兵を為すの事は、敵の意を順詳するに在り

天正三年葉月。
小谷城を経由して敦賀城に入った織田軍は、その翌日、雨と風が激しく吹き荒れるなか越前に侵攻した。その数およそ三万。
翠は羽柴軍として半兵衛やねねらと行動を共にしていたが、悪天候で視界が悪かったこともあり、木目峠で一揆衆との交戦直後にはぐれてしまった。ねねのスパルタ教育のおかげで今のところ身をかわして逃げのびてはいるが、足場の悪い山中を走りっぱなしで体力も限界が近い。

「っ!」

ぬかるみに足を取られた次の瞬間、頭上に煌めく白刃が見えた。咄嗟にねねから譲り受けた天昇翼刀で攻撃を防ぎ、身を翻して敵の背後に降り立つ。軽やかな動きに驚いた敵が振り返る前に姿勢を低くし、振り返った瞬間の無防備になった首に刃を当て、一気に引き抜いた。

「くッ…!」

次の瞬間頸動脈の血が噴き出し、生暖かい血が翠の顔に飛び散った。むわりと立ち込める血の匂いと手元の不快感に刀を握る手が震える。ごとりと音を立てて地面に落ちた首から目を反らした瞬間、山の下に広がる街から火の手が上がっているのが見えた。燃えているのは竜門寺とその近辺。逃げていくのは一揆衆だ。

「…終わった」

ほっと息をついて視線を下ろす。すると大きく見開かれた目と目が合った。それが今しがた自分が落とした人間の首であるということを脳が認識した瞬間、胃の中のものがせり上がってきた。頭を激しく揺さぶられるような感覚に思わずその場にしゃがみこむ。

「ぅえ…ッ、はあ…っう、」

固く目を閉じて頭巾ごと耳を塞ぎ、必死で頭の中の残像を振り払う。
戦場に立つということがどういうことか、幼い頃から秀吉や半兵衛らを近くで見てきた翠はわかっていた。しかしそれはわかっていた”つもり”だったということを、この日彼女は痛いほど思い知らされた。
人間の首は刀一本で簡単に切れること。顔に飛んだ返り血が温かいこと。首の皮を裂く手の感触が酷く不快なこと。
初陣となった今回の戦を、奪ってしまった命を、翠はきっと一生忘れないだろう。

「ッ!」

物音が聞こえて咄嗟に振り返った翠は、薄暗い闇の中から現れた人物を見て大きく息を吐いた。

「捜したよ」
「っ…半兵衛様!ご無事ですか!?」
「人の心配してる場合?その顔、やられたの?」
「いえ、これは返り血で…私は無事です」
「…そう。良かった」

安心したように表情を緩めた半兵衛を見た瞬間、翠の目からぼろりと涙が零れ落ちた。とめどなく溢れる涙を拭いながら、必死で言葉を紡ぐ。

「ごめんなさい、ちょっと混乱してるみたいで」
「うん」
「わたし、わかってました。ここに来る覚悟だってできてたんです。でもいざ人を斬ったら、突然怖くなって」

翠が討ち取った人間にはきっと帰りを待つ人がいただろう。この戦を無事に生き延びれば両親や妻子と穏やかに暮らしていったはず。そんな幸せを奪ったのは他でもない自分だ。それを感じた瞬間、取り返しのつかないことをしてしまったと全身が震えた。

「翠が後悔するならやめればいい。天下泰平までは必ず今まで以上の犠牲が出る。そのとき君は、今よりもっと傷付いて、苦しんで、悩んで、どうしようもなく逃げたくなるだろう。わざわざ戦場に立たずとも君には生きていく方法が残されてる。今ならまだ引き返せるよ。これを機にもう一度よく考えて」

淡々と告げる半兵衛を見上げながら徐々に冷静さを取り戻していく。彼は今父親ではなく、軍師の顔をしている。相手にしているのは愚図る娘ではなく、戦場で弱音を吐く部下だ。それに気付いた翠は目元の涙を強く拭った。

天下泰平という大義名分を笠に着て略奪と侵略を目論む将は多くいる。天下を泰平に導くなど夢物語だと語る人間もいる。それでも、その夢物語を実現しようと奔走している人間を翠は幼い頃からよく知っていた。

「数多の犠牲の先に誰もが心穏やかに暮らせる世があると、私は信じています」

天下を一つにするという険しい道のりの中で当然犠牲は多く出るだろう。その犠牲をいかに最小限に抑えるかが、この先天下人となる秀吉を支える軍師の仕事だ。天下が泰平となるまでの道のりは果てしなく遠く険しい。だが叶わぬ夢ではない。彼が天下人となるまで支えるのが半兵衛の仕事であるならば。

