夢への一歩を踏み出す準備


 騰軍が一軍として瑛藍は隊を率いながら軍事演習に精を出していた頃、王宮内では実力不足で要職に就けない貴族集団が徒党を組み、高官職にある外国人達をねたみこれを国外追放とする『逐客ちっきゃくの令』を発したが、「バカかお前ら!」と李斯に一喝され法案と共に姿を消した。
 しかして冬は一転して静かに日々が過ぎ、そして──灼熱の始皇十一年の幕があける。




 正殿にあるとある一室で、その四人は地図と駒を前に厳しい眼差しで額を突き合わせていた。

「……くそっ、ダメだ! 何度やってもやはりぎょうの城壁を越える前に邯鄲かんたん守備軍に葬られてしまう!」

 蒙毅が吼え、昌文君は唸りながらバタッと倒れる。介億は地図に手をついて立ち踏ん張り、昌平君は荒い呼吸を整えるように目を閉じた。
 この四人がここへ集っているのは、いよいよ趙の喉元である“鄴”を攻める策を立てる為だ。


 昌平君が嬴政に示した中華統一、まずはその第一歩となる趙攻略への道筋。それが『鄴攻め』だ。
 もともと趙西部攻略は容易では無く、しかも李牧が陣頭指揮を執ったことでより困難を極めていた。あの軍総司令である昌平君を以ってしてさえ「攻略の糸口が全く見えない」と言わしめたのだ。
 桓騎が落とした黒羊を西部攻略の楔にしようとしたのだが、李牧が長期戦を見越して趙西部の広範囲に複数の城を築き始めた事でより複雑な防衛線を作ろうとしている為、ここで武力突破を幾度も繰り返してしまうと攻略には最短で、、、十年かかってしまう。それは十五年で六国を滅ぼすと決めた嬴政にとって、どうしても避けなければならないことだった。

 そこで昌平君が考えた奇策、、、それが先も述べた通り『鄴攻め』である。
 趙の王都である邯鄲、その西は“太行たいこう山脈”という自然の盾に守られ、南は趙第二の大都市“鄴”が黄河の岸を守るという鉄壁の囲いの中にある。李牧が今まさに防衛線を築こうとしている趙西部、それはこの太行山脈より先にあり、彼はその山脈が最後の砦だと思っているからこそ力を入れている。
 それはつまり、『気を取られている』ということ。昌平君が考えた“奇策”というのは、詳しく説明すると今までの西部攻略を“囮”にして南を駆け抜け、一気に大都市“鄴”を攻め落とすことだった。
 この奇策を以てすればわずか三年、、で王都“邯鄲”を落とし、趙を滅ぼすことが出来る。そう言い切った昌平君に、嬴政は覚悟を決めて彼に下知を下したのであった。





 新兵達を録鳴未に預けた瑛藍は騰が訓練している傍で、山積みになった木簡を前に机の上で突っ伏していた。

「送ってくる頻度高すぎる……。しかも毎回的を得ない書き方するから余計頭がこんがらがる…」

 年末から新年にかけて、昌平君から届いた木簡は軽く十を超えている。しかしその中身は彼らしくもない煙に巻かれたような書き方のせいで、瑛藍は何の話をしているのかさっぱりわからないまま訊かれたことに対して自分の見解をまた木簡に書き、使者に突き返していた。
 戦もない今の時期ならば軍師学校に呼べば早いのに。そんな風にグチグチと騰相手に文句を言う瑛藍だったが、彼女とてあらかたの察しは付いている。

 恐らく、趙の攻略を練っているのだろう。そしてこのようなはっきりとしない物言いをするということは、それほど今回立てた策は大きく、想像を逸脱した内容だと推測できる。
 黒羊を足掛かりに西部を目指すことは知っている。その為の戦だった。しかし今やその目の前で趙が防衛線となる城が築かれている真っ最中だということも知っている。

