どうかまだ醒めないで


バスターコールで島が消された例はそう多くない。だからこそ“ザネリ”という名も聞いたことがあった。ただ、何故無人島だった筈の島がバスターコールを使ってまで消さなければならなかったのか。その理由をこの場にいる皆は何一つ知らない。

「何で消されたの……?」

エニエスロビーでバスターコールの恐ろしさを知っているナミは、震える声で訊いた。シアンはそんな彼女に少しでも気持ちを落ち着けてほしくて、無理やり目尻を下げて見つめる。

「ギャバンの存在が海軍に露見されたから。ロジャー海賊団の生き残りっていうだけで、海軍側にとっては何としてでも捕まえなければならなかった」
「そんな……」
「結果的にギャバンは捕まり、民衆に晒されながら――処刑された」

息を呑む音に、そっと視線を落とす。この頃は幼かったとは言え、当時のことはよく覚えている。

何度も名前を呼んだ。
何度も手を伸ばした。
けれど二人の距離はあまりにも遠くて。

正義の鉄槌が振り下ろされるその瞬間に、幸せだったと嘘偽りのない笑顔で刃を受け入れるギャバンの姿が、いまでも忘れられない。

「………、その後はシャンクスの船に乗って、修行の毎日だったよ。途中でシャンクスがミホークを呼んでくれて、彼の弟子にもなって。辛かったし、しんどかったけど――もう、ただ守られるだけの存在は嫌だった」

話は終わりだと深く息を吐いたシアン。そんな彼女に「ハー…とんでもねェな…」とサンジが呟く。

「ミホークの弟子だったなんて……」
「毎日死にそうな思いもしたけど、おかげで今の強さがあるし。ミホークには感謝してるよ」

やはり特別な想いがあるのか、ミホークの話をするシアンの表情は自然な微笑みを浮かべていた。

「で、そのシアンちゃんの故郷がカイドウの縄張りになってるってことか」
「うん。…でも、もう大丈夫。さっきは冷静さを欠いて馬鹿みたいに突っ込んで行っちゃったけど、今ワノ国から飛び出してイルレオーネ島に向かったら、島の人たちに怒られちゃう」

今にも泣きそうなくせに、気丈に踏ん張って強い覚悟を瞳に宿すシアン。そんな彼女に泣くことを我慢するなと言ってやりたいナミだが、きっと自分には甘えてくれない。
その役目は、自分ではない。

「いい? シアン」
「ナミ?」

だったら――。

「アンタは〈麦わらの一味〉の仲間よ。一人で何とかしようとしないで、私達に頼りなさい!」

力強く告げられた科白にシアンは一瞬呆けたものの、その意味を理解した途端泣き笑いように破顔した。







「今日も変わらず美しいなァ」
「今日も変わらず、お上手ですね」
「おれァ一度も嘘を言ったことはないでござるよ」
「……返答に困ります」

本当に返事に困ってしまったシアンを見た狂死郎は、グイッと杯を傾けて笑った。その笑みはいつも彼の子分達が見ているものではなくて、もっと自然な――まるで兄ようにも感じられる表情だった。
けれど自分以外と関わっている狂死郎を見たことがないシアンは、どうして自分にそんな表情を向けるのかが分からず、居心地が悪そうに、だが決してこの時間が嫌ではないと感じている己に内心首を傾げていた。

「ただの女中からの酒なんて、美味しくないでございましょう? 狂死郎様ならもっとお美しい方が喜んで――」
「おれが呼んだのはお前でござる。他の誰かなぞ知らん」

シアンの科白を遮る彼の真意が掴めず、結局いつも通り彼の相手をして時間が過ぎていくのであった。



狂死郎が帰った後、座敷の掃除をしていると屋根裏からの微かな気配を察したシアン。あ、と言う前に足音すら感じさせない機敏な動きで一人の少年が降りてきた。

「よっ!」
「吉太くん!」

以前と変わらず鼻頭に絆創膏を貼っている吉太は「お前が休みの間、狂死郎殿あの人芸者も呼ばずに一人で呑んでたぜ」と、シアンがいなかった時の様子を伝える。これにはシアンも驚き、えっと思わずと言った風に声が漏れた。

この“花の都”に名を轟かせる侠客、狂死郎一家。そんな彼ならばどんな芸者でも呼び放題な筈なのに、彼は自分が抱える遊女も呼ばずに一人でこの座敷に参り、一人で呑み、そして帰ったと言う。

