フランス最古の礼拝堂とされる、“サン=ジャン洗礼堂”や教会、修道院、大聖堂が建ち並ぶそこは、ボワヴル川とクラン川の谷の間に位置する、緑豊かな土地だ。
そこへ、教会に溶け込むように佇む屋敷があった。けれどポワティエに住む人々、あるいは観光へ来た人は誰も見向きすらしない。まるでそこには、何も存在しないかのように。
そんな屋敷に、一人の女が住んでいる。女は外の暑さなど微塵も感じず、シルクのシーツに埋もれるように眠っていた。――コンコン。窓を叩く音が、部屋に小さく響いた。微かな音だったにも関わらず、女はモゾ…と寝返りを打ち、ガバッと起き上がった。
「ふぁぁ…」
大きな欠伸をした女の名は、フィー・ディオネル。キラキラと輝く白銀の髪を揺らしながら、フィーは深い青の瞳を窓の外に向けた。そこには丸いくりくりとした瞳でじーっとこちらを見ている、一羽の梟がいた。大人しく待っている梟を出迎えるために、フィーは窓を開けた。
「ご苦労様」
「ホー……」
よちよちと短い足を前へ進めて入ってきた梟に、労いの言葉をかける。その足に括り付けられた紙を受け取り、フィーの表情は綻んだ。
「アルバスからだ……。まぁ、ここの存在を知ってるのは彼しかいないけど」
ぶつぶつと独り言を言いながら梟の頭を撫で、手紙の宛名を暫し眺める。彼からの手紙はろくなことがないと、今までの付き合いでよく知っているフィーは、封を開けるのを躊躇う。けれど手紙自体は嬉しいのだ。複雑な心情に、自分のことながら溜め息を吐いた。
カシカシと嘴で身体を整える梟を横目に、フィーはデスクからレターナイフを取り出してやっと封を切った。
《Dear フィー
久しぶりじゃのう、フィー。さて、早速で済まないが本題に入ろう。時間がないのじゃよ。
今年、ハリー・ポッターがホグワーツに入学するんじゃ。それで、フィーにもぜひ入学してほしい。陰ながらハリーを守ってほしいんじゃ。
いきなりこんな勝手な事を言ってすまんの。じゃが、フィーも久しぶりにホグワーツの地を踏んでみてはどうじゃ?
良い返事を期待しておるぞ。
From アルバス・ダンブルドア》
予想の斜め上を行く文面に、フィーは何度も何度も読み返した。次いで、寝室から飛び出て書斎へ行く。早足になってしまうのも仕方がないと自分自身に言い訳しながら、書斎をぐるりと囲むように並ぶ棚へ一直線へ向かう。迷うことなく一つの棚の前で止まり、膨大な量の新聞を指先で追いかける。するとピタッと指が止まった。目当ての物を取ろうと慎重になりながら、やっとのことでギチギチに詰められた棚から取れた。
手に持つその新聞は、何度も読み返したのだろう。草臥れたようにクシャクシャで、所々破けている。けれど一面に大きく載っている、動く写真に登場する人々の顔は記憶の中のそれとちっとも変わらなかった。涙を浮かべ、祝いの酒を飲んでいる。その写真の上の見出しには、『生き残った男の子 ハリー・ポッター』と書かれていた。
「……そっか、あれからもう……十年経ったんだ…」
『闇の帝王』や『名前を呼んではいけない例のあの人』と、あらゆる書き方をされているが、どれもたった一人の人物を指している。その文字を一度指でなぞり、新聞を片付けた。――返事を書かなければ。
マグルの世界で手に入れた簡易レターと羽根ペン、インクを引き出しから取り出し、寝室に戻る。窓際で律儀に待っている梟の背を優しく撫で、フィーは手紙の返事を書いた。
《了解》
その一言だけ添えて、ペンを置いた。届いた時と同じように梟の足に手紙を括り付け、水と餌をあげると梟は喜んで食べ尽くし、「ホー」と鳴いてからバサっと翼を広げて飛び去った。夏の空をバックに飛ぶ姿に、フィーは暫くの間目を離せなかった。
ムワッとした暑さが部屋に入り込む。その暑さでハッと意識が戻り、慌てて窓を閉めてペンやらインクやらを再び書斎へ直しに行く。
