想いも願いも一矢に乗せて


 始皇十年。黒羊戦に勝利した秦国だが、国内に目を向けると、この年は前年の嫪毐反乱の衝撃から秦国が一歩前へ進んだ年とも言える。

 五千人の将となった信は隊全体の強度を増す為、河了貂による追加選抜試験を行った。過酷とも言える苦難を乗り越えた結果、身体能力に優れた新戦力一千人が飛信隊に入隊したのである。
 そのように力を付けていったのは飛信隊だけではない。競い合うように楽華隊、玉鳳隊もそれぞれ練兵に勤しんでいた。

 そして、瑛藍隊は──。



「海羅、ちょっと出て来る」
「何方へ?」
「甲冑を新調しようと思って。ついでに此奴、、の分も見繕ってくる」

 此奴、と瑛藍が指差したのは海羅より二回りほど大きい大男。まるで野生の獣のような存在感を放つ男は、切れ長の瞳を下へ向ける。身体が大きいだけで威圧感がじわりと滲み出る中、彼はキュッと肩を縮こませて申し訳なさそうに眉を八の字にさせた。

「お、俺なんかの為に時間を使っていただくのは……」
「しつこい。体格が大きいくせにいつまでもウジウジするなって何度も言ったでしょう、夏烙げらく
「で、でも……」
「それじゃあ、此処は頼んだよ」
「御意」

 ひらりと手を振って立ち去る瑛藍の後ろを、夏烙と呼ばれた大男は慌てて着いていく。彼の一歩は瑛藍の三歩分程もあるので一瞬で追いついた。

「ほ、本当にいいんですか……?」
「良いって言ってる。それよりもっと堂々と顔を上げろ」
「か、顔……?」
「お前ほど背が高いなら、顔を上げて前を見ないと勿体無い」

 クルッと振り返った瑛藍は僅かに目を細めて口端を持ち上げると、自分よりもずっと上の位置にある夏烙の顔を首が痛くなるほど見上げた。

「わたしの代わりに、わたしの目となって世界を教えて。お前しか出来ない役割でしょう」

 その言葉は夏烙にとって雷にでも打たれたような衝撃だった。いつも図体ばかりデカいだけで大した戦果も上げられず、身体に見合った大食らいのせいで一緒に住んでいた家族からは嫌厭されていた。夏烙の顔を見るたびに舌打ちをして拳を飛ばしてくるものだから、いつしか彼は巨躯を出来るだけ小さくして顔を俯けながら生きるようになったのだ。
 何もできない大食らいのデカブツ。そう言われて育ってきた夏烙は、自分自身でもそう揶揄して生きてきた──それなのに。

「ほら、さっさとおいで。お前の身体に見合う大きさは絶対に無いから、まずは測ってもらわないと」

 いつも贔屓にしている店先で手を招いている人の目に、嫌悪の色はない。いつの間にか立ち止まっていた夏烙はドシンドシンと地面に体重を掛けながら駆け足で彼女の元へ向かった。
 好きなのを選べと言われた夏烙だが、平民が物を強請るなど恐れ多いことだ。ブルブルと首を横に振って拒否を示す彼に呆れた瑛藍は店主にお薦めを幾つか並べてもらい、その中で彼女自身が選んであげた。

「これと同じ作りで、此奴に見合う大きさを頼んだ」
「へぇ、かしこまりました! お日にちをいただきますがよろしいでしょうかねぇ?」
「うん。しばらくは大きな戦もないから、時間をかけても大丈夫」
「へぇ、ではそのように」
「それじゃあ次はわたしのを選ぼうかな」

 店主とのやり取りをハラハラしながら後ろで見ていた夏烙。話終わると「終わったからその辺で待ってて」と言われ、大人しく隅っこの方に移動する。すると先ほどの店主が隣までやってきてクスクスと忍ぶように笑っていた。

「瑛藍様の新しい兵士の方ですよねぇ? 随分と腕を買われているご様子で」
「う、腕?」
「へぇ。あの瑛藍様が直々に甲冑を見繕うことは、早々ございませんので」
「あ…う……」
「どうか、あの甲冑が御身を守る盾となりまするよう願っております」

 ぺこりと頭を下げた店主は「これにする」と指を差した瑛藍の所へ向かい、購入の手続きを進める。そのまましばらく話し込む二人を、夏烙は隅っこで立ち続けながら店主の言葉を思い返していた。

