故に我有り


六畳程の部屋。誰にも侵されない個人の空間。自然光が入りにくい作りの薄暗い空間。誰に関わるでもなく、誰から必要とされるでもなく。何も無ければ寝台で膝を抱えて一日を終える、そんな自己完結の繰り返し。ただそれだけの私は、果たして生きていると言えるのだろうか。
「……雨……?」
頬に水滴が落ちる。すっかり日が落ちた空を見上げた。ぽつぽつと落ちてくる雨粒は、次第に激しさを増していく。暫くその場で、水が地面を叩く音を聴く。この時間に子供が一人佇んでいるのに、誰も気にも留めない。髪も服も雨に濡れて重くなる。一先ず雨足が弱まるまでやり過ごそうと辺りを見渡した時、不意に自分に降りかかる水滴が遮られる。
「風邪を引きますよ、お嬢さん」
自分に向けられた言葉に、ゆっくりと振り返った。白い帽子。紫の双眸。細身ではあるが、男性と分かる声。きっと日本人ではない。頼りない街灯の明かりだけでははっきりと顔が見えない。けれど時折車のヘッドライトに照らし出される顔は怖い程に整っていて、道行く人も横目で彼を見ている。そんな人が何故私に傘を差し出して、言葉を掛けてくるのか。
「あ……」
「こんな雨の中、傘も差さずに何をしていたのですか?」
「えっと……」
心臓がバクバクしてる。思考もまとまらない。適当に言い訳をして逃げてしまえばいいのに、それすらも出来ない。答えあぐねている私を、今この人はどう思って見ているのか。得体がしれない。気味が悪い。陰でこそこそと言われ続けてきた言葉が蘇る。それが第三者から見た自分の評価であると思い出す。
「あの、私、大丈夫なんで……」
「こんな時間に、そんなにびしょ濡れで、大丈夫なわけないでしょう。保護者かご両親とは一緒ではないのですか?」
「いや、本当に、大丈夫です……」
親切な人間は、大抵警察に引き渡そうとする。それは避けたい。
一歩足を引いて、差し出された傘から出ようとする。けれど腕を掴まれて、それは阻止された。
「っあの、」
「交番に連れて行ったりはしませんから、安心なさい」
「え…」
「見るからに訳有りの子供に声をかけて放置出来るほど、冷たい人間ではありません。話くらいなら聞いて差し上げます」
傘の中に引き戻されて、腕を掴まれたまま歩き出す。交番を通り過ぎて、公園に。東屋に入って、ベンチに座らせられる。男性は傘を閉じ水を振り払うと、私の隣に座り、傘はその脇に立て掛けた。少しの沈黙。雨が東屋の屋根に当たる音が微かに響いている気がする。風に吹かれて顔に掛かった水を手の甲で拭っていると、男性が口を開いた。
「どうせ、ただの家出ではないのでしょう?」
「!」
ギクリ、と心臓が跳ねた。呼吸が一瞬止まる。弾かれたように男性の顔を見る。こんなに暗いのに、紫色がよく見える。
「家出をした子供は、親か保護者はいないのかと聞かれると、それなりの反応を示します。心の何処かで悪い事だと思っているのでしょう、声を掛けられた時点で逃げようとする子供も少なくありません。ですが、貴女はどちらでも無かった」
耳のすぐ側に心臓があるのかと思うほど、鼓動が響く。
何だ。この人は、何だ。
「親切な大人は、夜中に一人歩く子供を警察に連れて行く。あの時逃げようとしたのは、その経験があったからでは?両親という言葉には反応を示さず警察を忌避する。故に訳有りと判断しましたが――」
見透かされている。その事実に身震いする。あの時、腕を振り払って逃げ出すのが正解だったのでは。息が上がる。目を逸らせない。
「その訳まで話す必要はありませんが、忌避しているはずの警察に連れて行かれてしまう、そのリスクを背負ってまで一人であそこを歩いていた理由くらいは話してもらえませんか?」
「…………あ、の……わた、し……」
視線を膝に落として、両手を握りしめる。言葉が渦を巻いている。何も出てこない。見透かされていた、そんな人に何を話せば良いのだろう。何もかも知られているかもしれないのに。
「私……ずっと、一人で……」
言葉と共に、記憶が引き摺り出される。昔の事。今の事。
「お母さんは、居るけど、居なくて。凄く、……嫌われてるから。要らないって言われちゃったし、親戚とかは、居るのか分からなくて……」
心臓の奥が冷えていく。吐き気がする。頭が痛いのは、体が冷えたせいだろうか。
「学校は、偶に行くけど、色々あって、ほとんど……」
一緒に遊ぶと監視される。何時からか広まった噂。動物と話していて気味が悪いと言って誰も近寄らなくなった。最初こそ露骨に避けられたけれど、関わらなければ問題は無いと、今は避けられもしない。
