戦いは正を以て合し奇を以て勝つ

長月に入り、越前の一向一揆は織田軍の大勝という形で幕を閉じた。一連の戦で捕らえられた一揆衆は一万二千以上。尾張と美濃に送られた奴隷は四万余に上るという。
捕らえられた一揆衆は男女子ども関係なく斬り捨てられ、そのうちの千人余が磔・釜茹での刑に処されたらしい。あの夜、憔悴していた翠の耳にも”逃げ隠れた者は草の根を分けて探し出し何としてでも討ち取れ”という残忍極まりない信長の命は聞こえていた。それには見せしめの意も含んでいようが、よくもそこまで惨たらしい仕打ちが出来るものだと思ってしまうのは、まだ翠が戦に慣れていないからだろうか。
そして年が明けて戦の後処理も落ち着いた頃、信長は柴田勝家を北ノ庄城主に命じた。

結果として、越前の一向一揆は改めて織田信長の名を天下に知らしめると同時に、北陸方面における織田家の支配体制を確立した戦として歴史に刻まれることとなった。

「待たせてごめんね」
「いえ、私もつい先ほど参りましたので」

弥生に入ってからしばらくして、翠はねねに呼ばれて長浜城に来ていた。前回の登城ではあまりの暑さに溶けてしまうのではないかと思っていたが、ここに来るまでの間に見かけた桜は小さな蕾を付けていた。初陣からもう半年以上経っていたとは驚きである。

「大分遅くなっちゃったけど、越前ではお疲れさま。さすがにあの雨の中で見失った時は肝が冷えたよ」
「その節はご迷惑をおかけしました」

後から聞いた話だが、あの悪天候の中ねねは随分と探し回ってくれたらしい。

「おねね様に授かった体術と天昇翼刀のおかげで何とか生き延びることが出来ました。本当に感謝しています」
「子どもの心配をするのは母親として当然でしょう?翠が無事で何よりだよ」
「おねね様…」
「あ。そういえば三成とはあれから話した?」

みつなり。聞き覚えのない名前に首を傾げる。

「それは、どちらの御仁ですか?」
「佐吉だよ。従軍前に元服してたの知らなかった?」
「…今初めて知りました」
「あはは、お前たちは相変わらずだねぇ。同じ戦で初陣を飾ったから少しは仲良くできるかと思ったんだけど」
「いえ、むしろ悪化したといいますか…私が彼に溜め込んでいた不満を一気に爆発させてしまってからは、一度もお会いしてないです」
「不満?」
「自分の立ち振る舞いを見直した方がいいとか、態度や物言いが周囲の不興を買うだとか…」

冷静になって考えれば、わざわざ言わなくてもいいようなことまで口走った気がする。あの日のことを思い出して言い淀んでいれば、ねねはうんうんと深く頷いた。

「そっかそっか。そんなことがあったんだねぇ」
「…えっ、それだけですか?」
「うん?どうして?」
「てっきりお叱りを受けるかと思っていたので…」
「叱らないよ。だって、今翠が言ったことは全部事実だもん。そうやって教えてあげるのは一つの優しさでしょう?もうちょっと愛想よくしてほしいっていうのは私も前々から伝えてたし。それに、そうやって正面からぶつかれるのは仲が良い証拠だもん」
「そ、うですかね」
「大丈夫。心配しなくても、三成にはきっと伝わってるよ」
「(それはどうだろうか…)」

恐ろしいほど前向きな変換をされてしまいたじろぐが、それ以上に御咎めが無いことにほっとしている。ねねのお仕置きが口に出すのも恐ろしいものだということは子飼い共通の認識だ。これ以上余計なことは喋らない方がいい。

「それで本題なんだけど、今日は初陣のお祝いも兼ねて翠に良い報せと悪い報せを用意したの。どっちから聞きたい ?」
「そこは良い報せだけで良かったんじゃ」
「まあまあ!細かいことは気にしない!」
「…では悪い報せから」
「義昭公がね、また色々と企んでるみたい」
「義昭公って…京を追放されてからは興国寺にいらっしゃいましたよね?」
「それが今は備後国に移ったみたいなの。将軍家と縁が深い鞆って場所らしいよ」
「備後?毛利は織田と同盟関係にあるはずじゃ」
「そう。だからぜーんぶ事後報告だって。近臣らにも緘口令を敷いてたみたいで、毛利としても困ったことになったみたい」
「義昭公の性格上、信長様が権大納言・右近衛大将の位を授かったことが癪に障ったんでしょうね」

