主は怒りを以て師を興こすべからず

長篠における武田軍との戦で織田・徳川連合軍が勝利を収めてから約二月後。
半兵衛は陽が当たらない廊下に寝転がりながらひんやりとした床の冷たさを堪能していた。季節は既に盛夏を迎えており、熱気を孕んだ風が頬を撫でる不快感に思わず眉が寄る。すると煩く鳴く蝉の声をかき消すように廊下の奥から駆け寄ってくる足音が聞こえた。

「見つけましたよ半兵衛様!もう、またこんな所で寝て!」
「翠さ、段々俺のこと見つけるの早くなってない?」
「この時間は陽が当たらない西側か、庭の木の下にいるって決まってるんです!いいから早く起きてくださいっ!」

半兵衛の姿を目にするや否や滑り込むように隣に膝を付く。月日は無情にも物静かで素直だった幼子を感情表情豊かな口煩い少女へと変化させた。人見知りを克服し、生き方を選択できるほどの教養を身に着けるところまでは想定内だったのだが。

「俺、どこで育て方間違えたのかなぁ」
「ちょっと、人のこと失敗作だって言うんですか」
「というよりは世話焼き女房みたいだなって」
「に、にょうぼ…!?っもう!冗談言ってないで早く起きてください!」

それなりに軽快なやり取りが出来るようになったものの、半兵衛に揶揄われたときに上手く受け流せないのは相変わらずだった。肌が白い分、揶揄った時にすぐ顔が赤くなる。するとそこに青白い顔の男が後ろ手を組みながら姿を現した。二人の攻防を見降ろして表情を変えずに呟く。

「またやっているのか」
「官兵衛殿、ちょうど良いところに!この怠け者軍師どうにかしてください!」
「秀吉様より賜った卿の仕事だろう。精々励め」
「違います。秀吉様は”私”のお世話を”半兵衛様”に頼んだのです!」

しかし官兵衛の言うことは正しい。いつの間に立場が逆転してしまったのか。ぴくりとも表情筋を動かさない官兵衛を見上げて唇を尖らせる。

「あ、それより翠。今朝頼んでた書状の処理って終わった?」
「ああはい、これです」
「どれどれ」

よっ、と体を起こして差し出された書状に目を滑らせる。うん、と頷くと忠犬のように主人の判定を待つ翠の頭に手を伸ばした。

「ちゃんとできてるじゃん。えらいえらい」
「本当に?大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。やっぱり翠はやればできる子だね。さすが俺のお弟子さん」
「えへへ」
「じゃあ俺はもう少しお昼寝するから」

幼い子どものように頭を撫でられ思わず破顔した翠だったが、雲行きが怪しくなっていることに気付いて表情を引き締めた。

「誤魔化されませんよ!ほら半兵衛様、次の政務がまだあるんですから早くいらっしゃってください!」
「もー、わかったってば。ちゃんと俺もやるから、先にそれを秀吉様に届けてくれる?」
「本当ですか!?約束ですからね!」
「はいはい、約束約束」

念を押した翠は慌てて立ち上がると、官兵衛にぺこりと頭を下げて再び廊下の奥に走っていった。廊下の奥でぶつかりそうになったのか「翠様!危のうございます!」という侍女の声だけが空しく響いていた。官兵衛は相変わらず無表情のまま、体を解す半兵衛に向き直った。

「卿はあやつを娶るつもりか」

半兵衛はその言葉を聞いてぴたりと動きを止めると、ゆっくりと視線を上げた。きょとんとした顔は幼さすら感じる。とても三十を超えた男とは思えない。

「そっちにいっちゃったかぁ。ていうか官兵衛殿もそういう話に興味あるんだ?意外」
「城下では専らの噂だ。そう仕組んだのは卿であろう?」
「仕組んだなんて人聞きの悪い。可愛い娘を自慢したい親心って言ってよね」

秀吉が横山城を廃し小谷城に移ると同時に、半兵衛も居を移した。放っておくとすぐに引き込もる翠に少しでも耐性をつけようと事ある毎に城下に連れ出したところ、最近では何とか頭巾を被らなくとも外を出歩けるようになった。

