泣き虫の軌跡


あれからルフィは捕われ、ローはひとまず仲間と合流する為に喧騒が収まってから立ち去った。一人茂みの中に残されたシアンは、ぐちゃぐちゃのまま纏まらない思考でカイドウから放たれた科白を何度も何度も思い返していた。

「いつになりゃァ、あの島に住む奴らは堕ちるだろうなァ!!」

奥歯を噛み締めすぎて咥内に鉄の味がじわりと広がる。それでも苛立ちは募るばかりで、ほつれて乱れる髪をさらにぐしゃりとかき混ぜた。せっかくロビンに結ってもらったのに、と思う余裕さえ、今のシアンには無かった。
遠い遠い、ロイナール・D・シアンの故郷。両親と暮らした美しい島、イルレオーネ。あやふやな記憶の最後は、町のシンボルとして建てられた芸術的な噴水も、人々の生活を潤す水路も、建ち並ぶ家々も、優しくて穏やかな暮らしを送っていた島民も、彼らの口から溢れる悲鳴も――それら全てが炎で飲み込まれたところでぶつりと終わってしまう。

「あ、いたいた! もーシアン! 探したわよ!」
「………、ナミ……?」

もう随分と聞いていない仲間の声が、周りの音を遮断させていたシアンの耳にするりと入り込んできた。のろのろと緩慢な動作で顔を上げれば、そこには何故かくの一衣装に身を包んだナミが立っていた。いつも靡かせている長い橙色の髪はキュッと一つに纏められていて、忍衣装の丈はかろうじて下着が隠れる程度で、スラリとした長い脚が見えている。
その姿を認めたシアンは、格好についてはもう何も聞かず、ただどうして自分の居場所が分かったのかと問うた。

「何で此処が分かったの?」
「トラ男に聞いたのよ。アンタが此処にいるって。ったく…ルフィもだけど、シアンも無茶しすぎよ」

久しぶりの優しさが含まれた説教に、シアンの瞳が徐々に潤み、やがてぽたりと地面に涙が落ちた。次から次へと溢れてくるそれを拭うことすらしない彼女を、ナミは「ふふっ、泣き虫は相変わらずね!」と笑いながら抱きしめた。シアンはナミの肩に額を預け、華奢な背に腕を回す。

「なみ、なみっ……う〜〜…っ、ぶじでよかったぁ…!」
「それはこっちの科白! トラ男からカイドウと戦ったって聞いて気が気じゃなかったわ」
「うんっ……」
「で、アンタがそんなに怒った理由は何?」

とん、とん、と一定のリズムで背中を叩きながら、ナミは訊ねた。ルフィが倒されたことも理由の一つだろうが、基本は冷静さを保つシアンが此処へ来て作戦を台無しにするような行動を取るわけがない。
今回、ルフィが倒されてシアンがカイドウの前に立ったと聞いたが、いつもの彼女なら一度刃を交えてすぐにルフィを回収するなり逃げるなりするはずだ。それすらしなかった、否――するよりも先にカイドウから何かあったと考えるのが妥当だろう。

暫く無言の時間が過ぎたが、不意にシアンの腕に力が篭る。痛くはないが、それだけでこの子が緊張しているのだと伝わったナミは「シアン、」と名前を呼んだ。耳元で名前を呼ばれた本人は、ゆるゆると力を抜くかのように深く息を吐き、そっと言葉を吐いた。

「私の故郷が、カイドウの縄張りになったって」
「――! 故郷って……確かルフィも一緒の島じゃなかったっけ?」
「ううん、それも間違ってはいないけど。正確には私の生まれた島」
「どこ?」

柔らかく、囁くように呟かれたその島の名前に、ナミは咄嗟にシアンから離れて手で口を押さえた。そうでもしなければ悲鳴を上げてしまい、この場所が役人にバレてしまう危険性があったからだ。
その反応に困ったように笑ったシアンは、目尻に浮かぶ涙を拭って立ち上がった。

「全部話すよ。島のことも、ルフィと出会う前のことも」

そう言ってナミの手を取って彼女を立たせる。驚き過ぎて声すら出なかったナミだが、乱れているシアンの髪を何も言わずに整え始めた。

「ナミ?」
「女は美しくなくっちゃ。髪だって綺麗になったら気分も上がるでしょ?」
「……ふふ、うん。じゃあお願いしようかな!」

いつも通りとまではいかないが、やっと明るい声色が聞けた。少し安心したようにナミは手慣れた手つきで髪を結った。
――炎に飲み込まれる悲鳴は、いつしか聞こえなくなっていた。






拠点となっていたおでん城跡に戻ってきたシアンは、見るも無惨な光景に言葉を失った。墓標も折れ、かろうじて形を保っていた屋敷は跡形もなく消え去っている。それでもカイドウの強烈な攻撃が飛んできたにも関わらず、誰一人怪我が無いというのは不幸中の幸いだった。
ローの仲間であるベポやペンギン達は当然ながら、ビッグ・マムの所へ行っていたチョッパーやブルック、キャロット、そして何より――サンジがいることにシアンの涙腺はまた崩壊した。

