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この世は不平等で溢れている。万人が声に出して助けを求められる事など無いに等しいのに、この世界に蔓延る英雄ヒーローは“全て”を救った気でいる。
嗚呼、なんて不平等。平等を謳う世の中の筈なのに、世界はこんなにも不運で、不幸で、哀れみで塗り潰されているのに。幸福も不幸も皆同様に訪れると言ったのは、一体誰だったか。

――今日も、夜が明けた。


甘い夢をみていた



眼に走る痛みを堪えながら、ベッドの上で蹲る。声を上げないよう必死に唇を噛み締めて、突き刺すような痛みが引いていくのを待った。指の隙間から垣間見える、黄金色の瞳。宝石のように煌々と輝きを放つが、少女が感じる痛みは尋常ではない。
「ぐ……っ」喉奥から絞り出されるような声が漏れ、飛びそうな意識で何とか唇を噛み直して声を飲み込む。30分後、眩く光っていた黄金は、まばたきと共に深緋色へ変化した。

流れ落ちる汗を拭う気力すら無く、少女は立てた膝の上に頭を置いた体勢のまま動かない。時計の針の音すら聞こえない部屋には、少女のか細い呼吸だけが微かに聞こえた。
次第に汗が引いていき、やっと顔を上げる。先程見えた黄金色は何処にもなく、あるのは深い緋だけだ。ぱちり、ぱちりと幾度かまばたきを繰り返すと、緩慢な動作でカーテンを開ける。太陽が昇りきっていない世界の色が、少女は好きだった。

「……支度、しなきゃ」

陽が昇る様を見つめながら、少女は顔を洗うために部屋を出た。



服を着替えてリビングに入ると、ガランとした静けさが少女を出迎えた。いつもならここにあの男・・・が酔いつぶれていて、手加減無しに少女を殴る蹴ると言った暴行をするのが常だったのだが、今はもう姿すらない。
一度立ち止まった足をのろのろと動かして、簡単な朝食を作って食べる。味のしないそれを何とか飲み込むと、目に見える範囲で汚い場所を掃除し始めた。雑巾を持ちながらちらりと窓の外を見ると、太陽は既に昇り、世界に朝が訪れていた。

それからしばらくすると、ピンポンと来訪を知らせるチャイムが鳴った。裸足のままペタペタと玄関へ向かい、ガチャリとドアを開けると、スーツを着た男の人と真っ黒な服を着た男の人が並んでいた。
少女は怪しむ素振りを見せず、むしろ軽く頭を下げて中へ入るよう促した。リビングに通して、比較的綺麗だと思った湯呑みに茶を淹れた後、彼らの向かい側に腰を下ろした。

「…うん、美味しいよ」
「ありがとうございます」

舌ったらずに礼を言う少女を、真っ黒な服を着た男――相澤消太はジッと見つめた。

ここへ来ることになった経緯として、まずこの少女の父親がヴィランに殺されたことから始まる。その後被害者の家へ訪れた時に、初めて目の前の深縹色の髪を持つ少女に出会ったのだ。
捜査員は皆驚いた。何故なら敵に殺された被害者は“独身”で、子どももいないとされていたからだ。突然現れた存在に皆慌て、改めて一から捜査し直すと、意外な事実が判明した。

――戸籍に登録されていない、しかし正真正銘被害者の子どもだった。母親は分からないままだが、それでも浮かび上がった事実はまだあった。
敵に殺された被害者は、毎日少女に暴行を繰り返していたのだ。育児も放棄し、満足にご飯も与えていない。そして戸籍が無いということは、義務である学校にも通わせていないことになる。実際に少女は字の読み書きが出来ないまま、今の歳を迎えている。

「改めて、すまなかった」

スーツを着た男――塚内が頭を下げる。同じタイミングで相澤も頭を下げた。シンとした沈黙が続いてそっと顔を上げると、少女は無表情に二人を見ていた。まるで全てを呑み込むかのような深緋色の瞳に、相澤は目が離せなかった。

