「はじめにことばありき」

 あの飛行訓練の後、ハリーはなんとグリフィンドールのシーカーに選ばれていたのだ。一年生がシーカーに選ばれることは100年ぶりらしく、どの生徒も浮き足立ったり妬ましい視線をぶつけたりしていた。
 それもそうだろう。クィディッチのシーカーとは、言わば花形。観戦者の目が一番集まる役割でもあり、プロのクィディッチだと固定のファンがつくことも多い。

 今日はそんなハリーの記念すべき初戦の日だ。当の本人は緊張や不安から顔色を悪くさせていたが、かつて同じシーカーとして活躍していたあのジェームズ・ポッターの血を引く息子。フィーはそこまで心配していなかった。

「えぇ!? フィーは見に行かないの!?」
「ごめんね、ずっと前から用事があって…」
「どうしても、外せない用事なの?」

 ずいっとフィーとの距離を縮めて顔を近づけるハーマイオニーに後退りながら、再度謝罪の言葉を口にする。眉間に皺を寄せていかにも不機嫌そうな表情をする友人に空笑いすると、彼女は腰に手を当てて溜め息をついた。

「分かったわ。その代わり、次は絶対に見に行くのよ」
「ごめんね、ありがとうハーマイオニー」

 漸く許しを得たフィーは、グリフィンドール寮から出て行った友人の背を見送り、誰もいなくなった談話室で思い切り伸びをした。

「さて、私も行くか」

 さらりと白銀の髪を撫でつけ、ローブをしっかりと着てから寮を出た。



 着いた先は、大切な友人が二人眠る“癒しの部屋”。いつも通りの手順で中に入ると、暖かな色味で整えられた室内に出迎えられる。真ん中にあるベッドに向かうと、以前と変わらない寝顔がそこにはあった。

「おはよう。ジェームズ、リリー」

 返事が帰ってくることは勿論無い。死んだように眠り続ける二人に、言いようのない後悔や不甲斐なさが自身を襲うが、この10年間嫌という程それを味わってきた。今は、後悔して懺悔する時ではない。
 杖を取り出して二人に向ける。その杖先が震えていることに気がつくと、もう片方の手でそれを抑える。目を閉じて深呼吸すると、震えは止まっていた。

「(はやく目を覚ましてね、二人とも)」

 スゥ、と息を吸うと、透き通るような声色が部屋を包む。

“はじめにことばありき”

 その文言から始まると、部屋の空気がキンと張り詰められ、高濃度の魔力が満ち満ちる。

“そのものに流れる、世界の血、全にして一なる本質。譲ることのない、枝分かれの滴”

 ぶわりと髪が靡き、ローブがはためく。

“華の露は密やかに、死の足音から逃れる”

 杖先がくうを走り、穏やかな光が線を描いてゆく。

“太陽の微笑み、雲海の涙。紡げ、運命の果実。産めよ、増やせよ――地に満ちよ”

 二人を中心に風が巻き起こり、地面が揺れ、部屋に光が満ちた。

“夢幻の宴は終わりを告げ、新たな始まりの鐘を鳴らせ。今、この時より針が動き、彼らの命に時間を与え給え”

 杖先から光が迸り、高い天井に向かって弾け飛んだ。キラキラと部屋に漂う光の粒子が二人に降り注ぎ、スゥ…と彼らの身体に溶け込んでいく。その光景を見届けると、フィーは今一度口を開いた。

“はじめに――”




 ――あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。詠唱を紡ぐ声はもう掠れ、途切れ途切れのものになっている。それでもフィーは止めようとせず、目眩がする中また詠唱しようとした。

「あ、れ………」

 突然体の力が抜け、ふらりとよろめいてしまう。あ、倒れる――。そう思った瞬間、暖かな温もりに包まれた。
 質の良いローブの感触に、顔に当たる長い髭。そっと見てみれば、アイスブルーの瞳を緩やかに細めたホグワーツの校長、アルバス・ダンブルドアがフィーの身体を抱きとめていた。

「アルバス………?」
「随分無茶をしたようじゃな、フィー」

 心配そうに自分を見つめる彼に「どうしてここに?」と尋ねると、「君がクィディッチを観に来ないとミス・グレンジャーに聞いてのぅ。ここに来たのは、ただの爺の勘じゃ」と答えながら、ダンブルドアは魔法でゴブレットを出現させ、その中にたっぷりの水を入れた。

