00:崩壊のパーフェクトワールド




ーーーーそれは、“今“からだと5年程前のことになる。




私は、あの人を待っていた。
かじかむ手を擦り合わせ、せめてわずかでも暖まらないかと吐息を吹き掛けた。白く水蒸気となって空に散った吐息を眺めながら、冬の冷気が体を冷まさないように、私はさらにマフラーに首を埋める。あの人は、まだだろうか。寄りかかった煉瓦が背中越しに冷たく凍てつく。冬の風は容赦なく私から体温を奪うばかりだ。迎えに行けば良いのかもしれない。けれど、煉瓦の門は部外者の侵入を阻むように慄然と聳え立つ。まるでここから先は違う世界のようで、一歩踏み入れることさえ私には難しかった。


協立ハンター学園。門の先は、綺麗で広いが、少し怖い。








『ツカサ』


私はその声に振り向いた。
門の向こう側に、あの人が立っていた。


『おいで。ツカサ』


あの人は、私に手を差し伸べるように手招きをする。
おいで、と優しく呼ぶその声。気付いてくれた。来てくれた。私はそれが嬉しくて、あの人に駆け寄ってその胸に抱き着いた。進むのは阻まれたこの門の先を恐れていた気持ちはどこかに消えてしまった。暖かい腕の中が私を護ってくれているようだったから。


『寒い中迎えに来てくれたんだね』


うん、と胸に顔を擦り寄せながら頷いた。あの人が私の髪を撫でるいつもの手。


『まだ生徒会の仕事が残っているんだ。もう少し待っていてくれるかい。外で待つのは寒いだろうから、俺と一緒に中に行こう』


学園の中に?少し不安に思い、私は顔を上げた。あの人はそんな様子を察したのか、不安を拭うように私の頬を撫でた。


『大丈夫。ツカサに見せたいんだ。俺の大好きなこの学園を』


ハンター学園。無二の能力に特化され、秀でた才を持つ者だけが入学を許可される学校。狭き門。その管轄はハンター協会であるため、他の追随を許さず、政府王族何者からも侵害を受ける事は無い。その特殊性から、世間とは一線置かれる学園。そのために学園の黒い噂も耳にする事もある。だから、少し怖かった。陰湿であったり、力を振るう人たちがいるのではないかと。


『俺がいれば怖くないだろ?さあ、行こう』


その問いに、しばらく考えてから、私は小さく頷いた。そうだ、怖くない。この世界の何処かにあなたがいると思えば、畏れるものは何も無い。あなたが隣にいてくれるなら私は道を失わずに歩いて行ける。


『おいで。ようこそ、ハンター学園へ』


あの人は、私の冷えた手を握って学園の中へと導いた。その手の暖かい温もりに、恐れる心は奮い立たされるような気持ちだった。一歩、また一歩と、その中に踏み込む。後方から吹く木枯らしの風が、私の背中を押すかのようだった。







校舎の中は放課後であるため、人もまばらでがらんどうのようだった。人寂しささえあったが、まるで校舎の中は時間が止まったかのように感じられた。太陽は、足早にその顔を地球の裏に隠そうとしている。傾く夕焼けの日差しが、私たちを照らしては影を長く伸ばそうとするのだった。

どこからか聞こえる生徒達の足音。上履きが擦れる音が、押しては引いていく。部活動に励む声が校庭の方面から響き、いくつかの教室のそばを通ると幾人かの生徒達の話声が掠った。廊下の掲示板には、委員会活動報告書や、部活動員を募る張り紙、はたまた意味のなさそうなポスターまで様々ある。


私を連れてあの人は校舎の5階、最上階へと向かった。しばらく歩くと、ある一室の前で立ち止まる。【生徒会室】と札の掲げられた部屋。ゆっくり開かれた扉。その部屋の中には、それぞれ役職の書かれた机といくつかの席があった。生徒会長、副会長、会計、書記。初めて入る校舎の一室に緊張を隠せずにいると、あの人は、その部屋の中央にある席に座った。その席には生徒会長と役職名が書かれている。


部屋には大きな窓があり、そこから校庭、複数の校舎、ガーデン、学園門と、広く校内を一望できるようになっていた。窓が大人の背丈程あるため、夕焼けの陽射しがすべて入り込み眩しく感じる。遠くに見える木々、噴水、芝。生徒達の小さな姿。まるで窓枠が額縁。一枚の絵画のようだ。学園内のその眺めに私の目は奪われ、窓に張り付いてただ見蕩れて、感嘆をした。