「…よしっと。そろそろお腹空いたな……」
起きた時から動き回っているせいか、もうお腹がペコペコだ。今にも鳴り出しそうな腹を撫り、フィーは扉に向かって声をかけた。
「レイテル」
「はい!」
パッと現れたのは、梟よりもくりくりした瞳に、長い耳、フィーの腰程度しかない身長の屋敷しもべ妖精・レイテル。ディオネル家に昔から仕えているハウスエルフで、いつ何時もフィーを支えてきた、家族である。
その身なりは整えられており、上等な服に身を包んでいる。普通他の屋敷しもべ妖精とは、枕カバーやカーテンの切れ端など、着るものは様々だがどれも薄汚れ、上等なものなど有り得ない。むしろそれが当たり前だ。しかし、レイテルの服にはシミひとつない。それはレイテルがこの屋敷へ仕え始めた時にまで話が遡るのだが、その話はまた今度にしよう。
「お待たせ致しました! フレンチトーストと、ミルクティーでございます。銘柄はハロッズ、茶葉はアッサムとダージリンのブレンドでご用意させて頂きました!」
「わぁ、ハロッズは久しぶり! ん……良い香り」
イギリス・ロンドンに店を構える高級百貨店『ハロッズ』。200年近くも
「そうそう。私、またホグワーツに行くことにしたの」
「!? そ、そうでございますか……。また寂しくなりますね…」
「長期休暇には帰る予定だから。……この屋敷を頼んだよ、レイテル」
「はっはいです!」
主人の台詞に、レイテルは頬を赤らめて礼をした。その角度およそ90度。とても綺麗な礼だった。
そこへコンコンと中庭へ続くガラス扉が軽く叩かれた。ピャッと大袈裟に驚いたレイテルに、フィーはクスクス笑いながら「入れてあげて。小さなお客さんよ」と声をかけた。返事をしてぴょこぴょことガラス扉に近寄って開けると、そこには今朝、フィーに手紙を届けた梟がそこにちょんっと佇んでいた。「どうぞ」と、レイテルが促す。梟はまるで言葉が分かったかのように、よちよちと中へ入ってきた。
「ふふ、早速返事を届けてくれたのね。ありがとう」
「お水をご用意致します!」
レイテルがパッと消える。フィーはようやっと自分が座る椅子まで辿り着いた梟を抱き上げると、今朝と同じように頭を撫でながら足に括られている手紙を受け取った。差出人は同じ、魔法魔術学校“ホグワーツ”で校長をしているアルバス・ダンブルドアからだ。ちょうど水を持ってきたレイテルが、レターナイフをフィーに渡す。礼を言って受け取り、今度は躊躇うことなく封を開けた。
「あ、入学許可証だ。リストもある」
ずらっと並ぶ文字を目で追いながら、既に持っている物を頭の中でチェックする。教科書の中身など数年に一回程度しか変わらないのだから、毎回買い換える必要なんてない……はずだ。少なくともここ数年はホグワーツに行っていないため確証はないが、必要ならまた買いに行けばいいだけの話だと、フィーは次にカレンダーへと目を移した。
「えーっと……7月…25? いや、31、かな。レイテル、7月31日にダイアゴン横丁に行くから、
「かしこまりました!」
水を飲み干した梟は、今度はテーブルの上から羽ばたいた。大きく開けられたガラス扉から翼を広げる姿は、何度見ても美しい。フィーはまたも見惚れ、今度は夏の暑さでさえも彼女の意識を戻すことは出来なかった。
「フィー様!」
「あ……っと。ごめんレイテル、暑かったよね」
「いいえ! 今日のご予定はどうされますか?」
「うーん…書斎にこもるかな…。ホグワーツ行きが急に決まったからね、取り敢えず積んである仕事を片付けるよ」
「分かりました! また軽食をお持ち致します!」
「ありがとう」
フレンチトーストを食べ終え、最後にミルクティーを飲み干す。鼻に残る紅茶の香りを堪能すると、フィーは立ち上がった。
7月31日まで、あと一週間――……。