大丈夫です」

天下を泰平に導くには多くの人命を犠牲にしてその分の怨みを買うことになる。秀吉にはその強さがあるのだと翠はもう直感的に感じ取っているようだ。

「翠は俺によく似てきたね」
「それは…喜んだ方がいいですか?」
「あったり前じゃん。日ノ本に名高い今孔明に認められるなんて、光栄なことでしょ?」
「それは確かにそうですが…」
「だからさ。俺がいなくなっても、ちゃんと生きていくんだよ」

その言葉を聞いた途端、琥珀の瞳が大きく見開かれた。

「な…なぜ、そのようなことを仰るのですか…?もしかして、私のことがお嫌になりましたか?それか何か気に障るようなことでも…っわたし、駄目なところがあれば治します、兵法だってもっと頑張ります、だから」
「違う、そういうことじゃない」
「だったらどうして」

血の気の引いた翠を引き寄せて、僅かに震える背中を擦る。

「俺だって、出来ればずっと側で守ってあげたいよ。けど、さすがに数十年後の未来のことまでは分らないでしょ?」
「…じゃあ、私のことを嫌になったわけでは」
「そんなわけないでしょ」

突き放されたのではないと分かり随分と落ち着きを取り戻した翠だったが、その表情にはまだ影が落ちていた。物分かりがいいが、こういうところはまだまだ幼子のようだ。

「…私は」
「ん?」
「私には、半兵衛さましかいないのです。兵法を覚えるのも、右筆をするのも…全部、半兵衛さまが喜んでくれるから。おねね様に武芸を教わっているのも、半兵衛さまの足手纏いにならないようにするためにって」
「…」
「半兵衛さまのお側にいられるのなら、どんなに苦しいことも辛いことも、必ず乗り越えて見せます。だから、…だから、」

ついに我慢できなくなったのか、琥珀色の瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「そんな悲しいこと、仰らないでください…っ」
「あーもう、ほら。大丈夫だよ、まだしばらくの間は一緒にいられるから」
「しばらくっていつまでですかぁ…っ」
「珍しく聞き分けが悪いなぁ」

口ではそう言いながらも、愛娘に随分と好かれていることが分かり、半兵衛としても悪い気はしない。
ただ翠は普通の女人よりもずっと多くの困難に当たって、その度に傷付いて、それでもこの厳しい戦国の世を生きていかなければならないのだ。半兵衛一人に生きる意味を見出だしている状態では、いつかその支えがなくなった時、いとも簡単に生を手放してしまうのではないか――そんな半兵衛の杞憂は翠の言動によって限りなく真実味を帯びてしまった。

「ねえ翠、これだけは覚えておいて」

頬を伝う涙を拭って頭を撫でる。

「もしこの先離れることがあっても、君は俺が育てた大事な娘で、可愛い弟子だってことは一生変わらない事実なんだ。だから、人に何を言われても気にしないこと。…分かった?」
「っ、はい…!」

こくこくと小さな頭が頷くたびに涙が零れる。これは中々親離れできないだろうなぁとぼやきながらも、半兵衛だってその”もし”が来ないことを願っているのだから、人の気持ちというのは中々に厄介なものだと苦笑いを浮かべるのだった。