 ──随分と腕を買われているご様子で。

 そんなことないと夏烙は胸を張って言える。だって本当に自分の腕前なんて大したことない。それなのに名声高い瑛藍隊から直々に誘われた時は思わず耳を疑った。
 両親や弟からは当然やっかまれた。何故愚図で鈍間なお前が瑛藍隊に、今すぐ辞退しろ、代わりにこの弟はどうだと推薦してくる。
 しかしそんな言い分を聞いた海羅は即座に眉を跳ねさせて「帰れ」と一刀両断した。もちろんそんな言葉で大人しく帰るほど出来た人間ではない家族達がしつこく食い下がると、海羅は鬱陶しげに頭を掻きながら少しだけ教えてくれたのだ。


『瑛藍様御自身がその男の腕を見込んで欲しいと仰った。この決定が覆ることは無い。……これ以上耳煩い声で騒ぎ立てて万が一にでも瑛藍様のお耳が穢れることがあれば、その口は要らぬと見て削ぎ落とすぞ』


 冗談では無い海羅の発言に、家族は尻尾を巻いて逃げ帰った。その背中を呆然と見ていることしか出来なかった夏烙の肩を海羅はポンと叩く。反射的にバッと頭を下げた夏烙の旋毛を見ることすら身長差が開きすぎて出来ない海羅は、柔らかく笑んで言葉を掛けた。

『堂々……とは難しいかもしれないが、それでも胸を張れ。お前はもう瑛藍隊の人間なんだから』


「──お待たせ夏烙。帰ろうか」

 彼の言葉に重なるように瑛藍が夏烙の腰辺りを叩いた。ハッと意識を取り戻して無意識に店主の方を見ると、彼はニコニコと笑って一礼した。つい癖で夏烙も頭を下げると、さっさと店の外へ出てしまった瑛藍の背を追いかけたのだった。




 もうすぐ城に着くというところで、夏烙は立ち止まる。大きな足音が聞こえなくなって思わず振り返った瑛藍は、また下ばかりを見ている大男にいい加減一度ガツンと言ってやろうかと口を開いたが、それよりも夏烙の方が早かった。

「ど、どうして、瑛藍様は……お、俺なんかを、その……さ、誘ってくれたん、です、か……」

 自信なさげに拳を握って、それでも彼なりに決死の思いで言葉を紡いでいるのが見て分かる。
 それでも、だからこそ瑛藍はなんだそんな事かと鼻で笑い飛ばした。


「お前の腕に惚れたから!」


 その声に一切の曇りなし。あまりにも迷いのない一言に目を見開いた夏烙を置いて、瑛藍はヒラヒラと手を振りながら城の中へ入って行った。




 一週間後。

 騰軍全体の軍事演習にて、とある場所からどよめきの声が上がっていた。
 弓場。そこでズラリと並び立つ的から五百歩以上離れた位置で弓を構える大男が、その剛腕でギリギリと音を立てながら弓を後ろへ引く。的すらよっぽど目が良い人じゃないと見えない距離で、男はパッと弓から手を離した。
 一線──。後にドォン!と激しい物音と煙が一つの的から立ち上る。モクモクとした土煙が晴れた先に見えた光景に、その場にいた誰もが目を疑った。
 的が粉々に割れているのだ。しかも矢は的に当たったくらいでは止まらず、勢いを保ったまま後ろの石壁にめり込んでピンと刺さっていた。

「何処で見つけたんだ? あんな剛腕の弓兵」
「ちょっとそこら辺で」

 これは言う気がないな。
 長年の付き合いですぐに察した騰は、もう一矢射った男を見てさらに演習を強化することを心に決めた。

 来たる決戦の日は刻一刻と迫ってきている。その前に出来る限りのことはやらなければならない。国庫まで開いて練兵に力を注げと命令が降ったのだ。その先の展開など言うまでもない。

「……、一緒に戦えるのも減ってきたね」
「そうだな」
「ずっと一緒だった頃が懐かしいなあ、殿の後ろでわたしと騰が並んでさ。……それも、あの戦だけだったけど」

 不意の科白に隣を見れば、彼女は真っ直ぐ演習場を眺めていた。だがその瞳はここにあるようで、懐古の色を滲ませている。

「騰と一緒に戦に出たいよ」

 それは叶う確率の低い願いだ。二人とも頭も切れるし腕っ節もある、しかも両者共に王騎の部下だった。そして今や瑛藍も一軍の将だ。いくら未だ“隊”を名乗っていたとしても、その功績は彼女に重く圧し掛かる。

「……そうだな」

 叶わないと分かっているからこそ、騰も微かに頷いて目を閉じた。


 王騎殿の大きな背中の後ろで口悪く相手を貶す瑛藍と、そんな彼女を軽く諌めるが時々巫山戯もする騰。

 そんな幻が、瞼の裏に焼き付くようにいつまでも離れなかった。