選択


 古い集合住宅。所々錆びた鉄か柵が付いた外階段。二階の一番奥の部屋の前に立つ。表札の名前に懐かしさと、ざわつきを覚える。今や誰にも呼ばれないファミリーネーム。捨てられた時から必要無いものとして忘れていた。忘れた振りをしていた。
「……」
 呼び鈴を押そうとして、躊躇する。──何で来てしまったんだろう。
昔と変わらないという情報を得た。情報をくれたのは頭目だ。きっと、今ここで帰っても、頭目は何も言わない。何も言わず、私の選択を受け入れる。そこに失望などない。ただ「それが貴女の選択ですか」と、何時もと変わらず、別な仕事を回すだけだ。
 深く息を吸い込んで、吐き出す。手の震えが収まる。けど、きっとまた直ぐに。呼び鈴は鳴らさず、扉の取手に手を掛けた。指紋を付けないように手袋をして。ゆっくりと捻ると鍵は掛かっていないようで、抵抗なく開く。荒れ切った室内。靴は扉の前に脱いで、部屋へ。最後の扉を開けば、懐かしい顔と目が合う。記憶より老けた顔が、驚きから恐怖に色を変える様を見下ろした。
「あ、んたは……」
「……久しぶり、お母さん」
 母と呼び掛けた女は、口を開閉させるだけで何も言わない。それもそうか、数年前に行方不明になった子供が生きて目の前に現れたら、驚きもするだろう。
「話をしに来たんだ」
 努めて冷静に、動揺は隠す。隙を見せたら付け入られる。逃げようとする女の足を払い、蹴り飛ばす。床に倒れた所をすかさず仰向けにして、踵で右肩を踏みつけた。痛みに叫ぶ声が響く。通報されたらどうしようと考えて、この時間帯にこの住宅の住人はほぼ居ないことを思い出す。
「逃げないでよ。久しぶりに娘に会ったのに、酷くない?」
「誰が娘よ!あんたを娘と思った事なんて一度も無いわ!」
 記憶と違わぬ罵倒。記憶より明確に向けられる敵意と憎悪。ひゅっと音を立てて吸い込んだ息が一瞬、詰まりそうになった。心臓がゆっくりと鼓動を繰り返す。頭の先から血の気が引いていく。
「……それでも、私の母親は貴女だった」
「母親だなんて言わないで!あんたのせいで、私は不幸だった!」
「……、どうして」
 予感がする。聞いてはいけない予感。これ以上は、後戻り出来ない予感が。手を握り締める。掌に、爪が食い込む痛みで平静を保つ。
「どうしてですって?忘れたとは言わせないわ。あんたが、あんたのせいで、私はあの人に棄てられたのに!」
 ヒステリックな女の声。呼吸が浅くなる。心臓が早い。痛み出した頭に、視界が揺れそうになる。せり上がってきた言葉が、喉の辺りで渦巻いていて気持ちが悪い。
「私は女で居たかった!子供なんて必要無かった!けどあの人が欲しいと言ったから……なのに、あんたが、あんたのせいで!」
「……それは自業自得じゃん」
 女で居たかった。その言葉の通り、母は女だった。そして父も、男だった。母も父も、お互いを愛していると言いながら、同じ言葉を別の人間にも掛けていた。それでも母は、父に縋ろうとしていた。結局振り払われていたが。
「私、お母さんの事はお父さんに言ってないよ」
 そう、言ってはいない。ただ聞きはした。一緒に居た人は誰、と。それを聞いた時の父と母の顔は、絶対に忘れられない。
「だから何よ?!私は女で居たかったの!あんたが生まれたせいで、あの人の中で私は女じゃ無くなった!あの人が求めたのに!あんたが生まれたから、あんたが、あんたさえ居なければ!」
「……やめて」
 奥歯を噛み締めて、小さく漏れ出た声。頭が痛い。吐き気がする。叫びたくてたまらない。ぐるぐると感情が渦巻いて、気持ち悪くて、仕方がない。
「あんたなんか要らなかった!あんたなんか嫌いだった!あんたなんか居なくなれば良かった!あんたなんか……」
 ズキン、ズキンと。女の声に呼応するように響く痛み。嫌だ。聞きたくない。聞きたくない!
「あんたなんか生まれてこなければ、生まなければ良かった!!」
「っ――!!」
 肩に乗せていた踵を上げて、踏み抜く勢いで腹に落とす。潰れた蛙のような声が上がる。骨は折れてない。多分。
早い呼吸を落ち着けようと、何度か深呼吸。喋れる程にまで落ち着かせて、ようやく口を開けた。
「……異能力って言うんだってさ」
「ぅ、ううぅ……!」
「貴女達が気味悪がってた力をね、欲しがってくれる人がいた」
 踏みつける足に力を込める。柔らかい肉を押し潰す感触。爪先に、骨の抵抗を感じる。
「その人ね、私の事、好きだって言ってくれた。傍に居ても良いよって言ってくれた。私はさ、ただ、居場所が欲しかったんだよ」
 苦痛に歪む女の顔。骨は折れていないだろうが、罅くらいは入ったかもしれない。
「でも、その人の傍に居る為には、異能力をもっと上手に使えないと。じゃないと、私が私を許せない。言われたんだ、私、自分で選べって。何処に居るべきかじゃなくて、何処に居たいか。私が居たい場所に居る為に、私は……」
 何を言っているのか、何が言いたいのか、自分でも分からない。一度言葉を区切って、思考を整理する。言いたい事、言わなければいけない事。聞く事は何も無い。やるべき事は一つだけ。
「……ねえ、お母さん」
「あ"……っ?!!」
 踏み付けてた足から力を抜く。押し潰されていた内臓に余裕が生まれる。
女の目が見開かれる。痙攣するように顎が震える。
「お母さんは、私にこの力が無くても、私を捨てたでしょ?」
 女で居たかった。あんたなんか要らなかった。拒絶の言葉の中に、異能力を忌避する言葉は無かった。父は元から私に興味は無く、母は私が疎ましかった。
「私ね、異能力が無かったらって考えた事があるの」
 何度も。何度も。この力さえ無ければ。何も見えなければ。少なくとも人並みに、それなりに、普通に生きていけたのではないかと。何度も。繰り返し、異能力のせいにした。
「だからかなぁ、偶にね、制御出来なくなっちゃって。元々色々制約があるのに、色々迷惑掛けちゃった。精神的に不安定になると本当駄目で。突然烏が凶暴化した時なんて困ったなぁ、人を襲うんだもん」
 足の裏に、胎の内で蠢く気配が伝わる。既に二匹。
「やっぱりさ、嫌いなものって上手に扱えないよね。お母さんが、私を持て余したみたいに。お父さんが、お母さんを放り出したみたいに。
 声にならない絶叫。三匹目。
「安心した。ちょっと怖かったんだ。もし、異能力のせいだったら。もしそうだったら、私、今度こそ居場所無くなっちゃうからさ」
 足を離す。逃げ出そうとする余力なんて残っていない。もがき苦しむ胎内には、数匹の鼠が蠢いている。相当の苦痛の筈だ。自分で味わった事は無いけど。
「ねえ、お母さん。私、今日で一周忌なんだってさ」
 条件を満たせば、失踪宣告により法律上死亡扱いとなる。行方不明になってから、世間体を気にしてか、捜索願いは出していたようだ。事件性は低いとみなされたらしいが。
 賃貸物件の小さな台所。収納から包丁を探し出す。少しだけ刃毀れはしているが、充分だろう。
「……なさ……っ…!」
「ん?」
「ごめ、…さ……!!」
「……あー」
 御免なさい。御免なさい。激痛に呻きながら、か細い声で訴える。包丁を持ったまま歩み寄った。
「謝らなくて良いのに。別に怒ってるわけじゃ無いんだから。ただ話をしに来ただけだって、最初に言ったでしょ?異能力を上手に使うために来たんだよ。嗚呼、まあ、でも……」
 包丁を投げる。女の目の前に落ちた。カラカラという音に、女が視線を刃に向ける。
「私を知ってる人が居ると困るから、それも目的かな」
 悶えながら、女が包丁に手を伸ばす。それを両手で握りしめて、苦痛に耐えて上体を起こした。額に浮かぶ汗と血走った目。憎悪の色は見えない。そんな気力も残ってないだろう。両手で逆手に持った刃を腹に突き立てるまでが、やけにゆっくりに見えた。


