汝、隣人を愛せよ

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
 
—ルカの福音書 10:25 - 37、口語訳聖書
 
 
 
 
 
 
「神よ。私はかの教えのように生きてこられたでしょうか」
 
12月24日。青年は教会で唯一人、祈りを捧げていた。
彼はクリスチャンであり、神父司祭であり、男であり、人間であり、また一人の少女の兄だった。
 
クラシックな雰囲気を残した19世紀より残る古びた教会だが、ステンドグラスが月の光を溶かし静かな暗闇に揺蕩う灯が差し込んでいる。まるで仄暗い海の底から天を仰ぎ見たような幻想さえ思わせる光景だった。
教会の外からキャロリングシングより戻る途中の聖歌隊による『アヴェ・マリア』が微かに耳に響く。あの娘の歌声だ。粛々とクリスマスイヴは今年も穏やかに終わる。後数時間後には零時を過ぎ、生誕祭。家族でそれを待ち侘びる人々の平穏と笑顔。
 
しかし、もう今宵で終わりだ。これがおそらく最期のミサになる。
 
後戻りをしたかった。時がもどるのならばまたあの娘と生きていたかった。愛していた、本当さ。本来なら俺は得られなかったはずの人生の喜びや悲しみのすべてを、お前は与えてくれた。それは普通の幸福。業を背負った俺には、その幸せが嬉しくて眩しくて愛しくてーーー重くて。
 
 
数時間後、12月25日になる。
テレサの15歳の日。
奇しくも今晩は満月。
その前にこの儀式を俺の命を掛けてでも終わらせなければならない。
ーーーテレサ、お前を血の呪縛を解いて人間にしよう。
 
 
 
 

 
 
浮き足立ったアベックが多いな、とクロロ=ルシルフルは思った。
世は赤と緑の装飾に溢れ、明日に迫るキリストの生誕を祝うため、パンやぶどう酒を手にした人々が往来を歩いている。この街はカトリック教徒が多く住む町のようで、司祭が率いた聖歌隊が町の中心のクリスマスツリーを前に指揮し、寄付を募るためゴスペルを披露していた。町の人々は、それを笑顔で見守りわずかながらの寄付を少年少女たちに渡す。
いくつかの教会が挙って町のほうぼうで聖歌隊を派遣しているようで、各地で天使の歌声が響いていた。奥ゆかしく宗教が根付いているが、文化的な町だとクロロは思った。しかし逆十字を背負う彼には聖誕祭などはただの平日の一つに過ぎず、幸せな人々をただ見送り、その日も同様に行きつけのアーネンエルベのカフェテリアにて古書を右手にコーヒーブレイクを嗜んでいた。
 
 
 
しかし、時刻が短針の6を示すと、アーネンエルベの店主は隅で読書に耽るクロロに声をかけた。
 
「お客さん、今日はもうお仕舞いだよ」
 
クロロは腕時計を覗き込むと、やや不服そうに答えた。
 
 
 
「まだ閉める時間じゃないだろう、もう少し居座れると思うが」
「今夜はイヴだからな、悪いが帰ってくれ、クリスマスは家族で過ごさなきゃならん。あんたもそうしな」
 
 
世はクリスマス。ああ、とクロロは適当に店主に返した。事実クロロには家族などーー家族という定義が血縁のみに限るならばーーいなかったが別段それを語る必要などないと思ったためであった。
豪気な店主はクロロの空のコーヒーカップを下げ、勘定をレジスターで計算した。勘定に立ったクロロを舐めるように見る。
 
 
「だが、見たとこアンタ、色男だしそういう家族はいないんだろ。家族はいいぞ、帰ると愛すべき口喧しい妻に言うことなんか聞きゃしないガキが待ってるんだぜ」
「それなら、早く帰ってやらなくちゃならないな」
 
 
クロロは苦笑し、釣りは要らないと1000ジェニー札を置くとアーネンエルベを背に真冬の寒空の下へ出た。劈くような冷気が鼻を抜けたが、暖かすぎた店内であったため心地よいとさえ感じた。
 
 
 
 
ゴスペルガウンを纏った人々が横切り、町のシンボルのイルミネーションの前で聖歌隊は列に並んだ。率いる司祭は周囲の人々に教会名を名乗り、「どうぞお聞きください」と指揮を振った。そして隊のキャロリングシングが始まった。
 
クロロはそれらには別段興味を示さず、今晩の仮宿はどこにしようか、と考えを過った時、重なる天使たちの重奏のなか美しいソプラノの声が響いた。それはエレンの歌第3番 作品52-6、別名を『シューベルトのアヴェ・マリア』。
 
 
 
アヴェマリア 慈悲深き乙女よ
おお 聞き給え 乙女の祈り
荒んだ者にも汝は耳を傾け
絶望の底からも救い給う
 
汝の慈悲の下で安らかに眠らん
世間から見捨てられ罵られようとも
おお 聞き給え 乙女の祈り
おお 母よ聞き給え 懇願する子らを
 
 
 