「いいえ、皆さんのせいではありませんから」

被害者の家へ赴いた時と同じような、丁寧な言葉が少女の唇から吐き出される。
そこから他愛もない話を続け、不意に相澤はある言葉・・・・を言ってしまった。

「もう大丈夫だ」

その瞬間、話を合わせていた少女の口がぴたりと止まり、最初の時のような沈黙が訪れる。変容した雰囲気に戸惑う二人を他所に、少女は光のない瞳を向けた。

「大丈夫?」

深い、緋。

「大丈夫って、なにがですか?」

まるで、相澤と塚内を責め立てているようだ。

「父親に暴行されなくなったこと? もう傷つかなくていいこと?」
「それはっ」
「大丈夫かどうかを決めるのは貴方達じゃない」

強い言葉で二人を責めた少女の瞳が、一瞬だけ黄金色に見えた気がした。相澤は思わず目をこすってみたが、そこにあるのはふたつの深い緋色。見間違いかと違和感を覚えながら、「軽率な発言だった。すまない」と謝罪した。

「…いえ、わたしの方こそすみません。――『たすけて』って声を上げない人まで助けられるほど、お暇じゃないですもんね」

微笑みながらするりと吐き出された科白は、二人の思考を止めた。それほどに優しく、穏やかに告げられたのだ。
――ヒーローとは『たすけて』と声を上げた者だけ救ける、と。



その後、相澤も塚内も何も言うことができず、後日改めて“個性”を検査するとだけ伝えると早々に少女の家から離れた。

「……どう思います」
「敵に落ちる可能性も視野に入れて、今後接して行った方がいいですね、あれは。……父親がああだと無理もないが」
「学校にも通わせるよう、手続きを進めないといけないのか…」
「学校に通えるレベルにまで引き上げないと、最悪いじめが発生してしまいます。子どもというのは、自分達とは違う者には過敏に反応しますから」

子どもとは時として残酷だ。無邪気で、素直で、そしてある意味染まりやすい。悪にも善にも容易に傾ける純粋さが、いつ何時あの少女に襲い掛かるか分からない。更に両親ともに居ないということも、子どもたちにとっては“自分達とは違う”という異物さを覚えてしまうかもしれない。

「暫くは様子見だな…」
「あの子の“個性”が気になるところですが…無理に事を進める訳にもいきませんしね」
「また何か進展があれば情報お願いします」
「相澤さんこそ。ヒーロー活動や教師をしながらですが、ご協力お願いします」



ヒーローと警察が帰った後、少女はテーブルの上に残った空っぽの湯呑みを眺めていた。疑いもせずに初対面の自分が出したお茶を飲み、美味しいと言った彼ら。もしも自分が毒などを入れていたらどうしたのだろうと不意に思ったが、それにしても無用心だと笑う。

するりと目元を撫でる。恐らく今は深緋色だろう己の目を想像して、少女は小さな手のひらでそれを覆った。これは自分の色じゃない。の色だ。けれど“どうして”なんて思わない。だって自分は全て覚えているのだから。

「本当に、いつも素敵な贈り物をくれるんだから」

あの頃・・・は、自分の夢も願いも目的も、全ての為のものだった。とてもとても烏滸がましいけれど、この世の全てを見てきたあの人の救いにどうしてもなりたくて。

あの人は善も、悪も、義務も、責務も、まるで当たり前のように背負うから。いつ潰れたっておかしくない重さをたった一人で背負ったまま、それでも凛と立つから。
だから、最期くらいは守りたかった。わたしは貴方の友人なんてものにはなれないし、なりたくもないし、そもそも貴方はもう唯一無二の友人を得ている。けれど貴方を想う気持ちだけは例え貴方自身にも否定されたくなかった。

孤独だと言った貴方に、わたしは笑って言ってやった。――隣を見てください、と。
貴方の深い緋と、わたしの眩い金が交わる。この眼がどういうものか知っているはずなのに、貴方はたちまち瞳をとろけさせて、綺麗な指先で目元に触れるのだ。
そして必ず紡がれる言葉が、わたしにとってはどんな高価なものよりも価値あるものだった。