越前
雨露が流れ静かに滴り落ちた。
今日の朝、ニュースで清廉な女性アナウンサーが明るく関東は梅雨入りですと言っていたか。
地面や木々が濡れた香りが鼻腔をくすぐる。
この香りは嫌いじゃないなと傘に当たり弾ける雨音を聴きながら通学路を歩いていると、少し先に大きなテニスバッグを背負う少年が見えた。

越前リョーマ。
一年生で青学テニス部のレギュラーになった男の子。
顔が整っていて、性格もクールで、運動も勉強もできる……らしい。
らしい、と言うのも私は別のクラスだが、そこかしこで彼を噂する女子の話が聞こえてくるからだ。
平々凡々な私とはあまりにも住む世界が違いすぎる、と友人から彼の名前が出る度に思わずにはいられなかった。
廊下ですれ違うこともあるが特にこれといって何もない。たまに彼の横顔を目で追う時があるが、成程たしかにこれはみんなが騒ぐのも仕方ないレベルの顔立ちだと一人頷くくらいである。

声をかける程の仲ではない……なんてもんじゃない。一方的に私が知っているだけの全くの他人だ。
まあ彼は朝練に向かうところだろうし、私がゆっくり歩いていけば特に抜かすこともなく学校に着くだろう。そう頭の中を片付け今よりひとつばかりペースを落とす。
不意に濡れて歪む透明な傘の端で前の男の子が振り返ったような気がした。

てらてらと光るコンクリートの塀を眺めながら歩いていると、気付く。
先程より歩くペースを落としたはずなのに距離が縮まっている……?
無意識に早歩きになってしまっていたのかなと考えたが、どうやら越前が遅くなっていたようで彼の歩幅はゆったりゆったりと遅く、小さかった。
かなり近くなってしまった距離に気まずさを覚えつつもいっそ抜かしてしまえ!と彼の横をさっと通り過ぎた……その時。
「おはよ」
「あ、うん?おはよう」
まさか彼に声をかけられるなんて思ってもおらず、数歩先で立ち止まったまま振り返り困惑した声で挨拶を返した。
そんな彼女を見て越前は息を漏らして笑う。
「朝早いんだね」
「あぁ、今日日直だから」
「ふぅん」
なんとなく越前くんを一方的に知っている身としては朝練?と聞くのははばかられる。困ったなあと、越前と逆の方向を見ると隣から声が聞こえた。
「俺は朝練だけど」
「雨なのに?」
「そ、体育館でやるみたい」
「大変だね」
「というか、なんで外でやれないって分かったの?」
「テニス部でしょ?」
「知ってたんだ」
「まあ、有名だからね」
越前くんから会話を投げてくれるから上手い具合に続けられた!良かった良かったとゆるく会話をしていると学校に着く。
彼はテニス部の部室に向かうところで、私がそのまま真っ直ぐ道を進み始めると後ろから涼しげな声が聞こえた。

「じゃ、またね。姓さん」

ぱ、と振り返った先に越前くんはもういなくて、先の方にどんどん小さくなっていく彼の背が見えた。
「……猫みたいな人だな」
それにしても、越前くん本当は歩くの早いんじゃん。

小さく笑うと私は気分良く傘をくるりと回し水を跳ねあげた。
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