『ツカサにこの景色を見て欲しいとずっと思っていたんだ。今日はここには、誰もいない。俺とツカサだけだ』


私に見て欲しいと言った学園。それはとても美しいものだった。恐れていた門の先にこんなにも綺麗な景色があるとはわからない。未知の先の世界。私の世界は狭く不完全だけれど、あの人の世界はいつもこんな眺めで満たされていて、欠陥のないように思えた。


『俺はここから眺める学園が一番好きなんだ。なぜかわかる?』


綺麗だから?美しいから?この世界が全て見渡せるから?しかしそのどれもが正解ではなく、あの人は首を振った。


『ここからなら、待ってくれている人が見えるからだよ』


当時の私はその言葉に首を傾げた。あの人はそんな私の頭をくしゃくしゃと撫でた。そして、『もう少し大きくなったらきっとわかることだ』と言った。その言葉の意味を、鈍い私が真に理解するのはその8年後の事である。







『ツカサ。俺は次の桜が咲く頃にこの学園を卒業だ。この世界を変えるならば、この学園から。そう思ってここまで来た。やり切った思いもあるけど、心残りが無いと言うのは、嘘になる』



あの人は悲しそうな顔でそう言った。意志。心残り。幼い私には、それが何なのか、よくわからない。



『後世の者には俺の意思を継いでいって欲しいんだ…………誰も縛られず、淘汰されず、糾弾されない。個人を尊びながら集団は和となる。規律は無くとも秩序があり、ルールは無くとも一線引かれている。全は一を愛していて、一は全を愛している。その完璧な世界になるためには、少し難しいかも知れない。俺のしている事は小さなことかもしれない。けれど、俺とツカサが悲しんだ社会がそういう完璧な世界になるように、この学園もそうなればいいと……心から願っている』



パーフェクト・ワールド。完璧な世界。



『そして何よりも。ツカサが、美しい青春だったと思う事のできる学園に』



そうだろう?と、あの人は額に触れるだけのキスをして、いたずらをしたかのように笑った。まるでこのハンター学園に私が入学するだろう事を決まっているかのように話すのだった。私は不出来だ。秀でたものも何も無い私がこの学園に入るのは難しいと言うと、『ツカサならば必ず入学出来るはずだから試してみればいい』とあの人は確信があるかのように答える。自信なんて無かったが、私は反論せず口を噤んだ。あの人のその胸元に光る、生徒会長の徽章が夕陽に反射して輝いたからだ。



その時はわからなかった。
10歳の私の目には、とにかくあの人が大きな宇宙のなかでただ美しく揺蕩い、私の手を引いてくれていることしか理解出来ていなかった。あの人から見た私は、きっととにかくちっぽけで、脆く、壊れそうなものに感じられただろう。けれどあの人にとって私こそが宇宙の中心であったのだと、この学園に入らなければ知る事は叶わなかったかもしれない。そして、あの人が求めたパーフェクト・ワールドのことも。


その日のことはきっと一生忘れはしない。すべてが始まるきっかけになった日だから。美しい学園、眩しい夕日、そしてあの人。すべて目に焼き付いている。世界はあの人を求め、あの人も世界を求めていた。不思議なこの世界の調和を、私はどこかで感じ取っていた。きっと求める完璧な世界は、あの人と私の歩く先の道で待っており、すぐに出会えるような気がしていた。


『だから、ツカサ……この学園を、頼んだよ』


時刻は夕刻時を示し、世界の何処かで鐘の音が鳴るのが聞こえた。まるで私たちに福音をもたらすかのように、その音色は世界に響き、そして溶けて消えていった。
私たちはその時、この世界の真ん中で、二人だけだった。








けれど、あの人はもうこの世界の何処にもいない。
卒業式の前日に、交通事故であの人はこの世を去った。
その未来はもう失われ、あの人の時は止まった。

あの人が望んだパーフェクト・ワールドは、その日より崩壊することとなる。そして私の不完全な世界が、大きな調和の片隅に取り残され、世界でただ一人、天涯孤独となった。


あの人は、私の唯一の家族。世界にたった一人の優しい兄だった。






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