 
 
惹き付けられる歌声、主を張るに相応しいソプラノパートを歌い切った声の主。神々しささえ感じるが、未だ成熟しきらない声帯から紡がれる引き攣りは緊張から浮かばれるものが滲んでいた。しかし魅惑的で、美しい。頭が痺れるような、甘美なしらべ。まるで天に突き抜ける。地に降り立った聖女の響きが、辺り一帯を絶対的に支配したかのようだった。
 
 
視線を隊の中央に、そこに其の女はいた。
 
 
年齢は10代半ばのように見える。女だ。黒檀のような長い黒髪に、眞白の肌、紅く染まった頬が上気し、薄紅の唇より讃歌はけんめいに引き出されている。ただの少女だった、しかし堂々たる聖母マリアへの賛辞の歌にクロロは立ち尽くし聞き入った。それは彼以外の通り越しの人々も同様であり、帰路を急ぐ足を止め、彼女の歌に耳をすませる。
 
 
 
ーーそれが、クロロ=ルシルフルとテレサの出会いだった。
 
 
 
歌が終わると周囲は拍手に包まれた。そして人々は前夜祭に美しい歌を聞けた、と寄付箱へいくらかの金を笑顔で差し入れる。少女は寄付箱を抱え、笑顔で人々へ礼をした。なぜかクロロもそうすべきだと感じ、考えなく財布より札を出し、聖歌隊へ向かった。
少女は、やはりクロロにも笑顔で寄付箱を向けた。美しい歌だったよ、寄付をどうぞ、と箱へ金を入れクロロはすぐさま立ち去った。
 
なぜあのいたいけな少女の歌声に惹かれたのか、寄付をしようと思い立ったのか考えあぐね、しばらくの町を歩いていた時、後ろから駆け足の音が聞こえた。
 
 
 
「あの!あの、待ってください」
 
振り返らずとも自分を引き止める声が誰かわかった。先程の少女だ。
 
「何か?」
「あの、間違われたのでないかと思って、お金、」
「……ああ」
 
少女は自分が渡した札金を握り締めていた。寄付にはその金額は多過ぎたということ、少女は、クロロが誤って多額の札を箱に投入してしまったのではないかと彼を追ってきた。
 
「間違いではないよ」
「でも、おおすぎます」
「それくらい君の声は美しかった、その報酬だ」
「歌は報酬のためではないです、それならばお返しします」
「強情なんだな」
「それにあなたはこの町の方ではありませんよね、お宿代もかかるでしょうから」
「金には困っていない」
「それならば、どうかこのお金は必要とする方にお渡し下さい。きっと神さまもそれを望んでおられます」
 
 
金を突き返す少女からクロロがようやく返金を受け取ると、少女はなぜだか安心したようにはにかんだ。金は三万ジェニーだった。たしかに街角の寄付にしては多過ぎたか。多額の金を受け取ることに少女はなぜだか罪悪感を覚えたのは、多額を扱ったことが無く動揺したからか、はたまた敬虔なクリスチャンの教えからか。
 
 
「一つ教えてくれないか」
「はい?」
「神はいると思うか?」
「はい、います」
 
 
偽りなく、信じて疑わない答えだった。
 
 
「どうして?」
「こんなこと言うと変ですが、……神さまを思うと身体が疼くんです」
 
 
特に心のあたりが、と少女は付け足す。示したのは心臓だった。
 
 
「それは変なことを言うな」
「はい、変です。でもきっと神さまが、疑ってはいけないと、疑心を罰しているのだと、教えを受けました」
「興味深いな。君の教師に俺も教えを乞いたいものだ」
「それならば、ぜひいらしてください!教師は私の兄です。クリスマスミサはこれから始まります、私たち聖歌隊もこれから教会に戻りますのでご一緒しましょう?」
「ーーそうだな、そうさせてもらおう」
 
 
わずかに自分の興味が示した、その先に何があるのか、確認をしたいとクロロは思った。蜘蛛の活動もしばらく先であり、余暇を神の名の元に集う人間たちと過ごし、しばらく身を清めるのも悪くは無いだろう。あいつらはきっと笑うだろうが。
 
少女は浮き足立って先導を歩き始めた。白く清潔なゴスペルガウンが揺れ、白帽子がずれ落ちそうであったが、少女の白い手がそれを阻んだ。豊かな黒檀の黒髪に、白く冷たいものが降る。それは雪だった。少女は雪に気付き、空を仰ぎ見て、剣呑な表情をした。風が吹いている。
 
 
 
「今夜は吹雪くかもしれないですね」
「そういえば君の名前は?」
「テレサといいます。あなたは」
「クロロ=ルシルフル」
「クロロさん。では急ぎましょう」
 
 
 
二人は続けて雪降るクリスマスに染まる町を歩き始めた。
 
 
 
 
汝、隣人を愛せよ