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まだ自分に前世あの頃の記憶が戻っていない時、酷く酔い潰れたあの男に殴られている最中、一度だけ“父親とは何だろう”と考えたことがある。結局答えは出なかったのだけれど。

少女、葵が今日まで抵抗らしい抵抗もせずに父親から暴力を振るわれていたのは、単純に労力の無駄だと思ったから。前世の記憶が戻ったきっかけで魔術回路が開き、過去受け継いだ魔術刻印までもが刻まれたことで、傷なんてあってないようなものだった。
今日もまた、葵は夜明けの空を窓越しに見つめる。少しずつ登ってくる太陽を、いつまでもいつまでも眺めていた。


産声をあげた



ヒーローと警察の来訪から数日後。葵は再び訪れた相澤と共に病院へ来ていた。
戸籍も登録され、晴れてこの世界の住人であることを認識された葵だが、あともう一つ重要なことを確認しなければならなかったのだ。

「“個性”?」
「そうだ。お前の“個性”が何か知っておかないと、暴発する危険もある。その為の検査だ」
「そう…なんですね」
「“個性”の発現は4歳までとされているが……お前、今まで不思議な体験とかなかったか?」
「ざっくりしていますね。そもそも家から出たことがないので、何が不思議か分かりません。……ああでも、あんな人達は見たことがなかったです」

葵の言う“あんな人達”とは、異形型の“個性”を持つ者のことだ。見た目からして人間とは掛け離れた人は前世でもいなかったので純粋に驚いた。


そうして待つことなく相澤が入って行った病室に続けて入ると、まだ若い男の人が椅子に座っていた。事前に相澤から事情を聞いていたのか、男性は葵ににこりと笑いかけると、側にある椅子に座るように促した。

「初めまして、星月葵ちゃん」
「初めまして。今日はよろしくお願いします」

戸籍に登録されていなかった葵だが、名前はちゃんと存在していた。戸棚の奥の奥に少女の母子手帳が残されていたのだ。それを見つけた相澤によって、少女は自分の名前を初めて知ったのである。そして思ったのだ――生まれ変わっても名前は同じなんだ、と。

「それじゃあ早速だけど、身の回りで変だなって思うこととかなかった?」
「変……かどうかは分からない、ですけど…」

恐らくだが、自分には“個性”はないだろう。葵は確信を持ってそう思っている。そもそも魔術師にとって説明できない不思議な現象など有り得ないし、自分の属性に応じた魔術を行使することが出来る。
けれどここでそれを隠していては、きっと将来公にこの力を使うことは出来ないだろうと早々に悟った葵は、覚悟を決めて医師を見た。

「あの、コップを用意してもらっていいですか?」
「コップ? うん、分かった。すぐに用意しよう」

言葉通りすぐに用意されたコップを前に、葵はきゅっと軽く下唇を噛む。そしてコップの頭上に手をかざした。すると突然水が現れた。

「おぉっ! 君の“個性”は水か!」

大袈裟にはしゃぐ医師に笑い返しながら、葵はもう一つの属性は隠しておこうと心に決めた。
彼女は珍しく二属性持ちだ。流石に五大属性持ち、所謂アベレージ・ワンには負けるが、二つの属性を持つ者もそういなかった。そのうちの一つである“水”を今回使ったのである。

「(コップから水が溢れる寸前で止めた。制御も完璧か……)」

一人、相澤は綺麗にコップの中に収まっている水を見て、眉間の皺を濃くさせた。無意識化のセーブか、それとも意識的な制御か。少なくとも少女の年齢からして、あのコントロール力は正直言って恐ろしい。
そんな風に分析している相澤はまだ知らない。今し方葵が見せた力は“個性”ではなく、全くの別物。つまり彼の“個性”である“無効化”は効き目がないのである。



「今日はありがとうございました」
「いや、礼を言われるようなことはしていない。そもそも“個性”の診断は国民の義務だ」
「そうなんですね…」
「…お前、部屋で“個性”のコントロールとか練習していたのか?」
「……はい。あの頃は“個性”かどうかなんて分からなかったので、あの人が家にいない隙を狙って、たまに練習していました」

今のは嘘だ。本当は練習をしたことなんて一度もない。けれど相澤は少なくとも自分に対して疑心感を持っていることは間違いなかった。
コップから水が溢れないように、寸前で止めた完璧すぎるコントロール。さらに言えばコップの中にだけ水を出現させたことすら、今の自分の年齢からして相当高度な技術なのだろう。

「そうか。だが外では“個性”の使用は禁止されている。無闇矢鱈に使うなよ」
「分かりました」

そもそも魔術とは魔術師にとって秘匿されるべきものだ。外で無鉄砲に使うつもりは毛頭ない。

家の前まで送ってくれた相澤に礼を言って、葵は中に入る。シンとした空間にホッと一息吐いて、胸下まである自分の深縹こきはなだ色の髪をそっと撫でる。
今世でも変わらない、自分の色。あの人が気に入っていたこの色は、少女の誇りだった。

「まるで夜を閉じ込めたような色だな」

そう言ってあの人は、まるで安らぎを求めるように頭を撫でてくれた。

「我の赦しも無しに触れさせるなよ?」

底冷えするかのような緋い瞳が言ったから、少女は殴られても蹴られても、髪だけは父親に気づかれないように守りきった。

「……わたしはもう起きましたよ」

その科白の意味を知る人は、今はもういない。