これまで足利将軍家でのみ継承されて来た由緒ある官位を、ぽっと出の地方大名である信長が譲り受けたのだ。対して追放されてしまった将軍の義昭公は権大納言・左近衛中将であり、信長よりも下位である。元々信長との折り合いは悪かったが、その出来事によって信長への敵愾心が再燃したのだろう。今回もまた、何としてでも信長を排除せねばという気概が伝わってくる。

「で、織田としては今後の毛利の動きが知りたいってわけ」
「そうですね。石山本願寺も再挙兵して、西国における反信長の気運が高まっていますか
ら注意するに越したことはないかと」
「そこで今度は良い報せだよ!」

そう言ってねねは侍女を呼び寄せると、大きな風呂敷を受け取った。中に入っていた反物を引っ張り出すと翠の前で広げ、得意そうに笑う。水干だ。

「それは…猿楽、ですか?」
「さっすが翠!よくわかったね」
「今度のお忍びでお召しになる衣装だというのも想像がつきますが…それが良い報せですか?」
「そう。これを着て毛利さんのとこ行くよ!っていうのが良い報せ」
「はぁ、左様ですか」
「うん。だからガンバってね!」
「……え?」
「翠なら大丈夫だと思うけど」

ねねの思惑に気付いて驚きと絶望で固まる翠を他所に、ねねはじゃーんという効果音付きでお歯黒壺によく似た小さな壺を取り出した。

「黒の染粉がたっぷり手に入ったから、これを使ってみよっか。本当は翠の綺麗な髪にこんなことしたくないんだけど…」
「それは別に…いえあの、そうではなくて、私が目指しているのは軍師であって忍ではな「じゃあ早速始めよっか」

ねねが手を叩いたのを合図に、彼女の両隣に控えていた二人の侍女が目にもとまらぬ素早い動きで翠の背後に回った。出遅れた翠は抵抗しても無駄だと早々に諦め、大人しく侍女たちに両腕を拘束された。

「翠様、どうかお許しくださいませ」
「ああなった御方様は私どもでも止められませぬゆえ…」
「ですよね…」

小声でそう告げて平謝りする侍女たちに罪はない。無駄な抵抗などせず受け入れたほうが彼女たちのためでもある。子飼い中唯一の女である翠を着飾ることに楽しみを見出だしているねねは久しぶりのことで嬉しいのか、上機嫌で畳の上に化粧道具と衣装を並べていく。

「ご存じだとは思いますが…私、芸なんてできませんよ」
「大丈夫!そこはその道の人に任せて、翠は後ろに控えてればいいから」

だったら尚更着飾る必要はないのでは、と思うがもちろん口には出さない。

「うちの人も半兵衛も安土城の普請でしばらくいないし、手持ち無沙汰だったでしょ?」
「それは…まあ、確かにそうですけど…」

年が明けてすぐ、信長はこの長浜からも程近い安土山に築城を開始した。現在の居城である岐阜城よりも京に近く、かつ琵琶の海があり水運の利便性も良い場所に拠点を移すのが目的らしい。その普請に駆り出された半兵衛が嫌だ面倒だなぜ自分が、と一通り文句を垂れながら屋敷を後にしたのが三月前のことである。先日貰った文によれば来月には石垣の普請に入るらしいが、解放されるにはまだしばらく時間がかかるとのこと。

それにしても、屋敷の主人がおらず暇だからという理由で他家の領内に忍び込もうなどと考えるのは日ノ本広しといえどねねくらいだろう。もっとも、今回は忍び込むというより堂々と正面から侵入するらしいが。

「さ、それじゃ始めるよ!」


***


「(なぜこうも首尾よく進んでしまうのか…)」

本物の猿楽一座が各々の役割を全うする様子を虚無の顔で見つめていれば、隣に座っているねねが袖を引いた。それを合図に手元の神楽鈴を鳴らせば、しゃん、と耳障りの良い音とともに白拍子が舞う。

現在翠たちがいるのは毛利の居城、郡山城である。安芸の城下辺りで噂を聞いてすぐさま撤退できるかと踏んでいたのだが、ねねがそんな妥協を許すはずもなかった。数刻前に初めて使い方を教わった相棒を握りしめ、引きつった笑みを浮かべながら如何にも本職らしく鈴を鳴らす。
改めて断っておくが、翠が目指しているのは忍ではなく軍師である。着せ替え人形中にダメ元で何度か訴えてみたが、これも修行だとか舞台度胸を付けるためだとか戦わずして勝つためには敵情視察が一番だとかで丸め込まれてしまった。あながちどれも間違いでないから言い返すこともできない。城を出る際に出くわした清正に助けを求めてみたが、彼がどちらに味方をするのかなんて火を見るよりも明らかだった。