「どうするんだろうなぁ」

 ファルファルファルといつもの独特な音を立てながら剣を振るう騰を、机に頬を付けた状態でぼーっと眺める。馬がブルルルッ…と鳴く様子もここからだとよく見えた。
 瑛藍はガバッと突然起き上がると、音を立てて椅子から立ち上がりそこら辺に落ちている木刀を拾い上げる。パシパシと手のひらに木刀の先を当てて感触を確かめ、彼女は騰に向かって一直線に走った。すぐに気配に気がついた騰はそのまま剣で応じようとするが、彼女が持つそれが木刀だと気づいて一瞬動きが止まる。その隙を逃さず騎馬の上まで跳ぼうと膝に力を入れた瞬間、

「急報ー! 急報ーー!! 瑛藍様!!」

 と、正殿からの急報が届いてしまった。そのせいで勢いが削がれた瑛藍はベシャっと床に滑り込み、パッと木刀を手放す。その姿を馬の上からしっかり見ていた騰は深い溜め息を吐いて馬から降りた。



「──咸陽?」
「は、はい! 軍総司令からの、め、命令です…」
「昌平君からの……」

 伝令係にそう言われ、瑛藍はちらりと山積みの木簡へ視線を移動させる。あれだけ人に送りつけておいて、最終的には咸陽へ来い? ふざけている。
 だがしかし、それほど事を急いているというのは窺えた。恐らく昌平君だけでなく他にも軍師と協力して立策しているはずだが、それでもまだ活路は開けないのだろうか。

「……分かった、行くよ」
「あっありがとうございます!」
「騰、新兵うちの子達よろしくね」
「あぁ、任せておけ。粗相はするなよ」
「誰に言ってんの?」
「お前しかいないだろう」
「うるっさいバーカ!」

 ベッと舌を出して騰に背を向ける。その勢いで厩まで行くと愛馬に飛び乗って城から駆け出した。









 咸陽に呼ばれた信と河了貂が一番に再会したのは、王賁と蒙恬だった。その四人を出迎えたのは、彼らを呼びつけた人物──昌平君だ。その隣に苦い顔をした昌文君までいる。
 嫌な予感がする、と呟いた蒙恬。諦めたように着いて行った先で、今回の『鄴攻め奇策』を初めて知ったのであった。

 昌平君が信、王賁、蒙恬を呼んだのは、三隊に与えられた“独立遊軍”としての動きを果たしてほしい為だった。一瞬一瞬、刹那の時でも的確な現場判断をこれまで見せてきた三隊だからこそ、これからの鄴攻めにおいてとても重要になる。そう考えたからこそ昌平君は彼らを呼んだのだ。
 責任重大、いやこの戦の未来を背負っていると言っても過言ではないほどの重圧。それらを鋭い眼差しで与える昌平君を前に息を呑む三人。そんな痛いほどの沈黙を破ったのは、微かな扉の音と男の声だった。


「具体的戦略の話に入る前に、俺から一言付け足させてもらいたい」

「あっ、政!」


 予告のない大王の登場に驚いた王賁と蒙恬は、すぐさま拱手する。ビクッとその動きに驚いた信も思い出したようにぎこちなく跪いた。

「跪かなくていい。立って顔を見て聞いてほしい」

 王賁と蒙恬の肩に触れる嬴政。まさかこの国の頂きに座る人にそのようなことを言われるとは思わなかった二人は、目を瞠りながら彼を見上げ、やがてゆっくりと拱手を解いた。
 その姿を認めた嬴政は少しの沈黙の後、重たそうに口を開く。

「…………、鄴攻めは…これまでにない重大な戦いかつ、過酷な戦いとなる。だがあえて、、、、、、これは中華統一への難関の一つに過ぎぬと言いたい!」
「「「!!」」」
「この先もさらに三人の力が必要になる! よいか、必ずこの戦で大功をあげ、三人そろって“将軍”へと昇格しろ!」

