心の底から叫んだのに

 医務室生活が幕を開けて数日が経った。有り難いことに見舞い客は途絶えず、見舞い品と称して沢山の果物がテーブルを埋め尽くしていた。授業中には悪戯仕掛け人のウィーズリーズが、退屈な入院生活を送っているであろうフィーへ、善意100パーセントで悪戯グッズをプレゼントした(押し付けたとも言う)。

 一日二回ある薬の時間に耐えつつ、ハリー達の訪れも喜んだ。授業中での話には退屈することはなく、特に彼らが嫌っている魔法薬学の話は声が出るほど笑った。かつての旧友がこれほど嫌われているのは少し悲しいが、あの態度ならそれも仕方がない。

「……ああ、手紙を書かないと」

 静寂が部屋を包む夜。カーテン越しに見えた丸い月を眺めながら、ぽつりと呟いた。

「休暇には帰るって約束したのに……。悲しんでいるかしら…」

 大きくてくりくりとした瞳に、涙をいっぱいに溜めた姿を思い浮かべる。触れればたちまち倒れてしまいそうなほど小さい身体を震わせて、寂しさで溶けてはいないだろうか。

「レイテル……」

 大切な家族の名前を呼ぶ。どうか、一人で泣いていませんように。
 ベッドの上で、膝を抱えて項垂れる。するりと白銀色の髪がシーツの上を滑った。




「さて、行きましょうか」

 その日は、世間ではクリスマスと呼ばれる特別な聖夜だった。そんな日に医務室で缶詰め状態なんて我慢出来るはずがない。フィーは綿密に練った『医務室脱走計画』をついに決行したのであった。

 他にベッドを利用している者はおらず、最難関であるマダム・ポンフリーはカーテンの奥で作業中だ。今日の分の薬は飲み終えたため、彼女が自分のベッドへ来ることはもう無い。つまり、完全に目を離している状態だ。
 ベッドから足を下ろしてスリッパを履く。足音を立てないように慎重に歩くと、そっと扉を開いて医務室から抜け出した。だがまだ油断はできない。走って走って、医務室から遠く離れた場所へと来ると、フィーは漸く後ろを振り返った。

「追いかけて……来ない! よし、上手くいった!」

 やっとあの医務室から解放された! と、フィーは緩む頬をそのままに暗い廊下を歩く。思えば夜のホグワーツを歩くのは、今年入学してから初めてだ。

 廊下の一つに、抜け穴の一つに、とても大切な記憶が散りばめられている。夜な夜な抜け出しては友人らが乗る箒の後ろに一緒に乗せてもらい、星空が輝く夜間飛行をしたことだってあった。抜け穴探しに一生懸命になりすぎて、見回りをしていたフィルチに見つかって慌てて逃げ出したこともあった。

「ふふ、楽しかったなあ」

 くすくすと偲ぶように笑って顔を上げると、真っ暗な闇に包まれたような錯覚に陥った。それはまるで、ずっと一緒にいたいと願った彼ら・・が居なくなったあの日のようで――。

「あ………」

 ふるりと小さく首を横に振る。違う。ここはもう誰もいない一人ぼっちの城ではない。笑いに溢れ、学びに溢れ、賑やかな声に包まれている暖かな城だ。

 月明かりが照らす廊下を進み、フィーは適当な部屋に入った。完全に扉を閉めると光は遮断され、完全な暗闇が訪れる。しばらく動かずにいるとだんだんと目が慣れてきて、やっと部屋の中を把握することが出来た。
 他の教室に比べるとあまり机は無く、広々とした空間があった。見たところ使われた形跡が無いため、どうやら空き教室だろう。その中にそれ・・はあった。

 縦に長い姿見。一見普通の物だが、このホグワーツに普通の物なんて無く、何らかの魔法がかかっている物がほとんどだ。多くは生徒に害のない魔法が使われているが、中には闇の魔術の類が呪としてかかっていることもある。
 ペタペタとスリッパの音を立てながら、そっと鏡に近づく。上から下まで眺めた後、うん? と首を傾げて今度は縁を見た。

「何これ? 装飾じゃない……文字?」

 手を伸ばしてツゥ…と装飾に似た文字を撫でながら、無意識に読み始めた。

「『すつうを みぞの のろここ のたなあ くなはで おか のたなあ はしたわ』……?」

 声に出してみてもさっぱり分からない。しばらく文字と睨み合いを続けると、ハッとしたように深海のような青い瞳を見開かせた。思いついたのは子供騙しのようなものだ。けれど――。

「『わたしは あなたの かお ではなく あなたの こころの のぞみ をうつす』」

 読んだ瞬間、ゾッと肌が粟立つのが分かった。これが、言葉通りの意味を持つ鏡なのだとしたら。

「――――ッ!」

 喉奥がひくりと引き攣る。文字をなぞっていた指は震え、やがて浅い呼吸が部屋に小さく聞こえた。縋りつくように鏡に手を伸ばすと、そこに映っている自分は一人ではなかった。

「こんな、こんなのって………」

 ぼやける視界で鏡を見つめる。そこには大切な、とても大切な人達がこちらに手を振って微笑んでいた。

「ああ、そうだよ。いつだって私の望みは――」

 君達といつまでも一緒にいることだった。

「ジェームズ、シリウス、リーマス、ピーター、リリー、セブルス、トム」

 一人一人名前を呼びながら、指で辿っていく。

「ロウェナ」

 貴女の声が好きだった。

「ヘルガ」

 貴女の手が好きだった。

「サラザール」

 貴方の傍が好きだった。

「ゴドリック」

 貴方の笑顔が好きだった。

 こんなにも大好きで、大好きで、大好きなのに。

「どうしてみんないなくなるの」

 それはまるで、幼い子どものような台詞だった。


「――フィー?」

 自分を呼ぶ声に驚いて顔を上げると、中途半端に開いた扉から月明かりが漏れ出す。そこに居たのは、ずるりと透明マントを脱ぎ捨てたハリー・ポッターだった。