 夕方。窓から茜色の光が差し込む。血はとっくに広がるのを止めて、中心に居る女の息は止まってから大分時間が経っている。
 何故私はまだ此処に居るのか。まだ仕事が残っているから。膝を抱えて、自問自答を繰り返す。長居するのは避けたかった。来客の偽装はしたが、時間が経つほどボロが出る。不意に、玄関の開く音がした。
「……痴情の縺れの果てに無理心中って、よくあるよね」
 女の手から、血塗れの包丁を抜き取った。






「……随分と遅かったですね」
「ぁ……」
「何か、ぼくに言う事は?」
 あの後、女の愛人も始末した。使った包丁は女の手に戻して、血塗れの手袋は持ち帰って捨てるつもりだった。人付き合いがあまりない人だ、発見は大分後になるだろう。そうして全部終わらせて、帰宅して、何と報告するべきか。考えて、考えて、考えて。一応、頭の中で言うべき事は纏めて、言いたい事も整理してきた筈だった。なのに。
「ただい、ま……」
 けれど、それら全ては扉を開けた瞬間に消え去って。口から滑り出たのは、何とも他愛もない言葉。口から言葉が零れ落ちた瞬間、頭目の目が、口元が、柔らかく綻んで。
「おかえりなさい」
 その一言に、膝から力が抜けて、その場にへたり込む。何だろう、酷く疲れた。霞む視界と、鈍くなる思考。――嗚呼、確か、そうだ。言わなければいけない事があったんだ。
「あ、の……頭目、あのね」
「はい」
「私ね、私の異能力、嫌いにならずに、済んだよ」
 嗚呼、違う、これじゃない。床に着いた手を握る。違う、言わなきゃいけないのはこれではなくて。もっと……女の事とか、何か、あった筈で。
「ほんと……怖くて、でも、もっとちゃんと使えるように、なりたくて」
 自分の膝を眺めながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。けれど違う。これではない。違う。頭で分かっていても止まらない。止められない。違う、これじゃない、こんな事を言おうとしていたわけじゃない。
「私、ちゃんと選びたかった。選べた、選べたよ。前、頭目が言ってたみたいに、自分で選べた。でもね、私、やっぱり、」
「詩音」
 膝に影が落ちる。思ったよりも近くで聞こえた声。弾かれたように顔を上げると、目の前に整った顔。言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。伸ばされた手に、思わず身を竦ませる。頭目は失笑して、私を抱きしめた。
「詩音、おかえりなさい」
「っ……」
「おかえりなさい」
 繰り返される、ただ一言だけの短い言葉。耳のすぐ近くで聞こえる声。帰って来たという事実が、脳に染み込む。帰って来た。私は、此処に帰って来た。自分で選んだ場所に、帰って来た。
「拒絶はしないと言った筈です。貴女は、自分で選んだのでしょう?」
 そう、選んだ。此処に居る事を、帰る事を選んだ。
 恐る恐る、その背に腕を回した。私の居場所が失くなる事は、きっともう、二度と無い。


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