 テーブルと椅子も用意し、そこにフィーを座らせる。ゴブレットを渡すと彼女はゆっくりと口付けた。

「ふぅ……」
「飲んだかの?」
「うん、ありがとう」
「ほっほっ、儂は何もしとらんよ。ほれ、横になりなさい」

ダンブルドアの穏やかな声に促され、フィーは手を引かれて、いつの間にか用意されたベッドに横になる。優しく髪を梳かれ、少女は気がついたら深い眠りについていた。




 ふわりと鼻腔をくすぐったのは、薬品の香りだった。遠くでカチャカチャと瓶のような物がぶつかる音も聞こえてくる。するとだんだん意識もはっきりしてきて、フィーは瞼を開けた。

「………、ここ、は…」
「あらあら、目を覚ました? もう…突然校長に運ばれてきてびっくりしたわ」

 つい最近も聞いた声に首を動かすと、眉を下げて心配そうな表情を浮かべたマダム・ポンフリーが、ゴブレットを持ってベッドの側に立っていた。

「ポッピー……」
「本当に、毎度無茶ばかりして。心配するこちらの身にもなりなさい」
「…ごめんなさい」
「ふふ、しおらしい貴女が見れるなんて。ほら、これを飲んでゆっくり休みなさい」

 ポンフリーが持っていたゴブレットを受け取ると、中身を見てすぐに顔を歪ませた。ドロドロとした緑色の液体がたっぷりと入っているのだ。しかも全部飲まなければ効果は出ないと言っている。

「……本当に飲まなきゃダメ?」
「当たり前です! さぁ、早くお飲みなさい」
「ううう〜〜、わかった、わかったよ…」

 そっとゴブレットに口付けて、意を決してごくりと飲む。ドロっとした液体が喉を伝う感覚にぎゅっと目をつぶって耐えたが、苦味だけは我慢できない。

「うえっ、ペッペッ、にっがぁ!」

 フィーの反応はお見通しだったのか、ポンフリーは何も言わずに自分の仕事に戻る。彼女が薬を飲みきるのに時間がかかると知っているからだ。
 数十分後、勢いよく水を飲むフィーと、サイドテーブルには空になったゴブレットが置かれていた。

「飲めましたか」
「飲めたよ……。これさ、甘くしようと砂糖を入れたら効き目が無くなるの、本当に勘弁してほしい」
「ふふ、それ、昔もよく言っていたわね」
「え、私前にも言ってた?」
「えぇ。あの甘党な男子生徒と一緒に」
「(甘党……あぁ、そういえば)」

 すぐに思い出した名前に、いつの時代でも思うことは同じかと苦笑した。やはりこの苦い薬だけは、いつまで経っても苦手だ。少しの気恥ずかしさから、フィーは「それだけ苦手なの!」と投げやりに返事をした。

「じゃあ、もう私寮に戻るね」
「何を言っているんですか! まだ体調も万全じゃない。それに加えて魔力もあまり戻ってない。そんな生徒を寮へ帰すわけには行きません!」
「えぇ!? 嘘、ちょっと待って!」

 まさか断られるとは思わなかった。いや、少し考えれば分かっていたことだ。患者に厳しいマダム・ポンフリーが、調子の戻っていない生徒を素直に帰すわけがなかった。
 それを踏まえた上でも、フィーは今すぐ医務室から出て行きたかった。時間的にそろそろクィディッチが終わり、友人達が帰ってくる頃だろう。『用事がある』と言って別れた友達が医務室で入院する羽目になったなんて、あのハーマイオニーが何て言うか。

「……分かったよ。けどいつまで居ればいいの? 明日? 明後日?」
「そうですね……。クリスマス後には戻れるでしょう」
「くっクリスマス!? 待って、まだ一週間は先だよ!? 流石にそれは――」
何か?
「何でもありません」

 凄むマダム・ポンフリーに戦う前から負けてしまった。彼女は落ち込むフィーの姿を認めると、空のゴブレットを持ってベッドから離れ、シャーッとカーテンを閉めた。

「もう一眠りしなさい。起きて軽い夕食を食べた後、また薬を飲んでもらいますからね」
「苦くない薬でお願いします」
黙って寝なさい
「はい………」

 付け入る隙もない。フィーはしくしくと涙を流しながら、やがて静かに眠りについた。