「私はまだ軍師を名乗れるほど実力も経験もありません。ですがこの先必ず軍師として、秀吉様や半兵衛様と共に新しい世をつくってみせます。それが、私を救ってくれたお二人への恩返しで…私の生きる理由なのです。嫁入りもできない親不孝な娘を、どうかお許しください」
「…翠ってば分かってないなぁ」

強い意思を宿した琥珀色の瞳に、半兵衛は優しく笑った。

「君が自分の意思を持って幸せに生きていることが一番の親孝行だよ。それにこの先どんな選択をしても、翠が俺のの娘であることに代わりはないんだから」
「半兵衛様…」
「ほら、おいで」
「っえ」
「いつの間にかこんなに立派になっちゃって。親として誇らしいけど、ちょっと寂しいなぁ」

思いのほか強い力で抱きしめられて狼狽える。いくら女人のように細いとはいえ、そこには確かに男女の体格差が存在していた。思わず背中に回しそうになった手を抑え、ちょこんと彼の裾を掴む。

「…私は、軍師になれるでしょうか」
「当たり前じゃん。俺が手塩にかけて育てた自慢の娘なんだから、そこは自信持ちなよ。それに、その心意気と覚悟は間違いなく一人前の軍師だよ」
「…はい」



***



日が昇った戦場は、まさに地獄と形容するに相応しい有様だった。
竜門寺とその近辺は見渡す限りの焼け野原となっており、織田勢の夜襲の跡が伺える。府中に退却した一揆勢はことごとく秀吉・光秀らに討ち取られ、鉢伏城を守っていた阿波賀三郎とその弟は信長の命で討ち取られたらしい。
昨夜は暗くて見えなかったが、ごろごろと転がっている死体の中には見覚えのある顔もある。焼け落ちた家屋の一部に足を取られ、少しよろけたところで足の先にごん、と何かが当たった。首だ。

「っ…」

肉を切り裂く感覚が一気に蘇り、咄嗟に口元を覆ってしゃがみ込む。昨日で落ち着いたと思っていたが、まだ頭の中の残像は消えそうにない。

「はあ…」

あまりの情けなさに膝を抱えて頭を預ける。半兵衛やねねは到底慣れるものではないと言ってくれたが、戦場に身を置くと決めた以上、そうも言ってられない。

「いつまでそうしているつもりだ」

頭上から聞こえた声に顔を上げる。頭巾の中から覗き見れば美しい栗色が太陽に反射していた。逆光で顔は見えないが、その髪色と厳しい物言いから佐吉であることに気付く。彼も従軍していたのか。ぐっと足に力を入れて立ち上がる。

「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません」
「昨日からずっと青い顔でふらふらしているだろう。貴様のような軟弱な人間に到底軍師が務まるとは思えんな」

その言葉を聞いた瞬間、弾かれたように顔を上げた。
そんなことは自分が一番分かっている。今回の出陣でそれを思い知らされて、今もまだ自分の弱さに打ちのめされている。なのに、なぜ傷口に塩を塗るようなことをこの男は平気で口にするのだろう。秀吉や半兵衛に言われるならまだしも、なぜこの男が。

「ご忠告、痛み入ります。ですが人にとやかく言う前に、まずはご自身の立ち振る舞いを見直した方がよろしいかと。高慢不遜な態度や物言いは不興を買いますし、何より貴方を連れ帰った秀吉様の印象が悪くなります。彼の顔に泥を塗るような真似はおやめください」

連日の戦で余裕がないのも手伝い、口からはつらつらと思いとどめていた不満が零れた。
私が言い返したことに驚いたのか、彼は驚いたような表情を浮かべていた。言い返してくるかと思ったが眉根を寄せるだけで何も言ってこない。

「例えあなたに何と言われようと、私は必ず軍師になります」

翠はそれだけ言って頭を下げると再び歩き出した。今度はしっかりとした足取りで。

歩きながら徐々に冷静さを取り戻してくる。佐吉に反論したことに後悔も反省もしていない。事実であるということが分かっているから、きっと彼も言い返せなかったのだ。
出会ってから一年経つが、やはりあの男とは分かり合えない。というか、分かり合える日なんてものは来ないだろう。あちらが歩み寄る努力をしないのだから当然のことだ。しかし秀吉様をお支えするという目的が一致していれば家臣団としては何も問題はない。…それにしても。

「(彼の元に嫁ぐ女人は大変だろうな)」

高慢不遜、石頭で理屈っぽくて、いつも人を下に見ている。旦那があれではきっと早々に心を病んでしまうに違いない。

「ま、私には関係ないか」

まだ見ぬ女人を気の毒に思いつつ、半兵衛の姿を探した。