「うえっ、ッ……み、みんな、ぶじでよか、よがっだあああ!!」
「シアン〜〜〜っ! 会いたかったぞ!」
「ヂョッバーー!!」

ぴょいっとシアンに飛びついたのはチョッパーだ。ぎゅうぎゅうと彼をまるでぬいぐるみのように抱きしめるが、その力は随分と加減されている。そのままチョッパーを腕の中に抱きながら、彼女はサンジと目を合わせた。事の騒動を引き起こした張本人という自覚があるからか、少し気まずそうな笑みを浮かべるサンジに、シアンはとびっきりの笑顔を向けた。

「おかえり、サンジ!」

自分が帰ってくることを信じて疑わない、出迎えの科白。たったそれだけのことがサンジには何よりも嬉しかった。

「……あァ、ただいま。シアンちゃん」

戻らないと決めて、追いかけてくるルフィを一方的に痛めつけた。喧嘩なんてとても呼べやしない行為を、目の前の彼女は知らない。けれど彼女はそれを知っても、きっと笑って受け止めてくれるんだろう。根拠はないが、サンジはそう確信して笑みを返した。


一同は拓けた場所に移動し、輪になって座った。ロビンやウソップ、フランキーはそれぞれの役割をこなす為に町へ出ているから、この場にはいない。三人やルフィには後で話すことにしようと、シアンは一度瞳を閉じた。
数秒にも満たない程の時間で外を遮断し、やがてゆっくりと瞼を押し上げる。仲間を映す彼女の瞳は、重たい覚悟を乗せた光を宿していた。

「今から話すことは、ルフィも知らないことなの」
「ルフィも!?」
「話す機会が無かったというか、聞かれなかったからというか……。いや、違うね。私の覚悟が無かった。だから誰にも話せなかった」

カイドウの攻撃によって更地となったおでん城跡地に、ぽつりぽつりとシアンの声が落ちていく。そんな彼女の表情に、モモの助は子どもながらにシアンも何かとてつもないものを背負っているのだと、ごくりと唾を飲み込んだ。

「二年前の戦争でセンゴクが言ってたから、みんなもう知ってると思うけど。――私は〈ヘリオス海賊団〉船長、ロイナール・D・シアンの実の娘なんだ」

勿論それは一味も、そしてロー達も新聞や電伝虫を通して知っていた。だがこうして彼女から改めて話を聞くのとは訳が違った。輪になって座る彼らは皆驚き、言葉が出ない。
あの海賊王、ゴールド・ロジャー率いる〈ロジャー海賊団〉にも張り合ったとされる幻の海賊。その実態は謎に包まれており、子どもがいることすらあの戦争でセンゴクが口にするまで知っている者は限られた一握りの人間しかいなかった。

「――私が生まれたのは、新世界にある幻想的で美しい、けれども誰も見つけることが出来ないと言われている島――“イルレオーネ”」
「いっイルレオーネ島ですか!?」
「おおお、おれでも聞いたことがあるぞ!」

ブルックやチョッパーが驚くのも無理はない。それほどに知名度がありながら、誰一人としてたどり着くことが出来ないと謳われる島なのだから。まさかその島の出身者がこんな身近にいるとは誰も思わなかったらしい。

「あまり覚えていないけど……楽しかったよ。海賊である両親を受け入れてくれた島の人達はみんな優しくて。……でも、1歳を少し過ぎた頃にあの事件が起きた。そこで私は両親を失い、二人の友人だった元〈ロジャー海賊団〉船員のスコッパー・ギャバンと一緒に島から脱出したの」
「元海賊王の……!?」
「スコッパー・ギャバンって名前聞いたことあるな…」

サンジがギャバンの名前に反応する中、シアンは言葉を続ける。

「たどり着いた先は無人島で、私とギャバンはそこで暮らすことにしたんだ。……今思い返しても、とても楽しかった。両親と別れる間際、父があることをして両親との記憶を一切失った私を、ギャバンはとても大切に育ててくれた。まるで本当の娘のように」

血は繋がっていないけれど、その分誠実に接してくれた。

「3歳頃、かな。その島にふらりと現れたのが、シャンクスとベックマンだった」
「いっ!!?」
「あ、〈赤髪海賊団〉!?」
「ふふ、うん。シャンクスも海賊王の船に乗っていたから、ギャバンとも知り合いで。……その数日後、海軍がギャバンの存在を見つけて島へ押し寄せてきた」

――嗚呼、駄目だ。

「ギャバンはそれを知っていたから、たまたま訪れたシャンクスに私を預けて、島から出港させたの。……自分は残ったまま」

必死に手を伸ばしたのに、それは届かなくて。

「私のことが嫌いになったのかって、泣いて叫んで手を伸ばした。でも、ギャバンは手を伸ばしてくれなくて」

シャンクスに抱えられ、遠ざかる養父。

「代わりに、言葉を贈ってくれたの」
「な、…何て言ってくれたでござるか?」

モモの助がごくりと生唾を飲み下しながら先を促すと、硬い表情をしていたシアンが柔らかく頬を緩ませた。

「『愛してる』」
「!!」
「『お前は、おれの自慢の娘だ』」

今でも耳に残る甘やかな言葉。けれどそれを再生してくれる声は、もう朧げだ。

「シャンクスの船に乗せられた私が最後に見たのは、業火に包まれる島だけだった」
「……その、島の名前は…」
「――ザネリ島」

ナミに問われ、無意識に俯いて震えた声で呟く。

「地図から消された島、ザネリだよ」

それは、オハラと同じ哀れな末路を迎えた――地図から完全消滅された島の名だった。



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