「よっぽど気に入られてんだなァ、お前!」
「気、に……入られてる、のかなァ?」
「自信持てって! 今日だって久しぶりにここに来たのに、すぐに呼んでくれたんだろ? この都で狂死郎殿に気に入られてたら、暫くは安泰だと思うぜ」

ニッと歯を見せて笑う吉太に、シアンは負に落ちないながらも笑みを返した。

「――うわっ、やっべェ!」
「? どうしたの?」
「隊長に呼ばれんの忘れてた……! じゃあまたな、シアン!」
「え、あ、またね……」

風のようにどろんと消えた吉太の後ろ姿すら追えず、シアンはその場に一人残されてしまったが、次の座敷を整えに行こうと女中頭の元へ急いだ。

「ルフィ、大丈夫かなァ……」

ワノ国の牢獄がどんな所か見当もつかないが、あのインペルダウンへ侵入したこともあるルフィだ。そう簡単に殺されはしないだろうが、不安なものは不安だ。けれど此方も計画を進めなければならない。

「後手に回ったら終わり、か」

ふ、と短く息を吐く。ここでの自分の役割は客としてやって来た侍達の足に三日月の刺青があるかどうかを見極め、逆三日月が書かれた決戦を記す紙を気づかれないように懐へ忍び込ませる。外で活動するウソップ達とは違ってそう多くは呼び込めないが、オロチのお膝元であるこの屋敷に来る侍であれば、スパイとしての活躍も見込める。――こちら側についてくれれば、の話だが。

「はー……。暫くは仕事に専念しよう」

あれだけの騒動を起こしたにも関わらず、こうして正体がバレずにまたここで働けたことは僥倖とも言える。オロチから疑われることも無いし、そもそも一端の女中をあの男が気にするはずもない。

「(だからこそ、やっぱり狂死郎の行動は不可解だ。何でただの女中を気にする? 特に関わったわけでもないし、ただ彼が使う座敷を清掃しただけ。なのにどうして……)」

あれこれと考えていたって仕方がない。そう頭では分かっていても、やはり思考は止まらない。
それは女中頭の元へ着いてからも変わらず、女の話を聞きながら脳内は全く別のことを考えていた。



――数日後、いつも通りの仕事をこなして帰り支度をするシアンの前に現れたのは、友人の吉太だ。忍者らしく“どろん”という音と共に登場する彼は、今日も可愛らしく鼻の頭に絆創膏を貼っていた。

「ほい、お疲れさん」
「やった、ありがと!」

彼はこうして毎日労っては、厨房からもらって来た饅頭を届けに来てくれるのだ。今日も必ず来るだろうと思っていたシアンは、用意しておいたお茶を自分と吉太の前に置いて饅頭へ手を伸ばした。

「〜〜っ、美味しい! 労働の後の甘味は最高だね!」
「饅頭もだけど、シアン、茶煎れるの上手くなったよな」
「えっほんと?」
「うん。うめェ」

饅頭を食べながらごくごくとお茶を飲み干す吉太の言葉に、シアンは嬉しそうに礼を口にした。
と言うのも、最初は今とは比べ物にならない程酷い出来だったのである。あまりお茶を煎れることが無かった彼女は、ここへ来て初めてやってみたのだが、これがまあとてもじゃないが飲めやしなかった。渋すぎるし、苦すぎるし、温度も温い。ここまで上手くなったのも、ひとえに吉太の教えがあってこそである。

饅頭も無くなり、湯呑みも空になったところで、吉太は話を切り出した。

「ところで、近々大きな宴があるの知ってるか?」
「宴? ここで?」
「そ。もうすぐ“火祭り”ってのがあるから、それの前哨戦するってさ。忙しくなるぞ。何せ料理から芸者まで超一流のものしか出てこないし、オロチ様の機嫌を損ねたら一発でアウトだ」
「――“火祭り”……」
「多分シアンも休む暇ないだろうし、オロチ様に会うのは初めてだろ? 気合い入れとけよ!」

吉太はポンと軽くシアンの肩を叩き、瞬く間に姿を消した。

「…討ち入りの日も近いのか」

まだかまだかと急く一方で、まだこの穏やかな日々に浸かっていたい気持ちもあった。それほど“吉太”という存在は、彼女にとってとても大きくなってしまった。
――いずれ敵として戦わなければならない日が来ると、分かっているからこそ。

「………、……………」

静かな、静かな空間に。ぽつりと小さな囁きが落とされた。

――エース、と。




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