しかしその結果、半兵衛の亡き妻の忘れ形見だとか屋敷の前に捨てられていた胡人だとか幸福をもたらす神の遣いだとか、実に様々な憶測が飛び交うようになったのだ。中でも多いのは、仲睦まじく城下を歩く様子はまるで夫婦のようだというもの。小谷の城下において、黄姫の名は半兵衛が溺愛する妻を意味する名として広く知れ渡っていた。

「黄姫ねぇ」
「純粋な親心か…それとも別の意味があるのか」

妙に確信のある言い方に笑う。

「官兵衛殿ともあろう人が、脚色された噂を真に受けるなんて驚いたよ」
「…」
「それより、今日はそんなことを言いにきたわけじゃないでしょ?」

官兵衛の性格上、城下で噂になっている二人を茶化しに来たとは考えづらい。

「当ててあげよっか。長篠の戦処理は粗方終わったから、越前の一向衆関係かな」
「…」
「その様子だと当たりみたいだね。状況は?」
「三日後、織田軍が越前への進軍を開始する。信長は小谷城を経由して敦賀に向かうようだ」
「なるほどね」

越前では朝倉氏旧臣の領地を独占して悪政を強いた武将らに天台宗や真言宗らが反発したことで、一揆衆の内部分裂が起こっていた。長島での一向一揆や長篠の戦もあり先延ばしにしていた問題をここで解決すべく、遂に信長が越前討伐へ動くというわけだ。そこで現在秀吉が守っている小谷城を中継地とし、兵糧を確保する手筈なのだろう。

「今回は翠も従軍させるようにと、秀吉様から言付かっている」

官兵衛の発した言葉に半兵衛が目を細める。

「秀吉様が?」
「卿も分かっているだろう。翠が生きる道は二つしかない。結論を先延ばしにすれば、取り返しのつかないことにもなり得る」

他家に嫁ぐか、戦場で生きるか。
半兵衛はそのどちらかを彼女自身が選択できるようにと育ててきたが、翠も今年で十三になる。つまり、いつ他家に嫁がされることになっても可笑しくはない年齢なのだ。彼女自身が生きる道を定めた時には既に手遅れになっている可能性も大いにある。秀吉は彼女の出自も、半兵衛の気持ちも理解している。そんな彼が翠の初陣を命じたというのは、今が選択の時なのだろう。

「親が思っている以上に、子は成長しているものだ」
「…それ、慰めてくれてる?」
「出立までには伝えておけ」

相変わらず感情の読めない声音でそう呟いた官兵衛は、半兵衛にそう言い残すと部屋を後にした。



***



秀吉へのお使いを終えて半兵衛の元へ急いでいた翠は、視界に映った栗色の毛に思わず足を止めた。彼女の唯一にして最大の天敵―その名を佐吉という。

彼と初めて顔を合わせてから数年が経とうとしていたが、その関係は良好とは言い難いものだった。最初こそ秀吉期待の小姓という名声と美しい容姿を前に萎縮していたが、顔を会わせるたびに浴びせられる不遜な物言いと高慢な態度に翠はいつからか怒りを覚えるようになった。しかし怒りという感情がいかに人間を盲目にするかをよく知っているためできる限りの範囲で彼を避け、すれ違う際には冷静さを装ってきた。そしてこの日も例に漏れず、遭遇しないよう細心の注意を払っていたのだが。

「(…どうしているの)」

そう思って前からやってきた男を恨めしげに見上げると、案の定切れ長の目は不愉快そうにこちらを見下してきた。それから鼻につく高圧的な態度は今日も健在らしい。人と話す時くらいその腕組みをやめたらどうなんだ、と思うが勿論口には出さない。