 大王から直接の激励に三人の呼吸が一瞬止まる。

「間違っても、死ぬなよ」

 それは三人にとって何物にも代え難い言葉だった。

 拱手して受け入れた王賁と蒙恬の肩に腕を回して「安心しろ、政!」と笑う信に、嬴政も「頼んだぞ、信」と力強く頷く。そうして少し和やかになった雰囲気に、コンコンと扉を叩く音が響いた。
 開けっぱなしの扉口に立っているのは、薄藍色の髪を持つ女──瑛藍だ。河了貂はすぐさま「瑛藍!?」と反応して彼女の元に飛びつく。

「瑛藍だ! えっ何で!? いつ来たの!?」
「ついさっき。それより河了貂も…っていうか、なんかたくさんいるね」

 小さな部屋に対して人口密度が高すぎる。自分を呼びつけた昌平君は当然として、まさか大王までいるとは思わなかった瑛藍は流れるように跪く。しかしすぐに彼によって立たされたのは言うまでもない。

「来たか、瑛藍」
「来たか、じゃないですよ。あれだけ人に木簡送っておいて結局呼びつけるなら、最初からどっちかにしてくれません?」
「木簡だとそろそろ限界があったからな」

 トントン、と卓の上に広がる地図を指で叩く昌平君。見ろ、と仕草で伝えてくるのは相変わらずだと瑛藍は中に足を踏み入れた。

「やぁ、瑛藍」
「まさかみんな居るとはね。久しぶり」

 蒙恬に声を掛けられてひらりと手を振った瑛藍は、彼の隣に立って改めて地図を見渡す。複数の駒が配置されたそれをじっくり眺める彼女を、誰もが静かに見つめていた。

「…………、……………」

 自分達とは違って全く説明されていない瑛藍を、信達は固唾を飲んで見守る。
 やがてどれほど時間が過ぎただろうか。無意識に口元に当てていた手を下ろした彼女は、納得する答えが自分の中で出たのか「………うん、」とひどく疲れたような声で頷いた。

「狙いはここ、、ですか?」

 彼女の指先が指し示した先。
 それは正しく“鄴”だった。

「流石だな」
「試すようなことするのやめて下さいって前も言いましたよね……」

 卓に手をついてぐったりと項垂れる瑛藍。ただ地図を見ていただけなのに何故あんなに疲れたのか信には分からず「おっおい!?」と焦ったような声しか出なかった。隣に立っていた蒙恬は労わるように肩をポンポンと叩いて「先生の悪い癖が出たね」と苦笑した。

「この一瞬で疲れた……」
「どっどうしたんだよ瑛藍!?」
「今の時間で、先生がどんな策を立てたのか推測したんだ。この地図と駒だけを見てね」
「はぁ!? 何の説明もしてねーのに!?」
「いや、まぁ確信のない話は届いてたから……。それとこの地図とを見比べて、頭の中で流れを組み立てただけ。でもこの三隊がいるってことは、この鄴を落とすのに必要な役割があるってことかな」
「そこまで分かるのか……!」

 感心めいた昌文君に苦笑を返すと、昌平君は「どう思う?」と改めて訊ねた。

「……あの邯鄲に次ぐ大都市を攻め落とすのは正気の沙汰じゃあない。当然兵站問題も出てきますし、李牧がこれを悟らない筈がありません」
「だが、あの李牧が防衛線に気を取られている今が最大の好機」
「そうですね。気づいた時には後手に回っているのは確実ですから」
「あぁ。お前にはここでもう少し策を詰めてもらう為に呼んだのだ」
「何故わたしに? ここにはすでに優秀な軍師が集まっているじゃないですか」

 この推理だけでこれだけ疲れたのだ。正直言って今すぐ城に帰りたい瑛藍は出来るだけ残らなくていいような雰囲気になるような言葉を選ぶが、昌平君には無駄だった。

「軍師学校で負けなしのお前を遊ばせておくわけがないだろう」
「わたし将軍なんだけど!? うちの兵士達の演習にも付き合いたいし──」
「騰に任せるように伝令を送ろう」
「………………、」
「お疲れ、瑛藍」

 本当に、心の底から蒙恬は彼女に同情した。