「私の存在ってすごく、不安定だと思って。だから偶にこうして、夜、外に出るんです。けど誰も、私の事なんて、気にしてないから」
親切な顔をした大人が、義務のように交番に連れて行く。でも私を見ていない。彼らが見ているのは、夜中に一人徘徊している子供。私じゃない。
「だから寂しい、ですか?」
「寂しい……?」
不意に聞こえた単語を繰り返す。私の中にすとんと落ちてきた。じわりと広がって、胸に空いた穴がハッキリとする。
「そ、うですね。寂しいの、かな」
狭いベンチの上で膝を抱えて、額を押し付ける。何をやっているんだろう。知らない人に、どうでもいい事を話して。
後頭部に手が置かれた。そのまま髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜられる。
「な、何ですか?」
「何がです?」
「いや、頭……」
「泣いている子供を慰める時にはこうするものでしょう?」
当然だとでも言いたそうな表情。泣いている子供は、もしかして私の事だろうか。別に涙なんて流してもいないのに。
「今思った事を言ってごらんなさい」
「思った、こと」
「そうやって感情を見ないふりばかりしたところで、無かった事にはなりませんよ」
でも、と頭が否定する。言ったところで、誰も――。
「ぼくが居ます」
視線がぶつかる。静かな目だ。
「ぼくが聞いています。少なくとも、今は一人ではない」
口が開いて、言葉に詰まった。言いたい事が多すぎて喉に引っかかっているみたいで。頭から背中に移動した手の動きに合わせて、何度か深呼吸をする。呼吸が落ち着けば、するすると言葉が出て行った。
「……寂しかったんです」
誰も認めてくれなくて。誰も受け入れてくれなくて。ただ一人、世界に取り残された気がして。
「寂しかった。ずっと、寂しかった。私だって、好きでこんな、どうしようもないのに、私だって見たくなかったのに、勝手に。そのせいでお母さんも、皆も気持ち悪がって。でも、お母さんは」
何時からだったかと考える。母親が疎ましそうな視線を向けるのは、何時からだっただろうか。思えば、物心ついた時からずっとだったような気がする。
友人には避けられて、近所の人には疎まれて、親には存在を拒絶されて。ずっとずっと、否定され続けて。それでも未だ捨てられてはいないと誤魔化してきたけれど、本当は気づいている。捨てる事すら面倒だと思われている事くらい、とっくに気づいている。
「私、こんな、私だって、生を否定される為に生まれて来たんじゃない!望んでこんな風に生まれて来たんじゃないのに!私だって、もっと、私、ちゃんと……ちゃんと、生きたい」
ただ呼吸を繰り返すのではなく。一人で一日を繰り返すのではなく。生きたい。
一気に捲し立てたせいで呼吸が上がっている。背中をゆっくりと叩く動作に合わせて呼吸を整える。妙にスッキリとした気分だけれど、酷く疲れた。
「生きたいのであれば、ぼくと一緒に来ますか?」
いつの間にか逸らしていた視線を男性に戻す。先程とは打って変わって、柔らかく目を細めている。
「ぼくは何時か、この世界の罪を消し去ります。貴女の罪も、その時には消える」
呼吸が落ち着けば、男性は不意に立ち上がる。立て掛けていた傘を差して、東屋からまだ雨が降る外に出る。
「そこを一歩踏み出せば、今の生活には戻れません。何も知らない子供にも戻れません。もしかしたら早々に息絶えるかもしれない。それでも貴女が生きたいと思うのなら、ぼくと一緒に来なさい」
右手が差し出される。彼は私と違う世界で生きている。その世界に誘われている。未知の世界に踏み出す恐怖が無いわけではない。けれど少なくとも、この人と一緒にいる間、私は私として生きていた。
背中を押されるように飛び出して、手を握る。その手を引かれて、傘の中に入れられた。
「随分と好奇心旺盛なお嬢さんだ」
「だって、生かしてくれるんですよね」
確立出来なかった私の存在を認識してくれる。だから、この人と生きていきたい。
訊ねると、「勿論です」と頷かれた。生きる場所をくれる、それだけで十分だ。
「そういえば、未だ名乗っていませんね。ぼくはフョードル・ドストエフスキー。貴女の名前は?」
「……、詩音」
苗字を口に出そうとして、止めた。あれは好きじゃない。もう要らない。
手を引かれて、歩き出す。どんなに雨に濡れても、もう寒くはなかった。


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