「そこを退け」
「…これは大変失礼いたしました」

どうして私が動かないといけないの。そう嫌味たっぷりに言い返したいところをぐっと抑えて道を譲れば、無駄に整った顔が不愉快そうに歪んだ。良くも悪くも単純な市松や兄貴分の夜叉若―改め清正とは違い、頭でっかちな彼と翠はとにかく相性が悪かった。ちなみにこれは家中の誰に聞いても同じ答えが返ってくる。仲が良いだなんて答えるのはねねくらいなものだ。母親代わりとして色々面倒を見てくれたねねには感謝と尊敬の念こそあれど、時々翠とは別の世界を見ているんじゃないかと心配になる時があるのもまた事実だった。”ほんとにおまえたちは仲良しだね!”とあの優しい笑みを携えて頭を撫でられた時の衝撃はきっと一生忘れられない。

「あれ、翠?」

ふん、と鼻を鳴らして遠ざかる男にやれやれと肩を竦めていれば、今度は市松と清正が廊下の奥から歩いてきた。市松は相変わらず派手に着崩した胸元から立派な胸筋が覗いており、清正は銀の髪が太陽に反射してきらきらと光っている。

「こんなところで何やってんだよ」
「あれは佐吉だろう?なんだ、また喧嘩したのか?」
「喧嘩にすらなってないよ」
「お前たちは相変わらずだな」

無遠慮に頭を掻きまわしてくる清正に悪気がないことは知っているが、自分の力加減に無自覚なため若干首が痛い。髪の色が近いこともあって妙に親近感が湧いてしまう。兄がいたらこんな感じなのだろうか。

「お前は感情を制御するのに人一倍長けているだろう。なのになぜ佐吉にはそれができないんだ」
「そんなの私が聞きたいよ…」

彼の言う通り、自分の感情を隠すのは昔から得意だった。己の感情を抑えられない人間に隊の指揮など取れるわけがないというのを師より幾度も教えられたからだ。とはいえ、他人への配慮どころか協調性の欠片もない人間と共に生きようというのは少し無理な話ではないかと思う。

「ところで半兵衛殿は一緒じゃないのか?」
「うん。さっき官兵衛殿が来てたから、二人で何かお話があるんじゃないかな」
「秀吉様とおねね様も忙しそうにしてるし、戦が近いかもな」
「…清正、何でちょっと嬉しそうなの?」
「そりゃ、戦で手柄を上げればおねね様から褒めてもらえるからだよ!こいつ、この前長篠の戦で密行出陣した癖に運よく武田の武将を斬り落としたからって秀吉様に褒められ―いってぇ!」
「だったらお前も出れば良かっただろう」
「ちっくしょー!俺だって武田の一人や二人、余裕で討ち取れるんだからな!」

武田軍を討ち取ったのは実力ではなく運だったと言われて癪に障ったのか、清正が市松の頭をパンッと叩いた。先を越されて悔しがる市松を横目に、何かを思い出したように翠に向き直る。

「そういえば、あの噂は本当なのか?」
「…うわさ?何それ」
「今孔明の黄姫サマが黄夫人になる日が近いとか」
「黄姫…?黄夫人…?」

どうせ見た目に関する噂がまた出回ったのかと思って身構えたが、どうやらそうではないらしい。黄夫人といえば、蜀の初代皇帝であった劉備に仕えた天才軍師、諸葛孔明の妻の名前だ。それが突然清正の口から出てきたことに首を傾げていると、彼は”まさか知らなかったのか?”とでも言いたげな顔で説明を始めた。



***



「半兵衛様っ!」
「あ、おかえりー。秀吉様にはちゃんと届けてくれた?」
「あっはい、信長様がお見えになるからとかで随分お忙しそうに―…ってそうじゃなくて!城下で広まっている噂をご存じですか!?」

息を切らしながら赤い顔で見つめてくる翠に閃く。

「ああ、今孔明の幼妻?」
「…え、」

半兵衛の言葉を聞いて益々顔を赤く染める彼女に思わず噴き出せば、翠は涙目で訴えかけた。

「な、何で教えてくださらなかったんですか…!私今日とても恥ずかしい思いをしたんですよ!?」
「恥ずかしい?」
「そうです!城下でそのようなことが噂されていると清正から聞いて顔から火が出るかと…じゃなくて!半兵衛様はいいんですか!?そんな根も葉もないこと噂されて!」
「俺は別に気にしてないよ。そんなの一々気にしてたら禄に外も出歩けないし」
「そ、れはそうですけど…」

