安らぎ


 壁一枚を隔てて足音がする。部屋の前を通り過ぎるそれに目を覚ました。広く、綺麗な、何も無い部屋。見慣れない天井。寝台で寝たのは初めてだ。ふかふかの毛布の心地良さからどうにかこうにか抜け出して、扉から廊下に顔を出す。音が向かった方へと歩くと、部屋に入るのが見えた。追いかけて、同じ部屋に。今出てきた部屋よりも広く、物が多い部屋。ダイニング、っていうやつだろうか。そこで昨日知り合ったばかりの男性が、優雅に紅茶を飲んでいる。名前は確か、ドストエフスキーと言っていた。
「おや、おはようございます。よく眠れたようですね」
「お、はよ……ございます……えと、ドスさん」
 此方に気づいて、にっこりと微笑む。挨拶を返してから、どうしたものかとあちらこちらを見回すと、向かいの席を示された。きっと座れという事だろう。恐る恐る座ると、ドスさんは立ち上がった。
「ホットチョコレートとホットミルク、どちらが良いですか?それとも、ぼくと同じ紅茶にします?」
「え」
 マグカップを選びながらこちらに問いかける背中に、何と言えば良いのか。というか、そこまでしてもらっていいのか。昨日出会ったばかりなのに。
「大丈、夫です、から、あの」
「何が大丈夫なのです?」
「え、と、それは」
「では言い方を変えましょう。貴女と話をしたい。そのお供に、温かい飲物でも如何ですか?」
 優しいのに、拒否させない口調。断りの言葉を飲み込んだ。
「じ、じゃあ、ホットチョコレート……」
「承りました」
 小鍋を火にかけて温めた牛乳を、チョコを割入れたマグカップに少しずつ注ぐ。混ぜる音と、甘い匂い。「どうぞ」と目の前に置かれたマグカップは、少し熱い。
「いただき、ます」
「ええ、召し上がれ」
 息を吹きかけて、少し冷ましてから口を付ける。舐めるように口に含んで、飲み下す。チョコレートの甘さと、温かさが、じんわりと広がる。
「……美味しい」
「それで、話ですが」
 再び座ったドスさんが、カップ持ち手を指でなぞりながら口を開く。
「異能力の事です」
「異能、力?」
「あらゆる常識や法則を無視して発動する力。貴女のその、動物を生み出す力も異能力の一つです」
「っ、げほ、」
 驚いて、勢いよく吸い込んだ液体が、あらぬところへ流れ込むところだった。数度咳き込んで、口元を拭う。言ってないのに、何で動物の事を知っている?
「さて、何故でしょう」
「何故でしょうって、私が聞いて……」
「話を戻しますが」
「ねえ」
 はぐらかされた。というより、答える気が無いようだ。諦めて、両手でカップを握りこんだ。
「貴女の異能力は良い武器になります。しかし、上手く使えていないのでしょう。見たくないものが見えてしまうのは、そのせいです」
 見たくないもの。見る必要の無い物。一番見たくないものを、一番見たくない時に見た。それが、異能力のせい。
「……それ、」
「はい?」
「その、異能力。上手に使えるように、なったら。私、もっと、ちゃんと生きれます、か?」
「ええ、勿論」
 間を置かない肯定。それは嘘ではないと確信する。上手に使えるようになれば、ちゃんと生きられる。生きたいと思った私の望みは叶う。
「ですが、暫くは身体を休める事が優先です」
「何で……?」
「子供は環境の変化に敏感で、それ故にすぐ体調を崩します。先ずは、今の環境に慣れなさい。全てはそれからです」
「でも、」
 また、見たくないものを見てしまうかもしれない。それが恐い。言う前に、ドスさんは「安心なさい」とカップを置いた。
「身体の安定は、精神の安定にも繋がります。貴女の場合、精神が安定すれば異能力が勝手に発動する、等という事は少なくなるはずです」
「精神の安定……」
 手を見つめながら握って、開いてを繰り返す。よく分からない。けれど、この人が言うなら、そうなんだろう。
「分かり、ました……」
「良い子です」
 笑顔が、一層柔らかくなった。


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