「(このまま何事もなく終わりますように…)」

ねねも翠も毛利側に面識のある人間は一人もいない。それでも念には念を、ということで顔は厚めに白粉をしているし、髪も眉も染粉で染めているから問題はないはずだが、肝っ玉の小さい翠は気が気ではない。すぐ隣で楽しそうに鼻歌を歌うねねの胆力を少しでいいから分けてほしいと考えていれば、無事全ての演目が終わった。



「終わった…」
「お疲れさま!よくガンバったねぇ」

酒が入れば正体がバレる危険性が高まってしまうかもしれないと二人でこっそり抜け出してきたが、大広間は随分盛り上がっているらしい。薄暗い廊下を歩きながらため込んでいた緊張をすべて吐き出せば、ねねが幼子を相手にするように頭を撫でた。

「あっ」
「え?」
「あはは…すっかり忘れてた」

そう言って気まずそうに笑ったねねの手のひらにはべたりとした黒い液体が付着している。それは翠の偽装に大きく貢献した染粉だった。

「すみません、早く落とさないと」
「いいよいいよ、それより翠は先にここを出て。二人だと目立つから、ここから市井までは単独行動ね」
「はい。では約束の場所で」

闇に溶け込むように姿を消したねねを確認して薄暗い廊下を歩き出す。半兵衛の講義の中で出てきた堅城がどのようなものか興味はあったが、周囲の地形的にも内部の構造的にも確かに軍事要塞と呼ぶに相応しかった。入城する際に通ってきた市井は綺麗に整備されていて活気があったし、この城はどこか岐阜城に近いものを感じる。元々は城とも言い難い小規模な砦だったらしいが、それを山ごと城郭化したのはかつて謀神とも呼ばれた毛利元就。
隠居した元就公の家督を継承した毛利輝元の顔は演目中に覚えたが、実質的な支配者は三男の小早川隆景らしい。が、今日は不在にしていたようだ。義昭公の件で色々と忙しいのだろう。

「何かお探しですか?」

背後から聞こえた声で咄嗟に胸元に伸ばしそうになり、慌てて襟元を正すフリをする。振り返れば闇の中からぼんやりと金色の髪が近づいてくるのが見えた。翠から相手の姿が見えているということは逆もまた然り。

「今晩は猿楽の余興が開催されていたと聞いていますが、その一座の方でしょうか?」
「はい。先ほど演目が終わりまして」
「そうでしたか。私はつい先ほど登城したので、見られなくて残念です」

話しながら一歩ずつゆっくりと、だが確実に距離を詰めてくる男にごくりと唾を飲み込む。怪しまれたかと忙しなく視線を飛ばして逃げ道を探すが、相手の素性も力量も分からない中で逃亡するのは愚の骨頂。何があろうとも今ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。

お互い手を伸ばせば届いてしまう距離まで来たところで覚悟を決めたように顔を上げれば、そこには思わず目を見張ってしまうほどの美丈夫が立っていた。どこか幼さを残した顔立ちは自らの師を彷彿とさせる。ぱちりと目があえば、男の銀鼠の瞳がやや驚いたように開かれる。

「異国の方でしょうか?」
「はい、西方の出です」

猿楽一座に異国の人間が混じっていたとしても不自然ではない。逆にここで変に取り繕う方が怪しまれるだろう。だが、この状況をどう切り抜ける?大広間の喧騒から離れて薄暗い城内を歩き回る様子は間者と思われてもおかしくない。一体どうすれば、とぐるぐる頭を回転させる翠の焦りには全く気付いていないのか、男はその整った顔に笑みを浮かべて一言告げた。

「西方の女性に初めてお会いしましたが、とても綺麗な瞳ですね」
「…、へ。…ぁ、えっ?」

予想外の言葉に、翠は素直に感情を出してしまった。

「何か気に障るようなことを言ってしまいましたか」
「あ、…いえ、そんなことは…その、いつもは真逆の反応をいただくことが多いので…少し驚いてしまいました。私には勿体ないお言葉です」