折角外にも出られるようになってきたというのに、そんなことを噂されていると意識してしまえば引きこもりに逆戻りだ。とはいえ少しくらい意識をしてくれてもいいのでは、と心の中で思っていた翠は急に気持ちがしぼんでいくようだった。ここまで意識して慌てているのは自分一人だけだったようだ。それが何だか妙に悲しい。

「翠」
「…はい、何でしょう」
「勘付いてるとは思うけど、三日後に織田軍が越前に進軍することになった」
「三日後…」
「そう。だから俺もそのうち出ることになってるけど―今回は翠も連れていこうと思ってる。これは秀吉様の命だよ」

ぱっと顔を上げれば、軍師としての顔をした半兵衛がいた。あまりにも真剣な表情に思わずごくりと唾を飲み込む。

「君にその覚悟はある?」

半兵衛の言葉が重く圧し掛かる。軍師として策を講じる覚悟。討ち死にしていく仲間を見守る覚悟。そして場合によっては、敵を討ち取る覚悟。それらすべてを含めての問いかけだった。

「あります」
「…」
「私はずっと前から、半兵衛様のような軍師になることを望んでいました」

半兵衛に教えを受け始めた頃より翠の心は決まっていたのではないか。そう思わせるほど、彼女の琥珀色の瞳は強い意志を放っていた。

「…分かった。今回が初陣ってことにはなるけど、まだ俺も側にいるし秀吉様もおねね様もいる。自分一人じゃないってことは覚えておいて」
「ありがとうございます」
「翠が今回無事に出陣を終えて、軍師として生きることを選択したとして」
「はい」
「今後、軍師を辞して他家に嫁ぐことを強いられたら、どうする?」
「え…」

予想外の問いかけに翠は思わず閉口した。軍師をやめて他家に嫁ぐ。それは翠にとって非現実的な選択で、これまでに考えてもみなかった。軍師になれば女を捨てて、一生を戦場で過ごすことになると思い込んでいたから。というか、軍師として戦場に出た女を迎え入れたいという殿方が果たしているのだろうか。

「もし…秀吉様や半兵衛様がそう仰るのなら、私はその命に従うまでです。ただ、この容姿と性格は和睦どころかいつ新たな火種になるとも限りませんし、元は見世物奴隷という下賤の出です。こんな得体の知れない怪しい人間を迎え入れるなんて相当な変わり者ですよ」

膝の上でぎゅっと拳を握る。はらりと顔に落ちた髪で視界が狭まり、半兵衛の表情が分からない。どくどくと心臓が音を立てる。

「半兵衛様、私は」

小袖がくしゃりと皺をつくった。顔を上げれば、半兵衛は翠の予想に反して穏やかな表情を浮かべていた。その表情は彼が翠の師であり、父親であることを嫌でも思い知らせる。喉まで出かけていた気持ちをぐっと飲み込む。今の幸せを一瞬にして壊してしまう方法を、聡い翠はもう知ってしまった。

「もしこの先誰かの元に嫁ぐことになったとしても…それでも私は軍師として生きたいです。それが私の唯一の価値で、生きる意味でもありますから」

その言葉に嘘はない。ただ全てが真実とも言い難い。

「…そっか。翠の気持ちは分かったよ」

彼は否定も肯定もしない。きっと翠の考えていることなどお見通しなのに酷い人だ。ぎゅうっと胸が締め付けられて、握りすぎた指先がじんじんする。果たしてそれは彼の望む言葉だったのだろうか。

「さて、それじゃ荷造りでも始めますか」

立ち上がった半兵衛の背中を見て、翠は思う。

「(半兵衛様、いつか私が)」

女として生きていくことを自ら選択したとき。
あるいは軍師という道を諦めて、女として生きる必要に迫られたとき。

黄夫人になりたいと願えば、あなたは私を受け入れてくれますか?