微睡みの世界に手を振って


 秦王都・咸陽。その中にある六将が一人、王騎将軍の城に彼女は居た。
 腰まである艶めいた薄藍色の髪を無防備に風で遊ばせ、紺藍の瞳は陽光のようにきらりと輝いている。身長は王騎の副官・騰より頭三つ分程低い。

「瑛藍、ここに居たのか」
「騰」

 城下を一望できる高台は、瑛藍の特等席。日中はいつもここに居る自分を探しに来るのは騰か王騎くらいのものだ。尤も、二人以外にここが自分の特等席だと知る者も居ないというのが正直なところだが。

「なに、どうしたの? ご飯?」
「食事はまだ先だ。それよりも――」

 殿のご帰還だ。
 その言葉に紺藍色の瞳を更に輝かせた瑛藍は、急いで着崩した服を直して立ち上がる。「騰、はやく!」まるで幼子のように頬を赤くさせる少女に、呼ばれた本人はつい笑ってしまった。

 騰を急かしながら目的の人物の元へやっと到着すると、屈強な男達なぞ全く恐れずにその中へ飛び込んだ。遠目だってすぐに分かる。彼程の人を間違えるはずがない。

「殿ーー!」

 身長的に手が腰ほどくらいにしか届かない為、瑛藍は殿――王騎の脚にぎゅっと抱き着く。すると「おやァ?」という声と共に、身体がふわりと誰かに持ち上げられた。
 王騎との顔が近くなる。つまり自分は王騎に抱き上げられたのだ。しかしこれもいつもの事で、瑛藍は特に驚かずに片腕に抱かれたままだらしなく頬を緩めた。

「おかえり、殿」
「ンフフフ、ただいま帰りました、瑛藍」

 まるで父と子の再会のような光景だが、これもこの城では当たり前のものだった。

「軍事演習どうだった?」
「いつも通りですよ。それより瑛藍こそ、きちんと言われた事はやりましたかァ?」
「前にサボって怒られたからね、今回はちゃんとやったよ!」

 褒めろと目が言っている。王騎は笑みを濃くすると、空いたもう片方の手で優しく瑛藍の頭を撫でた。

「今から湯に浸かりに行くの?」
「えェ、疲労回復にはやはり温泉が一番ですからねェ」
「じゃあ、湯から上がったらわたしも一緒にご飯食べていい?」

 その質問に否と唱える者はいない。王騎が一つ返事で頷くと、瑛藍は彼の腕から飛び降りて部屋から出て行った。

「変わりましたねェ、瑛藍も」
「ハ。良い傾向だと思います」
「……あの子をの元へ返す日が来るのが、忍びないですねェ」

 その日がいつ来るのか、それは王騎にも分からない。だが彼は柄にもなく思った。――その時が来なければいいのに、と。



「んむ? なんて?」
「貴女はあの若き王をどう思いますかァ?」

 食事の席で王騎が話題に上げたのは、弟の反乱を乗り越えて玉座に返り咲いた秦国王第31代・嬴政えいせい。その戦いに瑛藍は全く興味を示さなかったが、この男があの場へ行っていた事くらいは知っている。
 ごくりと口の中の物を飲み込むと、「ん〜〜〜〜」と考えた。

「王なんてわたしにとってはどうでもいいけど、あの弟じゃなくなったのは良かったかな」
「それはどうしてですかァ?」
「だって、きっとわたしも『下賤な血が〜〜』とか言われて、位も剥奪。最悪死罪とかも有り得たかもしれない」

 瓔政の弟、成蟜せいきょうがあのまま実権を握ってしまえば、自分の未来は無かっただろう。それ程までにあの弟は高貴なる身分とやらを重んじていた。
 生まれが孤児の自分なんて即刻排除、なんて充分あった未来だ。王騎も知っている為何も言わず、そのまま先を促した。

「で、今の大王に対する印象は……うーん、呂不韋に手も足も出ない若造?」
「ココココ…、同じ歳の貴女がいいますかァ」
「だって、この間あった暗殺事件も結局呂不韋を裁く事は出来ずに終わったじゃない。呂不韋に手こずってるようじゃあ、あの王様が描く夢には到底届かないよ」

 王騎から政の夢――中華統一の話は聞いていた。正に血で血を争う修羅の道だ。だがそれをあの王は選んだ。

「貴女も見定めに行きますかァ?」
「殿が行ったなら別にわたしはいいよ。それに大王ってまだわたしの事知らないんでしょ?」

 瑛藍の事――。それが意味するものとは、勿論王騎や騰には分かっていた。

「えェ、貴女の事は大王や昌文君ですら知らない。ということは敵も正体を掴めていない。これはとても大きいですよォ」
「ま、次の大きな戦にはわたしも呼んで! 絶対殿の役に立って見せるから!」

 ぐいっと身を乗り出す瑛藍に、いつもの笑い声を部屋に響かせた彼は、「そうですねェ」と考えるような声色で言った。

「まだ貴女を戦場に出すのは早すぎる気がしますが――」
「なんでよぉ………」
「瑛藍、貴女は所謂“隠し玉”。隠せば隠す程にその効果は増すんですよォ」
「もう充分待ったよ! ね、いいでしょ? 殿が出る戦でいいからさ」

 王騎が出る戦とは、つまり最大規模となる戦場になる。それに出たいなど正気の沙汰ではないが、この少女は本気で言っていた。

「騰はどう思いますかァ?」
「ハ。戦場とは常に変化するもの。そこに一陣の風を吹かせる事は、必ず勝利へと導く一本の道となりますれば」
「ンフフフ。そうですねェ、騰の言う事も一理ありますねェ」

 つまり? つまり?
 ハラハラしたように瑛藍が王騎と騰を見比べていると、大きな手が自分を抱き上げ、膝に置かれた。彼の顔を見上げると、将軍の顔とは違う表情がそこにあった。

「仕方がないですねェ」
「――――!」
「殿も、娘には甘いですな」
「お黙りなさい、騰」

 その言葉の意味なんて、はっきりさせずとも分かった。瑛藍は嬉しさのあまり彼の首元に手を伸ばして強く抱きしめた。

「ありがとう! 殿!」
「ココココ、瑛藍からの頼みなんて滅多にないですからねェ。それに私も、そろそろ貴女のお披露目を考えていましたからねェ」


 ――その時は、刻一刻と迫っていた。