焦りからくるパニックをそれ以上の衝撃で打ち消した翠は、男が何かを告げる前に口を開いた。

「ところで、私より少し背丈の高い女性をお見掛けしておりませんか?同じ一座の者が厠に行ったきり戻ってこないので探してこいと言われて…断りなく城内を歩き回ってしまい、誠に申し訳ございません」
「いえ、咎めるつもりはありませんよ。厠はこの廊下を進んだ左手側です。いくら月明かりがあるとはいえ、城内は薄暗いので足元にはお気をつけて」
「ご親切に、どうもありがとうございます」
「ええ。では私はこれで」

遠ざかる背中を眺めながら、翠は今にも崩れ落ちそうな足に力を入れて暗闇の中へと歩を進めた。


***


「やっと落ちた…」

水桶から髪を取り出して雑巾のように絞れば、勢い良く墨色の水が出てきた。まさか黒粉がここまで頑丈だとは。真っ黒になった水面を覗き込めば、まるで蝋人形のように生気のない人間が月明かりに反射して映っていた。

「美しい、か…」

桶の中に浮かぶ琥珀色をぼんやり眺めながら呟く。この気味の悪い獣のような目を褒めてくれたのは秀吉夫妻と半兵衛だけだったから正直なところ親の贔屓目だと考えていたが、全く知らない他人に彼らと同様の評価をされてかなり衝撃を受けた。嬉しいというよりは気恥ずかしい、といったところだろうか。

「早く乾かさないと風邪ひくよ」

聞こえた声に驚いて振り返ると、縁側に座った半兵衛がこちらを見ていた。

「は、半兵衛様!?お帰りなさい!いつお戻りに?」
「少し前。部屋に戻ろうとしたら庭で白い襦袢の娘が桶に頭突っ込んでるんだもん。ついに出たかと思ったよ」
「…いらっしゃったなら声をかけてください」
「考え事してるみたいだったから遠慮してあげたの」
「普請はもう終わりですか?」
「ううん、まだかかりそう。駄々こねて一時帰宅」
「左様ですか」

実に半兵衛らしい振舞に思わず笑ってしまう。

「もうすぐ卯月とはいえまだ冷えるんだから。ほらおいで、乾かしてあげる」

そう手招きされた翠は嬉しい表情を隠すことなく上機嫌な様子で半兵衛の隣に腰かけた。

「ていうか何で黒くしたの?」
「実は…、先日の桃の節句のとき、おねね様がご準備された変装道具を見て私が脱走してしまって。その出来事をすっかり忘れて今日お訪ねしたところ」
「無事捕まったってわけね」

ねねが昔から翠を着せ替え人形にしていることを知っている半兵衛は彼女の発言を疑うことはなかったらしく、思わずほっと息をついた。
そうしてしばらく半兵衛に身を委ねていた翠だったが、ふとあることが気になり口を開いた。

「半兵衛様」
「ん?」
「義昭公が備後に移られたと耳にしたのですが」
「お、情報が早い。いやーほんと見上げた不屈の精神だよね。毛利さんも大変だ」

浅井・朝倉による信長包囲網が完全に機能しなくなった今、信長はこの機を逃すまいと言わんばかりに西国へと勢力を拡大している。安土城の普請も京や家臣団の居城が近く立地が良くなるからというのは表向きの理由で、実際には毛利を含めた西国攻略を見据えているのだろう。

「だから信長様は、毛利との戦が始まる前に安土城を完成させようとされているのでしょうか。猶予は三年でしたっけ」
「それができれば理想だろうけどね。そんなに上手くいくかな」

ここ最近の義昭・信長両者の動きを見れば、毛利との戦が始まるのは時間の問題である。

「義昭さんの働きかけで近いうちに毛利が信長包囲網の一角を成すことはほぼ間違いないだろうね。とはいえ直接今の織田相手に戦を仕掛けるとは考えにくい。翠ならどうする?」

将軍の頼みを無下にはできないが、勢いのある織田勢力との正面衝突は避けたい。そんな状況で最善を選ぶとすれば。

「私なら、既に織田と敵対している別勢力を利用すると思います。例えば大坂の石山本願寺。石山本願寺といえばこれまで何度も信長様と衝突していますし、兵糧や武器弾薬などの救援物資を支援することで勢いづかせれば織田軍の戦力を大きく削ることも期待できるでしょう」

これであれば直接正面から戦を仕掛けずとも、義昭公には反織田の姿勢を見せることができる。またこれまでの戦歴から毛利は水軍の扱いに長けていることも分かっている。織田軍と衝突するにしても自分たちが得意とする水上に持ち込んで地の利を活かせば、あるいは。

「…さて。毛利はどう出るかな」