そんなある日の事だった。いつも通り起きて、朝餉を食べていると何やら城内が慌ただしくなり、とりあえず急いでご飯を食べ終わると同時に騰が襖を勢い良く開けた。
「騰……。その様子だと、何かあったの」
それは確信にも似た問いかけだった。騰は一つ頷くと、「出陣の準備をしろとの仰せだ」と言って何処かへ消えてしまった。暫くその意味が理解出来なかったが、漸く事態を飲み込めた瑛藍は慌てて服を着替えた。色は深緑、そしてその上から甲冑を着込む。最後に愛刀である斬馬刀“
「戦争?」
「はい」
「それに殿も参加するの?」
「軍議に呼ばれましてねェ。たまには良いかと。それに……言ったでしょう?
笑みを濃く浮かべた王騎の横で馬を走らせていた瑛藍は、今から戦場に行くというのにとても輝いていた。薄藍色の髪を後ろで高く一つに結び、左右に残る一房のそれが風で靡く。正に少女は内からもその光を発していた。
「じゃあ正殿に向かってるの?」
「そうですがァ……先に迎えに行かなければならない者がいましてねェ」
「迎え? なに、誰?」
「ンフフフ、後で紹介しましょう」
いくつかある演習場の近くに、
答えを求めるように王騎を見れば、「その童が、先にあった王位奪還で尽力した者ですよォ」と端的に信の紹介をした。言われてもう一度信の顔を見れば、彼は女に見つめられる事があまりなかったらしく、頬を赤く染めて「よ、よォ」と手を挙げてきた。
「…………だからって、なんでうちで修行してたの?」
「童 信が訪ねて来ましてねェ。私に修行をつけて欲しいと」
「はぁ!? ちょっと、そんな話聞いてないんだけど、騰!」
「言ってないからな」
「そこは言えよ!」
「コラ、お口が悪くなってますよォ瑛藍」
王騎に咎められ、きゅっと唇を噛んで自制する。いけないいけない、戦争に行くからって気分が高揚してる証拠だ。我慢しろ。
喋らなくなった代わりに、彼女は自分が怒ると分かっていて黙っていた騰をひたすら睨み続けた。
「王騎将軍!」
「何ですかァ?」
「この女は誰だ?」
「ンフフゥ、この女とは随分な言い草ですねェ。瑛藍は貴方の数倍、数百倍は強いですよォ」
「嘘だろ!?」
それっきり瑛藍の話をしない王騎に、今度は「修行が後回しって一体どういうこった!?」と吼えた。いい加減信の怒声にうんざりしたのか、瑛藍は王騎や騰から下がって荷馬車の数メートル後ろへ。まだ幾分かマシになった声に彼女はやっと静かに気分を高めていった。
韓に進軍した秦だったが、その隙を狙って趙が動き出した。これが此度の最大の誤算だった。何故なら文官の誰もが『趙を率いる武将が居ない』と思っていたから。
その趙が此方へ攻め入ってくるとなれば、王都を、国を守る将が居ない今、打つ手なし。残っていた蒙武を総大将に据えて迎え討つかという話が出たが、それを昌文君が待ったをかけた。
――蒙武では、“守”の強さがない。
そうはっきりと伝えた昌文君は、たった一人だけ“攻”と“守”を兼ね備えた将軍が残っていると告げた。その次の瞬間、キィ、と扉が軋んで開く音がやけに大きく聞こえた。
「ンフフフ、久方ぶりに
「王騎!!?」
彼の登場は、この場にいた全ての人間を驚かせた。
王騎の後ろには副官である騰と、何故か信もいる。大王であり、友でもある政は彼の存在にひどく驚き、ついで騰の隣にいる女の存在にも目を瞠った。
蒙武と王騎で舌戦を繰り広げる中、女は騰と小さな声で会話をしている。その様子はこの空気の中全く緊張しておらず、むしろあの蒙武に対して怒りとも取れる雰囲気を醸し出していた。
漸く昌平君が王騎を総大将に据えるときっぱり告げると、蒙武は騰と瑛藍の間を無理やり通って出て行った。
「――王騎」
「何でしょうかァ、大王よ」
「その女は何だ」
政の指摘に昌文君や昌平君、呂不韋も王騎の背後を見やった。前にある大きい身体のせいで見えなかったが、確かに甲冑を着込んだ女が立っている。しかも副官騰の隣に。
「確かに、その者は誰かな? 王騎将軍」
呂不韋も尋ねる。王騎は「ンフフフ」と笑うと、「来なさい、瑛藍」と後ろに控えていた彼女を呼んだ。短く頷いた瑛藍は静かな動きで王騎の横に並ぶ。
後ろから見ていた信は、自分よりもかなり背の低い女なのに――何故かとても大きく見えた。王騎と並んでも謙遜なく、存在が。
それを感じたのは信だけではなかった。政も、昌文君達も、何より呂不韋も、異常とも取れるほどの大きさを瑛藍から感じ取っていた。
「紹介しましょう。この者は瑛藍、私の元で育てていた武人ですよォ」
「御紹介に預かりました。瑛藍と申します。此度の戦争に参加する所存となりました。どうぞよろしくお願い致しまする」
ふわりと風が凪ぐ。穏やかな海のように拱手した瑛藍に、一同は時が止まったかのように誰も何も言えなかった。
一番初めに気を取り戻したのは昌平君だった。彼は冷や汗をかいている掌を握りしめると、王騎に尋ねた。
「育てていた、と言いましたが……実力は如何程か」
「そうですねェ……。蒙武将軍と同等、と言えばまだ想像しやすいですかねェ?」
「ハァァ!?」
驚いた声を上げたのは信だ。だが誰も彼を咎めない。驚いたのは皆同じだからだ。
当の本人はもう拱手をやめて「蒙武って人よりわたしの方が――」と王騎に訂正を求めている。それを後ろから騰が頭を殴って止めていた。
「……それは、本当かな?」
「このような場で嘘を吐くほど、私も暇ではないですよォ」
「ごちゃごちゃうるさいなぁ。要はわたしの実力の話でしょう? だったら――」
ピッと瑛藍は後ろにいた信を指差した。
「こいつ、殺せば認めてくれるの?」
「なっ、貴様何を言っておる!」
「ずっと身のない話ばかりしてるからでしょう? 戦はとうに始まってるのに、いつまでこんなくだらない事を続けるつもり?」
ブワッと彼女の雰囲気がここへ来て針を刺すかのように研ぎ澄まされた。まるでこの場にいる人間を威圧するかのように。
「実力見せろって言うなら、今すぐ――」
「瑛藍」
ぴたりと少女の口が止まった。自分の名を呼んだ王騎を見上げれば、彼は全てを包み込むような眼差しで自分を見ていた。
たったそれだけの事で荒んでいた心が落ち着くのが分かる。瑛藍は小さく謝ると後ろに下がって騰の隣に並び直した。
「瑛藍の実力は私が保証しましょう。この子の言う通り、既に戦は始まっていますしねェ。――それでは、皆さんにも退出して頂きましょうか」
こうして王騎は政と二人きりになった後、やっと任命式を終えるのであった。